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天主の十戒「第五戒」ー汝殺すなかれー人間の命は天主のみわざである:聖ピオ十世会司祭 レネー神父様

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アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

レネー神父様の「天主の十戒」についてのお説教をご紹介いたします。

第6回目は、第五戒「汝殺すなかれ。」についてです。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

2016年5月20日 聖霊降臨後の四季の金曜日―大阪 御説教「第五戒」

親愛なる兄弟の皆さん、
第四戒は、天主から私たちが受けた命を私たちに与えてくれた両親へ捧げるべき敬意について定めていましたが、次の掟は人間の命それ自体を尊重するよう私たちに命じています。「汝殺すなかれ!」(脱出[出エジプト]20章13節)。人間の命を尊重すべき根本的理由として真っ先に挙げられるのは、人間の命は天主のみわざであるからです。「天主に似せて、天主にかたどって」(創世記1章26節)つくられた、地上における最も高貴な被造物(である人間)を傷つけること、ましてや破壊することは許されていません! 私たち自身の命でさえもです。なぜなら、私たちは自分の命をつくったのではなく、天主からそれを受けたのであり、それゆえにそれを正しく扱わなければならないからです。このため、自殺は重い罪であり、誰も自分の命は自分のものだと言って言い逃れをすることはできません。私たちには、天主が与えてくださったものを破壊することは許されていません。私たちの命の終わりのときにあってさえ、種々の病気のため生きることに疲れ果てているとしても、私たちは食べ物を取るべきであり、安楽死を行うのは許されていません。それは自殺なのですから。隣人の命を尊重すべき第二の理由は、主によって与えられています。「他人からしてほしいと思うことを、あなたたちも他人に行え。これが律法であり預言者である」(マテオ7章12節)。私たちは、隣人が私たちの命を尊重するよう望むのですから、私たちも隣人の命を尊重すべきです。

罪のない者を殺すことは、常に非常に重い罪です。不幸なことに、私たちの現代世界では、そんな殺人が増えてしまっています、特に妊娠中絶によって、また今では安楽死によって。中絶は特に重大な罪です。なぜなら、天主の四つの掟に反する上に、その罪をさらに悪くする三つの事情を伴うからです。罪のない赤ちゃんを殺すことですから、明らかに第五戒に反しています。親が子どもに対して持たねばならない気遣いに反するもので、これ以上のものはないのですから、第四戒に反しています。命の伝達を最終的に破壊することですから、第六戒に反しています。最後に、子どもから洗礼の機会を奪うのですから、第一戒に反しています。これら四つの大罪に加え、その罪をさらに悪くする三つの事情があります。実際、被害者に罪がなければないほど、殺人はさらに悪いものなのであり、おなかの中の赤ちゃんほど罪のない者がいるでしょうか? また被害者が弱ければ弱いほど、殺人はさらに悪いものなのであり、おなかの中の赤ちゃんほど弱い者がいるでしょうか? 最後に、殺人が残酷であればあるほど、さらに悪いものなのであり、中絶にはしばしば、子どもの体の切断や、あるいは、大人に対してなされたとすれば、その残酷さのために世界に衝撃を与えるであろうほどのひどい行為が含まれるのです。そして、このすべてに加えて、母親自身、そして父親がしばしば受ける肉体的かつ心理的な害をも考えるべきです。教会には、このような罪に対して厳しい罰がいくつかあることを誰でも理解するでしょう。

しかし、天主の御あわれみは、最悪の罪よりも、更に大いなるものであり、そのため、そんな罪にさえも御あわれみの余地があるのです。しかし、それには本当の悔悛が必要であり、生活を本当に改めることが必要です。その罪の償いをする一つの良い方法は、プロライフ運動で活動することです。また、中絶の罪に陥ってしまったすべての人々が回心の恩寵を得るために、信者の側でも多くの祈りと償いが必要です。

第五戒が、人間の胚についての実験や、家族計画として行われているような、中絶された胎児から取られた人体の一部の売買を禁じているのは明らかです。そのような人体の一部を販売する中絶クリニックや、実験のためそれを購入する研究所はどちらも、とんでもない罪を犯しているのです。 (しばしば金銭によって腐敗している)政治家たちがそのようなことを許すとき、それでそれらの行為が合法化されるのでは決してなく、むしろ人間の胚についての実験を行うことを認可する政治家たちは、彼らの法律が承認したこれらの罪で自らを有罪とするのです。そんな政治家には誰も投票すべきではありません。

