アヴェ・マリア・インマクラータ!
愛する兄弟姉妹の皆様、
2015年8月14日、聖イグナチオの霊操による黙想会のシュテーリン神父様の講話の中から、ピックアップして、愛する兄弟姉妹の皆様にご紹介します。
シュテーリン神父様の講話より
私たちの主イエズス・キリストの御受難の黙想は、私たちを聖化する為に最も大切な手段です。全ての聖人たちは、イエズス様の御受難を黙想するのに大変熱心で、そうする事によって聖人となりました。天国に行く道というのは十字架の道で、私たちは日々、十字架を担っていかなければならないからです。十字架の性質というのは、私たちを痛めつける、私たちはそれによって苦しむ、という事です。困難な事があると、私たちは落胆したり、がっかりします。そして一人ぼっちになったり、戦いをしなければならない所を疲れてしまったり、意気消沈してしまいます。でも、十字架に架けられたイエズス様を見ると、私たちには勇気が湧いてきます。その目には、私たちをご覧になる目は愛に満ちています。そしてその数え切れない傷は、私たちの為でした。イエズス様の御傷を黙想するだけで、それを眺めるだけで、私たちに力を与えてくれます。
「イエズス様、御身は私を救う為に、永遠の火から救う為にこれほど苦しんで下さいました。私の負債を全て支払い、私の罪の為にこうやって支払って下さいました。それなのに、私は御身から頂いた小さな十字架を担う事ができないのでしょうか?」
ですから、イエズス様の御受難は頻繁に黙想なさってください。もしもイエズス様の御受難を黙想しないならば、今日立てた決心をそのまま実行する力は頂けないでしょう。
聖イグナチオは私たちに、今からイエズス様の御受難を黙想するように提案します。そして第3部、霊操の第3部、聖イグナチオは、「第3章」と言いますけれども、3部では、190番からその受難の黙想が始まります。
いつものように準備の祈りから黙想を始めて下さい。
イエズス様が苦しんだその場所に、皆さん、御自分を置いて下さい、身を置いて下さい。今晩は皆さん一緒に、イエズス様の苦しんだゲッセマニの園に行きましょう。「ゲッセマニの園」というのは、オリーブ山という、橄欖山のふもとにあって、色んな庭が庭園があったのですけれども、その内の1つが「ゲッセマニの園」です。
ゲッセマニの園は日中は美しいのですけれども、夜は真っ暗で何も見えずに、冷たく物悲しい様子をしています。あたかも動植物も、イエズス様の苦しみを、御受難を見て、目撃しているかのようです。
私たちはでは、望むものを乞いましょう。ここでは、悲しみと憂いと恥じらいを願います。何故かというと、私の罪の為に、主は御受難に赴かれるからです。その一番大切なのは、イエズス様の苦しみと共に苦しむ、イエズス様に同情する、という事です。イエズス様と共に苦しむ、という事です。
最初、私たちが黙想会をする時に、イエズス様は苦しみとか悲しみの涙を求めました。何故かというと、私を愛して下さるイエズス様を悲しませた、罪によって悲しませた、という事を、最初は悲しみました。「イエズス様はそんなに親切で優しいにもかかわらず、私はイエズス様に本当に悪態をつきました。だからもう、そのようにイエズス様を悲しませたくはありません。」という悲しみです。「イエズス様、御身の愛する聖心を悲しませた事を辛く思います。」「聖母よ、御身は悲しみの涙を流しています。何故かというと、この御身の子供である私が、その主人、主であり、王を忘れ去って、それを侮辱したからです。私は御身の涙にそう感動を覚えました。私の主をもはや傷付け、罪を犯す事がないように助けて下さい。」
ここでは、ちょうどベロニカがやったように、「私は何とかイエズス様を、イエズス様に慰めを与えたい。何か、イエズス様に何かしたい。」と思います。
これから色々な御受難の場面を見ますが、その内に6つの点を適用させて下さい、6つの観点から見て下さい。
今晩は2つの場面を提案します。1つは、「イエズス様がゲッセマニの園にて苦悩をする所」そして第2には「イエズス様がゲッセマニの園にて逮捕される所」です。
では、このどんな観点から観想するかというその点を見ていきます。第1はまず、「登場人物を見る」という事です。
では例えば、ゲッセマニについては、11の弟子たちを見ます。何故かというと、ユダはもう既にいなくなっているからです。まずユダは、イスカリオトのユダは、イエズス様を裏切る為にそこを離れて、大司祭の方へ向かいます。イスカリオトのユダの顔を見て下さい、もう破滅へと向かう弟子の顔です。それから大司祭アンナ、カイファの、イエズス様に対する憎しみの顔を見て下さい、ファリザイ人たちの顔を見て下さい。ちょうど悪魔の様な形相をしている彼らです。そしてユダがやって来て、イエズス様を、「もう逮捕できる」という情報を漏らすと、彼らは喜びに踊ります。残酷で、そして礼儀を知らない、粗雑な大司祭たちのしもべ達や兵士たちが、イエズス様を逮捕しようとやって来ます。彼らの顔や態度を見て下さい。
ゲッセマニでは、使徒たちはもう疲れ切ってしまって、何もよく分かっていないようです。11人はイエズス様を見て、「一体何が起こるのだろうか。」と恐れているようです。すると、その間にイエズス様がいらっしゃいます。イエズス様の素晴らしい御姿をご覧ください。今から起こる事が何であるかを、詳しくよく知っています。恐るべきことが起こりつつあるというのに、イエズス様は平安を保ちます。柔和で、謙遜で、そして親切です。そしてまた、悲しくもあります。
第2は、「彼らの言っている事」を聞いて下さい。
この晩に、ファリザイ人や、或いはアンナ、カイファたちが叫んだり、喚いたり、轟々としている態度を聞いて下さい。
使徒たちはもう疲れ果てて、もう、すぐ寝てしまいます。
