三 十 日 聖 マ リ ア の 道
されば子供等よ、今(いま)我に聞け、我(われ)道を守る者は幸(さいわ)いなり (箴言一八。三二)
我等はこの聖母月を迎えてから、先(ま)ず聖マリアが救い主の御母として、永遠の昔より天主に選(えら)まれ給うた事、次には悪魔の勢力が聖母の御力に打ち砕(くだ)かれるという天主の人(じん)祖(そ)に対する御約束など、順次(じゅんじ)黙想を続けて来たが、聖マリアの御生涯(ごしょうがい)は実に始めから仕舞(しま)いまで、一つとして我等の救いと永遠の幸福に関係せぬ所はない。
しかして聖母は常に我等が一人残らず救われて、天国の住民となる事を切(せつ)に望(のぞ)ませ給い、今、聖母月の終わりに当たり、この冒頭(はじめ)に掲(かか)げた通り「されば子供等よ、今,我に聞け。我が道を守る者は幸いなり」と仰せになるのである。
それでは聖マリアの道とは如何なる道であろうか。聖マリアは全く御子(おんこ)イエズスと行(こう)を共にされたのであるから、聖マリアの道は取りも直さずイエズスの歩(あゆ)まれた道である。それは天主と人とに対する愛の道に他(ほか)ならぬ。イエズスが聖(とうと)い天主の御身を以て此の世に降(くだ)り、卑(いや)しき肉の体(からだ)を受けて多くの苦しみを嘗(な)め、最後に冤(むじつ)の罪を担(にな)うて十字架上の露(つゆ)と消え給うたのも、聖マリアが天主の御母たる重大な責任を受けて、或る時はシメオンの予言に心を痛め、或る時は遠いエジプトに流浪(さすら)い、十字架の道に、御子の御死去に、云い尽くせぬ悲(かな)しみを味わい給うたのも、皆これ天主御父(おんちち)を愛し、我等を愛し、救いの事業を完成される為ではなかったか。
しかもその愛は浅(あさ)はかなものであってはならぬ。一切の艱難(かんなん)に災禍(さいか)に遭(あ)い、あらゆる苦しみ悲しみに試(ため)されても確乎(かっこ)として揺(ゆ)るぎなき真(まこと)の愛でなければならぬ、云い換(か)えればこの愛の道はカルワリオの十字架の下(もと)に至っていなければならぬ。ここに於いてか、イエズス・マリアの愛の道は叉、犠牲の道、十字架の道と云ってもよいのである。
聖パウロはこの真の超自然的愛と犠牲その他の諸徳(しょとく)との関係を実に美しく説明して「愛は堪忍(かんにん)し、情(なさ)けあり、嫉(ねた)まず、自慢(じまん)せず、怒(おこ)らず、不義(ふぎ)を喜ばず、何事をも信じ、何事をも希望し、何事をも怺(こら)うるなり」と云っている。
聖母は我等に向かって「今我に聞け!」と仰せられた。故に我等はその御言葉に従(したが)って、イエズス・マリアの通られた愛の道、犠牲の道を進もう。勿論(もちろん)それは中々生(なま)やさしい覚悟くらいで歩(あゆ)める道ではない。その茨(いばら)の道に踏(ふ)み出す時には、先ず大先(だいせん)達(だつ)なるイエズス・キリストの御精神、聖マリアの御精神をわが心に確固(かっこ)と植え付け、超自然の世界に霊の眼(まなこ)を睜(みひら)かねばならぬ。そして如何に坦々(たんたん)として歩(あゆ)み易(やす)そうな大道が右(みぎ)左(ひだり)に見えても、それには一(いっ)切(さい)目もくれず、唯 わが前に印(いん)せられたイエズスと聖母の御足跡(おんあしあと)だけを見つめて、一歩一歩進むべきである。キリストが「滅亡(ほろび)に至る道は広し」と警(いま)戒(し)められ、叉、「十字架をとりて我が跡に従え」と命ぜられたのも、此処(ここ)の事である。
