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聖霊降臨後第十七の主日の説教―キリストの神性(2024年、札幌)

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聖霊降臨後第十七の主日の説教―キリストの神性(2024年)

ブノワ・ワリエ神父 2024年9月15日、札幌
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親愛なる兄弟の皆さま、
 
今日の福音で、イエズスは、聖書の知識を大いに自慢しているファリザイ人に、こう尋ねられました。「あなたたちは、キリストについてどう考えているのか。…キリストは誰の子か」。

私たちの主の質問は、律法学士たちに、キリストの父について、よく考えさせようとするものでした。なぜなら、キリストは肉によれば本当にダヴィドの子(つまり子孫)であったにもかかわらず、彼らが思っていたように、キリストはダヴィドの子であっただけではないからです。キリストは、彼らに照らしを与えて、キリストが天主の本性をお持ちであることと、キリストが永遠において生まれ給うたことについて、考えさせたいと望んでおられます。そして、彼ら自身が認めている聖書そのものから、キリストは単なる人間以上の存在、単なるダヴィドの子以上の存在でなければならないことを証明されるのです。

私たちの主は、詩篇109篇を引用されました。その詩篇は、ダヴィド王によって書かれたものであること、また約千年後にダヴィドの一族から生まれることになるメシアを扱ったものであることは、ユダヤ人の誰もが認めていました。

その詩篇は、不可解な言葉で始まります。「主は私の主に言われた。私が敵をあなたの足台とするまで、私の右に座れ」。

「主」という言葉は、天主のことです。ですから、「天主は私の天主に言われた」と訳すこともできます。「私の主」とは、メシアのことです。ダヴィドは「私の」と言っていますが、それはメシアが自分の子孫であるはずだからです。

しかし、なぜダヴィドは、「主は、私の子であるメシアに言われた」と言わないのでしょうか。なぜダヴィドは、「主は私の主に言われた」と言うのでしょうか。ダヴィド王は、メシアを「私の主」と呼ぶことで、私たちの主が人間(ダヴィドの子)であると同時に天主(父なる天主の子)であることを、はっきりと告知しているのです。

しかし、ダヴィドが高慢になって間違ったと、人々に思われないように、私たちの主は、「ダヴィドが霊感を受けて」という表現を使っておられます。ダヴィド王は聖なる作家であって、天主の霊感の影響の下に、また天主の「霊」が言われたことを書き取って、聖書の一部を書いたのです。(ミサの信経で、私たちは、聖霊について「預言者によりて語り給えり」(Qui locutus est per Prophetas)と唱えているではありませんか。)

ですから、ダヴィドの預言の分かりやすい意味はこうです。「父なる天主は、肉によってまた私の子となるであろう永遠の御子キリストに、こう言われた。『あなたの死によって、あなたの栄光ある復活と昇天によって、あなたのすべての敵(死と悪魔)に打ち勝った後に、私の右に座れ』。次に、御父はキリストを『いっさいの権勢と能力…の上に、またこの世ばかりでなく来るべき世にとなえられるすべての名の上に置かれた』(エフェゾ1章21節)」。

「あなたの足台」とは、最大限の屈辱と平伏を意味します。この考えは、征服者が時々行う残酷な習慣から借りてきたもので、完全な服従のしるしとして、敗者の首に足を置くというものです。獰猛な征服者の中には、馬に乗る際に、王族の捕虜を足台にした者がいたという記録があります。ペルシャ王シャープールはローマ皇帝ヴァレリアヌスをこのように扱い、傲慢なタタールの皇帝ティムールは、トルコ皇帝バヤジッドを同じように扱いました。
このことは、キリストに関して、審判の日に成就することでしょう。
 
聖ヨハネ・クリゾストモスと聖アウグスティヌスは、ファリザイ人が論敵から教えられるよりも、高慢な無知のままでいることを好んだと指摘しています。彼らは、自分たちがイエズスよりも劣っていることを何度も経験していたため、「その日から、あえて問いかける者もなくなった」のです。

親愛なる兄弟の皆さま、

今日の福音から二つの教訓を引き出すことができます。

第一に、私たちの主に関する多くの預言は、主がお生まれになる何世紀も前に記録されていたもので、ユダヤ人にはよく知られていたということです。

ブッダ、ムハンマド、ルター、その他の有名な宗教指導者に関して、真の預言を一つでも挙げることができますか。

私たちは、他の人々を照らし、説得力のある証拠を通して、彼らをカトリック信仰へと導くために、護教学を知る必要があります。

第二に、そうすることは、私たちにとって大きな慰めになるはずです。私たちの主は天主です。今日、主は大いに無視されているかもしれませんが、そうであっても、主がどのようなお方であるかは何も変わっていません。

願わくは、主がすべての敵を打ち砕き、私たちを「私たちの主人の喜びに入」らせてくださいますように。アーメン。


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