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司祭はまさに御聖体のよう。司祭とは一体どのような存在なのか?司祭とはいったい何なのか?

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司祭はまさに御聖体のよう。――司祭とは一体どのような存在なのか?司祭とはいったい何なのか?

トマス小野田圭志神父 2024年8月25日(主日)東京 説教

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

キム・ミンジェ・ノンジーノ神父様、愛する兄弟姉妹の皆様、今日は、神父様の日本での初ミサを行っています。聖ピオ十世会に所属する最初の韓国人司祭の誕生を心からお祝いいたしましょう。この新司祭の誕生を機会に、カトリック司祭について一緒に黙想いたしましょう。

今日の福音でも、私たちの主は「人は、二人の主人に仕えるわけにはいかない。一人を憎んでもう一人を愛するか、一人に従ってもう一人をうとんじるかである。あなたたちは、天主とマンモンとにともに仕えることはできない」と教えてくださっています。天主に仕えることを望んだ究極の人というのは司祭です。では司祭とは一体どのような存在なのでしょうか?司祭とはいったい何なのでしょうか?

【選択】
司祭というのは、いけにえを捧げるために天主から選ばれて、そして世俗からまったく切り離された人間、もっと正確にいうと、その男性のことです。天主にいけにえを捧げるために、天主への奉仕を選んだ人のことです。

聖パウロはヘブレオ人への手紙の中でこう言っています。
「大司祭はすべて、人間の中から選ばれ、天主に関することについて、人間のために任命されている。それは、罪をあがなうそなえものと生贄とをささげるためである。」(ヘブレオ5:1)

【いけにえの必要性】
ここに司祭の定義の核心があります。罪を贖う供え物といけにえを捧げる必要が人間にはあるからです。全被造の世界の大問題があります。それは、人間人祖アダムとエワが、罪を犯してしまったということです。それ以来、人間は罪を犯し続けているという問題です。つまり、“あるべき天主と人間との友情関係”が崩れてしまった、人間と天主とは対立している、敵対関係に陥ってしまった、という究極の問題が生じてしまったからです。人類の歴史の最初から、天主の御国とサタンの国とのあいだで、人間の霊魂の永遠の救いということにかかって、その問題のために、死闘が、つまり永遠に生きるか死ぬかの戦いが始まりました。

これは永遠の大問題であって、天主の創造の究極の目的を達成することができるか否かの、究極の問いなのです。人間は、本当の幸福(しあわせ)を得なければなりません。これが天主の創造の目的です。しかしそのためには、どうしても罪が赦され罪を償わなければなりません。その罪を償うためには、どうしてもいけにえを捧げなければなりません。罪によって、この世に死が入ってしまいました。従って、罪の赦しを受けるためには、聖パウロの言葉によれば、血を流す必要があります。「血を流すことなしに罪が赦されることはない。et sine sanguinis effusione non fit remissio.」(ヘブレオ9:22)と。

罪の赦しのために、罪の贖いのためには、いけにえであれば何でもよいわけではありません。天主の御心にかなうほんとうのこころよいいけにえと、そして天主が受け取るのを拒否するいけにえとがあります。嘉するものと、嘉されないものがあります。

アダムとエワのその最初の子どもたちが捧げたそのいけにえを見てください。カインとアベルのいけにえです。アベルの捧げた小羊のいけにえは、天主によって非常に嘉され、天主はこれを受け入れました。しかし、カインの捧げた大地の恵み・労働の実り…これについては 天主はこころよしとおもわずこれを拒否されました。カインはこれを見て非常に嫉妬して、アベルを迫害します。ついには最初の兄弟殺しが起こってしまいます。

【旧約の成就・完成】
天主の御国とサタンの国とのあいだで始まった霊魂の救いのための戦い、これは、人間が究極のいけにえを捧げることができるか否かにかかっています。なぜ天主のみことばが人間となったのでしょうか?ご托身されたのでしょうか。それは、この戦いのためでした。この戦いに勝利をおさめるためでした。もしも天主を御ひとり子が人間となって、しかも十字架にかけられていけにえとなったとされたらば、それは、罪によって破壊された秩序を立てなおすためです。罪によって秩序は破壊されました。区別は破壊されました。