イエズス様は何て仰るでしょうか?イエズス様の御言葉と、普通の人々の言葉とは、全く天と地の差があります。イエズス様が仰った一言は、全世界の非常に知恵のある人々が書いた、或いは書いた本、或いは言った言葉のものを全て集めた図書館よりも、もっと価値があります。何故なら、天主様の御言葉だからです。イエズス様が何か仰ったとしたら、それは私の為にそう仰って下さっています。良く聞いて下さい、イエズス様はこう私たちに言っています、「私の魂は、死なんばかりに悲しい。私と共に留まって祈れ。」私に、私の心に、イエズス様はそう仰っています。
皆さん、「御聖櫃におられるイエズス様は、私に何の言葉も仰っていない。」と不平を言わないで下さい。イエズス様が福音の中で語った事は、みな私たちに語られた事だからです。イエズス様は今、皆さんに語りかけています。
第3は、「彼らが何をしているか」その「行動」を見て、利益を得て下さい。
イエズス様がなさった行動の1つ1つを辿って下さい。どうやってゲッセマニに歩いて行かれたのか。どうやってこう跪いてお祈りされたのか、また額ずいて、頭を地面に付けてお祈りしていた事か。そして苦しみと悩みのあまり、全身からは血の汗をタラタラと流しておられる様子。
天使が送られて、御父から送られて、カリス、杯をイエズス様の御血を取る為に、受ける為に持っている様子。しかし、このゲッセマニの天使は、イエズス様に何かと言って慰めを与えるわけではありませんでした。ただ杯で血を受け取るだけでした。この杯、このカリスは、天主の御旨のシンボルでした。
「あぁ、聖父よ、もしもできる事なら、この杯を私から遠ざけて下さい。しかし私の意志ではなく、御身の御旨がなされますように。」御父はイエズス様に訴えます、「この杯を飲み干せ。終わりまで飲み干せ。」
ここまでは、今までやった黙想、観想と同じです。この御受難の観想には、第4・第5・第6の3つの点が加わっています。
第4の点です。「イエズス様が人として苦しんだ、或いは苦しむのを望まれた」という事を考えて、私も嘆いて悲しみ、涙する事を始める、そうする事を努める、という事です。できるだけ努めて、嘆いて、悲しみ、涙する、という事はどういう事でしょうか?
皆さんが愛している誰か、皆さんのご両親、皆さんの子供、皆さんのお友達、皆さんの配偶者。そして誰かが、その皆さんが愛しているその人を誰かが取って、取り去ってしまって、そしてその皆さんと、その皆さんが愛している人の間にはガラスが入って、ほんのすぐ前に、その自分の愛している人がいるのですけれども、ガラスがあるのでそこに行く事はできません。
すると、皆さんが愛しているその方が、誰かによって殴られ、そして傷付けられ、髪をむしられ、そして拷問の道具で拷問を受けている、というのを目の当たりにしている。そして地面に投げつけ、叩きつけ、そして起き上がらせて、また叩きつける。そしてこの皆さんの愛している誰かが、もう痛みのあまり、こう苦しんで、嘆き、涙にむせんでいるのを見ている。
もし、そういうのを目前にしたら、もう悲しみのあまり、死に入ってしまうほどの悲しみを覚えます。「何とかして助けたい。」何とかして、こう自分の体が代わりにこう受けても、何とかその人と代わりたい。そして、その自分の愛している人が叩かれるのを見ると、自分が叩かれているかのように痛い。もしも本当にこの人を愛しているのならば、自分があたかもこれを、自分がそれを受けているよりも、その2倍に苦しむのではなのでしょうか?これが、マリア様の苦しみでした。
皆さんこの観想していながら、イエズス様が目の前で悪人どもの手によって、叩かれ、殴られ、蹴られ、もてあそばれ、御血は顔から滴り出て吹きだしていて、皆さんの顔にもかかっている。そういうのをご覧になるのです。そして御受難の史実が、皆さんの目の前で行われて、非常に近くに行われています。どこかで行われた、昔々の、その何かお話ではありません。私の目の前で、それが行われています。それを聞いて、それを感じています。
これが、要点の第4です。もちろん、この第4が何故重要かというと、私たちはともすると、この快楽なイスに座りながら、あたかも映画を見ているような、このきれいな、しかし残酷な場面を、ただ単に眺めているだけ、に終わってしまうかもしれません。しかし今回は、イエズス様に近付いて、イエズス様のそれを、自分でかのように感じているのです。
イエズス様は目を開けて、その苦しみのあまり、痛さを耐えているその眼差しで、皆さんをご覧になっています。イエズス様が何か仰っているのを聞いて下さい、何かこう息絶え絶えに、何か皆さんに「これは、お前の為だ。」と、言っているようではないですか。
そしてその、そんなに近い、間近で見ている御受難が、私たちの心に染み通らなければなりません。そしてこの御受難が、私たちの心を変えなければなりません。
つぎに要点の第5です。
「御神性が隠れている、御神性が自らを隠しておられる」という事を考えて下さい。もちろんイエズス様は真の天主ですから、あっという間に敵を粉々に打ち砕いて、自分は何もない、何も怪我をしない、という事もできたにもかかわらず、それをなさらず、却って、なされるがままに苦しみを受けていた、という事です。これはどういう事を意味するのでしょうか?「御神性が隠れている」
これは、「誰が、こんなに苦しんでいるか」という事を私たちに理解させてくれます。イエズス様の御受難と御死去というのは、他の人々の、どのような人であれ、死と苦難と殉教や死とは、「苦」の次元が違います。全然違うものです。
イエズス様は、「全能」です。もう望めば、そのイエズス様を殺そう、或いは害を与えようとする人々を、あっという間に無に帰す事さえもできます。聖ペトロにイエズス様はそうはっきりと仰います、「ペトロよ、お前は知らないのか、もしも私が聖父に願えば、天の大軍、天使たちを私に送って、一瞬の間に敵たちを滅ぼし尽くしてしまう事ができるという事を知らないのか。」
イエズス様は、「天主」としては苦しむ事はできません。イエズス様は、「人間」として苦しんだのです。何の意味でしょうか?
