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Channel: Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた
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マリア様の御心は、カルワリオと神秘的に全く同一であることについて

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アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

2016年4月2日 復活の土曜日(初土)に大阪で聖伝のミサを捧げました。その時のお説教をご紹介いたします。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭) 

2016年4月2日 復活の土曜日 のミサ
小野田神父 説教

聖母の汚れなき御心巡回教会にようこそ。今日は2016年4月2日、復活の土曜日のミサを捧げています。今日は4月の最初の土曜日、初土曜日ですので、マリア様の御心に対する信心でこの御ミサを捧げていきましょう。このミサの後には、いつものように公教要理の勉強会があります。今回はプロジェクターを使って、皆さんに、聖ヨハネによる福音の最近の映画をご覧になって頂いて、是非そこからイエズス様の御復活と、聖書について話を、勉強をしていきたいと思っています。

それから次のミサは4月10日の主日に、夕方の18時からミサがあります。また4月15、16日にもミサがあります。


聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

今日は復活の土曜日で、土曜日はいつもマリア様に捧げられた曜日です。なぜマリア様に捧げられたかというと、色々な理由があります。

一番の理由は、イエズス様が十字架に付けられてお亡くなりになった時、十字架の上で、霊魂と肉体が離れてお亡くなりになって、復活の主日までその丸1日間、その安息日の間、弟子たちは皆イエズス様を、イエズス・キリスト様を信じず、逃げたり、隠れたり、もう絶望したり、心を失ってしまっていたにもかかわらず、マリア様だけは固く、イエズス様の傍に留まって、心も留まって、イエズス・キリスト様の御復活を深く信じて、待ち望んでいたからです。そこで今日は、復活の土曜日ですので、マリア様の御心に私たちも、心を馳せる事に致しましょう。

昨日、夕食の時に皆さんと、「エンマウスの弟子たちには、イエズス・キリスト様は違った形で姿を現わしたけれども、しかしそれは、エンマウスの弟子たちがもう既に、キリストに対する信仰を失いかけていたからだ、心が遠くあったからだ。しかしパンを割いて共に食事をした時に、『あ!これこそイエズス・キリスト様だ!』と認識した、目からウロコのようなものが落ちて、主と分かった。イエズス様に近ければ近いほど、すぐに分かる」という話をしましたが、マリア様は、イエズス様の心に最も近くおられた方でした。ルカの聖福音によると、「マリア様は、全てのイエズス様の御誕生の事など、全ての事を自分の心に深く留めておいた。それを思い巡らしておいた。」と書かれてありますから、マリア様の御心はいつも、イエズス・キリスト様の神秘を深く留めて、黙想していた方です。

では、イエズス・キリスト様の贖いの神秘、一番大切な行為というのは一体どこで行われたでしょうか?

それはもちろん、カルワリオです。そこで今日は、「カルワリオで行われた事」という事と、「マリア様の御心で行われた事」というのを比較しながら、実はマリア様の御心というのは、カルワリオと神秘的に全く同一であるのではないか、という事を黙想したいと思っています。その黙想をして、ではマリア様の御心の、カルワリオのそのますます似通ったところを見て、では私たちもマリア様に倣ってどのようにしたらよいのか、私たちはこの復活祭の決心をどうやって立てたら良いのか、という事を黙想致しましょう、決心を取る事に致しましょう。

カルワリオというのは一体何でしょうか?カルワリオというのは、聖地に於いて、全人類の贖いの業が行われた、天主の御子、人となった御子イエズス・キリスト様がその上で亡くなられた、私たちの救いの十字架の立てられる、最も重要な山です、丘です。

マリア様の御心というのは何でしょうか?マリア様の御心というのは、マリア様の御体と霊魂に於いて、最も高貴で、最も高い頂点に立つものです。ですからマリア様の心も、マリア様の最も高貴な山のようなものだ、と言う事ができるではないでしょうか。

創世記によると、創世記の20章によると、アブラハムは天主ヤーウェの命令によって、「イザアクを屠りにモリヤの山に連れて行け」と書かれています。モリヤの山というのは、聖伝によると、実はカルワリオの山と全く同じ山です。ですからダビドは、王のダビドは、このモリヤの、イザアクが犠牲(いけにえ)に捧げられようとして、その最後の最後の段階にストップがかけられて、その代わりに羊が捧げられましたが、その山にやはり祭壇を立てて、ペストが止まるように、その当時困らせていたペストが止まるように、犠牲(いけにえ)をヤーウェに捧げています。同じ場所に、何故かというとモリヤの山とシオンの山というのは繋がっているのでそうなのですけれども、サロモンは神殿を、エルサレムの神殿を建てます。

