アヴェ・マリア・インマクラータ!
愛する兄弟姉妹の皆様、
2016年6月3日(初金)イエズスの至聖なる聖心の大祝日に大阪で聖伝のミサを捧げました。その時のお説教をご紹介いたします。
天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)
2016年6月3日 初金曜日 至聖なるイエズスの聖心の大祝日
小野田神父様御説教
聖母の汚れなき御心教会にようこそ。今日は2016年6月3日、イエズス様の至聖なる聖心の大祝日。初金です。今日、このイエズス様の聖心の大祝日に、この聖母の汚れなき聖心教会で私は初めてミサをする事ができて、その御摂理に感謝しております。日本が開国して、そして横浜に山手教会ができて最初に作られた教会が「イエズス様の聖心」の教会でした。その御摂理に感謝致します。今日はこのミサの後に、聖時間をいつものように行いましょう、そしてイエズス様の愛に感謝を致します。それから昨日、日本の時間で夕方の16時半頃、レネー神父様のお母様がフランスの老人ホームで、2人の自分の司祭である息子たちに看取られながら帰天されたとの事です。レネー神父様のお母様の霊魂の永遠の安息の為にどうぞお祈り下さい。
“DEUS, qui nobis in Corde Filii tui nostris vuluneratio peccatis,
infinitos dilectionis thesauros misericorditer largiri dignaris.”
「天主は私たちに、御子の聖心に、私たちの罪の為に傷付いた聖心において、
その愛の無限の宝を憐れみ深く豊かに与え給う。」
聖父と聖子と聖霊と御名によりて、アーメン。
愛する兄弟の皆さん、イエズス様の聖心の大祝日おめでとうございます。
この大祝日の、私たちの聖心の信心において、一番大切な所は一体どこにあるのでしょうか?私たちはイエズス様の聖心に対して何を行っているのでしょうか?聖心に対する信心というのは、その一番の本質というか中核という核心はどこにあるのでしょうか?イエズス様の聖心が傷付いて、その傷付いた聖心を私たちが何故崇めているのでしょうか?何でイエズス様の聖心は十字架の上で傷付いたのでしょうか?一体これは何を意味しているのでしょうか?イエズス様は一体私たちに何をして下さっているのでしょうか?私たちはその傷付いた聖心を見て、一体何をしなければならないのでしょうか?一体イエズス様が私たちに何をして下さったのでしょうか?イエズス様の聖心のこの大祝日において、私たちは一体何をそんなに信心深く大切に思って、その神秘の一番の極みというのはどこにあるのでしょうか?
それを今日一緒に黙想して、イエズス様の聖心の、傷付かれた聖心の、私たちに何を仰りたいか、というのを黙想して、そのイエズス様の聖心に対して何をしなければならないのかを黙想してみたいと思います。
集祷文によると、「天主様は、御自分の愛の全ての宝を、この罪によって傷付かれた、私たちの罪によって傷付かれた御子の聖心においてのみ、憐れみ深く、私たちにたくさんそれを与える事を望んでいる」と言っています。
イエズス様の聖心はまさに、愛の無限の宝を私たちに与えようとするその根源であって、その源であって、その原因なのです。イエズス様はこの聖心を以て、永遠の昔から、私たちの事を考えておられました。
これが入祭誦でそう言っています、「その天主様の心の考えは、昔から、永遠の昔から、私たちを死から救い、そして私たちを飢えから養う、飢えにおいて養う事であった。」
イエズス様の聖心は傷付いています。聖務日課によるとその理由は2つあると言います。
何故傷付いたかというと、1つは、「私たちの罪が、罪の行列が、兵士の槍を導いて、イエズス様の心を傷付かせた。私たちの罪が故に、イエズス様の聖心は砕かれた。私たちが罪をあまりにも犯すので、私たちの罪の為に、その罪を償うが為に、イエズス様の聖心は潰されて、そして罪の償いを果たした。」
もう1つ、聖務日課ではこう言うのです、「イエズス様の聖心は、実は傷付いたのは、私たちを愛するがあまり、目に見えない愛、私たちに対する目に見えない愛があまりにも大きかったので、私たちに対する愛に燃えていたので、私たちに対する愛に満ち充ちていたので、あまりにも私たちに対する愛が激しかったので、その愛によって聖心は傷付いていた。私たちを愛するがあまり、その心は傷付いていた。私たちを愛する純粋の花婿として、純潔な花婿として愛に狂ってしまったが為に、その既に目に見えない傷を負っていた。その目に見えない愛の傷が見える事ができるように、どれほど私たちを愛しているかという事が見える為に、敢えて十字架の上で聖心は開かれた、傷付けられた。これは、『イエズス様が私たちをどれほどまでに愛しているか』という事の、目に見えるシンボルである。」と、聖務日課は謳っています。
イエズス様は私たちの為に何をして下さったのでしょうか?イエズス様は、永遠の昔から私たちの事を考えて下さって、愛しておられて、私たちの為に、頭で考えた事もないような、目で見た事がないような、耳でも聞いた事がないような、心で思った事もないような、ものすごい幸せを、永遠の天主の命を与えようと考えて下さいました。
そしてその為に、私たちをこの地上において、そしてこの地上に美しい大自然と、喜びを、私たちに与えようと思って下さいました。そしてこの地上での幸せな人生の後に、永遠の命を与えようと思いました。