私たちは人間ですから、普通の人間ですから、もしも苦しむとしたら、それを、「受ける」のみです。もしも誰かが頭をガーンと打てば、私たちはそれを拷問と受けて、その受けた後にそれをジクジクと感じるでしょう。そしてもしもバンバンバンバン打ち続ければ、私たちは気を失ってしまって、気絶してしまって、もう痛みを感じません。私たちの神経はあまり強くないので、あまりにも続ければ、そのまま気絶してしまって、それで終わりです。
でもイエズス様は、最も強い者の、更に強い方でした。イエズス様には原罪がないので、全ては完璧に機能していました。そして天主のペルソナによって、人間性が維持されていました。ですからイエズス様は、ほぼ無限に苦しみを受け続ける事ができました。
もしも誰かが、茨の冠をイエズス様に押し冠らせたとしたら、イエズス様は、「その苦しみを受ける」という事に同意しなければなりませんでした。天主として、「彼らがそういう行動をする事」を許さなければなりませんでした。そしてその恐るべき御受難と苦しみを、最初から最後まで、全ての神経の最も敏感な所で、それを最高の程度で感じなければなりませんでした。
イエズス様は、気絶する事もなければ、気を失う事もなければ、最初から最後まで、ずっと意識を最高の内に高めて、それを苦しんでいました。そしてその1つ1つが、どれほど恐ろしい、どれほど痛みを与えるか、という事を前もってよく知っていました。人間本性が、天主のペルソナによって支えられているので、イエズス様の苦しみは、無限に苦しむ事ができる苦しみでした。
イエズス様が鞭打たれた時。強いローマ兵士が、力の強い筋肉隆々な男が、5、6回私たちの肉体に鞭を打てば、私たちは、あまりの痛さに死んでしまう事でしょう。これは科学的に証明されているのですけれども、イエズス様の御身体には、170回以上の鞭が打たれました。科学的な証拠とはどういう事でしょうか?トリノの聖骸布が、イエズス様の身体を包んで、そこに傷が残っています。現代科学の、最も崇高な科学技術の機械で分析してみると、この聖骸布が包んだ男の身体が、一体何回鞭で打たれたか、という事も正確に数える事ができるからです。
普通の人だったら5、6回打たれただけで、痛さのあまり死んでしまうのに、イエズス様は、170回打ち続けられた、その打ち続けられた後の皮膚は一体、どのようにボコボコになっていた事でしょうか。
もしも皆さんが、茨の冠の、茨のこのような1つでも頭に刺されたら、あまりの痛さにもう死んでしまう事でしょう。イエズス様は、1本のみならず、たくさんの茨が付いた冠を頭に押し冠らせられて、それをしかもギュウギュウと、それを叩かれて付けられました。
皆さんがもしも、釘を腕に刺し貫かれたら、おそらく1分も生きていられないでしょう。
これは1つ、2つではなくて、みな全てまとめて、イエズス様は苦しまれました。信じられないほどの苦しみです。これは、イエズス様が何かするとしたら、それは最後の極みまでなさるのです。
そこで、第6の要点にいきます。
そしてイエズス様が、これら全てを、この全ての苦しみの極みを、私の為に、私の罪の為に全て受けた、という事を黙想して下さい。「私は、主の為に何を苦しまなければならないか。」を是非考えて下さい。ここでよく注意して下さい。主は、「私たち」の罪の為にとは書いてありません。これは、全ての苦しみを、「私」の為に、「私の罪」の為に、受けた。
イエズス様の御受難をシエナのカタリナが黙想している時に、イエズス様がシエナのカタリナに現れて、こう仰いました、「おぉ、娘よ。例え全世界でたったお前1人しかいなかったとしても、私は、私の受けた全ての苦しみを、お前1人の為だけに受けよう、受けたい。」
そして、この6つの点を考慮しながら、色んな場面を黙想して下さい。
ご自宅で、イエズス様の御受難を黙想して下さい。
第1は、マテオ26章36節から46節から、それから、ルカの22章29節から46節です。
御受難の具体的な状況について、皆さんもしかしたらご存知ないかもしれませんけれども、申し上げます。ゲッセマニでは何が起こったのでしょうか?
