アヴェ・マリア・インマクラータ!
愛する兄弟姉妹の皆様、
2016年3月5日(初土)、大阪の聖伝のミサのお説教をご紹介いたします。
天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)
2016年3月5日 初土曜日 聖母の汚れなき御心の随意ミサ
ネリー神父様御説教
同時通訳:小野田圭志神父
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。
親愛なる兄弟の皆さん、昨日のように今朝は、マリア様の御要求に応える為に、私たちはここに集まっています。昨日私たちがしたように、今日は私たちは、マリア様の御心を慰める為に、そしてイエズス様の聖心をも慰める為に集いました。
ファチマのマリア様の御出現の重要さ、そしてマリア様のメッセージの重要さは、私たちは今強調するまでもありません。私たちがこのメッセージを受けるか、どのように受けるかに従って、この世界に戦争が起こるか、或いは世界に平和が訪れるかが決まります。
マリア様はシスタールチアに現れて、そして茨の冠に被せられている御自分の御心を見せて、人類の冒涜によって貫かれているこの御心を私たちにお見せになりました。ちょうど17世紀にイエズス様が要求したように、マリア様も私たちに、慰めとそして償いを要求しました。マリア様は私たちにたくさんの事を御要求なさいませんでした。何故かというと、既に御自分がその大部分の重荷を自分に取って、自分が受け取られたからです。私たちがするのはそれにほんの少し参与する事、それに与る事です。
マリア様は、償いの意向を持って償いの意思を持って、毎月初土曜日に、ほんの少しの事を4つの事をする事だけを御要求になりました。マリア様が御要求なさった事は、まず悔悛の秘跡、告解の秘跡を受ける事、そしてそれは第2の条件で第2の御要求である御聖体拝領を良くする事ができる為です。そして第2に、御聖体拝領をする事。そして次に、ロザリオを、今朝私たちがミサの前にしましたように1環唱える事、玄義を黙想しながら唱える事。そして最後に、15分間、ロザリオの玄義のどれかをいくつかを黙想しながら、マリア様と共に時を過ごす事、これです。
聖母の連祷を唱える時に私たちは、マリア様がどれほど私たちの為に御苦しみなった御母であるか、という事を示す為に、「殉教者の元后」という言い方でマリア様をお呼びします。マリア様が御告げを受けて、「我になれかし。“フィアット”」と仰った時に、天主の御旨を果たそう、果たす為に全てお捧げなさった時にマリア様は、イエズス様と共に贖いを果たす共贖者となりました。そしてマリア様の苦しみが始まったのです。
マリア様は天主様の御旨を果たさなければならない事をよく知っていました。そして天主の御旨を果たす事をいつも観想、黙想していました。そしてその天主様の御旨がいつ、どうやって明らかにされるか、それの事は詳しくはお知りにならなかったのですけれども、しかしそれが明らかにされた時には、御旨をしっかり果たそう、といつも覚悟しておられました。そこでマリア様は、「Mater Dolorosa“悲しみの聖母”」そしてイエズス様の贖いの業の協力者となりました。
私は皆さんにご質問してもよろしいでしょうか?マリア様は一体どうして、その御生涯にこれほどの苦しみを耐える事ができたのでしょうか?