第五戒が死刑を禁じていないことに注意することは重要です。それどころか旧約は、国の合法的な当局者が、正義を行い、死刑によって重大な犯罪を罰する権力を持つということを非常に明確にしています。旧約には、それについて多くの例があります。ですから、偶像崇拝や冒涜、殺人、姦淫、その他多くの罪が死刑によって罰せられました。新約においては、私たちの主イエズス・キリストはあわれみと赦しの重要性を強調なさいましたが、冷血殺人などのような重大な罪に対して、死刑を廃止されませんでした。また、教会の全聖伝は死刑を認めました。聖トマス・アクィナスの説明によると、医者が体を救うために壊疽にかかった肢体を除去するように、合法的な当局者は、個人が有罪でありかつ共通善への脅威であった場合は、共通善のために社会から危険な個人を除去できるのです(例えば、麻薬密売人はシンガポールでは死刑に処せられます)。

同様に、第五戒は正当な防衛を禁止していませんが、そのような防衛が正当であるのは、防衛が脅威に対して行き過ぎない場合だけであることを強調しています。これは、個人と国に対して適用されます。戦争に訴えてでも自分を守ることはできますが、隣国の土地に侵入して、勢力の拡張や強欲のために戦争を使うことはできません! 戦争はそれ自体で大きな悪であり、天主による罪深い人類に対する大きな罰です。戦争は、正当な防衛戦争においてさえ、多くの罪の機会、特に憎しみの罪の機会となり得ますから、当然あるべき限度を尊重し憎しみを避けるよう、注意深くなければなりません。

したがって、個人的な復讐は第五戒に反する罪であることが分かります。見た目は正義のように思えても、だれも自分が当事者である事柄については良い裁判官にはなれないのですから、自分が隣人によって害を受けたと思うなら、自分の手で正義を行おうとするのではなく、むしろ、公正な裁判が開かれるよう、それを法廷に持ち込むべきです。

第五戒は、隣人や自分を殺すことだけでなく、隣人や自分の体の一部を損傷したり隣人や自分に他の肉体上の害を与えたりすることを禁じています。そのため、麻薬の使用は、体に大きな害を与えるのですから、第五戒に反する重い罪です。たばこをたくさん吸うことであっても、健康を害する段階に至るなら、これもまた第五戒に反する罪です。もっと強力で早く常習性を引き起こすような他の薬物は、初回の使用でさえも重大な罪です。

体の損傷の典型的な例は、断種や不妊にすることであり、(不妊手術のような)永久に続くものだけでなく、避妊のような「一時的な」ものであってもそうです。これは、子どもを得るという自然の能力を破壊し、損傷の一種であって、第五戒によって禁じられています。それゆえに、そのような損傷の行為には大罪が二つあります。一つは、それが損傷であるがゆえに第五戒に反するのであり、もう一つは命を伝達させる力を乱用するというその動機のゆえに第六戒に反します。現代の世界では、医者はしばしば、女性たちに対して、最初の出産あるいは二番目の出産のあと不妊手術をするよう圧力をかけますが、良き母親は、天主に忠実であるように、その圧力に対して抵抗しなければなりません。

酒の飲み過ぎ、酩酊もまた、第五戒によって禁じられています。これは、体に害を与えるだけでなく、もっとも本質的には、人間から理性の使用を(一時的に)奪い去ってしまうからであり、これは明らかに重大な問題です。この問題では、完全に酩酊してしまうのを避けるだけでなく、少しの酩酊でも避けるべきです。そして、安全な範囲を保ち、決してアルコールを取り過ぎてはなりません。特に過去においてそんな罪に陥ったことがあるのなら、以前犯した罪を償うため、そして再び罪に落ちる危険を避けるため、意識して決して安全な限度を超えないようにすべきです。最も良い方法は、(パブなどの)酒場に足を踏み入れることなどもせず、アルコールを購入するのも完全に避けることです。

私たちの主イエズス・キリストは言われました。「知ってのとおり、昔の人は『殺すな、殺す者は裁かれる』と教えられた。だが私は言う、兄弟に怒(いか)る人はみな裁きを受け」(マテオ5章21-22節)る。したがって、私たちの主は、怒りでさえ第五戒に反すること、そしてそれは通常は大罪ではないものの、特に憎しみを伴ったり、身体的な害を与える場合は大罪になり得ると教えられました。