イエズス様はゲッセマニに行って、そして震えて、そして祈ります。この「苦悩」とは、何を苦悩したのでしょうか?イエズス様は2つのビジョンを見ました。
まず最初は、イエズス様がお1人で祈っていると、この世の全ての罪を一緒に見ました。もしも皆さんが、この汚物を、大海の様な汚物を、ものすごい量を皆さんが飲み干さなければいけなかったとしたら、イエズス様は、1つの罪を見て、それ以上の嫌悪感を抱きます。私たち1人が、普通10万回の、或いは20万回の罪を犯すと言われています。その20万回汚物を飲まされ、それはあなたの、皆さんの罪です。そして私の罪です。私たちのその罪です。そしてそれが、全世界の人々の罪。そしてこの世の始めから終わりまでの、ありとあらゆる恐ろしい罪。そしてその恐るべき、嫌悪すべきその罪の大群が、イエズス様を押しつぶしたのです。
この時イエズス様がご覧になった罪のビジョンというのは、こう私たちの想像をはるかに超えるものです。「聖父よ、もしもできるならば、このカリスを私から遠ざけて下さい。もうこれは、もうあまりにも多すぎます。」1つの罪の恐ろしさでも、それだけでもひどいのに、何億何兆の多くの罪が襲って来ます。しかし、イエズス様は言葉を続けて、「私の思いではなく意志ではなく、御身の御旨がなされますように。」
そして唯一、人生の中でただ1回、イエズス様は慰めを天主御父に求めます。しかしイエズス様には与えられませんでした。何故かというと、その慰めを求めて、弟子たちの方に行くのですけれども、彼らは寝ていたからです。そして弟子たちをこう起こして、「おぉ、寝ていたのか。起きて、目覚めて祈れ。霊は起きているが、肉は弱い。」そしてまた、ゲッセマニの園での祈りを続けます。そして、第2のビジョンを見ます。
イエズス様が支払わなければならない罪について見ます。つまり、イエズス様が苦しまなければならない全ての詳細の内容を、ビジョンで見ます。肉体的な苦しみだけではありませんでした。釘付け、或いは茨の冠、或いは鞭打ち、もちろんそれはそうです。その詳しい、細かい内容も、イエズス様はご覧になります。そして同時にイエズス様は、捨てられた、天主から捨てられた、という事も感じます。霊魂の苦しみも見ます。
イエズス・キリストがその時に、私たちの為に、霊的にどれほどの苦しみを受けたのか、という事は私たちは想像ができません。イエズス様が肉体上苦しんだのは、私たちは黙想する事ができます。しかし、肉体上苦しんだ全てを合わせても、イエズス様が苦しんだ1%にもなりません。イエズス様の苦悩、その苦しみはあまりにも大きなものだったので、その苦悩のあまり、御血が肉を通して、皮膚を通して、タラタラと滴り出てきました。
もしも何か突然、恐ろしい何か恐れに捕われたとしたら、冷たい汗が出てきます。恐れるあまり、冷たい汗が出るのです、冷や汗が出ます。もっと恐れると、皮膚のこの毛穴がもっと開いて、もしも更にもっと恐ろしい事があると、あまりの恐ろしさに、心臓がおかしくなってしまって、そして気絶してしまいます。イエズス様は、そのような気絶はありませんでした。そして、あまりにも恐れに、毛穴が開いて開いて開いて、遂には、御血さえも流れ出てしまいました。
「このカリスを飲み干せ。」
そして、その時にユダが、イスカリオトのユダがやって来ます。この第2の場面、イエズス様の逮捕はこの続きです、マテオとルカの続きです。
イエズス様が逮捕された、捕まえられた、捕えられた、というのは、非常にユニークな、特別、特徴のある事件でした。その裏切られたその「やり方」です。イスカリオトのユダは、「あ、あそこだ!あそこにいるから逮捕しろ!」と言う事もできました。でもユダは、「あれだ!」とは言わずに、別の方法で、「あれを捕まえよ」というサインを出します。それは「接吻」で、接吻をする事によって、「これを捕まえよ」と言ったのです。「愛情のしるし」が、「裏切りのしるし」となりました。そしてこの最も恐るべき裏切りの真っ最中に、イエズス様は、ユダを回心させようと努力します。でもユダはそれを望みませんでした。ユダは回心しようとせず、自殺します。
そのイエズス様が捕われ逮捕された時に、武装した筋肉隆々の兵士たちが200名以上、武器を持って、武装してやって来ました。そしてイエズス様を捕まえるのです。イエズス様は言います、「誰を探しているのか?」「ナザレトのイエズスを探している。」「私だ。」その言葉を聞いて、兵士たちは皆倒れてしまいます。イエズス様が御自分が天主である、という事を見せると、もう彼らは何もする事ができずに倒れてしまうばかりです。イエズス様はこの状況を支配している主でした。イエズス様が同意しなければ何も起こりません。でもイエズス様は、自分の力を見せつける為ではなく、私の為に苦しむ為にやって来ました。そこでイエズス様は、逮捕されるままに。
別の事が起こります。ペトロは何も理解しませんでした。そしてイエズス様を何とかして守ろうと、剣を取って、剣で斬り付けます。そしてその大司祭のしもべであるマルコスを殺そうとして、こう頭から剣をオオッと下ろすのですけれども、しもべは顔をちょっと、体をよけるので、耳をスパッと切り落とします。イエズス様は、「おぉ、ペトロや。あぁ、やったなあ、お前俺を守ってくれたのか。」と、言う事もできたかもしれません。でもイエズス様は、ペトロを叱ります、「私は、聖父の与えた杯を飲み干さなければならない。」そしてイエズス様は、その切り落ちたそのしもべの耳を取って、その自分の敵の耳を奇跡的に治します。
イエズス様の御受難を、詳細に詳しく見ていくと、私たちが今まで考えてもみなかった事が分かります。そして色んな場面で、御受難の場面で、この6つの要点を1つ1つ適用させると、その1つ1つが私たちの心深くに、大きな感動を呼び起こします。そしてこの黙想会のある時に、このイグナチオのやっている通りに、この6つの要点を1つ1つ適用させて黙想した事があります。そしてその時に分かった事は、「あぁ、イエズス様、私は御身に、『御身を愛し奉る』と、何度言った事でしょうか。しかし実際は、本当は愛していなかったという事が分かりました。御身が私の為にこれほどまでやって下さったという事を、私は理解できていませんでした。私こそが、御身の苦しみの原因だったという事を理解できていませんでした。御身を何とかしてお慰めして、何とかして近づけさせて、何とか御身と共にいたい、という事さえも考えませんでした。過去、御身の教えて下さった真理や、御身の教えは、とっても退屈なものでしかすぎませんでした。イエズス様、御身の聖なる御受難と御死去を以って私の心を変えて下さい。御身の聖心に燃える愛の炎で、私を燃え尽くして下さい。」