かようにして「我に聞け!」と仰せられた聖マリアの御跡(みあと)を慕(した)い、一切の思い、言葉、望み,行為等に於いて及ぶ限り聖母に肖(あや)からしめるように努(つと)めるならば、「我が道を守る者は幸いなり」というその次の御言葉(みことば)も必ず実現される事は疑(うたが)いない。
何となれば、イエズス・マリアの愛の道、犠牲の道は険(けわ)しく茨(いばら)に満ちて居る上に、最後はカルワリオの十字架で終っているように見えるけれども、その先は主の御昇天(ごしょうてん)、聖母の被(ひ)昇天(しょうてん)によって直ちに天国に連(つら)なっているからである。
それは現世(このよ)の快楽(かいらく)の道、名誉(めいよ)の道、利(り)慾(よく)の道などが麗(うるわ)しい花に飾(かざ)られているようで、しかもその下に滅亡(ほろび)の底なしの淵(ふち)を隠(かく)しているのとは、雲泥(うんでい)の差もただならぬ。故に我等は聖母月の記念として「されば子供等よ、今我に聞け、我が道を守る者は幸いなり」との御母の御言葉を肝(きも)に銘(めい)じ、我等の行く手を照らす炬(たい)火(まつ)としよう。
祈 願
ああ慈愛(いつくしみ)の御(おん)母(はは)、天国への案内者よ、我等は一切(いっさい)を御身の御手(みて)に委(ゆだ)ね奉(まつ)り、今より後、真(まこと)の愛を以て、人々の心に歓喜(よろこび)と平和の種子(たね)を蒔(ま)きつつ御身(おんみ)の示し給える道を進まんとす。
何卒(なにとぞ)、繊(か)弱(よわ)き我等を助けて恙(つつが)なく最後の目的地に達せしめ給わん事を、恭(うやうや)しく天使祝(しゅく)詞(し)三度繰(く)り返して願い奉る。
(天使祝詞 三度)
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されば子供等よ、今(いま)我に聞け、我(われ)道を守る者は幸(さいわ)いなり (箴言一八。三二)
我等はこの聖母月を迎えてから、先(ま)ず聖マリアが救い主の御母として、永遠の昔より天主に選(えら)まれ給うた事、次には悪魔の勢力が聖母の御力に打ち砕(くだ)かれるという天主の人(じん)祖(そ)に対する御約束など、順次(じゅんじ)黙想を続けて来たが、聖マリアの御生涯(ごしょうがい)は実に始めから仕舞(しま)いまで、一つとして我等の救いと永遠の幸福に関係せぬ所はない。
しかして聖母は常に我等が一人残らず救われて、天国の住民となる事を切(せつ)に望(のぞ)ませ給い、今、聖母月の終わりに当たり、この冒頭(はじめ)に掲(かか)げた通り「されば子供等よ、今,我に聞け。我が道を守る者は幸いなり」と仰せになるのである。
それでは聖マリアの道とは如何なる道であろうか。聖マリアは全く御子(おんこ)イエズスと行(こう)を共にされたのであるから、聖マリアの道は取りも直さずイエズスの歩(あゆ)まれた道である。それは天主と人とに対する愛の道に他(ほか)ならぬ。イエズスが聖(とうと)い天主の御身を以て此の世に降(くだ)り、卑(いや)しき肉の体(からだ)を受けて多くの苦しみを嘗(な)め、最後に冤(むじつ)の罪を担(にな)うて十字架上の露(つゆ)と消え給うたのも、聖マリアが天主の御母たる重大な責任を受けて、或る時はシメオンの予言に心を痛め、或る時は遠いエジプトに流浪(さすら)い、十字架の道に、御子の御死去に、云い尽くせぬ悲(かな)しみを味わい給うたのも、皆これ天主御父(おんちち)を愛し、我等を愛し、救いの事業を完成される為ではなかったか。