この愛の計画が、人間の罪によって崩されても、それにもかかわらず、なんとか私たちに「永遠の命を与えよう」と、愛の限りを尽くして下さいました。イエズス様は私たちを愛するがあまり、私たちと同じ人間の姿をとって人間の本性をとって、私たちと共に生活されました。33年間苦しみの生活を送られました。私たちを愛するがあまり、イエズス様は十字架の受難さえも喜んでお受けになりました。私たちが本当なら払うべきであった罪の償いを、イエズス様が全て払って下さいました。
そればかりではありません、それで満足しませんでした。イエズス様は愛するがあまり、私たちに御聖体をも下さろうとしました。御自身を御聖体として、霊的な糧として下さろうとしました。その昔、天主は「婚姻」という制度を作って、2人の、「もはや2人ではなく1人だ。この2人は1人の肉体となる。」と言われましたが、それはまさに御聖体の前兆でなくて何だったでしょうか。
イエズス様は私たちに、全く御自身を、「残り尽くす事なく与えたい」とさえも思いました。私たちの肉体と御自分の肉体を1つにしたい。私たちの肉体をイエズス様の肉体と同じようにしたい、と思われました。
そればかりではありません。御聖体の中には、イエズス様の御体、御血、御霊魂、御神性が含まれておられるので、私たちの霊魂とイエズス様の神性は1つとなる事ができます。もはやイエズス様と私たちの間には、何も分け隔てるものがなくなるほどまで、イエズス様は愛されました。
私はこのイエズス様のなさった愛の例え話を色々考えました。このように似たような話はあるだろうか。どうやったらこの私たちは、このそれに似通った話をうまく説明できるだろうか。色々考えました。私たちの目の前に、あるお友達がやって来て、毎日のように、「どれほど私たちを愛しているか」という事を態度で示そうとして、私たちにきめ細かい親切をして下さる方が現れた。そしてその方が私たちの為に、自分の持てるものを全て与えてくれる、親切をして下さる、これをやってくれる、あれもしてくれる。そしてもう私たちのそのきめ細かい愛情によっても、もう私たちはその彼が、或いはこの彼女が、私たちにとって「とても好意を寄せて下さる」という事がよく分かる、という話。でもそれはイエズス様の、天主様の無限の愛と比べれば、太陽に映った影のように、ほんの憐れなものにしか過ぎません。
例え私たちの友人が、その命を尽くして、全てを、全財産を尽くして、こう私たちの為に、「さぁこれを使って下さい。自分をもう捧げます。どうぞ奴隷として、奴隷のように考えて欲しい。もう友人として考えて欲しい。」と言ったとしても、それも全く影法師のような、イエズス様の愛と比べれば何でもありません。
私たちの目の前に突然王子様が現れて、とても親切を尽くして、私たちをいつも、「私たちをこれほども愛している」という事を見せて下さって、行動で表わして下さる方が現れたとしても、イエズス様の愛に比べれば全く何でもありません。
そこで、色々考えたのですけれども、できればシュテーリン神父様が色々話して下さったように、色んな例え話を思い浮かべたのですけれども、でもイエズス様の私たちに本当になさって下さった愛の行動をみると、想像の世界と、そしてこのイエズス様が与えて下さった秘蹟と、御聖体と、十字架の上の御受難。この愛の宝を目の前にすると、もう例え話は全く何でもないように思われて、もう考えるのをやめました。ですから、それは皆さんが考えて下さい。一体、イエズス様は私たちにどれほどの事を、「愛している」という事を、証拠を見せて下さっているか。
今日来る前にフィリピンで、Angelus Pressから出ている「Love in the Ruins」という本を読みました。それは今から7年前に出版されたものですけれども、その中に「18歳の子が洗礼を受けた。聖伝のミサで洗礼を受けた」という話が載っていました。そしてその話を読んで、読みながらほんの数ページなのですけれども、もう涙が出て止まりませんでした。何故かというとその彼が自分の回心の話を非常にうまく、きれいに書いていて、ぐいぐいと読んで、もうあまりにも美しいので、とても感動して読んだのです。
その彼の回心の話を少しだけさせて下さい。何故かというと、「イエズス様がどれほど私たちを愛しているか、愛して下さっているか」という事の1つの具体的な例だと思うからです。
彼は匿名で、「美門と言われる門」、「美しい門と言われる門」という題で、自分の回心の話を書いていました。「自分はちょうど、イエズス様から愛を受けて、奇跡的に治癒を受けた、生まれつき足なえの歩く事のできない、『美門』美しい門の前に置かれていたあの乞食と同じだ、そのように思う。私は、奇跡を得る為に、『美しいものを美しい』と理解する事ができる為に、何ら別に特別の功徳もなかった。でも私はただ、イエズス様の憐れみを受けて、『美しいものを美しい』と見る事ができた。」
彼は言うのです、「私が聖伝の御ミサに与ったのは17歳の頃で、その時に英語の先生が私をミサに連れて行ってくれた。で、その同じ先生が、私が1年後に洗礼を受ける時に、この代父になってくれた。でも自分の生活というのは、この足なえのようにもうメチャクチャで、何の秩序もなかった。自分の親友の両親は離婚した。自分の父親は数年前に亡くなった。母親は結婚していない男性と、父が亡くなった後に、結婚していない男性と同居しだして、そして子供を産んだ。そして私には最初のガールフレンドがいた。そして自分の目の前にあったのは、秩序の無い愛の生活だった。その結果も考えないで、自分の好きな放題に生活している人たちがいた。そしてそんな中に、英語の先生が、私を『聖伝のミサ』に、つまり『美しい門』の前に連れて行ってくれた。そして美しいものを発見する事ができた。」
