アヴェ・マリア・インマクラータ!
愛する兄弟姉妹の皆様、
レネー神父様の「天主の十戒」についてのお説教をご紹介いたします。
第9回目は、第八戒「汝偽証するなかれ」についてです。
天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)
2016年6月12日 聖霊降臨後の第4主日―大阪 お説教「第八戒」
親愛なる兄弟の皆さん、
私たちはこれまで、すべての掟が命を扱っていることを見てきました。それらの掟は、永遠の命に到達するための、地上での聖なる命(人生)とはどんなものであるべきかを示す道です。それらの掟は、私たちに命の至高の作者である天主を礼拝し、私たちが受けた命の経路として両親を敬い、命そのものや、命の伝達、命を維持する手段を尊重するよう命じています。しかし今回、第八戒は命とどのような関係があるのでしょうか? 第八戒は社会的な命、社会生活を保護するのです。
人間は一人で生きるようにつくられたのではなく、他人と一緒に共同体で生きるようにつくられました。つまり、人間は「社会的」存在です。実際、生まれてすぐから、人間は自分を育て、自分を保護してくれ、自分に教育を受けさせてくれる両親を必要とします。それも長年にわたって必要とします。そのため、家族は最初にして最も自然な社会です。しかし、さらに言えば、一人の人間があらゆる技能を持っていることはあり得ませんから、人間は各自が他人の技能による助けを必要とします。ですから、農民であったり、建設業者であったり、衣服を製造したり、医者であったり、教師であったりするなどです。従って、人間は他の人間と共に社会の中で生きる必要があります。また、こういった違いや相互の必要性は、私たちが愛徳を実践するように、天主によって意図されたのです。各自が、天主がその人に与え給うた技能によって、他人に利益を提供するのです。
社会での生活は、個人と個人の意思の伝達を必要とします。人間は単なる動物ではないため、感覚で知ることのできる命を持つだけでなく、さらに重要であるのは知的な命を持つことです。人間の意思の伝達は単に感覚的レベルだけでなく、知的レベルにあることが欠かせません。それは霊魂の働きである心で思ったこと、概念の伝達です。でも、自分の概念を心で直接他人に伝達することはできません。私たちは天使ではありません。天使ならそれができますが、私たちにはできません! このように、人間は自分の心の中の概念を、感覚で知ることのできるものである言葉というものによって表現します。これが人間の言語です。同じ心の中の概念を、いろいろな言語で表現することができます。言語は概念を表す単なる記号に過ぎません。さてここで、これらの記号は偽りではなく真実であることが不可欠です。
うそをつくこと、思っていることと反対のことを言うこと、これは社会生活に不可欠である意思の伝達を台無しにします。仲間を信頼できないなら、その人は独りぼっちになってしまいます。皆さんの周りが皆うそつきだったら、皆さんはもはや信頼できる人はおらず、独りぼっちです。このように、うそをつくことは社会生活を台無しにします。従って、聖パウロは言います。「だから偽善を捨てて、おのおの隣人に真実を語れ。あなたたちは互いに肢体だからである」(エフェゾ4章25節)。聖パウロが、真実を話す義務と、私たちは独りぼっちではなく、「互いに肢体」であるという事実を、どれほど強く関連づけているかを見てください。
永遠の命は正直な人間に約束されています。「主よ、誰があなたの幕屋に入り、尊い山に住むのか。申し分なく歩み、正義を行い、心から真実を語り、舌でそしらぬ人。隣人(となりびと)に悪をせず、ののしらぬ人。主に見捨てられた者をあなどり、主を恐れる者を尊ぶ人。友に誓ったことを破らず、利息をとって金を貸さず、賄賂を取って罪なき人に損害をかけぬ人。こう言う人は永遠に揺らぐまい」(詩篇14章1-5節)。また、イザヤが同じことを言います。「正義を歩む者、まことをもって話す人、強奪した物を退ける人、手を振って、賄賂を取らない人、耳をふさいで、血なまぐさいことを聞かない人、目を閉じて、悪を見ない人、この人たちは高いところに住」(イザヤ33章15-16節)む。「彼の口には忠実の教えがあり、そのくちびるには悪がなかった」(マラキア2章6節)。
聖アウグスティヌスは、うそをつくことは常に罪であり決して許されない、と教えています。しかし、それが常に大罪だという訳ではありません。隣人に対して深刻な害がなされたのでないなら、それは小罪です。でも、それは罪であって、うそをつくべきではありません。しでかしてしまった失敗を隠すためにうそをつく場合(例えば、生徒が宿題をするのを忘れ、言い訳として作り話をする場合)、 第一の悪に第二の悪を加えるのです。これは決して良い解決法ではありません! 良い解決法は、「第一の罪を告白」した上で、二度とその罪を犯さず、その償いをするという固い決心を持つことです。
しかし、うそが隣人に対して深刻な害を及ぼす場合、それは大罪です。それは例えば、商売で詐取したり騙したりすることで起こり得ます(第七戒と第八戒に反する二つの罪)。しかしまた、中傷によって他人の評判に深刻な害を及ぼす場合にも起こり得ます。中傷(または言葉による名誉棄損)とは、その人が犯していない罪でその人を非難することです。これはまた、他人の罪を誇張する場合に起こり得ます。誇張されていれば、それは偽りであり、従って名誉毀損になります。気を付けてください。人が他人によって傷つけられたとき、その人はそのことを誇張し、傷つけてきた相手を実際よりも悪く見せようとしがちです。ですから、自分を抑えるよう気を付けなければなりません。強く非難するのではなく控えめにし、非難するのは確実であって疑いのない場合だけにとどめるのが、常に、より安全です。そして、すぐに赦すべきであり、隣人に対して恨みを持ち続けるべきではありません。
