2024年9月15日(主日)聖母の七つの悲しみの祝日 東京 10時半のミサの説教
トマス小野田圭志神父
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。
愛する兄弟姉妹の皆様、
今日は、聖母の七つの御悲しみの祝日を祝っているので、マリアさまの悲しみ・苦しみについて一緒に黙想いたしましょう。この苦しみを通して、聖母が共償者、つまりイエズス・キリストと共同して人類の罪を贖ったという神秘を黙想いたしましょう。
いったい、まず、なぜマリアさまは苦しまれたのでしょうか。その苦しみの意味は何だったのでしょうか?
まず、マリアさまはなぜ苦しまれたのかを黙想いたしましょう。
【1:聖母はなぜ苦しまれたのか?】
考えても見てください。聖母は、「無原罪の御宿り」という特別の特権をもって、原罪の汚れを一切持たずに孕(やど)られました。マリア様は聖寵に満たされて、その充満のうちにお生まれになりました。ご生涯に亘(わた)ってひたすら天主だけをお愛しされて、罪の影さえもあらず、聖なる一生を過ごされた方です。しかし、罪のないマリアさまの御生涯は、悲しみと苦しみに満たされておられました。
『キリストに倣いて』によれば、「キリストのご生涯は、十字架と殉教とであった」とありますが、まさにそれと同じく、マリアさまのご生涯は十字架と殉教の連続でした。マリアさまは自分のためではなくて、主の御旨に従って、天主のために生き、そして天主のみ旨に生きれば生きるほど、マリアさまは人類の贖いのために、御子とともに苦しみの生涯をおくらなければなりませんでした。
今日の『七つの悲しみの典礼』――七つの苦しみそれぞれ――を黙想すると、まさにそれを教えています。
【2:苦しみの価値の違い】
なぜ、罪がなかったにもかかわらず、マリアさまは苦しまなければならなかったのでしょうか?
その答えは、イエズス様が聖母とともに贖いの事業を行うことをお望みだったからです。言いかえると、マリアさまは天主の御旨に従って、第二のエワとして、罪のない被造物として、第二のアダムであるイエズス・キリストの贖いの業に完璧に、良き伴侶として協力されたということです。
イエズス様の御苦しみ、特に十字架のご受難は、自分のためではありませんでした。そうではなく、全人類のため、この世の罪を贖うために、捧げられました。マリアさまの生涯の苦しみも、同じです。御子の苦しみと同じく、自分の罪――罪はありませんから――の償いのためではなく、イエズス様が人類のために捧げた苦しみに自分の苦しみを添えて、天主に捧げ、それを人類の贖いの業の協力と同伴と共同の捧げものとしてお捧げになったのです。
では、イエズス様とマリアさまの苦しみはおんなじだったのでしょうか?もし違ったとしたらどう違ったのでしょうか?
イエズス様の苦しみとマリアさまの苦しみの違いは、価値が違いました。なぜかというとイエズス・キリストの苦しみは天主の苦しみだったからです。人となった天主の御言葉が苦しんだので、イエズス・キリストの苦しみには、御言葉の無限の尊厳のために、無限の価値がありました。ですから、厳格な正義に基づいて、イエズス様の御苦しみにおいては、全歴史に亙(わた)るすべての人類のすべての罪を贖ってまだ余りがありました。ところでマリアさまの苦しみには、限界があります。つまり有限の価値、しかなかったということです。
【3:なぜ聖母の苦しみに偉大な価値があったのか?】
しかし、有限の価値だったとしても、イエズス様の苦しみにあまりにもよく参与していたので、マリアさまの苦しみの価値にはきわめて莫大な力がありました。苦しみが持つすべての効果は、贖いの効果は、イエズスの苦しみから由来します。マリアさまの苦しみにもしも贖いの価値があったのは、イエズス様の苦しみに与っていたからです。そしてイエズス様が、マリアさまのために特別のお恵みを与えて、マリアさまが苦しむことができるようにしました。もう少し詳しく言うと、イエズス様のお恵みは、マリアさまをして、イエズス様のために、イエズス様によって、言いかえるとイエズス様のせいで、またイエズス・キリストとともに、苦しむことができるように、お恵みを与えたのです。マリアさまはお恵みがあったからこそ、イエズス様と共に苦しみ、この全世界の罪を贖うためにそれを捧げることができました。
聖ピオ十世教皇は1904年に回勅でこう書いています。
「御子と聖母の生活とは、苦しみを絶え間なく共にし、(…)御子の最期の時が来たとき、イエズスの十字架の傍らには、御子の母マリアが立っていた。マリアは、ただ残酷な光景を眺めるだけではなく、御子が全人類の救いのために捧げられたことを喜び、御子の受難に完全に与った。そして、キリストとマリアの間で、意志と苦難とを共にしたことから、聖母は最もふさわしく、【聖寵に】失われた世界の共同の償う者【coreparatrix】となった。そして、救い主がその死と血によって私たちのために贖われたすべての賜物の分配者(Dispensatrix)となることができた。」« En vertu de la communion de douleurs et de volonté qui l'attachait au Christ, Marie a mérité de devenir la très digne Réparatrice du monde perdu, et en conséquence la Dispensatrice de toutes les grâces que Jésus nous a acquises par sa mort sanglante.» とあります。
つまり、マリアさまは、キリストともに苦しみを捧げることによって、キリストとともにその贖いの功徳を得たということです。
キリストのために苦しむことができるんでしょうか? キリストの苦しみは完全ではないでしょうか?