「自分は中産階級の子供で、音楽気違いだった。自分がやっていたのはいつも、勉強もしないで、自分の家の地下室にこもって、音楽を聴いて、ギターを弾いて、タバコと酒を飲んでいた。それだけだった。自分の友達はドラッグを麻薬をやっていて、かなりオープンにやっていて、親は自分の友達の事をもう放棄していて、それで“警察だけには捕まるな”という事しかアドバイスをしなかった。自分のお母さんはカトリックの大きな家族の7番目の娘で、一番下の子で、でも自分のこの教区の神父様が、まだ自分が子供の時に、教区の神父様がいつも主日ごとに夕方、自分のおじいさんおばあさんの家で夕食を食べているのだけれども、この神父様がシスターと結婚して、司祭職を離れた時に、このお母さんも教会に行く興味がなくなってしまった。それから家を出てヨーロッパに渡った。(この子はアメリカで生まれた子なんですけれども。)それでお父さんは、カイロから出身のイスラム教の人で、そのお父さんの両親は、3歳の頃非常に醜い離婚をして、それで一人ぼっちでロンドンに行って、そしてその自分のお母さんと会った。それでアメリカに来て生活をして、自分が生まれた。でもお父さんが死んで、お父さんが死んだので自分もちょっと真面目になろうと思って、金曜日ごとにモスクに行って断食もしたし、お祈りもして、イスラム教の勉強もした。でもあとで、お父さんが実は、『お母さんと結婚する前に別の女性とも結婚していた』という事を知って、『そんな事を許す宗教がどうして良い宗教と言えるのか。そんな宗教が良いという事を見出す理由が見つけられない』と言ってそれでイスラムを離れた。音楽を聞いてばかりいた。」
「そして高校を卒業しなければならないのだけれども、しかし成績が良くなかったので、成績を卒業する為に必要な点が取れなかった。そこで校長先生が特別のプレゼントをしてくれて、英語の家庭教師をつけてくれた。その先生がとても良い先生で、本当に誠実な方で、カトリックだった。それでその先生と一緒に英語の勉強をして、詩を読んだりして話をした。でも今まで自分の周りにいた大人たちはいつも、何か悪い事をすると言い訳をしたけれども、この先生は言い訳をせずに、『良い事は良い、悪い事は悪い』と言ってくれて、そして自分が悪い事をした事を認めれば、すぐにそれを聞いてくれて許してくれて、そしてとても誠実だった。今まで自分の周りにはカトリックの人がいたけれども、その先生は、その人たちから聞いた事がないような話をしてくれた。」
「自分のガールフレンドの家にたまたまいた時に、公教要理の本を見て、たまたま開いたのが『婚姻』のページで、その時に、『婚姻というのは、男が1人女が1人、結婚するもので、離婚はできない』という事が書かれていた。『ハッ。これだ。これこそが正しい。』と思って、『やっぱりカトリックだ。』と思った。」
「今まで聞いたのは、『悪い事でも、それはそれでいいんだ。それが憐れみだ。』という事を聞いたけれども、しかしそうじゃない。『悪い事は悪い、という一線があるのだけれども、天主様はそれを、私たちを憐れんで、罪は罪で、それは罪は罪として残るけれども悪だけれども、その罪を悔やんだ時に、それを赦して下さる。それこそが本当の憐れみだ。本当の赦しだ。』という事が分かった。『そうでなければ罪を正当化する事であって、罪を否定する事であって、それは本当の憐れみではない。天主様は居て、そして私たちを憐れんで下さる。』という事がその時に分かった。」と言って、「ちょうど雪の降っている時に、その静かに雪がこんこんと降り続く時に、その英語の先生に電話をした。その時に英語の先生は、『じゃあ、一緒に会って話そう。天主様は私たちに静かに話をして下さる。ちょうどこの雪のように、静かに話をして下さる』と言ってくれた。」
彼がその英語の先生に、「僕はイスラムじゃなくて、カトリックだけが正しいと思う。何故ならば、カトリックでは離婚ができないからだ、もしも自分が結婚するならカトリックで結婚したい」と言うと、その英語の先生は、「それもそうだけれども、カトリックでは他の宗教と違う点が1つある。それは、『天主様が私たちを愛して、人間となった』事だ。」
「そう言って、先生はミサに連れて行ってくれた。そしたら、そのミサに連れて行ってくれたのが、今まで知った事のないミサで、ちょうど雪が降っているかのような静かなミサだった。ミサの時に鈴が鳴った。その鈴はちょうど、『私たちに規則があるんだ。』『天主様の規則があるんだ』『秩序があるんだ。』という事を沈黙の内に教えてくれた。最初のカトリックのミサで、その最初のカトリックのミサでは、自分の人生の色んな事が始まり、色んな事が終わりを告げた。そしてこのそこから新しい人生が始まって、そしてこの天主様の憐れみを、何故私がこのように受けたのか。そのような功徳もなかったけれども、今までの生活、酒と音楽とタバコだけの生活と全く断ち切られた、新しい生活が始まった。」という内容でした。
「イエズス様は、イエズス様の聖心の憐れみは、私たちが過去どのようなものであったとしても、良いものであったとしても悪いものであったとしても、私が罪を犯してろうが犯さなかろうが、私たちの事を無限に愛しておられて、そして私たちの為に御自分の命を、御自分の永遠の命を、永遠の喜びを与えようと愛して下さっている。憐れな罪人である私たちを愛して下さっている。」という事が、この彼の文を読んでひしひしと分かった、何か伝わってきたのです。そして何か読んでいてもう涙が出て止まりませんでした。
1週間前に私は韓国に行ってきました。韓国でソウルから田舎に、やはり巡回教会があって、そこに平日にミサをしに行くのですけれども、高速バスで移動します。そのバスの中で、ロザリオを唱えたり、聖務日課をしたり、或いは居眠りをしたりするのですけれども、そのバスの前にはテレビの画面があって、テレビスクリーンがあって、テレビでパク・クネ大統領がアフリカに行っていた映像が時々チラチラ映っていました。アフリカで何かの会議をやっていたらしくて、何かパク・クネ大統領が、アフリカの色んな大臣や偉い人を前に、演説をしていて、大臣はこう話を聞いている。