それは、私たちに対する、人類に対する愛があまりにも熱烈で、あまりにも大きかったからです。マリア様は贖いの業を、イエズス様と共に成し遂げる事を望みました。そこでこの苦しみを全て耐え忍ぶ事ができたのです。マリア様の耐えた色々な苦しみの中に特に抜きん出ているのが、「7つの御悲しみ」であって、私たちは特別に、マリア様の7つの御悲しみに対する信心を実践します。その7つの御悲しみのロザリオさえもあって、その7つの御悲しみを黙想する事が簡単に、黙想する事ができるように作られています。
第1の御悲しみは御苦しみは、マリア様がイエズス様をお抱きになって、聖ヨゼフと神殿にイエズス様をお捧げに最初に行く時に、シメオンがそのマリア様がイエズス様をお連れになっているのを見て、「あなたの心も剣で差し貫かれるだろう。」と預言した事です。その時にマリア様は、御自分がどれほど苦しまなければならないかという、御自分の使命のビジョンが、その事がよくお分かりになりました。それと同時に、それを耐え忍ぶ事ができるお恵みも、聖寵をも頂きました。
第2は、エジプトへの避難です。ヨゼフ様は、天使からのお告げで、「ヘロデがイエズス様の命を狙っているので、聖家族の頭として、イエズス様を安全な所に避難しなければならない。ベトレヘムからすぐにエジプトに逃げなければならない。」という使命を受けます。そしてマリア様はヨゼフ様に従って、母として子供を連れて、ヨゼフ様に従うのですけれども、マリア様はどれほど、この子供の命に対して恐れを感じていたでしょうか。何も、ほとんど何も持たずにどうやって旅をするのか、その備蓄もなく、すぐに旅立たなければなりませんでした。
第3は、イエズス様が神殿で見失われた事です。毎年のようにイエズス様を連れて、ヨゼフ様とマリア様はエルサレムの神殿に行きますけれども、イエズス様が12歳の時に、イエズス様は神殿にお残りなりました。ナザレトに帰る道すがら、イエズス様がいない事が分かると、三日間、ヨゼフ様とマリア様はイエズス様を探しました。ついに三日後、神殿で律法学者と博士たちと話しておられるイエズス様を見て、マリア様は、「一体何故このような事をしたのですか?」と聞くと、「私が、私の聖父の事をしなければならない、という事を知らなかったのですか?」というイエズス様のなさったお答えが、マリア様には理解できませんでした、と福音には書いてあります。
第4の苦しみは、十字架の道行の道すがら、マリア様がイエズス様とお会いに、お出会いになった事です。イエズス様は茨の冠を押し被せられ、そして鞭で打たれて、そしてそのみすぼらしい姿で十字架を一生懸命担いでおられるところをマリア様は見ました。聖伝によると、マリア様それを見て、気を失われた、と言われています。そこでその場所に、マリア様がそのあまりにもそのショックを受けたその場所に、聖ヘレナが教会を建てました。マリア様のその苦しみを記念する為の教会です。
第5の御悲しみは、今しがた私が読んだ聖福音、聖ヨハネによる聖福音のところで、マリア様が十字架の足元にお佇みになり、そしてイエズス様の最後の息を引き取るのをご覧になるところです。イエズス様がその十字架の上でマリア様に、ヨハネを子供として、そしてヨハネを通して私たち全てを、マリア様の御子として与えられました。そしてヨハネにマリア様を母として、私たちの母としてお与えになりました。マリア様御自身の御子イエズスは、そしてその十字架の上で亡くなります。
第6は、マリア様が、息を引き取られた私たちの主イエズス・キリストの御体を、御自分の胸に引き取られた時です。そしてマリア様は、そのイエズス様をまじまじとご覧になって、御血の気の無い、命の無い御体をご覧になって、母として苦しまれた事です。
第7そして最後は、イエズス様をお墓に葬られた時です。イエズス様がもう息の無い、命の無い体をお墓に埋葬された時に、マリア様は、イエズス様が復活してまたもう一度お会いになるだろうという事を、信仰によって知ってはいました。しかしそれと同時に、イエズス様の葬りをした、という事は母にとって大きな苦しみでした。
しかし私たちの言わなければならない事は、マリア様はこれらよりももっと苦しまれている事があります。それはなぜか何故かというと、多くの霊魂たちが、これにもかかわらず毎日のように失われているという事。これほど私たちの為にしているにもかかわらず、人類は、マリア様とイエズス様を冒瀆し、恩義にも感じず、忘恩であり、マリア様はそれらの冷たい心を見て、更に悲しんでおられます。何故かというと、御自分のなさった御苦しみがすべて無駄になってしまう、という事をご覧になるからです。
