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「ジーザス・クライスト、お前は誰だ?」ミュージカル「ジーザス・クライスト=スーパースター」を見て疑問に思った方々に

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「ジーザス・クライスト、お前は誰だ?」

―――ミュージカル「ジーザス・クライスト=スーパースター」を見て疑問に思った方々に―――

カトリック教会の伝えるままのイエズス・キリストとはどのようなお方か?

 

劇団四季ジーザス・クライスト=スーパースターが公演されている。これはイエズス・キリストのエルサレム入城から十字架上でのご死去までを、主にキリストを裏切ったユダ・イスカリオトの観点から描いたロック・オペラだ。

【本論の意図と目的】

これは、作曲家A・ロイド=ウェバーと作詞家ティム・ライスが20代の時に生み出した出世作であり、旧約聖書の預言と福音書に記述された事実に基づく実像とは全く関係のない、想像の人物ジーザス・クライスト=スーパースターを作り上げ、教会の解釈とは異なる人物像としてエンターテイメントに仕立て上げた作品だ。 聖書に題材を借りた想像の作品で、ここで示されたイエズス・キリスト像は事実ともカトリック教会の解釈とも全く異なる。

劇団四季の「ジーザス・クライスト=スーパースター」はその日本語バージョンである。

しかし、これを見た人の中で善意の人は、イエズス・キリストについて誤解をするかもしれない。イエズス・キリストを、アリウス派の異端説によるような「ただの人間」、あるいは「スーパーマン」「スーパースター」にすぎないと思うかもしれない。

あるいはイエズス・キリストについて、本当はいったいどのような方だったのか知りたいと思うかもしれない。しかし、本当のイエズス・キリストが誰かを提示してくれる人が、周りをさがしてもいないかもしれない。

そこで、本論では、本当のイエズス・キリストのことを伝えることを目的として、劇中でユダの役を通して投げかけられる疑問に答えたい。

【ユダ・イスカリオトの投げかける問題提起】

このミュージカルは、ユダ・イスカリオトの歌から始まる。ユダ・イスカリオトは、十二使徒の一人でイエズスをお金で売った裏切り者だ。「ジーザス!あなたまでが自分の事を神の子だと信じるとは・・・生まれた町であなたは父と同じ大工をしてたら、群衆たちを惑わすようなこんなことにはならない・・・」

最後も、ジーザスが十字架のご受難の最中に、ユダの次のような歌で締めくくられる。「いつも不思議に思っていた。どうしてこんなにややこしいことにした? もっとうまくやれたはずだろう。なぜ古代のあんなへんぴな場所だったんだ? 現代なら全世界を相手に出来たのに、BC4年のイスラエルにはマスコミも無かったぜ。悪く思わないでくれ。知りたいだけなんだ。ジーザス・クライスト。お前は誰だ。何を犠牲にした? 天上の友人はどうだい? お前は別として、イケてるのは誰だい?仏陀はどうだい? そこにいる? マホメットは本当に山を動かしたのか?それともPRか? あの死に方は計画どおり? 派手に死んで有名になる狙いだったのか?・・」

メインの問い:「ジーザス・クライスト、お前は誰だ?」

(1)なぜ古代のユダヤで生まれてきたのか?

(2)自分の事を神だと思ったのか?

(3)なぜ抵抗もせずに十字架の上で死んだのか?逃げることもできたではないか?

(4)現代ならインターネットで全世界を相手に出来たのに、なぜ21世紀の現代に生まれてこなかったのか?

(5)何のために?何を求めて自分の命を犠牲にしたのか?有名になるためだったのか?

ここで叫ばれているユダの声は、現代の日本に住む方々の疑問に通じるとも思われる。そこで歴史事実に基づいて、当惑しているユダのこれらの問いに答えたい。

 

論点1:【旧約の預言の成就】

(1)なぜ古代のユダヤで生まれてきたのか?