晩、眠りに就く時に、このイエズス様のゲッセマニの園での苦しみ、或いはまた翌日の朝ミサに与りながら、イエズス様が捕えられた事、逮捕された時の事、裏切られた時の事などを黙想して下さい。
愛する兄弟姉妹の皆様、
2015年8月14日、聖イグナチオの霊操による黙想会のシュテーリン神父様の講話の中から、ピックアップして、愛する兄弟姉妹の皆様にご紹介します。
シュテーリン神父様の講話より
私たちの主イエズス・キリストの御受難の黙想は、私たちを聖化する為に最も大切な手段です。全ての聖人たちは、イエズス様の御受難を黙想するのに大変熱心で、そうする事によって聖人となりました。天国に行く道というのは十字架の道で、私たちは日々、十字架を担っていかなければならないからです。十字架の性質というのは、私たちを痛めつける、私たちはそれによって苦しむ、という事です。困難な事があると、私たちは落胆したり、がっかりします。そして一人ぼっちになったり、戦いをしなければならない所を疲れてしまったり、意気消沈してしまいます。でも、十字架に架けられたイエズス様を見ると、私たちには勇気が湧いてきます。その目には、私たちをご覧になる目は愛に満ちています。そしてその数え切れない傷は、私たちの為でした。イエズス様の御傷を黙想するだけで、それを眺めるだけで、私たちに力を与えてくれます。
「イエズス様、御身は私を救う為に、永遠の火から救う為にこれほど苦しんで下さいました。私の負債を全て支払い、私の罪の為にこうやって支払って下さいました。それなのに、私は御身から頂いた小さな十字架を担う事ができないのでしょうか?」
ですから、イエズス様の御受難は頻繁に黙想なさってください。もしもイエズス様の御受難を黙想しないならば、今日立てた決心をそのまま実行する力は頂けないでしょう。
聖イグナチオは私たちに、今からイエズス様の御受難を黙想するように提案します。そして第3部、霊操の第3部、聖イグナチオは、「第3章」と言いますけれども、3部では、190番からその受難の黙想が始まります。
いつものように準備の祈りから黙想を始めて下さい。
イエズス様が苦しんだその場所に、皆さん、御自分を置いて下さい、身を置いて下さい。今晩は皆さん一緒に、イエズス様の苦しんだゲッセマニの園に行きましょう。「ゲッセマニの園」というのは、オリーブ山という、橄欖山のふもとにあって、色んな庭が庭園があったのですけれども、その内の1つが「ゲッセマニの園」です。
ゲッセマニの園は日中は美しいのですけれども、夜は真っ暗で何も見えずに、冷たく物悲しい様子をしています。あたかも動植物も、イエズス様の苦しみを、御受難を見て、目撃しているかのようです。
私たちはでは、望むものを乞いましょう。ここでは、悲しみと憂いと恥じらいを願います。何故かというと、私の罪の為に、主は御受難に赴かれるからです。その一番大切なのは、イエズス様の苦しみと共に苦しむ、イエズス様に同情する、という事です。イエズス様と共に苦しむ、という事です。
最初、私たちが黙想会をする時に、イエズス様は苦しみとか悲しみの涙を求めました。何故かというと、私を愛して下さるイエズス様を悲しませた、罪によって悲しませた、という事を、最初は悲しみました。「イエズス様はそんなに親切で優しいにもかかわらず、私はイエズス様に本当に悪態をつきました。だからもう、そのようにイエズス様を悲しませたくはありません。」という悲しみです。「イエズス様、御身の愛する聖心を悲しませた事を辛く思います。」「聖母よ、御身は悲しみの涙を流しています。何故かというと、この御身の子供である私が、その主人、主であり、王を忘れ去って、それを侮辱したからです。私は御身の涙にそう感動を覚えました。私の主をもはや傷付け、罪を犯す事がないように助けて下さい。」
ここでは、ちょうどベロニカがやったように、「私は何とかイエズス様を、イエズス様に慰めを与えたい。何か、イエズス様に何かしたい。」と思います。
これから色々な御受難の場面を見ますが、その内に6つの点を適用させて下さい、6つの観点から見て下さい。
今晩は2つの場面を提案します。1つは、「イエズス様がゲッセマニの園にて苦悩をする所」そして第2には「イエズス様がゲッセマニの園にて逮捕される所」です。
では、このどんな観点から観想するかというその点を見ていきます。第1はまず、「登場人物を見る」という事です。
では例えば、ゲッセマニについては、11の弟子たちを見ます。何故かというと、ユダはもう既にいなくなっているからです。まずユダは、イスカリオトのユダは、イエズス様を裏切る為にそこを離れて、大司祭の方へ向かいます。イスカリオトのユダの顔を見て下さい、もう破滅へと向かう弟子の顔です。それから大司祭アンナ、カイファの、イエズス様に対する憎しみの顔を見て下さい、ファリザイ人たちの顔を見て下さい。ちょうど悪魔の様な形相をしている彼らです。そしてユダがやって来て、イエズス様を、「もう逮捕できる」という情報を漏らすと、彼らは喜びに踊ります。残酷で、そして礼儀を知らない、粗雑な大司祭たちのしもべ達や兵士たちが、イエズス様を逮捕しようとやって来ます。彼らの顔や態度を見て下さい。
ゲッセマニでは、使徒たちはもう疲れ切ってしまって、何もよく分かっていないようです。11人はイエズス様を見て、「一体何が起こるのだろうか。」と恐れているようです。すると、その間にイエズス様がいらっしゃいます。イエズス様の素晴らしい御姿をご覧ください。今から起こる事が何であるかを、詳しくよく知っています。恐るべきことが起こりつつあるというのに、イエズス様は平安を保ちます。柔和で、謙遜で、そして親切です。そしてまた、悲しくもあります。
第2は、「彼らの言っている事」を聞いて下さい。