つまりカルワリオというのは、アブラハムの犠牲(いけにえ)、イザアクの犠牲(いけにえ)、ダビドの犠牲(いけにえ)、ソロモンの神殿が建てられて、遂には十字架のイエズス・キリスト様の犠牲(いけにえ)によって完成させる、犠牲(いけにえ)の祭壇の場所であると分かります。

ではマリア様の、マリア様というイエズス・キリスト様を宿した、天主の御母のマリア様というアブラハムの娘、ダビドの娘の心を見ると、その御心には最も高貴な、もっとも聖なる神殿が建てられていたではないでしょうか。イエズス・キリスト様という本当のソロモン、永遠の知恵、人となった天主が、そこに於いて屠られるべき最初の十字架が、そのマリア様の心に立てられたからです。

何故かというとマリア様は、イエズス・キリスト様と一心同体に十字架の苦しみを受けられた方です。何故かというと、シメオンの預言があった通り、「あなたの心も、剣で刺し貫かれるだろう。」イエズス・キリスト様の苦しみを、全く自分のものであるかのように、心に苦しんだお母様であるからです。

十字架の立てられたカルワリオは、イエズス様の、天主の御血であって、ダラダラと垂れる血潮によって真っ赤に染められました。ですからカルワリオの地は、本当に天主様の流された、黄金や銀の値よりもはるかに高貴な値によって聖化されて、特別の土地となりました。聖ペトロは、「あなたたちは、単なる金や銀の値ではなく、天主の子羊の御血によって贖われたものである。高貴なものである。」という事を言っています。

その血はカルワリオに流されたのですけれども、でもマリア様の御体には、イエズス様に与えた、養ったその同じ血潮が流れているばかりではなく、愛と同感受難によって、愛とイエズス様と全く共感した御苦しみによって、イエズス様の御血潮が全くマリア様の心に染み渡って、染み通り、貫いて、あたかもイエズス・キリスト様の御苦しみが自分の苦しみであるかのように感じ取られたはずです。ですから霊的に、神秘的に、マリア様の心には、イエズス様の貴き御血潮が染み渡っていた、と言う事ができるのです。

カルワリオでは、イエズス・キリスト様が多くの傷を受けました。十字架の茨の冠は刺し貫かされて、釘によって手足は貫かれましたし、槍によって聖心は開かれました。またロープによって縛り付けられたり、或いは苦いものや酢を飲まされたりしました。

シメオンの預言によれば、お母様であるマリア様の心は、イエズス・キリスト様が受けたのと全く同じ傷を心に、霊的に受けて、それを自分のものであるかのように苦しんでいました。聖ボナヴェントゥーラという神学者は、「マリア様は、十字架の下にただ単に突っ立っていただけではなく、霊的に、御子キリストの十字架と共に、十字架の上に共に付けられて、イエズス・キリストと同じ苦しみを受けて、愛する心で十字架の苦しみを受けていた。その心は御心は、苦しみの剣によって刺し貫かれていた。シメオンの預言は全く成就していた。」と言っています。マリア様は、十字架に付けけられたイエズス・キリストと共に、ご自分もその心に於いて、御心に於いて、屠られていたのです。

教父たちによると、教会の伝統を受けた、イエズス・キリスト様の事をよく知っていた昔の人たちによると、「イエズス様が十字架の上で最初に言った言葉、『父よ、彼らを許し給え。その彼らはそのなすところを知らざるがなり。』と言ったこの言葉こそ、本当の愛の奇跡だ。」と言います。聖アウグスチヌスはそのこの言葉を黙想して、「これこそ愛の奇跡であって、マリア様はこの言葉を聞いて、おそらく自分の心でその言葉をこだまさせていただろう、『父よ、彼らを許し給え。彼らはそのやっているところを知らないからです。』と、何度も何度も、繰り返し祈っていたに違いない。」と言っています。

キリスト様は、天主の最高の権威を以て、はっきりと宣言します、「見よ。女よ、汝の子ここにあり。」ヨハネを通して、最高の権威を以て、「汝の母ここにあり。」「見よ、これがお前の母だ。」とマリア様を指して言います。マリア様の御心はそれを聞いた時に、「自分はこれからは、ヨハネを通して全人類の母となった。」という事をはっきりと自覚します。「自分がイエズス・キリスト様を愛した、その母の愛を持って、全人類を愛そう。その人類の救いの為に祈り、苦しもう。この為に全てを使おう」「子供を愛した、そのイエズス・キリストを愛したその愛を以て、人類を愛そう」と決心されました。

