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天主の十戒 第一戒(第二部)「礼拝」:聖ピオ十世会司祭 レネー神父様

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アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 レネー神父様の「天主の十戒」についてのお説教をご紹介いたします。

 第3回目は、第一戒(第二部)「礼拝」についてです。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

2016年3月13日(主日)―大阪 お説教「第一戒について(第二部)-礼拝- 」

親愛なる兄弟の皆さん、

前回、私たちは第一戒について必要とされる内的な条件を見ました。第一戒は命の掟であって、まず、私たちの主イエズス・キリストが信仰、希望、愛の徳によって統治されている内的な命を通して、私たちが全面的に天主のために生きることを義務付けています。イエズスは、真理、道、命として、私たちの心を照らす真理、天国への道、愛の命、永遠の命の始まりとして、私たちの中にまことに生きておられるのです。

しかし、人間は天使ではありません。人間には霊魂だけでなく、体もあります。人間は内的に生きていることを、外的にも表すべきです。人間は、体を使っても天主に奉仕すべきです。それは、礼拝によって行われます。聖トマス・アクィナスは、それを「宗教の徳」と呼んでいます。その徳によって私たちは天主を敬うのです。誰かを敬うということは、何を意味するのでしょうか? それは、「誰かの優越性を、誰かが優れていることを証言すること」を意味します。このように、礼拝は天主の最高の優越性を証言することです。アジアの人々は、尊敬や敬意という感覚を持っています。ですから、アジアの人々が、天主だけのための最高の尊敬である礼拝という感覚を持つのは簡単なのです。

聖トマス・アクィナスの助けを借りて、より明確にその概念を理解することは良いことです。聖書からはっきり言えることは、「敬意」は、天主だけに向けられるのではなく、被造物にも向けられることがあることです。まさに第四戒が、「汝の父母を敬え」と命じています。天主に向けられるのは「最高の敬意」です。聖トマスによる敬意の定義の助けを借りれば、これを簡単に理解することができます。敬意は、誰かの優越性についての証言です。さて、天主だけに属する最高の優越性、絶対的な優越性があり、私たちはそれを礼拝によって証言するのです。被造物には、他の被造物に対する相対的な優越性をもっているものがあります。従って、両親は子どもたちに対して相対的な優越性を持っており、これが、子どもたちが両親を敬う義務を負っている基礎となっています。同様に聖人たちは、普通の信者に対して相対的な優越性を持っており、それが、私たちがこのあと見るように、聖人に与えられる(敬意である)崇敬の基礎です。それゆえに、聖人を崇敬することは大変正当なものであり、いや、それは義務なのです。それが天主の礼拝を損なうことは決してありません。なぜなら、私たちは聖人たちに対しては「相対的崇敬」を捧げるだけであり、天主に対しては最高の崇敬、つまり礼拝を捧げるからです! 気を付けていただきたいのは、聖母には、他のすべての聖人にはまさりますが、天主の下にある特別な地位があるということです。聖母に対して私たちは、「hyperdulia」つまり「特別崇敬」をするのであって、礼拝をするのではありません。また、芸術家の芸術品を尊重することは間違いなく、芸術家の優越性に敬意を払うために非常に良い方法です。聖人たちは天主の芸術品です。天主は、聖人たちを聖なるものとされました。天主は英雄的な段階にまで聖人たちに聖性を与えられました。従って、聖人たちを崇敬することによって、私たちは、聖化する方を、天主を、三位一体を、そのような美しい聖人を作ったお方に大いなる敬意を示すのです。聖人に敬意を払うことを拒否する者は、天主に敬意を払うことはなく、事実、天主を傷つけるのです。確かに、絵を褒めることを拒否する者たちは、事実、その画家を傷つけるのです!

