聖霊降臨後第十四の主日説教―この世のものの空しさ
ワリエ神父 2024年8月25日(大阪)
親愛なる兄弟の皆さま、
今日の福音で触れられている異教の神「マンモン」は、金銭、富、成功の神でした。それを物質主義と呼ぶこともできるでしょう。
聖書は私たちに、こう警告しています。
「今日は野に栄える草も、明日はかまどに投げ入れられる」(マテオ6章30節)。
「すべての肉は草であり、そのすべての栄光は野の花のようだ」(イザヤ40章6節)
「われらはちりである。人、その日々は草のようであり、野の花のように咲く。風が吹けば、たちまち消え失せる」(詩篇102篇14-16節)。
聖アルフォンソ・リグオーリが、このことについて語った言葉に注意を向けましょう。
「私たちは、私たちの霊魂の救いと、決して終わることのない永遠の富の獲得に関心を向けよう。なぜなら、この世のすべてのものは終わり、かつ、すぐに終わるからである」。
第一のポイント この世のすべてのものは終わる
人は、この世のものに対する愛着がいかに大きくても、死の時にそれにお別れしなければなりません。人は、裸でこの世に入り、裸でこの世を去ります(ヨブ1章21節参照)。簡単に言えば、富と財産を築くことに人生のすべてを費やし、眠りも健康も霊魂も失った者は、死の時には、何も持っていけないのです。
もしあなたが名誉や富を享受しているなら、次の聖書の言葉を聞いてください。「おまえはちりであって、ちりにかえるべき者である」(創世記3章19節)。人は死ななければなりませんが、死んだ後、いま自分を慢心させている名誉や財産から、どんな利益を得られるでしょうか。聖アンブロジオはこう言います。「金持ちと貧乏人が埋葬されている墓地に行き、埋葬されている人の中で、誰が金持ちで誰が貧乏人だったかを見分けることができるかどうか見てみよ。すべての人は裸であり、その中で最も金持ちの者にも、しなびた骨以外、何も残っていない」。
第二のポイント この世のすべてのものはすぐに終わる
人は、自分がやがて死ぬことをよく知っていますし、そう固く信じています。しかし、人は、死があたかも決して訪れることはないかのように、はるか彼方にあると、想像しているのです。
聖ヤコボはこう言っています。「あなたたちの命とは何か。あなたたちは、しばらく現れるだけの湯気である」(ヤコボ4章15節)。
暴風、熱病、脳卒中、刺し傷、心臓発作があれば、私たちはこの世からいなくなります。そして、すぐに忘れ去られるのです。
私たちは、死の時には、名誉ある地位や報酬を得るため、財産を得るため、この世の喝采を浴びるために行った労苦から、何も刈り取ることはできません。すると、すべてが失われます。私たちは、天主のために行った善業と、天主のために受けた苦難からしか、永遠の命の実を集めることはできないのです。
聖ヨハネ・クリゾストモはこう言っています。「生きているときに天主を忘れていた罪人を待ち受ける罰は、死の時に自らを忘れることである」。
「人、その日々は草のようであり、野の花のように咲く。風が吹けば、たちまち消え失せる」(詩篇102篇14-16節)。
親愛なる兄弟の皆さま、
私たちの霊魂のことに関心を向けましょう。「まず天主の国とその正義を求めよ。そうすれば、それらのものも加えて、みな与えられる」(マテオ6章33節)。「自分のために、天に宝を積め。そこでは、しみも虫もつかず、盗人が穴をあけて盗み出すこともない」(マテオ6章20節)。
「人は、二人の主人に仕えるわけにはいかぬ。つまり、天主とマンモンに仕えるわけにはいかぬ」(マテオ6章24節)。永遠と、私たちの人生の時間の間には無限の距離があるのですから、私たちが永遠に享受すべき永遠の財産に払うべき注意と、死がすぐに私たちから取り去ってしまうこの世の財産に払う注意の間には、無限の距離があるべきです。
それは、私たちが、聖ヨゼフへのこの美しい祈りで唱えるようにです。「われらをして御身にならわしめ、御助けによりて、聖なる一生を送り、信心をもって死し、天国の永遠なる福楽にいたることを得しめ給え」。