イエズス・キリストは、古代のユダヤでお生まれになり、苦しみを受けて死去された。それは、旧約聖書には来るべきメシアに関するあらゆる預言があり、その全ての預言がキリストにおいて成し遂げられるためだった。

旧約聖書は、キリスト誕生のずっと以前から存在しており、さまざまな場所で、さまざまな著者によって書かれた。キリストの前のことを旧約という。天主と人間との古い契約という意味だ。キリストの誕生以後は新約だ。新しい契約だからだ。

ユダヤ人の宗教とはメシアを待望する宗教だった。この宗教の中心教義は来たるべき救世主、メシアへの希望をうちに秘めていた。その儀式と組織、律法と預言は来るべき救い主を予告する影だった。救世主に関して預言されていたことは、すべてキリストにおいて正確に成就された。例を少しあげる。たとえば、こうだ。

彼はダヴィドの後裔で(イザヤ書 11-1,2)、ベトレヘムに誕生し(ミケア 5:2)、童貞女なる母より生まれ(イザヤ書 7:14)、天主の子と言われる(詩編 2:7)、ナザレト人と称せられ、(イザヤ書 11:1)、その王国は栄える(イザヤ書 9:7)。彼の王国は攻撃を受けるであろうが、永遠に滅びない(詩編 2:1,4)。彼は、悲しみの人であり、誹謗され、清貧に甘んじ(イザヤ書 8:10)、銀貨30枚で売られ、銀貨は焼物師の畑を買うに使われる(ザカリア書 11:12,13)、自ら望んで犠牲となり口を開かない羊が屠所に連れていかれるように、毛刈り込み人の手の中にある羊のように口を閉ざしている(イザヤ書 58:7)。彼の四肢は貫かれ、その上衣は分けられ、その衣は籤引きにされる(詩編 21:17,19)

以上は預言の一部に過ぎない。しかし、ありとあらゆる預言が全て一個人において成就されているという事実は、単なる偶然でも、また人間的技巧でもありえない。

全ての預言がキリストにおいて成就していることを考えると、99.99%以上の確率でキリストが約束された救世主であるという結論にならざるを得ない。

イエズス・キリストは、十字架での死刑と言う極刑を受けつつ、いや、まさにそうすることで、旧約の預言を全て成就した。

しかも、お金でもなくマスコミでもなく真理だけが持つ力によって、異教のローマ帝国でさえもキリスト教に改宗した。全世界の人々は、この真理を吟味して、真理を信じるように招かれている。

論点1を踏まえた、メインの問いに対する答え:「ジーザス・クライスト、お前は誰だ?」

歴史はこう答える。イエズス・キリストは、旧約の預言をことごとく全て成就した方だ、つまり約束された救い主だ。

 

論点2:【イエズス・キリストは自分を天主であると主張した】

(2)自分の事を神だと思ったのか?

福音書には、イエズス・キリストが、さまざまな機会に、自分が世界の創造主、つまり天主であることを主張したことが記載されている。

一例をあげると、イエズスがユダヤ衆議所(サンヘドリン)に出廷した時、大司祭は公式に尋ねた。「おまえは祝すべき天主の子キリストなのか?」イエズスこれに答えて、「そうだ。あなたたちは人の子(=イエズス)が全能にまします天主の右に坐して空の雲に乗り来るを見るだろう」といった。そこで大司祭は、自分の衣服を裂いて、冒涜の言を聞いた!というと、一同は、イエズスを罪死に当たると定めた(マルコ 14:61-64)。つまり、イエズスは、天主と同じ本性を有すると主張したと理解されたので「冒涜」だと断罪された。この「冒涜」のゆえに衆議所はイエズスを死刑に処断し、イエズスはこれを甘受した。

イエズスは、自分を天主であると主張したのみならず、多くの奇跡を行って自分の主張が真理であることを証明した。

イエズスは「民衆の期待と自己の無力さとの狭間で苦悩したこと」など一度もなかった。史実はその反対だった。人々の期待を遥かに超えた奇跡を行い、例えばパンを増加させて数千人の人々を養い、生まれつきの目の見えない人に視力を与え、死者をよみがえらせた。死者をよみがえらせたことが三回あることが福音書に記録されている。

たとえば、キリストが生まれつきの盲者を癒した時、キリストはその盲者に尋ねた。「あなたは人の子を信じるか?」と。彼が「主よ、それはだれのことですか?私がその方を信じますように」というと、イエズスは「あなたはそれを見ている。あなたに話しているのがそれだ」とおおせられた。すると彼は、「主よ、私は信じます」といって、イエズスのみ前にひれ伏して礼拝した(ヨハネ 9:35-38)。