この晩に、ファリザイ人や、或いはアンナ、カイファたちが叫んだり、喚いたり、轟々としている態度を聞いて下さい。
使徒たちはもう疲れ果てて、もう、すぐ寝てしまいます。
イエズス様は何て仰るでしょうか?イエズス様の御言葉と、普通の人々の言葉とは、全く天と地の差があります。イエズス様が仰った一言は、全世界の非常に知恵のある人々が書いた、或いは書いた本、或いは言った言葉のものを全て集めた図書館よりも、もっと価値があります。何故なら、天主様の御言葉だからです。イエズス様が何か仰ったとしたら、それは私の為にそう仰って下さっています。良く聞いて下さい、イエズス様はこう私たちに言っています、「私の魂は、死なんばかりに悲しい。私と共に留まって祈れ。」私に、私の心に、イエズス様はそう仰っています。
皆さん、「御聖櫃におられるイエズス様は、私に何の言葉も仰っていない。」と不平を言わないで下さい。イエズス様が福音の中で語った事は、みな私たちに語られた事だからです。イエズス様は今、皆さんに語りかけています。
第3は、「彼らが何をしているか」その「行動」を見て、利益を得て下さい。
イエズス様がなさった行動の1つ1つを辿って下さい。どうやってゲッセマニに歩いて行かれたのか。どうやってこう跪いてお祈りされたのか、また額ずいて、頭を地面に付けてお祈りしていた事か。そして苦しみと悩みのあまり、全身からは血の汗をタラタラと流しておられる様子。
天使が送られて、御父から送られて、カリス、杯をイエズス様の御血を取る為に、受ける為に持っている様子。しかし、このゲッセマニの天使は、イエズス様に何かと言って慰めを与えるわけではありませんでした。ただ杯で血を受け取るだけでした。この杯、このカリスは、天主の御旨のシンボルでした。
「あぁ、聖父よ、もしもできる事なら、この杯を私から遠ざけて下さい。しかし私の意志ではなく、御身の御旨がなされますように。」御父はイエズス様に訴えます、「この杯を飲み干せ。終わりまで飲み干せ。」
ここまでは、今までやった黙想、観想と同じです。この御受難の観想には、第4・第5・第6の3つの点が加わっています。
第4の点です。「イエズス様が人として苦しんだ、或いは苦しむのを望まれた」という事を考えて、私も嘆いて悲しみ、涙する事を始める、そうする事を努める、という事です。できるだけ努めて、嘆いて、悲しみ、涙する、という事はどういう事でしょうか?
皆さんが愛している誰か、皆さんのご両親、皆さんの子供、皆さんのお友達、皆さんの配偶者。そして誰かが、その皆さんが愛しているその人を誰かが取って、取り去ってしまって、そしてその皆さんと、その皆さんが愛している人の間にはガラスが入って、ほんのすぐ前に、その自分の愛している人がいるのですけれども、ガラスがあるのでそこに行く事はできません。
すると、皆さんが愛しているその方が、誰かによって殴られ、そして傷付けられ、髪をむしられ、そして拷問の道具で拷問を受けている、というのを目の当たりにしている。そして地面に投げつけ、叩きつけ、そして起き上がらせて、また叩きつける。そしてこの皆さんの愛している誰かが、もう痛みのあまり、こう苦しんで、嘆き、涙にむせんでいるのを見ている。
もし、そういうのを目前にしたら、もう悲しみのあまり、死に入ってしまうほどの悲しみを覚えます。「何とかして助けたい。」何とかして、こう自分の体が代わりにこう受けても、何とかその人と代わりたい。そして、その自分の愛している人が叩かれるのを見ると、自分が叩かれているかのように痛い。もしも本当にこの人を愛しているのならば、自分があたかもこれを、自分がそれを受けているよりも、その2倍に苦しむのではなのでしょうか?これが、マリア様の苦しみでした。
皆さんこの観想していながら、イエズス様が目の前で悪人どもの手によって、叩かれ、殴られ、蹴られ、もてあそばれ、御血は顔から滴り出て吹きだしていて、皆さんの顔にもかかっている。そういうのをご覧になるのです。そして御受難の史実が、皆さんの目の前で行われて、非常に近くに行われています。どこかで行われた、昔々の、その何かお話ではありません。私の目の前で、それが行われています。それを聞いて、それを感じています。
これが、要点の第4です。もちろん、この第4が何故重要かというと、私たちはともすると、この快楽なイスに座りながら、あたかも映画を見ているような、このきれいな、しかし残酷な場面を、ただ単に眺めているだけ、に終わってしまうかもしれません。しかし今回は、イエズス様に近付いて、イエズス様のそれを、自分でかのように感じているのです。
イエズス様は目を開けて、その苦しみのあまり、痛さを耐えているその眼差しで、皆さんをご覧になっています。イエズス様が何か仰っているのを聞いて下さい、何かこう息絶え絶えに、何か皆さんに「これは、お前の為だ。」と、言っているようではないですか。
そしてその、そんなに近い、間近で見ている御受難が、私たちの心に染み通らなければなりません。そしてこの御受難が、私たちの心を変えなければなりません。
つぎに要点の第5です。
「御神性が隠れている、御神性が自らを隠しておられる」という事を考えて下さい。もちろんイエズス様は真の天主ですから、あっという間に敵を粉々に打ち砕いて、自分は何もない、何も怪我をしない、という事もできたにもかかわらず、それをなさらず、却って、なされるがままに苦しみを受けていた、という事です。これはどういう事を意味するのでしょうか?「御神性が隠れている」
これは、「誰が、こんなに苦しんでいるか」という事を私たちに理解させてくれます。イエズス様の御受難と御死去というのは、他の人々の、どのような人であれ、死と苦難と殉教や死とは、「苦」の次元が違います。全然違うものです。
イエズス様は、「全能」です。もう望めば、そのイエズス様を殺そう、或いは害を与えようとする人々を、あっという間に無に帰す事さえもできます。聖ペトロにイエズス様はそうはっきりと仰います、「ペトロよ、お前は知らないのか、もしも私が聖父に願えば、天の大軍、天使たちを私に送って、一瞬の間に敵たちを滅ぼし尽くしてしまう事ができるという事を知らないのか。」
イエズス様は、「天主」としては苦しむ事はできません。イエズス様は、「人間」として苦しんだのです。何の意味でしょうか?