そしてその次に、韓国の有名な女優、若い女優さんがもう涙を流している姿が出て、「何で泣いてるのかなぁ。」と思ったのですけれども、この女性は話によると、韓国の「国民的妹」と言われるほど何か人気がある女優さんなんだそうです。その女優さんが、アフリカの子供たちが、ゴミの焼却場で住んでいるような子供たちがいて、そこでトラックが、ゴミを捨てていると、焼却して灰がボンボン出るのです。その中でもゴミを漁って、「食べ物がないか」と子供たちがやって来るのです。それである子は、空になったジュースの瓶から飲もうとしたりとか、或いは「このゴミを誰が分けるか」という事で、何か大人が争ってたりする映像があって出て、その女優さんがこうそれを見て涙を流している。「もしかしたらヤラセじゃないかなぁ。」などと思って、「これはテレビ局がこういう風に、いくらなんでもこの空の瓶を、こんな古いジュースをやっぱり飲まないだろうなぁ。」とも思ったのですけれども、「でももしかしたら子供だから飲むかもしれない。」などと思っていました。
そんな画面が映っていたのです。そしてすると、その次に電話番号が載って、“もしもアフリカに献金をしたい人は募金をしているので、もしも助けたい人はどうぞここにお金を送って下さい。”というのがあって、「あぁ、これを見ると、韓国の人たちはきっとたくさんアフリカにお金を送るだろうなぁ。」とそういう事を、「皆これを見ながら涙を流しながら、たくさん助けるだろうなぁ。」という風に思いました。
と、そう思ったのですけれども、同時に、ちょうどこのゴミを漁っている子供たちの姿と、自分の姿が重なってきて、「もしかしたら、このアフリカの子供たちの姿は、私たちの私の姿ではないか。地上の、もうゲヘンナに焼かれるべき、地獄の火に焼かれるべき、被造物のくだらない、腐った、もう本当は食べても飲んでもいけないようなものを漁って、それを欲しい、その為に喧嘩をして“これは俺のものだ”“お前のものだ”と言ったり、もう腐った食べ物を食べたり、罪の醜いものに愛着をしていたり、そして結局はもうそれによって体が健康が破壊されたり、或いはもう病気になったり、もう地獄の有り様、もう地獄へとまっしぐらのような私たち私の姿ではないか。」と思って、「それを王の王である、大統領ではない王であるイエズス様が、聖心を以て私たちを憐れんで、『何とかしてこの悲惨さから健康を与えたい。幸せを与えたい。何とか助けたい。』と思っているのではないか。或いは、マリア様がそのような私たちを見て、涙を流されて、『あぁ、こんなような汚い腐ったものではなくて、もっと天の、天の喜びと、天の食べ物と、天の命に満たされるように』と何か涙を流されているのではないか。」と思いました。
これもイエズス様の聖心の本当になさって下さった事から見ると、本当に影のようですけれども、でも「悲劇」はここにあるのです。アフリカの子供たちは、韓国の方から集められたお金や援助をきっと喜んで受け取る事でしょう。そして韓国の大統領と韓国の国民に感謝をする事でしょう。しかし、「イエズス様が私たちの為にして下さった愛、私たちに与えようとして下さった宝物を、多くの人が拒否して拒む」という事です。
イエズス様は私たちに全てを捧げて、自分の御血全てを、御聖体によって御自分全てを、愛し尽くして私たちに「さぁ、もっと与えたい。」と思っているにもかかわらず、私たちは私たちの大部分は、イエズス様に対して、「いらない。私は自分で十分だ。自分のやりたい事をやりたい。自分はもっとこの被造物に愛着がある。私はこれをやりたい。お前はいらない。出て行け。」と言っている事です。
これは私が勝手に考えた事ではなくて、イエズス様が今から400年前に、聖マルガリタ・マリア・アラコックに現れて、「この聖心を見よ。」と嘆いた事でした。「人類をこれほどまでに愛し、そしてこの人類の為に全てのお恵みを与えたこの聖心を見よ 。そしてこの限りのない愛の代わりにお礼として、この聖心は感謝を受けなかったどころか、その反対に、冒涜と、無関心と、忘却とを受けている。そして時には、私に愛の、特別の愛の義務のある、そして負債のある者たちからそれらを受けている。」
「もしも、」そしてイエズス様は言葉を続けて言うのです。聖女マルガリタ・マリア・アラコックに言うのです、「お前はこの事を知ってもらいたい。私が人間からどれほど愛されたいか。私はそれに渇いている。もしもそのような事を知ったら、お前は私のその『愛されたい』という望み、渇きを知ったら、お前はその私の心を満たす為に、どんなものも惜しみなくするだろう。私は渇いている、『愛されたい』という事に焼き焦がれている。人類をこれほどまで愛したこの心を見よ。人類を愛する為に何の惜しんだ事が1つもないこの心を見よ。人類に対する愛を証明する為に全てをしたこの心を見よ。」
もしも私たちが誰かに親切をして、誰からもその親切が報いられなかった時に、たった1人、鼻水をたらした男の子がやって来て、「ありがとう。」と言ったとしたら、きっとこの子を「おぉ、お前いい子だな!もっと何か他に欲しいものがあるか?」鼻水を垂らしながら、「うん、これも欲しい。」とか言うと、「あぁ、そうかそうか!」と言うかもしれません。
イエズス様も、聖女マルガリタ・マリア・アラコックに同じ事を言っていました、「もし、その忘恩冒涜だらけの中で、少しでも私に感謝する者があれば、私に何かする者があったら、私はその彼からのこの愛を非常に特別に思う。そしてその愛にさらに愛を以て返したいと思う。」と。
では私たちは、このイエズス様のこの聖心の愛の前に一体何をすれば良いのでしょうか?