人の罪を赦すのは天主だけにできることである。しかしイエズスは自分が罪を赦す権能さえも持っていることを証明しようとしてこう言った。「人の子が、地上で罪をゆるす権力をもっていることをあなたたちに知らせよう!」。そして中風の人に向かい、「私は命じる。起きよ、床をとって家に帰れ!」とおおせられるや、病人は、起きて、すぐ床をとり、人々の目のまえを出ていった(マルコ 2:5-12)。つまり奇跡を行って自分が自然界に対して絶対の権力を持っていることを証明した。

 

論点3:【イエズスは、預言通り十字架につけられて復活した】

(3)なぜ抵抗もせずに十字架の上で死んだのか?逃げることもできたではないか?

イエズスは、自分が天主であることを証明するために、自分が苦しみを受けること、死者の中より復活することを何度も預言した。

果たしてイエズスは抵抗もせずに十字架に付けられた。逃げることもできたが、屈辱と苦痛の死を受け入れた。そしてイエズスは自分が宣言した通り復活した。

イエズスの受けた精神的苦悶、鞭刑、茨の冠、十字架の刑、心臓への槍の貫通は、いずれも致命的なものだった。そのことを見てもイエズスが死んだのは確実である。弟子たちは、聖母マリアと少数をのぞいて、イエズスを捨てて逃げた。しかし、イエズスは三日目に復活して、裏切った弟子たちのところに何度も現れ、体を触れさせ、食事をし、自分が本当に復活したことを証明した。

不信の弱い弟子たちはイエズスを見て、彼が本当に復活したことを確信した。つまり、イエズス・キリストこそ本当のメシアであり、天主であると確認した。

復活したイエズスを見て触れた使徒たちはがらりと態度を変えた。その後の彼らの人生は、命がけでキリストの復活を宣教することに変わった。こうして彼らは、迫害と困苦と殉教の生涯へと進んで行った。使徒たちの宣教で、キリストを信じる人々はその数を増加させた。彼らもまた、キリストを信仰することによって、困苦と死とを得たのみであった。彼らは皆、使徒の宣教の真実性を絶対的に認めていた。

聖アウグスチヌスは、もしもキリストの復活が事実でなかったとするなら、数人のガレリアの漁夫によって、ローマ帝国全体が改宗してキリストを信じるようになったのは、キリストの復活に勝る大いなる奇跡でなければならないと言っている。

論点2・3を踏まえた、メインの問いに対する答え:「ジーザス・クライスト、お前は誰だ?」

史実はこう答える。イエズス・キリストは自身を天主であると主張し、この主張を証明するために、無数の奇跡を行い、さらには、死者の中より復活することを明言して予告通りに復活した。したがって、イエズスの主張は真理である。つまり、イエズス・キリストは天主だ。

 

論点4:【なぜ現代の即効力のある手段を選ばなかったのか?】

(4)現代ならインターネットで全世界を相手に出来たのに、なぜ21世紀の現代に生まれてこなかったのか?もしも本当の天主ならば、生まれるべき時代を選んで効果的に影響をおよぼすべきだったのではないか?

イエズスが生まれた当時は、当然、テレビも新聞もインターネットも無かった。イエズスが生まれたイスラエルは、ローマ帝国の属国であり、神々を信じていた首都ローマから軽蔑されていた貧しい地方だった。人間的な考えによれば、ローマ皇帝の子供として生まれ、権力と軍事力と富と報酬で、人々に影響を及ぼした方がより効果的だったと思われるかもしれない。

しかし、イエズスは、古代に生まれ、マスコミも使わなったのみならず「宣教の愚かさをもって信じる者を救おうと」した。

キリスト教を迫害していたが、後に回心してイエズスを信じる側についた使徒聖パウロはこう言う。「私たちは、十字架につけられたキリストを宣べ伝える。それはユダヤ人にとって躓きであり、異邦人にとって愚かであるが、しかし召された人々にとっては、ユダヤ人にもギリシァ人にも、天主の力、そして天主の知恵キリストである。天主の愚かさは人間よりも賢く、天主の弱さは人間よりも強いものだからである。」(コリント前1:23~25)