私たちは人間ですから、普通の人間ですから、もしも苦しむとしたら、それを、「受ける」のみです。もしも誰かが頭をガーンと打てば、私たちはそれを拷問と受けて、その受けた後にそれをジクジクと感じるでしょう。そしてもしもバンバンバンバン打ち続ければ、私たちは気を失ってしまって、気絶してしまって、もう痛みを感じません。私たちの神経はあまり強くないので、あまりにも続ければ、そのまま気絶してしまって、それで終わりです。
でもイエズス様は、最も強い者の、更に強い方でした。イエズス様には原罪がないので、全ては完璧に機能していました。そして天主のペルソナによって、人間性が維持されていました。ですからイエズス様は、ほぼ無限に苦しみを受け続ける事ができました。
もしも誰かが、茨の冠をイエズス様に押し冠らせたとしたら、イエズス様は、「その苦しみを受ける」という事に同意しなければなりませんでした。天主として、「彼らがそういう行動をする事」を許さなければなりませんでした。そしてその恐るべき御受難と苦しみを、最初から最後まで、全ての神経の最も敏感な所で、それを最高の程度で感じなければなりませんでした。
イエズス様は、気絶する事もなければ、気を失う事もなければ、最初から最後まで、ずっと意識を最高の内に高めて、それを苦しんでいました。そしてその1つ1つが、どれほど恐ろしい、どれほど痛みを与えるか、という事を前もってよく知っていました。人間本性が、天主のペルソナによって支えられているので、イエズス様の苦しみは、無限に苦しむ事ができる苦しみでした。
イエズス様が鞭打たれた時。強いローマ兵士が、力の強い筋肉隆々な男が、5、6回私たちの肉体に鞭を打てば、私たちは、あまりの痛さに死んでしまう事でしょう。これは科学的に証明されているのですけれども、イエズス様の御身体には、170回以上の鞭が打たれました。科学的な証拠とはどういう事でしょうか?トリノの聖骸布が、イエズス様の身体を包んで、そこに傷が残っています。現代科学の、最も崇高な科学技術の機械で分析してみると、この聖骸布が包んだ男の身体が、一体何回鞭で打たれたか、という事も正確に数える事ができるからです。
普通の人だったら5、6回打たれただけで、痛さのあまり死んでしまうのに、イエズス様は、170回打ち続けられた、その打ち続けられた後の皮膚は一体、どのようにボコボコになっていた事でしょうか。
もしも皆さんが、茨の冠の、茨のこのような1つでも頭に刺されたら、あまりの痛さにもう死んでしまう事でしょう。イエズス様は、1本のみならず、たくさんの茨が付いた冠を頭に押し冠らせられて、それをしかもギュウギュウと、それを叩かれて付けられました。
皆さんがもしも、釘を腕に刺し貫かれたら、おそらく1分も生きていられないでしょう。
これは1つ、2つではなくて、みな全てまとめて、イエズス様は苦しまれました。信じられないほどの苦しみです。これは、イエズス様が何かするとしたら、それは最後の極みまでなさるのです。
そこで、第6の要点にいきます。
そしてイエズス様が、これら全てを、この全ての苦しみの極みを、私の為に、私の罪の為に全て受けた、という事を黙想して下さい。「私は、主の為に何を苦しまなければならないか。」を是非考えて下さい。ここでよく注意して下さい。主は、「私たち」の罪の為にとは書いてありません。これは、全ての苦しみを、「私」の為に、「私の罪」の為に、受けた。
イエズス様の御受難をシエナのカタリナが黙想している時に、イエズス様がシエナのカタリナに現れて、こう仰いました、「おぉ、娘よ。例え全世界でたったお前1人しかいなかったとしても、私は、私の受けた全ての苦しみを、お前1人の為だけに受けよう、受けたい。」
そして、この6つの点を考慮しながら、色んな場面を黙想して下さい。
ご自宅で、イエズス様の御受難を黙想して下さい。
第1は、マテオ26章36節から46節から、それから、ルカの22章29節から46節です。
御受難の具体的な状況について、皆さんもしかしたらご存知ないかもしれませんけれども、申し上げます。ゲッセマニでは何が起こったのでしょうか?