人間のレベルでは、私たちが敬意を払う隣人の優越性には四つの種類があります。知の優越性、徳の優越性、権威の優越性、生まれの優越性です。いくつかの例を見てみましょう。例えば知の優越性については、偉大な研究を成し遂げた人々に対して、私たちは「医師」または「教授」という適切な称号を与えることで敬意を払います。偉大な科学者たちの発見については、私たちはノーベル賞を与えることで敬意を払います。もっと低いレベルでは、各クラスで最も成績の良い学生に対して、学年の終わりに学校で「賞」を与えるという習慣がありました。これは、特定の学生たちが、他の学生たちに対して知の面で相対的な優越性を持っていることを公に認めることです。教会においては、聖トマス・アクィナスや聖アウグスティヌスのように、特定の聖人たちが「教会博士」という称号を持っていますが、それは、私たちの主イエズス・キリストの教理について、彼らが広くて深い知識を持っていたからです。

徳の優越性については、例えば、偉大な勇気を示した兵士たちに勲章を与えることによって、私たちは彼らに敬意を払います。また、例えば、他人の命を救ったり守ったりする偉大な勇気を示した消防士や警察官に勲章を与えることによっても行われます。これは、「功労章」の形を取ることもあります。教会においては通常、聖人たちに捧げられる崇敬は、彼らをすべての信者の模範とさせた「英雄的徳」についての証明なのです。

権威の優越性においては、例えば王、行政当局、軍当局に敬意を払います。聖ペトロは、「王を尊べ」(ペトロ第一2章17節)とさえ言って、私たちがそうするよう命じています。聖パウロは言います。「すべての人に与えねばならぬものを与えよ。貢を払うべき人には貢を、税を払うべき人には税を、恐れるべく人には恐れを、尊ぶべき人には尊敬を与えよ」(ローマ13章7節)。注意していただきたいのは、税金や貢物を支払うことは行政当局などに敬意を払うことの一部であることです。教会においては、教皇や司教、司祭を敬うとともに、お互いを聖霊の神殿として敬い合います。「すべての人を敬い、兄弟たちを愛」(ペトロ第一2章17節)せ。「兄弟愛をもって愛し合い、互いに競って尊敬し合え」(ローマ12章10節)。

最後の種類の敬意を理解することはさらに困難ですが、またさらに重要でもあります。私たちの両親は、常に最も知識がある人物というわけではなく、常に最も徳がある人物というわけでもなく、常に最も権威があるというわけでもありません。子どもたちが小さいときは、両親は彼らに対する権威を持っていますが、彼らが大人になって自分たちの家族を持つようになると、もはやそうではありません。しかし、大人であっても、両親に「敬意」という借りがあるため、両親が老齢になると助けなければなりません。なぜでしょうか? 聖トマス・アクィナスは、両親は子どもたちに対して「生まれの優越性」を持っているからだ、と説明します。子どもたちは、命とその他の多くの善を両親から受けました。命は最も基本的な善であり、それがなければ他の善は役に立たないのですから、このために子どもたちは両親にずっと借りがあるのです。もし子どもたちが両親から受けたすべての善のリストを作ったとしたら、非常に長いものになってしまうでしょう! また、良い両親であればあるほど、そのリストは長くなるでしょう。よくあることですが、自分が両親にどれほど多くの借りがあるかを理解するのは、長い年月がたってからなのです。時には、それを理解するのは両親が亡くなったあとでさえあるのです。子どもたちは、どうしたらそれほどの贈り物に返礼することができるでしょうか? 命と等しいものは何でしょうか? 聖トマスは、そのような領域においては、私たちは受けたものほど多くを返すことは決してできない、と説明します。借りはずっと大きいのですから。そのような領域において私たちにできる最善のことは、両親を敬うことによって両親の優越性を認めることです。

両親に払うべき敬意はまた、同じ理由で私たちが多くのものを受けたすべての人々にも払われるべきです。彼らは、教師、恩人であり、また司祭です、司祭は「霊的な父」であり、私たちに無限の価値のある宝であるご聖体、私たちの主イエズス・キリストの御体、御血、ご霊魂、ご神性を与えてくださいます。そのため、私たちは彼らにも敬意を払うのです。