まことの天主と被造物の区別、超自然と自然の区別、真理と誤謬の区別、善と悪の区別、美しいものと醜いものの区別、これが滅茶苦茶になりました。これをもう一度はっきりとさせて、創造の秩序のすべてをキリストにおいて回復させる、このために天主の御子はいけにえとなりました。大司祭となり、そして同時にいけにえとなりました。

ですから、天主の御国とサタンの国のあいだのこの究極の戦いは、カルワリオにおいて、主の十字架の勝利によって最高潮に達しました。天主の望む秩序を再建するために それを実現することの出来る最高の手段が 十字架のいけにえです。罪を赦すことのできる本当の憐みと聖寵は、イエズス・キリストの流された御血から そして十字架のいけにえの贖いの業によるしかありません。これこそが天主御父の嘉する唯一のいけにえであり、唯一の贖いです。

旧約聖書を見ると、そのすべてが、十字架、カルワリオのいけにえに向かって集中していることが分かります。ユダヤ人が捧げたさまざまないけにえ、いろいろな形でのいけにえそして前兆は、十字架の犠牲の前兆でした。

イエズス様のご生涯、そのすべてが十字架とご受難に向けられていました。イエズス様はお生まれになったときから、その最後まで、十字架のいけにえを捧げるということだけを考えていました。それこそが主の時でした。主の十字架のいけにえは、あまりにも完璧であり、完成させられており、たった一度だけで全人類のすべての罪を贖うことができる力をお持ちになっています。

では、この永遠の力を持つ十字架のいけにえ、これは天主の永遠の計画によって、世の終わりまで地上で再現されることをお望みになりました。この十字架のいけにえの再現、これがミサ聖祭です。

マラキアの預言にかつてあったように、――「日の昇るところから日の沈むところまで、天主の偉大な御名に清いいけにえが捧げられている。」――つまり、時間と場所を超えて、唯一のイエズス・キリストのいけにえが全世界で捧げられなければならないことが、預言されていました。Ab ortu enim solis usque ad occasum, magnum est nomen meum in gentibus, et in omni loco sacrificatur: et offertur nomini meo oblatio munda. 」(マラキア1:11)

聖アウグスチヌスの時代のアフリカでも、グァダルーペのマリア様が出現された当時のメキシコでも、あるいは聖フランシスコ・ザベリオが到着したその日本でも、また聖金大健アンドレア神父様が捧げた朝鮮でも、また2024年8月25日のここ大宮でもまったく同じミサが 時代と場所を超えて捧げられています。カトリック教会にはたったひとつのミサしかありえません。なぜかというと贖いはたった一つしかないからです。教会には唯一の礼拝形式しかありえません。この礼拝形式が聖伝のミサです。

【聖伝のミサ聖祭】
聖伝のミサは「全時代のミサ」といわれています。なぜかというと、このミサこそ、天主の御国とサタンの国の戦い、時を超えて継続しているその戦いを、行っているものであるからです。延長戦であるからです。ですからこのミサには、衝突・対立がいまでも起きています。

そしてわたしたちカトリック信者は、すべてのカトリック信者はこの戦いに呼ばれています。主はこの「地上に剣を持って」(マテオ10章34節)やってきたと言われました。ミサ聖祭これ自体で逆らいのしるしとなっています。しかしこのミサ聖祭は、贖いと犠牲の精神によって、罪への決定的な勝利を完全にしめしています。

聖伝のミサは、この世の精神に逆らっています。そして同時に、超自然の勝利を確信しています。教会の御旗です。なぜなら、このミサ聖祭によって、天主は、罪を滅ぼし、サタンの国を滅ぼそうとご計画であるからです。

わたしたちの宗教の中心にど真ん中に、全能の天主は十字架の精神まことのいけにえの精神を植えてくださいました。十字架無くしては、このいけにえの精神・犠牲なくしては、誰も救われることはあり得ません。今この世の流行(はやり)の偽りの「愛」とか同性愛をいつくしもうとかなどということによって救われることはあり得ません。人類を救う愛にはたったひとつの愛しかありません。わたしたちを罪から清めてくださる愛はたった一つしかありません。それはイエズス様が流された十字架の愛、イエズス様が御血を流された十字架の愛、天主の贖いの愛、主が私たちに示してくださったそして伝えてくださった愛です。そしてこの愛は、本当のカトリック信仰なしにはありえません。