愛には愛を以てお返し致しましょう。つまり私たちは、イエズス様の御旨を愛を以て果たす、という事と、そしてイエズス様の愛が愛されていないという事に対して、罪の償いを果たす事に致しましょう。特に今日、この聖時間は、イエズス様に対する愛を、愛で以てお返しする為に過ごす事に致しましょう。
聖父と聖子と聖霊と御名によりて、アーメン。
愛する兄弟姉妹の皆様、
2016年6月3日(初金)イエズスの至聖なる聖心の大祝日に大阪で聖伝のミサを捧げました。その時のお説教をご紹介いたします。
天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)
2016年6月3日 初金曜日 至聖なるイエズスの聖心の大祝日
小野田神父様御説教
聖母の汚れなき御心教会にようこそ。今日は2016年6月3日、イエズス様の至聖なる聖心の大祝日。初金です。今日、このイエズス様の聖心の大祝日に、この聖母の汚れなき聖心教会で私は初めてミサをする事ができて、その御摂理に感謝しております。日本が開国して、そして横浜に山手教会ができて最初に作られた教会が「イエズス様の聖心」の教会でした。その御摂理に感謝致します。今日はこのミサの後に、聖時間をいつものように行いましょう、そしてイエズス様の愛に感謝を致します。それから昨日、日本の時間で夕方の16時半頃、レネー神父様のお母様がフランスの老人ホームで、2人の自分の司祭である息子たちに看取られながら帰天されたとの事です。レネー神父様のお母様の霊魂の永遠の安息の為にどうぞお祈り下さい。
“DEUS, qui nobis in Corde Filii tui nostris vuluneratio peccatis,
infinitos dilectionis thesauros misericorditer largiri dignaris.”
「天主は私たちに、御子の聖心に、私たちの罪の為に傷付いた聖心において、
その愛の無限の宝を憐れみ深く豊かに与え給う。」
聖父と聖子と聖霊と御名によりて、アーメン。
愛する兄弟の皆さん、イエズス様の聖心の大祝日おめでとうございます。
この大祝日の、私たちの聖心の信心において、一番大切な所は一体どこにあるのでしょうか?私たちはイエズス様の聖心に対して何を行っているのでしょうか?聖心に対する信心というのは、その一番の本質というか中核という核心はどこにあるのでしょうか?イエズス様の聖心が傷付いて、その傷付いた聖心を私たちが何故崇めているのでしょうか?何でイエズス様の聖心は十字架の上で傷付いたのでしょうか?一体これは何を意味しているのでしょうか?イエズス様は一体私たちに何をして下さっているのでしょうか?私たちはその傷付いた聖心を見て、一体何をしなければならないのでしょうか?一体イエズス様が私たちに何をして下さったのでしょうか?イエズス様の聖心のこの大祝日において、私たちは一体何をそんなに信心深く大切に思って、その神秘の一番の極みというのはどこにあるのでしょうか?
それを今日一緒に黙想して、イエズス様の聖心の、傷付かれた聖心の、私たちに何を仰りたいか、というのを黙想して、そのイエズス様の聖心に対して何をしなければならないのかを黙想してみたいと思います。
集祷文によると、「天主様は、御自分の愛の全ての宝を、この罪によって傷付かれた、私たちの罪によって傷付かれた御子の聖心においてのみ、憐れみ深く、私たちにたくさんそれを与える事を望んでいる」と言っています。
イエズス様の聖心はまさに、愛の無限の宝を私たちに与えようとするその根源であって、その源であって、その原因なのです。イエズス様はこの聖心を以て、永遠の昔から、私たちの事を考えておられました。
これが入祭誦でそう言っています、「その天主様の心の考えは、昔から、永遠の昔から、私たちを死から救い、そして私たちを飢えから養う、飢えにおいて養う事であった。」
イエズス様の聖心は傷付いています。聖務日課によるとその理由は2つあると言います。
何故傷付いたかというと、1つは、「私たちの罪が、罪の行列が、兵士の槍を導いて、イエズス様の心を傷付かせた。私たちの罪が故に、イエズス様の聖心は砕かれた。私たちが罪をあまりにも犯すので、私たちの罪の為に、その罪を償うが為に、イエズス様の聖心は潰されて、そして罪の償いを果たした。」
もう1つ、聖務日課ではこう言うのです、「イエズス様の聖心は、実は傷付いたのは、私たちを愛するがあまり、目に見えない愛、私たちに対する目に見えない愛があまりにも大きかったので、私たちに対する愛に燃えていたので、私たちに対する愛に満ち充ちていたので、あまりにも私たちに対する愛が激しかったので、その愛によって聖心は傷付いていた。私たちを愛するがあまり、その心は傷付いていた。私たちを愛する純粋の花婿として、純潔な花婿として愛に狂ってしまったが為に、その既に目に見えない傷を負っていた。その目に見えない愛の傷が見える事ができるように、どれほど私たちを愛しているかという事が見える為に、敢えて十字架の上で聖心は開かれた、傷付けられた。これは、『イエズス様が私たちをどれほどまでに愛しているか』という事の、目に見えるシンボルである。」と、聖務日課は謳っています。
イエズス様は私たちの為に何をして下さったのでしょうか?イエズス様は、永遠の昔から私たちの事を考えて下さって、愛しておられて、私たちの為に、頭で考えた事もないような、目で見た事がないような、耳でも聞いた事がないような、心で思った事もないような、ものすごい幸せを、永遠の天主の命を与えようと考えて下さいました。
そしてその為に、私たちをこの地上において、そしてこの地上に美しい大自然と、喜びを、私たちに与えようと思って下さいました。そしてこの地上での幸せな人生の後に、永遠の命を与えようと思いました。