ですから私たちは、この苦しみのマリア様をお慰めする為に、そして人類の忘恩と冒瀆を償う為に、祈りと犠牲を以って、マリア様に今お祈りを捧げています、犠牲を捧げています。それは私たちの参与によって、私たちの祈りと犠牲が捧げられる事によって、できるだけ多くの霊魂がイエズス様の元に、マリア様を通して、戻る事ができる為です。
私たちはマリア様のこの呼びかけに、この御願いに寛大に応える事に致しましょう。私たちが最後の堅忍の徳を得る事ができるように、マリア様とイエズス様を遂には天国で永遠に見て、マリア様と天国の福楽を楽しむ事ができるように、私たちの要求された事をしっかりと果たす事ができるようにお祈りいたしましょう。
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。
愛する兄弟姉妹の皆様、
2016年3月5日(初土)、大阪の聖伝のミサのお説教をご紹介いたします。
天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)
2016年3月5日 初土曜日 聖母の汚れなき御心の随意ミサ
ネリー神父様御説教
同時通訳:小野田圭志神父
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。
親愛なる兄弟の皆さん、昨日のように今朝は、マリア様の御要求に応える為に、私たちはここに集まっています。昨日私たちがしたように、今日は私たちは、マリア様の御心を慰める為に、そしてイエズス様の聖心をも慰める為に集いました。
ファチマのマリア様の御出現の重要さ、そしてマリア様のメッセージの重要さは、私たちは今強調するまでもありません。私たちがこのメッセージを受けるか、どのように受けるかに従って、この世界に戦争が起こるか、或いは世界に平和が訪れるかが決まります。
マリア様はシスタールチアに現れて、そして茨の冠に被せられている御自分の御心を見せて、人類の冒涜によって貫かれているこの御心を私たちにお見せになりました。ちょうど17世紀にイエズス様が要求したように、マリア様も私たちに、慰めとそして償いを要求しました。マリア様は私たちにたくさんの事を御要求なさいませんでした。何故かというと、既に御自分がその大部分の重荷を自分に取って、自分が受け取られたからです。私たちがするのはそれにほんの少し参与する事、それに与る事です。
マリア様は、償いの意向を持って償いの意思を持って、毎月初土曜日に、ほんの少しの事を4つの事をする事だけを御要求になりました。マリア様が御要求なさった事は、まず悔悛の秘跡、告解の秘跡を受ける事、そしてそれは第2の条件で第2の御要求である御聖体拝領を良くする事ができる為です。そして第2に、御聖体拝領をする事。そして次に、ロザリオを、今朝私たちがミサの前にしましたように1環唱える事、玄義を黙想しながら唱える事。そして最後に、15分間、ロザリオの玄義のどれかをいくつかを黙想しながら、マリア様と共に時を過ごす事、これです。
聖母の連祷を唱える時に私たちは、マリア様がどれほど私たちの為に御苦しみなった御母であるか、という事を示す為に、「殉教者の元后」という言い方でマリア様をお呼びします。マリア様が御告げを受けて、「我になれかし。“フィアット”」と仰った時に、天主の御旨を果たそう、果たす為に全てお捧げなさった時にマリア様は、イエズス様と共に贖いを果たす共贖者となりました。そしてマリア様の苦しみが始まったのです。
マリア様は天主様の御旨を果たさなければならない事をよく知っていました。そして天主の御旨を果たす事をいつも観想、黙想していました。そしてその天主様の御旨がいつ、どうやって明らかにされるか、それの事は詳しくはお知りにならなかったのですけれども、しかしそれが明らかにされた時には、御旨をしっかり果たそう、といつも覚悟しておられました。そこでマリア様は、「Mater Dolorosa“悲しみの聖母”」そしてイエズス様の贖いの業の協力者となりました。
私は皆さんにご質問してもよろしいでしょうか?マリア様は一体どうして、その御生涯にこれほどの苦しみを耐える事ができたのでしょうか?