聖パウロはこう書いています。実は、キリストは私達がキリストのために苦しむことを望んでいる、と。聖パウロの言葉を引用します。「私は今、あなたたちのために受けた苦しみを喜び、そこで、キリストの体である教会のために、私の体をもってキリストの御苦しみの欠けた所を満たそうとする。」(コロサイ1:24)キリストの御苦しみの欠けたところを満たす――それが、キリストが望まれていることです。
こうすることによって、マリアさまはイエズス様とともに苦しみ、そして全世界の苦しみのために、必要な功徳を共に贖うことができました。
功徳というのは一体なんでしょうか?
功徳というのは、聖寵の状態で、つまり大罪を赦されて罪を赦されて、まったく自由に、天主を愛するために、ならかの善意を行ったり、苦しみを耐え忍ぶときに、わたしたちは功徳を積むことができます。この功徳というのは天主と人間との愛の交流・友情関係から生じます。
マリアさまは有限とは言え、イエズス様への深いそして強烈な愛をこめて、まったく自由にすべてをお捧げになりました。そこで、マリアさまの行いや苦しみは、まずマリアさまの聖徳の高さ、それからマリアさまとキリストの一致の深さによって、また主の深いマリアさまへの愛と憐れみと御厚意によって、天主の御心に非常に叶うものであって、最高に価値のあるものとして功徳を得ることができました。ですから、聖ピオ十世のいいかたによると、聖母は、全世界の救いのために、もっとも相応しい価値があるやり方で「デ・コングルオ」のやりかたで、功徳を得たといいます。
では、マリアさまが、キリストとともにわたしたちの罪を贖った、その功徳を得たということは、いったい何を意味するのでしょうか。その意味は、三つあります。
まず第一は、わたしたちの霊的生活にとって非常に大切なことです。これは、マリアさまは、わたしたちの霊的に生みの母となったということです。マリアさまは確かにイエズス様を肉体的に御産みになりました。マリアさまがイエズス様を御産みになったときには、陣痛の苦しみも一切の苦しみもなく、傷もつけずにマリアさまの胎内から奇跡的に御産まれになりました。マリアさまはキリストを御産みになる前も御産みになる時もその御産みになった後も、傷のない童貞でした。
ところが、イエズス・キリストとマリアさまはともに、わたしたちを霊的にお生みになります。それは十字架のもとで、のことでした。イエズス・キリストとマリアさまがともにわたしたちを霊的に超自然の命に生み出そうとするとき、その二人は苦しみました。特にマリアさまは陣痛の苦しみがありました。それが七つの悲しみにあらわれています。この苦しみがあったからこそ、マリアさまは、わたしたちを霊的に生むことができる本当の霊的な母親となることができました。
そのことを確認するかのように、イエズス様は十字架のもとで聖ヨハネを通して、全人類に宣言します。
「おまえの母親だ」と。
そしてマリアさまにはこう言います。
「婦人よ、お前の子を見よ」と。
苦しみのうちに、マリアさまはわたしたちを超自然の命に生み出した本当の母親です。ですからマリアさまは、母親のような方ではなくて、本当の母だといわなければなりません。苦しみの中に、わたしたちを生んでくださいました。
第二はその結果です。もしも、罪のないイエズス・キリストが、聖なる天主であるイエズス・キリストが、苦しみを受けたのならば、また、原罪の汚れのない罪を一切知らないお方がこれほどの苦しみを受けたのならば、実はこの世で苦しみは避けることができない、という事実があります。これが第二のわたしたちに教えることです。
第三に、キリスト教がわたしたちに捧げることができる救い・福音とは、一体なんでしょうか。これはまず、わたしたちが苦しみを避けることができない、ということです。しかし、それは第三の点に行きます。苦しみを避けることができないけれども、イエズス・キリストの十字架によって、イエズス・キリストの十字架だけによって、わたしたちはこの苦しみを救いの手段と変えることができる、天国への道とすることができる、天国への王なる王の黄金の道とすることができる、ということです。それを、マリアさまの悲しみが、わたしたちに教えています。
【4:遷善の決心】
では最後に選善の決心をたてましょう。
第一のエワは、自分の個人的な自由な行動によって、全人類の破滅のために第一のアダムに協力しました。二人で、アダムとエワは罪を犯しました。聖母は、自分のまったく個人的な自由な行動によって、愛をこめて、全人類の罪の贖いに協力しました。
聖ペトロ・ダミアノは、わたしたちにこう言っています。「一人の女性エワを通してこの地上に呪いが来たが、一人の女性マリアによってこの地上の祝福が回復した。」(A curse came upon the earth through a woman; through a woman earth's blessing is restored.) と。
聖アウグスチヌスも同じことを言っています。引用します。「人間を騙すために、一人の女エワを通して毒が人間に差し出された。人間の贖いのために、一人の女マリアを通して救いが人間に差し出された。」(In man's deception, poison was served him through a woman; in his redemption, salvation is presented him through a woman.)と。
ですから、今日、わたしたちの本当の母であるマリアさまに、そして苦しみを受けたマリアさまに、感謝いたしましょう。わたしたちが、聖母を通して超自然の命を受けたということを、感謝いたしましょう。わたしたちはでは、選善の決心として、何をたてたらよいでしょうか。わたしたちも十字架のもとに、マリアさまとともに立たなければなりません。そのために、いったい何が一番良い手段でしょうか。それはミサ聖祭です。ミサ聖祭においてイエズス・キリストの十字架が再現されるとき、マリアさまも霊的にわたしたちとともにおられるからです。
ではマリアさまとともに、わたしたちの十字架と苦しみを主にお捧げすることが出来るお恵みを求めつつ、ミサを捧げましょう。
「私にも御傷を負わせ、御血を流し給える御子の十字架によって私を酔わせ給え。」
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。