この愛の計画が、人間の罪によって崩されても、それにもかかわらず、なんとか私たちに「永遠の命を与えよう」と、愛の限りを尽くして下さいました。イエズス様は私たちを愛するがあまり、私たちと同じ人間の姿をとって人間の本性をとって、私たちと共に生活されました。33年間苦しみの生活を送られました。私たちを愛するがあまり、イエズス様は十字架の受難さえも喜んでお受けになりました。私たちが本当なら払うべきであった罪の償いを、イエズス様が全て払って下さいました。
そればかりではありません、それで満足しませんでした。イエズス様は愛するがあまり、私たちに御聖体をも下さろうとしました。御自身を御聖体として、霊的な糧として下さろうとしました。その昔、天主は「婚姻」という制度を作って、2人の、「もはや2人ではなく1人だ。この2人は1人の肉体となる。」と言われましたが、それはまさに御聖体の前兆でなくて何だったでしょうか。
イエズス様は私たちに、全く御自身を、「残り尽くす事なく与えたい」とさえも思いました。私たちの肉体と御自分の肉体を1つにしたい。私たちの肉体をイエズス様の肉体と同じようにしたい、と思われました。
そればかりではありません。御聖体の中には、イエズス様の御体、御血、御霊魂、御神性が含まれておられるので、私たちの霊魂とイエズス様の神性は1つとなる事ができます。もはやイエズス様と私たちの間には、何も分け隔てるものがなくなるほどまで、イエズス様は愛されました。
私はこのイエズス様のなさった愛の例え話を色々考えました。このように似たような話はあるだろうか。どうやったらこの私たちは、このそれに似通った話をうまく説明できるだろうか。色々考えました。私たちの目の前に、あるお友達がやって来て、毎日のように、「どれほど私たちを愛しているか」という事を態度で示そうとして、私たちにきめ細かい親切をして下さる方が現れた。そしてその方が私たちの為に、自分の持てるものを全て与えてくれる、親切をして下さる、これをやってくれる、あれもしてくれる。そしてもう私たちのそのきめ細かい愛情によっても、もう私たちはその彼が、或いはこの彼女が、私たちにとって「とても好意を寄せて下さる」という事がよく分かる、という話。でもそれはイエズス様の、天主様の無限の愛と比べれば、太陽に映った影のように、ほんの憐れなものにしか過ぎません。
例え私たちの友人が、その命を尽くして、全てを、全財産を尽くして、こう私たちの為に、「さぁこれを使って下さい。自分をもう捧げます。どうぞ奴隷として、奴隷のように考えて欲しい。もう友人として考えて欲しい。」と言ったとしても、それも全く影法師のような、イエズス様の愛と比べれば何でもありません。
私たちの目の前に突然王子様が現れて、とても親切を尽くして、私たちをいつも、「私たちをこれほども愛している」という事を見せて下さって、行動で表わして下さる方が現れたとしても、イエズス様の愛に比べれば全く何でもありません。
そこで、色々考えたのですけれども、できればシュテーリン神父様が色々話して下さったように、色んな例え話を思い浮かべたのですけれども、でもイエズス様の私たちに本当になさって下さった愛の行動をみると、想像の世界と、そしてこのイエズス様が与えて下さった秘蹟と、御聖体と、十字架の上の御受難。この愛の宝を目の前にすると、もう例え話は全く何でもないように思われて、もう考えるのをやめました。ですから、それは皆さんが考えて下さい。一体、イエズス様は私たちにどれほどの事を、「愛している」という事を、証拠を見せて下さっているか。
今日来る前にフィリピンで、Angelus Pressから出ている「Love in the Ruins」という本を読みました。それは今から7年前に出版されたものですけれども、その中に「18歳の子が洗礼を受けた。聖伝のミサで洗礼を受けた」という話が載っていました。そしてその話を読んで、読みながらほんの数ページなのですけれども、もう涙が出て止まりませんでした。何故かというとその彼が自分の回心の話を非常にうまく、きれいに書いていて、ぐいぐいと読んで、もうあまりにも美しいので、とても感動して読んだのです。
その彼の回心の話を少しだけさせて下さい。何故かというと、「イエズス様がどれほど私たちを愛しているか、愛して下さっているか」という事の1つの具体的な例だと思うからです。
彼は匿名で、「美門と言われる門」、「美しい門と言われる門」という題で、自分の回心の話を書いていました。「自分はちょうど、イエズス様から愛を受けて、奇跡的に治癒を受けた、生まれつき足なえの歩く事のできない、『美門』美しい門の前に置かれていたあの乞食と同じだ、そのように思う。私は、奇跡を得る為に、『美しいものを美しい』と理解する事ができる為に、何ら別に特別の功徳もなかった。でも私はただ、イエズス様の憐れみを受けて、『美しいものを美しい』と見る事ができた。」
彼は言うのです、「私が聖伝の御ミサに与ったのは17歳の頃で、その時に英語の先生が私をミサに連れて行ってくれた。で、その同じ先生が、私が1年後に洗礼を受ける時に、この代父になってくれた。でも自分の生活というのは、この足なえのようにもうメチャクチャで、何の秩序もなかった。自分の親友の両親は離婚した。自分の父親は数年前に亡くなった。母親は結婚していない男性と、父が亡くなった後に、結婚していない男性と同居しだして、そして子供を産んだ。そして私には最初のガールフレンドがいた。そして自分の目の前にあったのは、秩序の無い愛の生活だった。その結果も考えないで、自分の好きな放題に生活している人たちがいた。そしてそんな中に、英語の先生が、私を『聖伝のミサ』に、つまり『美しい門』の前に連れて行ってくれた。そして美しいものを発見する事ができた。」