カルワリオというのは一体何でしょうか?カルワリオというのは、イエズス様がまさにそこによって亡くなられた、十字架の上で亡くなられたその場所であって、そのすぐ近くに墓に葬られて、よみがえった場所であります。つまり私たちの贖いの業が完成させられた所であって、私たちの贖いの成就した所です。

ここまで見てくると、マリア様の心もまさに同じです。イエズス様と共に、第2のエヴァとして、第2のアダムであるキリスト様と共に、贖いの業を十字架の木によって完成させて、イエズス・キリスト様と共に葬られて、最初に十字架の死による贖いを完成させたその所が、「マリア様の汚れなき御心」でした。

そればかりではありません。マリア様の御心は、イエズス様の御復活を最初に受けた所であります。教父たちによると、教会の昔からの偉い学者たちによると、「イエズス・キリスト様は、御復活のその最初に、御自分のお母様であるマリア様に現れて、御自分の復活の喜びと、栄光を、マリア様に伝えて、マリア様を慰めた。」と伝えられています。何故かというと、マリア様だけは、イエズス・キリスト様の復活を決して疑った事もつゆ1つ、夢疑った事もない、忠実な霊魂だったからです、汚れのない霊魂だったからです。ですからこの汚れのない、最後まで忠実に従って、ビダリとも微動とも動かなかったその御母の心に、子供がその喜びと、復活の栄光をすぐに見せて、無限のほぼ無限の喜びと、幸せを、お母様に伝えたのは、全くイエズス・キリスト様に相応しい事であって、道理の適うものであります。

こうすると、マリア様の御心はいつも、「主の御旨を果たそう」と、自分の都合や、自分勝手な事や、自分のやりたい事というよりは、「主の御旨を果たしたい」「主の聖なる務めを果たしたい」というその事に於いて、自己に、自分に死んでいた、主の為に生きていた霊魂だ、と言う事ができます。

マリア様の御心はいつも、イエズス・キリスト様の神秘を黙想していて、その中に完全に溶け込んでいた霊魂だ、という事が分かります。マリア様の霊魂は、その主を愛するが為に、その「主の御旨は何か」という事をいつも考えて、その御旨を遂行する事だけに生きていた霊魂だ、と分かります。

マリア様の霊魂はですから、イエズス・キリスト様の御旨と、その聖心と全く一致していた、1つになっていた、分かち難く1つになっていた心だ、と分かります。マリア様の御心はつまり、イエズス・キリストの心であって、つまりイエズス・キリストと一心同体だ、と言う事ができます。

そのマリア様の心に、イエズス様が復活の喜びと、栄光を、どうして与えられない事があったでしょうか。もしも聖パウロが、「我にとって生きるはキリストなり。」と言う事があるのならば、マリア様は、「もう私の心は常にイエズス・キリストだ。私にとって生きるというのはイエズス・キリストだ。私にとってイエズス・キリストは全てだ、一番ではなく全てだ。」と言っていたに違いありません。

ですからマリア様は、そのイエズス様を愛するがあまり、人類の贖いの為に、人類の救いの為に、いつも心を砕く母となって、私たちの事を天国から深く愛して、見守って下さっています。

では最後に、復活のこの土曜日に、マリア様の心に倣って私たちは、何を、どのような決心を立てたら良いでしょうか?

私たちもマリア様の御心に倣って、私たちの心をいつもカルワリオに一致させる事を提案します。カルワリオというのは、イエズス様の十字架が立てられた場所であって、イエズス様の贖いが行われた場所であって、復活の場所であって、マリア様の心と全く一致している所ですから、私たちの心にも、イエズス・キリスト様の十字架を深く植えて、その木を立てる事に致しましょう。

イエズス様は仰いました、「もしも私の弟子となりたいならば、自分の十字架をとって私に従え」と。「キリストは苦しみを受けて、復活の栄光に入るべきではなかったのか」と。

私たちもマリア様に倣って、私たちの心に、イエズス様の十字架を深く立てて、イエズス様に従い、復活の栄光まで辿り着くように致しましょう。その為に、私たちの心から十字架が決して取れてしまう事がないように、マリア様の御取り次ぎを、お祈りを、深く乞い願いましょう。

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

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