第五戒は、家庭内の暴力を厳しく禁じています。物理的な暴力だけでなく、言葉による暴力も禁じています。でも、子どもたちをしつけたり正したりすることは禁じていませんが、「知識と柔和」(ヤコボ3章13節)が必要です。親は怒りからではなく、愛によって、子どもたちの善だけのために子どもたちを正すべきです。親は自分を完全に制御しておき、子どもたちを正す前に怒りの感情が鎮まるのを待つべきです。

さて、トレント公会議は、その公教要理の中で、第五戒は肯定的な面を持っており、それは殺人の反対である、と教えています。第五戒は、隣人を積極的に愛すること、特に受けた被害を赦すことと、忍耐や柔和、慈善を行うことを私たちに命じています。私たちの主イエズス・キリストは聖福音で、しばしば被害を赦すことを強く命じられます。「だから祭壇に供え物を捧げようとするとき、兄弟が何か自分に対して含むところがあるのを思い出したら、供え物をそこ、祭壇の前に置き、まず兄弟のところに行って和睦し、それから帰って供え物を捧げよ。反対者とは道の途中で和解せよ。そうしないと、相手はあなたを裁判官に渡し、裁判官は下役に渡し、ついに牢に入れられる。まことに私は言う、『一厘残らず返すまで、あなたは牢を出られない』」(マテオ5章23-26節)。聖アウグスティヌスは、天主は私たちの供え物よりも私たちの心を望んでおられる、と言っています。

聖パウロはそれを非常に簡潔に表現しました。「悪に勝たれるままにせず、善をもって悪に勝て」(ローマ12章21節)。また再び言います。「互いに情けとあわれみを持ち、キリストにおいて天主があなたたちを赦されたように、互いに赦し合え」(エフェゾ4章32節)。また、聖ペトロが言います。「悪に悪を、侮辱に侮辱を返すことなく、むしろ祝福せよ。あなたは祝福の世継ぎとなるためにそう召されたからである」(ペトロ前書3章9節)。

被害を赦すための最大の動機は、私たちの主イエズス・キリストの模範です。「侮辱されても侮辱せず、虐げられても脅さず、正義をもって裁くお方に自分を委ね」(ペトロ前書2章23節)、十字架上で敵のために祈ることさえなさいます。「父よ、彼らをお赦しください。彼らは何をしているか知らないからです」(ルカ23章34節)。

復讐あるいは怒りの誘惑にかられるとき、イエズスのこれらのみ言葉を心の中で何度も繰り返すことは良いことであり、非常に有益です。「父よ、彼らをお赦しください。彼らは何をしているか知らないからです」。これらの聖なる言葉は私たちの霊魂の嵐を鎮め、平安を戻してくれます。また、聖ヤコボは「語るに遅く、怒るに遅く」(ヤコボ1章19節)なるようにと勧めています。皆さんが心の中に怒りが起こってくるのを感じるとき、スピードを落として、ゆっくりと話し、ゆっくりと呼吸をし、自分を完全に制御できるまで、心の中でイエズスのみ言葉を繰り返してください。それから、必要な場合(例えば子どものしつけのため)であれば、厳しい口調で話してもかまいません。でも、そのとき、自分を完全に制御して、ゆっくりと話し、行き過ぎた言葉は避けるようにしなければなりません。

従って、私たちの主イエズス・キリストは、身体的な害ではなく、あわれみを実践することをお求めになります。「あなたたちは、私が飢えていたときに食べさせ、渇いているときに飲ませ、旅にいたときに宿らせ、裸だったときに服をくれ、病気だったときに見舞い、牢にいたときに訪れてくれた…まことに私は言う。あなたたちが私の兄弟であるこれらのもっとも小さな人々の一人にしたことは、つまり私にしてくれたことである」(マテオ25章35-36,40節)。このようなあわれみを実践することは、第五戒に反する罪の償いをする素晴らしい方法です。

優しき童貞、全ての母親の模範である童貞聖マリアに祈りましょう。私たちが人の命を尊重し、赦しと柔和、あわれみの徳を実践するよう、私たちを助けてくださいますように。あわれみの御母、われらのために祈り給え! ああ、心の柔和、けんそんなるイエズス、われらをあわれみ給え、われらの心を聖心にあやからしめ給え! アーメン。

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