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「主の御受難とミサ聖祭」ー聖イグナチオによる6つの観点からの黙想(その2)ーシュテーリン神父様

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アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 四旬節もますます深まっています。シュテーリン神父様のなさった講話に従って、「主の御受難」という非常に大切な事を黙想するために、私たちは「ミサ聖祭」に目を向けましょう。

 イエズス様が苦しんだ場所に自分の身を置いて下さい。私たちは十字架の元に行きましょう。 私たちが望むものを乞い求めましょう。私の罪の為に、主は御受難に赴かれるので、悲しみと憂いと恥じらいを願いましょう。イエズス様の苦しみと共に苦しむ恵みを求めましょう。ベロニカのように、ファチマの子供達のように、「私は何とかイエズス様を、イエズス様に慰めを与えたい。何か、イエズス様に何かしたい」と思いましょう。

聖イグナチオは、イエズス様の御受難の色々な場面を6つの観点から黙想するように求めています。ところで、ミサ聖祭は、カルワリオの犠牲と全く同一です。イエズス様は、私たちの霊魂の為、霊魂の救いの為に、この犠牲を捧げられました。
ミサについても、6つの観点から黙想する事ができます。

第一に見ることです。皆さんは、ミサ聖祭で「司祭」を見ます。しかし表面的な人間の姿を見ないで下さい。、そうではなくて、この人間が代表している最高の大司祭であるイエズス・キリストを、その中に認めて下さい。
信仰の目を開くと、祭壇の周りに、多くの他の人々も見出します。祭壇はカルワリオです。私たちの主の十字架の下に立つのは「聖母」です。マリア様は、ミサのその度ごとに現存しています。十字架の下に立ち留まります。聖母マリアは、私たち全てを、ご自分のマントの中に隠してくれます。ご自分の愛する子供たちである私たちに、イエズス様の全ての傷を見せてくれます。私たちは、悲しみに満ちたマリア様と共にミサに与りましょう。いつもマリア様と共に、イエズス様の全ての傷を黙想しましょう。
マリア様は、この1つの1つの傷の深い意味を、これらの傷が一体どこで、どうやって、どういう理由で付けられたか、という事を深く説明してくれるでしょう。
もしもマリア様のこの目をご覧になり、そしてマリア様からの鞭打ちの説明を聞くならば、もう私たちは、「肉における罪を犯そう」という気にはならないでしょう。
カルワリオには、目には見えませんでしたが、全ての「天使たち」がいました。よく芸術家たちが、画家たちが、カルワリオの様子を描写して描いていますが、非常にしばしば、天使たちがそのイエズス様の御手や御足の下にカリスを持って、御血を受け止めているのが分かります。ミサに与りながら、「ミサの周りに天の天使たちの大群」を見て下さい。ミサというのは、この司祭と侍者と、そして数名の人が後ろに座って見ているだけのものではありません。ミサ聖祭とは、時と空間を超えて続けられるカルワリオの犠牲です。



第2は、彼らが言っている「言葉」を聞いて下さい。
ミサの中の多くの祈りは、マリア様の言葉として理解する事ができます。マリア様が、御子イエズス様の御受難を黙想する。そのマリア様の子供である私たちがカルワリオにいるのをご覧になって、「おお、子らよ」という言葉、また、十字架にかかるイエズス様の優しい御言葉を私たちは聞くでしょう。
特に司祭が、御聖体変化の、聖変化の言葉を発する時に、イエズス様の言葉としてはっきり聞くでしょう。司祭が聖変化の言葉を発する時に、天主様がこの全世界を創った時よりも更に偉大な奇跡が起こります。単にパンを御体に変え、ブドウ酒を御血に変えるだけではありません。そればかりでなく、この聖変化の言葉によって、司祭は、イエズス・キリストのカルワリオの生贄をもう一度再現させ、その御傷をもう一度現存させるからです。