「自分は中産階級の子供で、音楽気違いだった。自分がやっていたのはいつも、勉強もしないで、自分の家の地下室にこもって、音楽を聴いて、ギターを弾いて、タバコと酒を飲んでいた。それだけだった。自分の友達はドラッグを麻薬をやっていて、かなりオープンにやっていて、親は自分の友達の事をもう放棄していて、それで“警察だけには捕まるな”という事しかアドバイスをしなかった。自分のお母さんはカトリックの大きな家族の7番目の娘で、一番下の子で、でも自分のこの教区の神父様が、まだ自分が子供の時に、教区の神父様がいつも主日ごとに夕方、自分のおじいさんおばあさんの家で夕食を食べているのだけれども、この神父様がシスターと結婚して、司祭職を離れた時に、このお母さんも教会に行く興味がなくなってしまった。それから家を出てヨーロッパに渡った。(この子はアメリカで生まれた子なんですけれども。)それでお父さんは、カイロから出身のイスラム教の人で、そのお父さんの両親は、3歳の頃非常に醜い離婚をして、それで一人ぼっちでロンドンに行って、そしてその自分のお母さんと会った。それでアメリカに来て生活をして、自分が生まれた。でもお父さんが死んで、お父さんが死んだので自分もちょっと真面目になろうと思って、金曜日ごとにモスクに行って断食もしたし、お祈りもして、イスラム教の勉強もした。でもあとで、お父さんが実は、『お母さんと結婚する前に別の女性とも結婚していた』という事を知って、『そんな事を許す宗教がどうして良い宗教と言えるのか。そんな宗教が良いという事を見出す理由が見つけられない』と言ってそれでイスラムを離れた。音楽を聞いてばかりいた。」
「そして高校を卒業しなければならないのだけれども、しかし成績が良くなかったので、成績を卒業する為に必要な点が取れなかった。そこで校長先生が特別のプレゼントをしてくれて、英語の家庭教師をつけてくれた。その先生がとても良い先生で、本当に誠実な方で、カトリックだった。それでその先生と一緒に英語の勉強をして、詩を読んだりして話をした。でも今まで自分の周りにいた大人たちはいつも、何か悪い事をすると言い訳をしたけれども、この先生は言い訳をせずに、『良い事は良い、悪い事は悪い』と言ってくれて、そして自分が悪い事をした事を認めれば、すぐにそれを聞いてくれて許してくれて、そしてとても誠実だった。今まで自分の周りにはカトリックの人がいたけれども、その先生は、その人たちから聞いた事がないような話をしてくれた。」
「自分のガールフレンドの家にたまたまいた時に、公教要理の本を見て、たまたま開いたのが『婚姻』のページで、その時に、『婚姻というのは、男が1人女が1人、結婚するもので、離婚はできない』という事が書かれていた。『ハッ。これだ。これこそが正しい。』と思って、『やっぱりカトリックだ。』と思った。」
「今まで聞いたのは、『悪い事でも、それはそれでいいんだ。それが憐れみだ。』という事を聞いたけれども、しかしそうじゃない。『悪い事は悪い、という一線があるのだけれども、天主様はそれを、私たちを憐れんで、罪は罪で、それは罪は罪として残るけれども悪だけれども、その罪を悔やんだ時に、それを赦して下さる。それこそが本当の憐れみだ。本当の赦しだ。』という事が分かった。『そうでなければ罪を正当化する事であって、罪を否定する事であって、それは本当の憐れみではない。天主様は居て、そして私たちを憐れんで下さる。』という事がその時に分かった。」と言って、「ちょうど雪の降っている時に、その静かに雪がこんこんと降り続く時に、その英語の先生に電話をした。その時に英語の先生は、『じゃあ、一緒に会って話そう。天主様は私たちに静かに話をして下さる。ちょうどこの雪のように、静かに話をして下さる』と言ってくれた。」
彼がその英語の先生に、「僕はイスラムじゃなくて、カトリックだけが正しいと思う。何故ならば、カトリックでは離婚ができないからだ、もしも自分が結婚するならカトリックで結婚したい」と言うと、その英語の先生は、「それもそうだけれども、カトリックでは他の宗教と違う点が1つある。それは、『天主様が私たちを愛して、人間となった』事だ。」
「そう言って、先生はミサに連れて行ってくれた。そしたら、そのミサに連れて行ってくれたのが、今まで知った事のないミサで、ちょうど雪が降っているかのような静かなミサだった。ミサの時に鈴が鳴った。その鈴はちょうど、『私たちに規則があるんだ。』『天主様の規則があるんだ』『秩序があるんだ。』という事を沈黙の内に教えてくれた。最初のカトリックのミサで、その最初のカトリックのミサでは、自分の人生の色んな事が始まり、色んな事が終わりを告げた。そしてこのそこから新しい人生が始まって、そしてこの天主様の憐れみを、何故私がこのように受けたのか。そのような功徳もなかったけれども、今までの生活、酒と音楽とタバコだけの生活と全く断ち切られた、新しい生活が始まった。」という内容でした。
「イエズス様は、イエズス様の聖心の憐れみは、私たちが過去どのようなものであったとしても、良いものであったとしても悪いものであったとしても、私が罪を犯してろうが犯さなかろうが、私たちの事を無限に愛しておられて、そして私たちの為に御自分の命を、御自分の永遠の命を、永遠の喜びを与えようと愛して下さっている。憐れな罪人である私たちを愛して下さっている。」という事が、この彼の文を読んでひしひしと分かった、何か伝わってきたのです。そして何か読んでいてもう涙が出て止まりませんでした。
1週間前に私は韓国に行ってきました。韓国でソウルから田舎に、やはり巡回教会があって、そこに平日にミサをしに行くのですけれども、高速バスで移動します。そのバスの中で、ロザリオを唱えたり、聖務日課をしたり、或いは居眠りをしたりするのですけれども、そのバスの前にはテレビの画面があって、テレビスクリーンがあって、テレビでパク・クネ大統領がアフリカに行っていた映像が時々チラチラ映っていました。アフリカで何かの会議をやっていたらしくて、何かパク・クネ大統領が、アフリカの色んな大臣や偉い人を前に、演説をしていて、大臣はこう話を聞いている。