しかし、これら四つすべての領域において、天主は他のすべてに対して無限に上位を占めておられます。天主だけが、絶対かつ最高の知を持っておられます。すべての被造物についての知識だけでなく、すべての被造物を超えて、天主ご自身についての最高の知識を持っておられます。また、天主だけが、すべての善と、すべての有徳な行いの第一の原因であり、すべての善の最高の基準です。天主の行われたすべてのことは、最高の知恵、善、慈悲と正義、親切と秩序をもってなされました。そのため、徳についての最高の敬意は、天主だけに対して捧げられるべきです。他のすべての有徳な行いは、この最高の模範(である天主)に倣い、第一の善である天主によって動かされているに過ぎません。天主は、すべての被造物に対する最高の権威を持っておられ、聖パウロが言うように、すべての権限は天主から来ています(ローマ13章1節)。ですから、このことからも、天主だけに対して最高の敬意が捧げられるべきです。最後に、天主はすべての善の第一の原因であり、私たちがこれまで受けたすべての善の源です。天主は私たち全員に共通の恩人です。他のすべての恩人は、自分たちが受けた善を伝達しただけであり、私たちの両親は、私たちに自分たちが受けた命を伝達しただけです。天主だけが、命と他のすべての善のまさに作者であるお方です。従って、天主だけに最高の敬意が捧げられるべきです。そして、その最高の敬意が礼拝と呼ばれているのです。

従って、私たちは、礼拝というものは、天主の最高の優越性についての黙想から出て来ることがわかります。それには、称讃という感覚、天主の完全性の前で畏怖するという感覚が含まれています。聖ミカエルのように、私たちは叫びます。「たれか天主に如(し)くものあらん?」。誰もいません! 天主と比べられる者など誰もいません。天主は、他のすべてのものに比べ無限に上位におられ、無限に優れたお方です。礼拝は、その称讃から出て来るのです。小さな比較をするならば、サーカスにおいては、高い位置で強く張られたロープのうえを歩くといったような難しいことをしている人たちを見ます。その間、私たちは息をのみ、それが終わるとみんなで称讃の拍手をします。この称讃という感覚によって、天主の無限の完全性のゆえに私たちはどれほど天主を讃美しなければならないか、ということについて、非常に小さいながらも理解が得られます。

敬意は優越性に払われるべきです。なぜなら、私たちは私たちの知を優越したものについての知識で満たすべきであって、知るのに絶対的に無益なもの、「トリビア(つまらないこと)」で満たすべきではないからです! 優越したものを証言することによって、その敬意のおかげで、他の人々がそれを知り、それを「讃美」するようになります。このように、天主を礼拝することは天主を讃美することです。それは、私たちが天主の寛大さにお応えするためのささやかな方法です。

なくてはならない最も重要な礼拝は、前回説明したように、信仰、希望、愛の徳によって行われる内的な礼拝です。これらの三つの徳は、直接天主を対象としているため、対神徳と呼ばれます。私たちは天主を信じ、天主に希望し、天主を愛します。これは確実に天主に敬意を示しています。しかし、天主ご自身を対象とせず、天主への敬意を対象とする別の徳があります。つまり、天主が優れていることを私たちが直接証言する行為です。これが宗教の徳です。宗教の徳は、私たちが天主を礼拝する徳です。信仰、希望、愛は、それ自体で優れた徳です。しかし、宗教の徳は、それらに近接していることから、非常に重要な徳です。なぜなら、宗教の目的は私たちを天主に関係づけるからです。ですから、私たちと隣人との関係を目的とするあらゆる徳よりも優れているのです。

聖トマス・アクゥナスは、内的礼拝には他に二つの行いがあると説明しています。祈りと信心です。「祈り」というまさにその言葉で、皆さんは、各信者の生活の中でそれがいかに重要かということを認識します! しかし、ここで祈りについて完全に説明をしようとし始めるなら、大変時間がかかってしまうでしょう。天主の第一戒が、私たちに祈ることを義務付けていることを覚えておくだけにしておきましょう。私たちの主イエズス・キリストご自身が言われました。「うまずたゆまず祈れ」(ルカ18章1節)。また聖パウロも私たちに命じています。「絶えず祈れ」(テサロニケ前書5章17節)。さて、聖トマスは信心を、天主に敬意を示し、天主に敬意を示すためあらゆる行いを捧げようとする意志の迅速さ、と定義しています。聖パウロは言います。「何事をするにもすべて天主の光栄のために行え」(コリント前書10章31節)。従って、ミサに遅れるのは確実に信心が不足しており、祈りに消極的であるのも信心が不足しています。