ですからカトリック教会の生命、生活、そしてわたしたち贖われた霊魂の生活は一つです。十字架と贖いとに一致することです。イエズス・キリストは唯一です。十字架も唯一です。そしてこの唯一の十字架を通して、私たちは全能の天主を礼拝するのです。そうすることによって、わたしたちをキリストと一致させて聖化します。

【悪魔の攻撃】
悪魔はこのいけにえをなくそうと、祭壇を廃止させようと、いけにえを廃止させようと全力を尽くして攻撃をかけています。天主とマンモンの戦いは続いています。お金がすべてだ。お金がすべてを解決する。物質が豊かになれば、平和になるし、すべては上手くいく。地上の楽園を作ればいい。--悪魔は罪という概念をこの地上から取り去ろうとして、いけにえという概念を取り払おうとして、この聖伝のミサに対して攻撃をかけています。

プロテスタントのサービスがそうです。ミサ聖祭が贖いの犠牲である、いけにえであるということを否定して、そしてマルチン・ルターは これは最後の晩餐の記念だ・兄弟たちの会食だということに置き換えてしまいました。見てください、ユダヤ教にもいけにえはありません。イスラム教にもいけにえはありません。プロテスタントにも祭壇はありません。本当の宗教だけが、このいけにえの祭壇を持っています。

【新しいミサ】
その攻撃はまだ続いています、新しいミサが出来上がってしまいました。この新しいミサ聖祭というのは、カトリックのミサ聖祭からカトリックらしいことをすべて取り去ってしまって、プロテスタントのサービスのようにさせてしまったものです。これは新しいイデオロギーのためにつくられました。エキュメニズムというイデオロギーです。ですから、この新しいミサの背後にあるのは、この世に耳を傾ける教会です。罪という概念を失ってしまった、そして贖うべきものが無くなってしまった、教会の概念です。

ですから、わたしたちは、こういうことができるかもしれません‥‥‥いけにえに対する概念の違いによって、二つのミサが作りだされた。二つのミサは二つの国を作りつつある。聖伝のミサは、キリスト教世界を打ち立てる。十字架と犠牲の上に成り立つキリスト教世界文明をうちたてた。しかし「新しいミサ」は人間中心の世俗の国を打ち立てようとしている。

【聖伝のカトリック司祭】
私たちには、特に現代世界には、イエズス・キリストが行った究極の大勝利、十字架のいけにえ、聖伝のミサがどうしても必要です。この世の存続のためにも、永遠の命のためにも、必要です。聖伝のミサの続行のために、聖伝の司祭が必要です。

カトリック司祭の存在理由、これはまさにミサ聖祭をささげるということにあります。司祭の偉大さは、これはまさに全実体変化を起こすことであります。司祭というのは「神の民の集会の座長」ではありません。

カトリック司祭は、イエズス・キリストのペルソナに代って、毎日、祭壇でこう言います。
「これは私の体である。」
「これは私の血の杯である。」
告解部屋では司祭はこう言います。
「私はあなたの罪を赦す。」

つまりまさに聖パウロが言った言葉と同じです。
「私は生きているが、もう私ではなく、キリストが私のうちに生きておられる。」(ガラチア2:20)

司祭とは、あたかも聖変化したパンとワインであるかのようです。御聖体は、見かけはただのパンとワインですが、実体はキリストのほんとうにキリストの御体とまたキリストの御血だからです。

司祭も、見かけはただの人間です。しかし、キリストのペルソナにおいて、全実体変化を起こし、罪の赦しを与えることができます。

司祭は、まさに御聖体のようです。御聖体のようにすべての人々に与えられますが、すべての人々の上に立っています。なぜかというと、司祭は、イエズス・キリストの代理者であり、イエズス・キリストと同じく、いけにえでもあるからです。司祭は天主からすべての祝福と恵みを受けて、それをすべての人々に分かち与える存在であるからです。

【最後に】
では、最後にマリアさまにお祈りいたしましょう。
最高永遠の司祭、イエズス・キリストの御母であるマリアさまに、私たちにも多くの聖伝カトリック信仰をまもる聖伝のミサを守る聖なる司祭を与えてくださいますように。
日本からも韓国からも世界中から多くの司祭たちが、わたしたちに与えられますように お祈りいたしましょう。

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。


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