使徒たちは、貪欲と傲慢、色欲と迷信の底に沈んでいたローマ帝国の人々に、イエズスの教えである清貧と従順、貞潔と愛徳、自己犠牲とこの世の軽視を説いた。使徒たちの説教の中心は、この世の娯楽の代わりに来世の天国を希望すること、十字架にはりつけられたイエズスを礼拝することだった。

ローマ帝国の強大な国家権力は、生まれたばかりキリスト教撲滅のために力を尽くした。十回の過酷な迫害が起こった。皇帝の迫害行為は3世紀の間絶えることなく行われた。幼少年をも加えた多くのあらゆる階級の信者の人々がこの迫害、苛酷な拷問を甘んじて受けた。彼らは、死の激痛のなかで死と苦痛を甘受し、自分を拷問する人々の救いを心から希求しつつ、自らの血で染めた手をもって彼らを祝福して殉教していった。こうしてイエズスへの信仰の前に、いかな権力も富も、ローマ帝国さえも、敗北した。

イエズスが人間の救いのために選んだ手段は、この世の知恵では説明がつかない。

聖パウロはこう言葉を続ける。「天主は、知恵者を辱しめるために世の愚かな者を選び、強い者を辱しめるために世の弱い者を選ばれた。天主は、あると誇る者を空しくするために世の賎しいもの、軽んぜられた者、この、無きにひとしいものを選ばれた。それは、天主のみ前で、だれにも誇らせないためである。」(コリント前1:27~29)

 

論点5:【イエズスは派手に死んで有名になる狙いだったのか?】

(5)イエズスが十字架の上で死んだのは何のためだったのか?

イエズスの十字架上の死は、旧約と自分の預言を成就するためだったことは既に述べた。ここでの質問の意味はこうだ。

イエズスが旧約の預言を成就させながら十字架の上で死ぬことによって、何を成し遂げたのか?その意味で、イエズス・キリストの十字架の死は何のためだったのか?

旧約に預言されたメシアとは、そもそも何なのか?

人類の祖先アダムとエワが最初に罪を犯した時、罪によって人類は天国という至福に至る権利を失ってしまった。旧約の預言は、人祖がこの最初の罪を犯して天主に背いた後に、天主が人間にメシアが送ると約束された時から始まった。メシアつまり救い主とは、人間を罪の負債から解放する者のことだ。

人祖アダムとエワは、自分の力だけで神々のようになろうと欲した。傲慢によって不従順となり天主の掟に背いて罪を犯した。罪のために、この世に苦しみと死が入った。

来るべき救い主は、謙遜で、天主に従順であり、苦しみと死を通して、罪による罰の負債を贖うべきであった。

アダムは木の果実を盗み食べる罪によって、地上の楽園という王国を失った。イエズスは人類を代表する救い主として十字架の木に自分を付けることによって天国の門を開くべきだった。アベルの捧げた小羊の犠牲だけが天主に嘉されて来るべき完成された犠牲が予告されたように、イエズスの十字架の犠牲だけが天主に嘉された。

旧約のノエが「天主が彼に命じたことを全て行った」(創世記6:22, 7:5)ように、イエズスは父なる天主が命じたことを全て死に至るまで、しかも十字架の死に至るまで従順に行った。ノエがブドウ酒によって裸になったように、イエズスは人類の罪の贖いを熱望して、赤裸々の姿で十字架につけられた。

アブラハムの一人子のイサアクがいけにえとして屠られようとしたように、天主の御一人子のイエズスはいけにえとして十字架で屠られた。イスラエルの子たちがエジプトからの脱出の記念としてささげられた旧約の過越し(出エジプト記12:1以下)の儀式がモーゼを通してイスラエルに命じられた。この過越しはイエズスの十字架の犠牲を予告するシルエットであった。

イエズスの狙いは、王として十字架の上で死んで人類の全ての罪を贖うことだった。そうすることによって預言を全て成就させようとした。だからイエズスは茨の冠と言う王冠をかぶった。ローマ帝国がイエズスに与えた公式の罪は「ナザレトのイエズス、ユダヤ人たちの王」だった。