外的な宗教の行いはたくさんあります。その行いによって、私たちは天主に敬意を示します。第一は讃美です。天主の優越性を語ること、天主の栄光を歌うことです。これは、修道士や修道女、司祭によって聖務日課において行われているものです。古くからの聖伝に従って、多くの場合は詩篇を用いて、すべての司祭が毎週唱えます。注意していただきたいのは、近代主義者はその聖伝を台無しにし、今や詩篇を唱えるのは月に一回だけであり、その上、彼らが望ましくないと判断した特定の詩篇の節を禁止していることです。彼らは聖霊を咎めたのです!

私たちはまた、他の方法によっても言葉で天主に敬意を示します。誓願と誓約です。次回以降、第二戒について話すとき、私たちはそれを見ることになります。天主に敬意を表するため、宗教の徳を実践するために生涯を捧げる人々がいます。そのため、彼らは「religious(修道者)」と呼ばれます。修道士と修道女が「修道者」です。彼らは通常、三つの福音的勧告を守る「宗教的誓願」を立てます。

私たちは、体の行いによって天主に敬意を示すことができます。ひれ伏すことや、ひざまずくこと、などです。これらの行いが最高の敬意を意味するとき、「礼拝」と呼ばれます。従って、私たちは私たちの主イエズス・キリストを礼拝するために、聖体拝領で主をひざまずいて受けます。それは、まことの主の現存の下での信仰告白です。しかし、それ以前に、私たちは当然捧げるべき礼拝を主に捧げているだけなのです!

聖トマスは、天主に自分の生涯を捧げた人々、愛徳のわざに自分を捧げた人々を助けるために、十分の一税という天主への敬意のための捧げものをすることによっても、私たちは天主に敬意を示すことができる、と言っています。

異なる状況下では、同じ行いが単なる敬意を示すに過ぎず、最高の敬意の意味ではないことがあるので注意してください。ですから、聖書の中には、偉大な聖人たちが他の人の前にひれ伏している場面があります。これは礼拝ではなく、もっと低いレベルの敬意です。アブラハムがそうする場面や、ヨゼフの兄弟たちが彼の前でひれ伏す場面もあります。ダビデがサウルの前でひれ伏すところもあります(列王記上24章9節)。教会では、子どもたちが堅振を受けるために司教の足元でひざまずきます。従って、私たちは、顕示されたご聖体にまします私たちの主に香を捧げますが、また、司祭や下級聖職者、さらに侍者とすべての信者にさえ、香を捧げるのです。最初の献香は礼拝行為であり、他の献香は敬意を示す行為です。天主が第一の位置を保つだけでなく、私たちも「互いに競って尊敬し合え」(ローマ12章10節)と義務付けている聖書(の言葉)を実現させるのです。

さて、敬意を示す外的な行為の中には、天主のために留保されているものが一つあります。これは被造物には決してなされないものであって、それは犠牲です。私たちは天主を讃美し、より低いレベルですが聖人たちを讃美することができます。私たちは天主に祈り、異なってはいますが聖人たちにも祈ることができます。私たちは天主に犠牲を捧げますが、ここで違うのは、被造物には決して犠牲を捧げてはいけません! 犠牲は最高の敬意を示す行為であって、天主に留保された礼拝に固有の行為です。礼拝の最高の行為は、私たちの主イエズス・キリストの犠牲、私たちの救いのために主が十字架の上で御父にお捧げになった犠牲、御体と御血の犠牲であり、そこでは主が大司祭であり、かつ「いけにえ」であるのです。ですから、主が教会にこの最も聖なる犠牲を与えられたため、これは教会の犠牲、つまり、司祭の聖役を通して十字架の犠牲を捧げることそのものであるミサの聖なる犠牲となったのです。