しかもその愛は浅(あさ)はかなものであってはならぬ。一切の艱難(かんなん)に災禍(さいか)に遭(あ)い、あらゆる苦しみ悲しみに試(ため)されても確乎(かっこ)として揺(ゆ)るぎなき真(まこと)の愛でなければならぬ、云い換(か)えればこの愛の道はカルワリオの十字架の下(もと)に至っていなければならぬ。ここに於いてか、イエズス・マリアの愛の道は叉、犠牲の道、十字架の道と云ってもよいのである。
聖パウロはこの真の超自然的愛と犠牲その他の諸徳(しょとく)との関係を実に美しく説明して「愛は堪忍(かんにん)し、情(なさ)けあり、嫉(ねた)まず、自慢(じまん)せず、怒(おこ)らず、不義(ふぎ)を喜ばず、何事をも信じ、何事をも希望し、何事をも怺(こら)うるなり」と云っている。
聖母は我等に向かって「今我に聞け!」と仰せられた。故に我等はその御言葉に従(したが)って、イエズス・マリアの通られた愛の道、犠牲の道を進もう。勿論(もちろん)それは中々生(なま)やさしい覚悟くらいで歩(あゆ)める道ではない。その茨(いばら)の道に踏(ふ)み出す時には、先ず大先(だいせん)達(だつ)なるイエズス・キリストの御精神、聖マリアの御精神をわが心に確固(かっこ)と植え付け、超自然の世界に霊の眼(まなこ)を睜(みひら)かねばならぬ。そして如何に坦々(たんたん)として歩(あゆ)み易(やす)そうな大道が右(みぎ)左(ひだり)に見えても、それには一(いっ)切(さい)目もくれず、唯 わが前に印(いん)せられたイエズスと聖母の御足跡(おんあしあと)だけを見つめて、一歩一歩進むべきである。キリストが「滅亡(ほろび)に至る道は広し」と警(いま)戒(し)められ、叉、「十字架をとりて我が跡に従え」と命ぜられたのも、此処(ここ)の事である。
かようにして「我に聞け!」と仰せられた聖マリアの御跡(みあと)を慕(した)い、一切の思い、言葉、望み,行為等に於いて及ぶ限り聖母に肖(あや)からしめるように努(つと)めるならば、「我が道を守る者は幸いなり」というその次の御言葉(みことば)も必ず実現される事は疑(うたが)いない。
何となれば、イエズス・マリアの愛の道、犠牲の道は険(けわ)しく茨(いばら)に満ちて居る上に、最後はカルワリオの十字架で終っているように見えるけれども、その先は主の御昇天(ごしょうてん)、聖母の被(ひ)昇天(しょうてん)によって直ちに天国に連(つら)なっているからである。
それは現世(このよ)の快楽(かいらく)の道、名誉(めいよ)の道、利(り)慾(よく)の道などが麗(うるわ)しい花に飾(かざ)られているようで、しかもその下に滅亡(ほろび)の底なしの淵(ふち)を隠(かく)しているのとは、雲泥(うんでい)の差もただならぬ。故に我等は聖母月の記念として「されば子供等よ、今我に聞け、我が道を守る者は幸いなり」との御母の御言葉を肝(きも)に銘(めい)じ、我等の行く手を照らす炬(たい)火(まつ)としよう。
祈 願
ああ慈愛(いつくしみ)の御(おん)母(はは)、天国への案内者よ、我等は一切(いっさい)を御身の御手(みて)に委(ゆだ)ね奉(まつ)り、今より後、真(まこと)の愛を以て、人々の心に歓喜(よろこび)と平和の種子(たね)を蒔(ま)きつつ御身(おんみ)の示し給える道を進まんとす。
何卒(なにとぞ)、繊(か)弱(よわ)き我等を助けて恙(つつが)なく最後の目的地に達せしめ給わん事を、恭(うやうや)しく天使祝(しゅく)詞(し)三度繰(く)り返して願い奉る。
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