イエズス様はゲッセマニに行って、そして震えて、そして祈ります。この「苦悩」とは、何を苦悩したのでしょうか?イエズス様は2つのビジョンを見ました。
まず最初は、イエズス様がお1人で祈っていると、この世の全ての罪を一緒に見ました。もしも皆さんが、この汚物を、大海の様な汚物を、ものすごい量を皆さんが飲み干さなければいけなかったとしたら、イエズス様は、1つの罪を見て、それ以上の嫌悪感を抱きます。私たち1人が、普通10万回の、或いは20万回の罪を犯すと言われています。その20万回汚物を飲まされ、それはあなたの、皆さんの罪です。そして私の罪です。私たちのその罪です。そしてそれが、全世界の人々の罪。そしてこの世の始めから終わりまでの、ありとあらゆる恐ろしい罪。そしてその恐るべき、嫌悪すべきその罪の大群が、イエズス様を押しつぶしたのです。
この時イエズス様がご覧になった罪のビジョンというのは、こう私たちの想像をはるかに超えるものです。「聖父よ、もしもできるならば、このカリスを私から遠ざけて下さい。もうこれは、もうあまりにも多すぎます。」1つの罪の恐ろしさでも、それだけでもひどいのに、何億何兆の多くの罪が襲って来ます。しかし、イエズス様は言葉を続けて、「私の思いではなく意志ではなく、御身の御旨がなされますように。」
そして唯一、人生の中でただ1回、イエズス様は慰めを天主御父に求めます。しかしイエズス様には与えられませんでした。何故かというと、その慰めを求めて、弟子たちの方に行くのですけれども、彼らは寝ていたからです。そして弟子たちをこう起こして、「おぉ、寝ていたのか。起きて、目覚めて祈れ。霊は起きているが、肉は弱い。」そしてまた、ゲッセマニの園での祈りを続けます。そして、第2のビジョンを見ます。
イエズス様が支払わなければならない罪について見ます。つまり、イエズス様が苦しまなければならない全ての詳細の内容を、ビジョンで見ます。肉体的な苦しみだけではありませんでした。釘付け、或いは茨の冠、或いは鞭打ち、もちろんそれはそうです。その詳しい、細かい内容も、イエズス様はご覧になります。そして同時にイエズス様は、捨てられた、天主から捨てられた、という事も感じます。霊魂の苦しみも見ます。
イエズス・キリストがその時に、私たちの為に、霊的にどれほどの苦しみを受けたのか、という事は私たちは想像ができません。イエズス様が肉体上苦しんだのは、私たちは黙想する事ができます。しかし、肉体上苦しんだ全てを合わせても、イエズス様が苦しんだ1%にもなりません。イエズス様の苦悩、その苦しみはあまりにも大きなものだったので、その苦悩のあまり、御血が肉を通して、皮膚を通して、タラタラと滴り出てきました。
もしも何か突然、恐ろしい何か恐れに捕われたとしたら、冷たい汗が出てきます。恐れるあまり、冷たい汗が出るのです、冷や汗が出ます。もっと恐れると、皮膚のこの毛穴がもっと開いて、もしも更にもっと恐ろしい事があると、あまりの恐ろしさに、心臓がおかしくなってしまって、そして気絶してしまいます。イエズス様は、そのような気絶はありませんでした。そして、あまりにも恐れに、毛穴が開いて開いて開いて、遂には、御血さえも流れ出てしまいました。
「このカリスを飲み干せ。」
そして、その時にユダが、イスカリオトのユダがやって来ます。この第2の場面、イエズス様の逮捕はこの続きです、マテオとルカの続きです。
イエズス様が逮捕された、捕まえられた、捕えられた、というのは、非常にユニークな、特別、特徴のある事件でした。その裏切られたその「やり方」です。イスカリオトのユダは、「あ、あそこだ!あそこにいるから逮捕しろ!」と言う事もできました。でもユダは、「あれだ!」とは言わずに、別の方法で、「あれを捕まえよ」というサインを出します。それは「接吻」で、接吻をする事によって、「これを捕まえよ」と言ったのです。「愛情のしるし」が、「裏切りのしるし」となりました。そしてこの最も恐るべき裏切りの真っ最中に、イエズス様は、ユダを回心させようと努力します。でもユダはそれを望みませんでした。ユダは回心しようとせず、自殺します。
そのイエズス様が捕われ逮捕された時に、武装した筋肉隆々の兵士たちが200名以上、武器を持って、武装してやって来ました。そしてイエズス様を捕まえるのです。イエズス様は言います、「誰を探しているのか?」「ナザレトのイエズスを探している。」「私だ。」その言葉を聞いて、兵士たちは皆倒れてしまいます。イエズス様が御自分が天主である、という事を見せると、もう彼らは何もする事ができずに倒れてしまうばかりです。イエズス様はこの状況を支配している主でした。イエズス様が同意しなければ何も起こりません。でもイエズス様は、自分の力を見せつける為ではなく、私の為に苦しむ為にやって来ました。そこでイエズス様は、逮捕されるままに。
別の事が起こります。ペトロは何も理解しませんでした。そしてイエズス様を何とかして守ろうと、剣を取って、剣で斬り付けます。そしてその大司祭のしもべであるマルコスを殺そうとして、こう頭から剣をオオッと下ろすのですけれども、しもべは顔をちょっと、体をよけるので、耳をスパッと切り落とします。イエズス様は、「おぉ、ペトロや。あぁ、やったなあ、お前俺を守ってくれたのか。」と、言う事もできたかもしれません。でもイエズス様は、ペトロを叱ります、「私は、聖父の与えた杯を飲み干さなければならない。」そしてイエズス様は、その切り落ちたそのしもべの耳を取って、その自分の敵の耳を奇跡的に治します。
イエズス様の御受難を、詳細に詳しく見ていくと、私たちが今まで考えてもみなかった事が分かります。そして色んな場面で、御受難の場面で、この6つの要点を1つ1つ適用させると、その1つ1つが私たちの心深くに、大きな感動を呼び起こします。そしてこの黙想会のある時に、このイグナチオのやっている通りに、この6つの要点を1つ1つ適用させて黙想した事があります。そしてその時に分かった事は、「あぁ、イエズス様、私は御身に、『御身を愛し奉る』と、何度言った事でしょうか。しかし実際は、本当は愛していなかったという事が分かりました。御身が私の為にこれほどまでやって下さったという事を、私は理解できていませんでした。私こそが、御身の苦しみの原因だったという事を理解できていませんでした。御身を何とかしてお慰めして、何とかして近づけさせて、何とか御身と共にいたい、という事さえも考えませんでした。過去、御身の教えて下さった真理や、御身の教えは、とっても退屈なものでしかすぎませんでした。イエズス様、御身の聖なる御受難と御死去を以って私の心を変えて下さい。御身の聖心に燃える愛の炎で、私を燃え尽くして下さい。」
晩、眠りに就く時に、このイエズス様のゲッセマニの園での苦しみ、或いはまた翌日の朝ミサに与りながら、イエズス様が捕えられた事、逮捕された時の事、裏切られた時の事などを黙想して下さい。