なぜイエズスは十字架につけられたのか? なぜ天主は十字架の上で手を広げて亡くなったのか?十字架の称賛の神秘はわたしたちに教えていること
2024年9月14日(土)十字架称賛の祝日 説教
トマス小野田圭志神父
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。
愛する兄弟姉妹の皆様、今日は十字架の称賛の祝日です。
十字架の称賛というのは、十字架の神秘、‟十字架というものが非常に高い賛美と栄光を受けるべきものである”ということを示す祝日です。
今日は、このミサの前に、ある方から、こんな質問を受けました。
「なんで、イエズス様は十字架につけられたのですか? なんで、天主は、この世を創った方は、十字架の上で手を広げて亡くなったんですか?」
この十字架の称賛の祝日にピッタリの質問ですので、ぜひこの答えを話したいと思います。
なぜ天主は、この世を創った方は、わたしたちを愛している方は、罪がなかったにもかかわらず、十字架の上で、こんなにも裸になって、茨の冠を被せられ、鞭を打たれて、傷だらけになって、あたかも極悪人の様になってそんな姿で、奴隷のように、十字架につけられ、捨てられて、亡くならなければならなかったのでしょうか?
なぜかというと、これは、わたしたちが犯した罪を、わたしたちに代って、償うためだったのです。
なぜかというと、罪を犯すと、その罪はどうしても償わなければならないからです。
なぜかというと、天主というのは、非常に聖なる方で、その主に対して犯した罪は、どうしてもその犯された秩序を回復しなければならないからです。
もしも誰かが、悪戯(いたずら)の男の子がやってきて、お父さんがせっかく作ったきれいなものを壊してしまった。そうしたら男の子が『お父さんごめんなさい』と涙を流して謝ってきたので『許してあげよう』・・・。でも、この壊されたのはいったいどうするんだ・・・。男の子は、できるかぎりそれを元通りにしなければなりません。でも男の子は元通りにすることはとても一人ではできません。するとお母さんがやって来て『ああ私が手伝ってあげましょう』。お母さんが、きれいにそれを直してくれた。秩序を回復してくれた。
それと同じように、似たようなことで、人間は天主に対して、無限に聖なる方に対して、罪を犯したので、それをどうしても償わなければなりません。しかし人間の限りある力では、無限の聖なる方に対して犯した罪を償うことは、とてもできませんでした。償うためには、無限に聖なる方が必要です。罪のない方が償わなければ、秩序を回復できません。
そこでイエズス・キリストが、天主の御子が、まったく罪のない聖なる天主の御子が、人間となって、わたしたちの名前でわたしたちのかわりに、わたしたちが受けるべき罪をすべて背負って、その罰を受けるわたしたちの代わりに、償ってくださったのです。
ですから、イエズス・キリストのその苦しみを見て、わたしたちの受けるべき罰は、罪は、すべてもうきれいに流された、すべて秩序は回復したんだ、もう過去のことは一切なかった、としてくださったのです。
そして、イエズス・キリストは最も苦しい苦しみを受けたので、その報いとして、最も高い栄光を受ける方となりました。
では、この十字架の称賛の神秘はわたしたちに何を教えているのでしょうか? 三つのことを教えています。
ひとつは、もしかしたら、ある嘘の宗教の人が、偽物がわたしたちにやって来て、「ああ私たちのこの宗教を信じるとこの地上では平和が来ます。そうしたらこの地上では苦しみがなくなります。この地上ではすべてが良くなります。」―――そんなことを言ったら、それは信じないでください。
この世ではどうしても苦しみがあるからです。なぜかというと、わたしたちの罪の償いとして苦しみがこの世に入ってきたからです。苦しみと死と悲しみは、わたしたちが罪を犯したので、この世に来ました。ですからわたしたちはどうしてもそれを避けることができません。
もしも誰かが、「どんな宗教でもよい、苦しみが無くなれば、平和が来れば、そしてこの世が幸せになればよい。あの世のものでなくこの世のものであること、誰かに限ったものではなく全ての人の幸せをこの世で実現することを切に、切に、祈ってやまない」と言ったとしても、でも、どのようなものでも、天主であっても、この世を創造された方であっても、それはできないのです。なぜかというと、人間が罪を犯し続けているから・・・それが第一です。つまり、この世には必ず苦しみがあるということを、私たちに教えています。イエズス様でもそれを避けることをしませんでした。
第二には、もしもわたしたちが天国に行くとしたら、行こうとするならば、むしろわたしたちは苦しみを使わなければならない、ということです。キリスト教が約束している救いとは、来世の約束です。この世では苦しみを避けることはできません。しかし、この世の苦しみは彼岸の栄光に喜びに変わる、ということです。その時、苦しみや悲しみは、避けるべき悪ではなく、愛をこめて受け入れるべき善への手段になるのです。
第三の点は、では‟苦しむのであればなんでもよいのか”というと、そうではありません。わたしたちに、本当のしあわせ、本当の栄光を与えてくれる手段は、たった一つしかありません。イエズス・キリストの十字架です。これだけが天につながる唯一の橋です。道です。イエズス・キリストの十字架を通らければ、誰も父のもとに天の国に行くことはできないんです。イエズス・キリストの十字架だけが称賛を受けて、そうでないならば称賛を受けません。しかし、苦しみをイエズス・キリストと一緒に捧げることによって、イエズス・キリストと一緒に同じような栄光にいくことができる、ということです。イエズス・キリストと一緒に苦しめば苦しむほど、栄光もますます高くなる、ということです。
その証拠が、聖金曜日にイエズス・キリストと一緒に十字架につけられた二人の泥棒がいます。盗賊です。あまりにも悪を犯したので、ついに十字架の刑を受けた二人の悪人です。一人は右に、もう一人は左につけられました。
右につけられた盗賊は、確かに自分は悪いことをした・・・だから自分が十字架につけられたのは当然のことだ・・・と、罪を悔い改めます。
ところが左は、そうではありませんでした。イエズス・キリストを罵りました。「あなたは救い主だというが、もしも救い主だというならば自分と俺を救え。さあ救ってみろ。この十字架から救ってみろ。」といろいろ罵(ののし)るのです。
すると、右にいた盗賊は、あまりにもひどいことを言うので耐えきれずに、「黙れ、この方は罪がないのにもかかわらずこうやって苦しんでおられる。お前は一体なんだ。悪いことをしていながら何を言うのか。」と言って叱るんです。その次にイエズス・キリストに向かって「主よ、あなたが天の国に行かれるときにわたしのことを思い出してください。」というと、イエズス・キリストは、この右の盗賊に向かって「お前は今日わたしとともに天国にいる」。すべての罪は赦されました。
苦しみは同じでしたが、イエズス・キリストとともに苦しむときに、それは栄光に変わります。天国行きの切符に変わります。今日の十字架の称賛の祝日は、これをわたしたちに教えています。
今日は、なぜイエズス様がこんなにも聖なる方が十字架に苦しまれなければならなかったか――それは私達を天国に導くためだ、引っ張ってくださるためだ、とわたしたちに教えている、ということを黙想しました。
最後に、マリアさまにお祈りしましょう。マリアさまはいつも十字架のもとに来て、十字架から逃げずに、イエズス様とともにおられました。マリアさまが天国でわたしたちのためにお祈りしてくださっています。わたしたちも、マリアさまのように、いつもイエズス様の十字架のもとにいることができますように、お祈りしましょう。
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。