さて、礼拝に反する罪は偶像崇拝と呼ばれます。天主のための礼拝、特に犠牲が被造物に捧げられることです。これは非常に重い罪であり、この罪のために天主は、旧約のヘブライ人や、異教徒の国々を、最も厳しく罰せられました。「私以外のどんなものも天主とするな」(脱出[出エジプト]20章3節)。そして天主は、詳細にわたって、あらゆる逃げ道をふさぎ、あらゆる種類の偶像の建造を禁じられました。「刻んだ像をつくってはならぬ、高く天にあるもの、低く地にあるもの、地の下にあるもの、水の中にあるもの、どんな像をもつくってはならぬ」(脱出20章4節)。

さて、プロテスタントは、聖書も正しい礼拝も理解していないため、第一戒を二つに分け、第一戒の第二の句が第二戒であると言い張り、いかなる像をつくることも禁じられているかのようにしています。それが本当であったなら、天主は、モーゼに青銅のヘビ(荒野[民数記]21章8節)をつくるよう命じられることはなかったでしょうし、契約の櫃の上に二位の天使、ケルビム(脱出25章18節)をつくるよう命じられることもなかったでしょう。実際、さきほど述べたように天主は「刻んだ像」について語られたあとすぐ、続けて説明されます。「その像の前にひれ伏してはならぬ。それらを礼拝してはならぬ。おまえの天主なる主、私は、力ある、ねたみ深い天主である」(脱出20章5節)。ですから、彫像や画像をつくるのを禁じられているのは、「それらを拝むため」であることは明らかです。しかし、それらを拝むためでなければ、禁じられていません。ちょうど、二位のケルビムも青銅のヘビも拝むためでなかったように! 実際、後になってエゼキア王の統治下でヘブライ人は青銅の蛇を礼拝し始め、この信心深い王はそれを粉々に破壊するよう命じました(列王記下18章4節)。青銅の蛇が主の救いのしるし、十字架につけられたキリストのしるしとして使われていた間は、それに何の問題もありませんでした。それはヘブライ人のために非常に有益でさえありました。しかし、その像が礼拝されだすやいなや、それは破壊されなければなりませんでした。

知恵の霊からくる聖人たちの知恵に恵まれた教会は、天国の実際の姿のしるしとして、聖画や聖像を正しく使うことを認可しました。聖画は天国への窓のようなものです。窓を見るとき、人はガラスに注意を払うのではなく、むしろガラスの向こうに見えているものを見ます。同様に、私たちが聖画を見るとき、私たちの思考や感情はすべて、私たちの主イエズス・キリストと天の聖人たちに向けられます。同様に、母親が自分の子どもたちの写真を見るとき、母親の愛情は子どもたちに向けられているのであり、写真の印画紙に向けられてはいません。母親はその写真が好きだと言うかもしれませんが、その愛は子どもたちに向けられているのであり、その写真の画像そのものに向けられてはいません。このことは非常に明白です。これを否定するのは、悪しき心から来ています。すべての聖画と聖像を破壊した「聖像破壊主義者」と呼ばれる異端者がかつていました。教会は、この異端を強く拒否しました。聖画や聖像、十字架像を持つことは良いことです。家の各部屋の主要な位置や、家の中の小さな「教会の内陣」のような場所に、どれかを設置するよう強く勧められています。その内陣のようなところは、家族の祈りのためにみんなが毎日集まるところで、すてきな十字架像や聖画で飾られているのです。しかしながら、誰かがその聖画自体を礼拝し始めてしまい、その聖画が示す人物への信心をもたなくなるなら、偶像崇拝になってしまうでしょう。カトリックという宗教はすべてが天に向かっています。この世のものには執着しないのです。

私たちが地上で礼拝する唯一のものは、ご聖体にまします私たちの主イエズス・キリストご自身です。なぜなら、主は天主であり、まことの天主よりのまことの天主であり、御父と等しいお方であって、それゆえに、私たちが礼拝するのに値するお方であるからです。東方の賢者たちが主を礼拝した(マテオ2章11節)ように、また、主が癒やされた盲人が主を礼拝した(ヨハネ9章38節)ようにです。私たちの主イエズス・キリストを礼拝するのを拒否することは、非常に重大な罪です。