第3で、「何をしているか」を見て下さい。
司祭が、ホスチアやカリスを祝別している時の動作を見てください。ミサの色々な儀式の仕草を見て下さい。祭壇に接吻する、或いは手を挙げる、など。これらは、イエズス様の行った行動のシンボルであり、表現です。イエズス様は、皆さんを祝福します。イエズス様は、御自分の心を聖心を、皆さんに与えます。イエズス様は、皆さんの心に光を与えます。このミサの時にイエズス様は、皆さんを連れて、そのパテナの上に置いて、聖父に捧げます。イエズス様は皆さんの元にいて、皆さんはイエズス様の元にいて、イエズス様は皆さんの中に入り、皆さんはイエズス様の中に入って、共に聖父を礼拝して感謝し、そして生贄を捧げます。私たちはイエズス様に同じ苦しみを苦しみ、同情の心を持って、同じ情を持って、そしてイエズス様に近付かなければなりません。



黙想の時には、「イエズス様が目の前に在る」という事を考え、2000年前あった事を考えます。しかしミサでは、皆さんの目の前に、現前に、今、正に、イエズス様が本当に犠牲を捧げておられるのです。マリア様と同じところに、イエズス様のすぐそばで皆さんは今います。そればかりでなく御聖体拝領でイエズス様をお受けすると、イエズス・キリストは皆さんの心にいらっしゃり、全ての犠牲、苦しみは、皆さんの中で行われるのです。
皆さん、御聖体拝領で、イエズス様が皆さんの胸におられる時に、皆さんの手で、イエズス様の御傷を触れて下さい。御聖体拝領の後に、マリア様と共に、イエズス様の御頭に深く刺さっている茨を1つ1つ丁寧にそっと取り除いて、釘を取り除いて、傷をきれいに拭いて、丁寧に拭き取り、傷を洗って、血を洗って、イエズス様を慰めて下さい。何という深い感謝でしょうか。

 第4の点は「イエズス様が人として苦しむのを望まれた」という事です。ミサ聖祭に与りながら、イエズス様が私たちの目の前で、悪人どもの手によって、叩かれ、殴られ、蹴られ、もてあそばれたことを考えてください。私の目の前で、イエズス・キリストが天主の子羊として屠られています。イエズス様に近付いて、イエズス様の受難を、自分のことのように感じてください。イエズス様は私たちに眼差しを向けて、私たちをご覧になっています。イエズス様が言う言葉を聞いて下さい。「これは、お前の為だ。」と。御受難は私たちの心に染み通らなければなりません。十字架の犠牲であるミサ聖祭は、私たちの心を変えなければなりません。


第5のポイントは、「天主が苦しんでいる」という事です。これら全てを苦しむ事できるというのは、実は、天主であるからです、全能の天主であるからです。この全世界を創造した偉大なる天主だからこそ、苦しむ事ができました。ホスチアのようなこんなに小さな所に留まる事ができるのは、全能だったからです。


第6のポイントは、イエズス様の全ての御苦難、このミサは、皆私の為ということです。その全ての傷は、私の為です。御血一滴一滴は全て、流された一滴一滴は全て、私の為。イエズス様のその屈辱、この小さなホスチアの中に留まり、全く忘れられ、隠されて、そして小さなこのみそぼらしい御聖櫃の中に在し給うイエズス様、これは全て私の為です。これら全てを、この全ての苦しみの極みを、私の為に、私の罪の為に全て受けたのです。全ての苦しみを、「私」の為に、「私の罪」の為に、受けたのです。「私は、主の為に何を苦しまなければならないか。」を是非考えて下さい。

 イエズス様の御受難をシエナのカタリナが黙想している時に、イエズス様がシエナのカタリナに現れて、こう仰いました、「おぉ、娘よ。例え全世界でたったお前1人しかいなかったとしても、私は、私の受けた全ての苦しみを、お前1人の為だけに受けよう、受けたい。」

 これら6つの点を考慮しながら、ミサ聖祭の色々な場面を黙想して下さい。ミサに与りながら適用させて黙想して下さい。「ミサ」は「カルワリオの犠牲の再現である」という事を考えて、「イエズス様、私は御身の為に一体何をしたら良いでしょうか?」と、尋ねて下さい。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)


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