そしてその次に、韓国の有名な女優、若い女優さんがもう涙を流している姿が出て、「何で泣いてるのかなぁ。」と思ったのですけれども、この女性は話によると、韓国の「国民的妹」と言われるほど何か人気がある女優さんなんだそうです。その女優さんが、アフリカの子供たちが、ゴミの焼却場で住んでいるような子供たちがいて、そこでトラックが、ゴミを捨てていると、焼却して灰がボンボン出るのです。その中でもゴミを漁って、「食べ物がないか」と子供たちがやって来るのです。それである子は、空になったジュースの瓶から飲もうとしたりとか、或いは「このゴミを誰が分けるか」という事で、何か大人が争ってたりする映像があって出て、その女優さんがこうそれを見て涙を流している。「もしかしたらヤラセじゃないかなぁ。」などと思って、「これはテレビ局がこういう風に、いくらなんでもこの空の瓶を、こんな古いジュースをやっぱり飲まないだろうなぁ。」とも思ったのですけれども、「でももしかしたら子供だから飲むかもしれない。」などと思っていました。
そんな画面が映っていたのです。そしてすると、その次に電話番号が載って、“もしもアフリカに献金をしたい人は募金をしているので、もしも助けたい人はどうぞここにお金を送って下さい。”というのがあって、「あぁ、これを見ると、韓国の人たちはきっとたくさんアフリカにお金を送るだろうなぁ。」とそういう事を、「皆これを見ながら涙を流しながら、たくさん助けるだろうなぁ。」という風に思いました。
と、そう思ったのですけれども、同時に、ちょうどこのゴミを漁っている子供たちの姿と、自分の姿が重なってきて、「もしかしたら、このアフリカの子供たちの姿は、私たちの私の姿ではないか。地上の、もうゲヘンナに焼かれるべき、地獄の火に焼かれるべき、被造物のくだらない、腐った、もう本当は食べても飲んでもいけないようなものを漁って、それを欲しい、その為に喧嘩をして“これは俺のものだ”“お前のものだ”と言ったり、もう腐った食べ物を食べたり、罪の醜いものに愛着をしていたり、そして結局はもうそれによって体が健康が破壊されたり、或いはもう病気になったり、もう地獄の有り様、もう地獄へとまっしぐらのような私たち私の姿ではないか。」と思って、「それを王の王である、大統領ではない王であるイエズス様が、聖心を以て私たちを憐れんで、『何とかしてこの悲惨さから健康を与えたい。幸せを与えたい。何とか助けたい。』と思っているのではないか。或いは、マリア様がそのような私たちを見て、涙を流されて、『あぁ、こんなような汚い腐ったものではなくて、もっと天の、天の喜びと、天の食べ物と、天の命に満たされるように』と何か涙を流されているのではないか。」と思いました。
これもイエズス様の聖心の本当になさって下さった事から見ると、本当に影のようですけれども、でも「悲劇」はここにあるのです。アフリカの子供たちは、韓国の方から集められたお金や援助をきっと喜んで受け取る事でしょう。そして韓国の大統領と韓国の国民に感謝をする事でしょう。しかし、「イエズス様が私たちの為にして下さった愛、私たちに与えようとして下さった宝物を、多くの人が拒否して拒む」という事です。
イエズス様は私たちに全てを捧げて、自分の御血全てを、御聖体によって御自分全てを、愛し尽くして私たちに「さぁ、もっと与えたい。」と思っているにもかかわらず、私たちは私たちの大部分は、イエズス様に対して、「いらない。私は自分で十分だ。自分のやりたい事をやりたい。自分はもっとこの被造物に愛着がある。私はこれをやりたい。お前はいらない。出て行け。」と言っている事です。
これは私が勝手に考えた事ではなくて、イエズス様が今から400年前に、聖マルガリタ・マリア・アラコックに現れて、「この聖心を見よ。」と嘆いた事でした。「人類をこれほどまでに愛し、そしてこの人類の為に全てのお恵みを与えたこの聖心を見よ 。そしてこの限りのない愛の代わりにお礼として、この聖心は感謝を受けなかったどころか、その反対に、冒涜と、無関心と、忘却とを受けている。そして時には、私に愛の、特別の愛の義務のある、そして負債のある者たちからそれらを受けている。」
「もしも、」そしてイエズス様は言葉を続けて言うのです。聖女マルガリタ・マリア・アラコックに言うのです、「お前はこの事を知ってもらいたい。私が人間からどれほど愛されたいか。私はそれに渇いている。もしもそのような事を知ったら、お前は私のその『愛されたい』という望み、渇きを知ったら、お前はその私の心を満たす為に、どんなものも惜しみなくするだろう。私は渇いている、『愛されたい』という事に焼き焦がれている。人類をこれほどまで愛したこの心を見よ。人類を愛する為に何の惜しんだ事が1つもないこの心を見よ。人類に対する愛を証明する為に全てをしたこの心を見よ。」
もしも私たちが誰かに親切をして、誰からもその親切が報いられなかった時に、たった1人、鼻水をたらした男の子がやって来て、「ありがとう。」と言ったとしたら、きっとこの子を「おぉ、お前いい子だな!もっと何か他に欲しいものがあるか?」鼻水を垂らしながら、「うん、これも欲しい。」とか言うと、「あぁ、そうかそうか!」と言うかもしれません。
イエズス様も、聖女マルガリタ・マリア・アラコックに同じ事を言っていました、「もし、その忘恩冒涜だらけの中で、少しでも私に感謝する者があれば、私に何かする者があったら、私はその彼からのこの愛を非常に特別に思う。そしてその愛にさらに愛を以て返したいと思う。」と。
では私たちは、このイエズス様のこの聖心の愛の前に一体何をすれば良いのでしょうか?
愛には愛を以てお返し致しましょう。つまり私たちは、イエズス様の御旨を愛を以て果たす、という事と、そしてイエズス様の愛が愛されていないという事に対して、罪の償いを果たす事に致しましょう。特に今日、この聖時間は、イエズス様に対する愛を、愛で以てお返しする為に過ごす事に致しましょう。
聖父と聖子と聖霊と御名によりて、アーメン。