実際には天主でない「神々」を礼拝することは、唯一のまことの天主が存在するのですから、仏陀であれ他のインドの神々であれ他の偽りの神々であれ、そういうものを礼拝することは非常に重大な罪です。偶像崇拝は、単にまことの天主について無知であるだけではありません。まことの天主ではない誰かとか何かに敬意を示したり礼拝したりすることです。ですから、それは最も理性に反しています! 私たち人間の理性には、これがいかに間違っているのかが簡単に分かります。ヒンドゥー教の神々やエジプトの神々、ギリシャやローマの異教の神々などすべての神話に対する信仰を、いったいどのようにしたら持つことができますか? イスラムでさえ、信仰を持つ価値はありません。ムハンマドは、アッラーが彼に啓示したと主張していますが、彼は自分の受けた啓示が天主に起源を持つことを決して証明していません。奇蹟もなく、預言もなく、何もありません。あるものと言えば剣(つるぎ)だけです! それはむしろ、悪魔に起源を持つことの証明でしょう。

唯一のまことの天主を偽りの神々と同じレベルに置くこと、これは1986年にアッシジで行われ、この恥ずべき例ののちも最も高い地位の人々によって何回にもわたって行われてきましたが、私たちの主イエズス・キリストを偽りの神々と同等とみなすこともまた、第一戒に反する非常に重大な罪です。天主は非常に明確に言われます。「私以外どんなものも天主とするな」(脱出20章3節)。偽りの神々を、唯一のまことの天主と等しいレベルに、私たちの主イエズス・キリストと等しいレベルに置くことは、誰にも許されません。教皇がそれを行うとき、第一戒に反する重大な罪を行うとき、それは非常に重大な恥ずべき行いです。

偽りの神々への礼拝は、第一戒に反しています。まことの天主への誤った礼拝も、第一戒に反しています。これは、現代のユダヤ人と異端者に起きていることです。旧約の天主はいとも聖なる三位一体であり、実際に唯一のまことの天主です。しかし、旧約の礼拝はすべて、ご托身に向けられており、私たちの主イエズス・キリストに向けられています。主の来臨の準備だったのです。主が来られたとき主を拒否して、主が来られなかったかのようにメシアの来臨を待ち望むことは、旧約そのものに忠実ではありません。私たちの主はファリザイ人に言われました。「あなたたちは聖書を探り、その中で永遠の命を得ようと思っている。その聖書は私を証明している」(ヨハネ5章39節)。「父のみ前にあなたたちを訴えるのが私だと思ってはならぬ。訴えるのはあなたたちの頼みとしているモーゼである。もしあなたたちがモーゼを信じるなら、私をも信じるだろう。モーゼの記したのは私のことだからである。あなたたちはモーゼの書を信じないのに、どうして私の言葉を信じるだろうか」(ヨハネ5章45-47節)。

まことの天主への誤った礼拝はまた、異端者の中にも見られます。その理由は第一に、彼らが一致を愛する愛徳、私たちの主イエズス・キリストが建てられた教会の一致を愛する愛徳に基づくまことの礼拝を行わないからです。もう一つの理由は、彼らのほとんどが礼拝そのものを歪めているからです。ルターはミサに我慢することができませんでした。ルターは、非常に暴力的な方法で、ミサの聖なる犠牲に反対しました。しかし、ミサの聖なる犠牲は、新約のまことの礼拝の最高の行いなのです!

親愛なる兄弟の皆さん、少し長くなりましたが、礼拝は非常に重要な義務であり、そのため、礼拝が何であるかをよく理解することは非常に重要です。天主の最高の優越性を証言することです。礼拝は、信仰、希望、愛という内的礼拝によって、特に祈りと信心業によって実践されますが、また讃美(声に出す祈り=口祷)によって、礼拝によって、十分の一税によって、そして何にもまして、教会のまさに中心であり天国の永遠の命の中で礼拝するための準備である、ミサの聖なる犠牲によって、外的に実践されます。十字架上の犠牲と非常に密接に一致しておられた童貞聖マリアが、私たちが天主を礼拝し、私たちの主イエズス・キリストを可能な限り天主にふさわしい方法で礼拝するのを助けてくださいますように。そして、それによって、私たちが天国に行くことができますように。アーメン。

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