それは、私たちに対する、人類に対する愛があまりにも熱烈で、あまりにも大きかったからです。マリア様は贖いの業を、イエズス様と共に成し遂げる事を望みました。そこでこの苦しみを全て耐え忍ぶ事ができたのです。マリア様の耐えた色々な苦しみの中に特に抜きん出ているのが、「7つの御悲しみ」であって、私たちは特別に、マリア様の7つの御悲しみに対する信心を実践します。その7つの御悲しみのロザリオさえもあって、その7つの御悲しみを黙想する事が簡単に、黙想する事ができるように作られています。
第1の御悲しみは御苦しみは、マリア様がイエズス様をお抱きになって、聖ヨゼフと神殿にイエズス様をお捧げに最初に行く時に、シメオンがそのマリア様がイエズス様をお連れになっているのを見て、「あなたの心も剣で差し貫かれるだろう。」と預言した事です。その時にマリア様は、御自分がどれほど苦しまなければならないかという、御自分の使命のビジョンが、その事がよくお分かりになりました。それと同時に、それを耐え忍ぶ事ができるお恵みも、聖寵をも頂きました。
第2は、エジプトへの避難です。ヨゼフ様は、天使からのお告げで、「ヘロデがイエズス様の命を狙っているので、聖家族の頭として、イエズス様を安全な所に避難しなければならない。ベトレヘムからすぐにエジプトに逃げなければならない。」という使命を受けます。そしてマリア様はヨゼフ様に従って、母として子供を連れて、ヨゼフ様に従うのですけれども、マリア様はどれほど、この子供の命に対して恐れを感じていたでしょうか。何も、ほとんど何も持たずにどうやって旅をするのか、その備蓄もなく、すぐに旅立たなければなりませんでした。
第3は、イエズス様が神殿で見失われた事です。毎年のようにイエズス様を連れて、ヨゼフ様とマリア様はエルサレムの神殿に行きますけれども、イエズス様が12歳の時に、イエズス様は神殿にお残りなりました。ナザレトに帰る道すがら、イエズス様がいない事が分かると、三日間、ヨゼフ様とマリア様はイエズス様を探しました。ついに三日後、神殿で律法学者と博士たちと話しておられるイエズス様を見て、マリア様は、「一体何故このような事をしたのですか?」と聞くと、「私が、私の聖父の事をしなければならない、という事を知らなかったのですか?」というイエズス様のなさったお答えが、マリア様には理解できませんでした、と福音には書いてあります。
第4の苦しみは、十字架の道行の道すがら、マリア様がイエズス様とお会いに、お出会いになった事です。イエズス様は茨の冠を押し被せられ、そして鞭で打たれて、そしてそのみすぼらしい姿で十字架を一生懸命担いでおられるところをマリア様は見ました。聖伝によると、マリア様それを見て、気を失われた、と言われています。そこでその場所に、マリア様がそのあまりにもそのショックを受けたその場所に、聖ヘレナが教会を建てました。マリア様のその苦しみを記念する為の教会です。
第5の御悲しみは、今しがた私が読んだ聖福音、聖ヨハネによる聖福音のところで、マリア様が十字架の足元にお佇みになり、そしてイエズス様の最後の息を引き取るのをご覧になるところです。イエズス様がその十字架の上でマリア様に、ヨハネを子供として、そしてヨハネを通して私たち全てを、マリア様の御子として与えられました。そしてヨハネにマリア様を母として、私たちの母としてお与えになりました。マリア様御自身の御子イエズスは、そしてその十字架の上で亡くなります。
第6は、マリア様が、息を引き取られた私たちの主イエズス・キリストの御体を、御自分の胸に引き取られた時です。そしてマリア様は、そのイエズス様をまじまじとご覧になって、御血の気の無い、命の無い御体をご覧になって、母として苦しまれた事です。
第7そして最後は、イエズス様をお墓に葬られた時です。イエズス様がもう息の無い、命の無い体をお墓に埋葬された時に、マリア様は、イエズス様が復活してまたもう一度お会いになるだろうという事を、信仰によって知ってはいました。しかしそれと同時に、イエズス様の葬りをした、という事は母にとって大きな苦しみでした。
しかし私たちの言わなければならない事は、マリア様はこれらよりももっと苦しまれている事があります。それはなぜか何故かというと、多くの霊魂たちが、これにもかかわらず毎日のように失われているという事。これほど私たちの為にしているにもかかわらず、人類は、マリア様とイエズス様を冒瀆し、恩義にも感じず、忘恩であり、マリア様はそれらの冷たい心を見て、更に悲しんでおられます。何故かというと、御自分のなさった御苦しみがすべて無駄になってしまう、という事をご覧になるからです。
ですから私たちは、この苦しみのマリア様をお慰めする為に、そして人類の忘恩と冒瀆を償う為に、祈りと犠牲を以って、マリア様に今お祈りを捧げています、犠牲を捧げています。それは私たちの参与によって、私たちの祈りと犠牲が捧げられる事によって、できるだけ多くの霊魂がイエズス様の元に、マリア様を通して、戻る事ができる為です。
私たちはマリア様のこの呼びかけに、この御願いに寛大に応える事に致しましょう。私たちが最後の堅忍の徳を得る事ができるように、マリア様とイエズス様を遂には天国で永遠に見て、マリア様と天国の福楽を楽しむ事ができるように、私たちの要求された事をしっかりと果たす事ができるようにお祈りいたしましょう。
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。