論点4・5を踏まえた、メインの問いに対する答え:「ジーザス・クライスト=スーパースター、お前は誰だ?」

歴史はこう答える。イエズス・キリストは真の救い主だ。イエズス・キリストは真の天主だ。イエズス・キリストは、贖なわれた人類の真の王だ。

 

論点6:【イエズスをよく知っていた者の証言】

イエズスをよく知っていた者の証言を聞いてみよう。ある時「イエズス・キリストは、ペトロとヤコボとその兄弟ヨハネとをつれて、人里はなれた高い山にお登りになった。そして、かれらの前でお姿がかわり、お顔は太陽のようにかがやき、お服は雪のように白くなった。そのとき、モイゼとエリアとが、かれらにあらわれ、イエズスと語りあった。…光る雲があらわれ、雲の中から、「これは私の愛する子、私の心にかなったものである。これに聞け!」とお声があった。」(マテオ17:1~5)

この時、イエズス・キリストから選ばれた三人の目撃者のうちの一人であり、キリストからペトロという名前を与えられたヨナの子シモンは、自分の見聞きしたことを次のように証言している。

「私たちはそのみいつの目撃者であった。おごそかな光栄の中から「これは私の愛する子である。私はかれをよろこびとする」と声があって、主は父なる天主から、ほまれと光栄とを受けられた。私たちも、かれとともに聖なる山にいたとき、天からくるこの声を聞いた。」(ペトロ後書1:16~18)

論点6を踏まえた、メインの問いに対する答え:「ジーザス・クライスト=スーパースター、お前は誰だ?」

天主なる父はこう答える。イエズス・キリストは、父なる天主の愛する子である。「彼の言うことを聞け!」

 

論点7:【イエズス・キリスト自身の主張】

では、最後に、イエズス・キリスト自身は、自分のことを何といっているだろうか?

イエズスの言葉をいくつか引用しよう。

「私は世の光である。私にしたがう人はやみの中を歩かず、命の光をもつであろう」(ヨハネ8:12)

「私は門である。私を通って入る人は救われ、出入りして牧草を見つけるだろう。しかし、盗人は、盗み、殺し、ほろぼすためにだけくる。私は、羊たちに命を、豊かな命をあたえるために来た。私は良い牧者で、良い牧者は羊のために命を捨てる。牧者でもなく、自分の羊をもたないやとい人は、狼が来るのを見ると、羊をすてて逃げ、羊は狼にうばわれ、散らされる。」(ヨハネ10:7~12)

「私は復活であり、命である。私を信じる人は、死んでも生きる。生きて、私を信じる人は、永久に死なない。あなたはこのことを信じるか」(ヨハネ11:25~26)

「私は、道であり、真理であり、命である。私によらずには、だれ一人父のみもとにはいけない。」(ヨハネ14:6)

「私は王である。私は真理を証明するために生まれ、そのためにこの世に来た。真理につく者は私の声を聞く。」(ヨハネ18:37)

「私は門の外に立って叩いている。私の声をきいて戸を開くなら、私はその人のところにはいって、かれとともに食事し、かれも私とともに食事するであろう。勝つ者は、私とともに王座に坐らせよう。私が勝って父とともにその玉座に坐ったと同様に。」(黙示録3:20)

「私はアルファとオメガ、初めと終わりである。渇く者には、無償で命の水の泉を飲ませる。勝つ者は、そのすべてを受ける。私はかれの天主となり、かれは私の子となる。しかし、臆病者、不信仰者、厭うべき者、殺害者、淫行者、魔術者、偶像崇拝者、すべてうそをつく者は、火と硫黄とのもえる池、すなわち第二の死をうける。」(黙示録21:6~8)

以上の論点を踏まえた、メインの問いに対する答え(結論):「ジーザス・クライスト=スーパースター、お前は誰だ?」

歴史事実と、父なる天主と、イエズス・キリスト自身は、こう確認する。イエズス・キリストは真の救い主だ。イエズス・キリストは真の天主だ。イエズス・キリストは、贖なわれた人類の真の王だ。

そうして初めて全てに説明がつく。

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