中傷と関連しているのが、悪口の罪です。それ自体はうそではありませんが、誰かの隠された罪を理由もなく人に知られるようにすることです。でも、それは罪です。なぜなら、悪を拡散させ、状況をさらに悪くするからです。いくつかのケースでは、誰かの罪を公表することが許されます。しかし、その場合、常にそれに釣り合った善い目的が必要です。許されるのは例えば、犯罪者の矯正を実現するためです。ですから、隣人が、悪いことをしている子どもを目撃した場合、その隣人はその子どもの親にそれを報告することが許されますが、そうするのは腹いせや悪意からではなく、はっきりとその子どもの善のためであるべきです。あるいは、教師が子どもを虐待している人物である場合、親は学校当局や他の親たちに自分たちの子どもが被害を受けないよう警告することが許されます(また、すべきです)。しかし、その状況にまったく関係のない第三者にその悪について話すことは許されません。話せば、悪口の罪になるでしょう。善が知られる価値があるのと同じほどには、悪は知られる価値はありませんから、周囲に広がらないようにすべきです。
もっと低いレベルでは、うわさ話をするという罪があります。それは、公に知られた他人の罪について話すことです。そのことはすでに公になっているため、そのうわさ話をすることは、その内容を知らせることではありません。しかし、他人の悪について話をすることで満足感を得るのは悪いことです。このことは、公人の罪が新聞で報道されるときに起こり得ます(新聞記者であって、うわさ話の罪を避けることは困難です!)。もっと限定されたレベルでは、職場や隣人などの間でのうわさ話があり得ます。これは良くありません! 私が言う意味は、周囲で起きていることを見ないようにすべきだというのではなく、聖パウロが次のように言っていることです。「すべて徳を立てるためにしなければならぬ」(コリント前書14章26節)。何かを言うことが徳を立てないなら、それを言うべきではありません。
聖トマス・アクィナスは第八戒に反する罪に、あと二つの罪を付け加えています。まず、「いいふらすこと」、これはすなわち、友人たちの間に疑いや不和を引き起こすことであり、従って友情を引き裂いて傷つけるのです。これは、家族の間にある友愛に害を及ぼす場合、特に夫婦の関係に害を及ぼす場合、とりわけ悪いものになり得ます。第二の罪は嘲笑の罪であり、これは隣人を尊ぶべきことに反しています。他人をからかうことは良くありません。
預言者ザカリアは言います。「おまえたちが、守らねばならないのは、互いに真実を語り、門で平和の裁きを行うことである」(ザカリア8章16節)。これらの言葉で彼は、真理が特に必要とされているのは裁判である、法廷であると明確にしています。そして、これがもっと正確な第八戒の目的です。実際、掟は広く適用されるよう意図されていますが、掟は通常、特別な領域での主要な罪を禁じています。ですから、第六戒は貞潔の徳を守ることが意図されており、貞潔に反するすべての罪を禁じていますが、直接的には主要な罪である姦淫を禁じています。そのため、第八戒は直接的には偽証を禁じています。偽証は法廷外においてよりも、法廷内で行われる方がずっと重い罪であることは明らかです。
法廷は危険なところです! 聖トマスは説明します。裁判官の側に罪があり得るのは、裁判官が賄賂を取って判決をねじ曲げ、天主の法や国家の正しい法律を適用しないときです。検察官の側に罪があり得るのは、検察官が偽って訴追したり(第八戒によって直接禁じられています)、悪事を行う者を起訴しなかったりしたときであり、賄賂のせいであっても脅迫に屈していても、その結果は悪事を行う危険な者に反社会的な犯罪を犯し続けることを許してしまうことになるからです。被告の側に罪があり得るのは、自分が行ったことを偽って否定したり、他人に対する自分の過ちを認めなかったりするときです。証人の側に罪があり得るのは、特に偽りの証言をしたり、するべき証言をしなかったりして、無実の者を有罪にさせたり悪事を行う者が放免されるのを助けたりするときです。弁護人の側に罪があり得るのは、特にどんな種類の偽りであってもそれを使ったり、単に悪の原因を擁護したりして、悪事を行う者を助けるときです。
しかし、正義は素晴らしい善であり、良きかつ正直な裁判官は多くの善を行うことができます。例えば、イングランドの大法官だった聖トマス・モアです。彼は国王ヘンリー八世によって殉教しました。彼は最後まで正直であり、真理を守り抜いたのです!
聖ヤコボは、舌は体の最も小さい肢体であるが、最も邪悪なものである、と言います! 舌に関する聖ヤコボの一章全体を、第八戒に関連して考察することが非常に重要です。「私たちはみな多くの点で道を踏み外す者である。言葉を踏み外さない人は完全な人であって、全身にくつわをつけることのできる人である。私たちが馬を御するためにその口にくつわをはめれば、その全身を御する。また船を考えよ。形は大きくて強い風に押されているが、小さい舵によって操る人の思いのままに操縦される。同様に舌も小さい部分であるが、大事にすると誇ってよい。大きな森を燃やすために、ほんの小さな火で足りることを考えよ。舌は火であって不義のかたまりである。舌は私たちの肢体の中で、全身を毒するものとして地獄から火をつけられ、一生の車輪を燃やすのである。獣、鳥、這うもの、海の生き物などすべての種類は、人間によって今も昔も制せられている。しかし人は舌を制しきれない。舌は押さえきれない悪であって死の毒に満ちている。それによって私たちは主なる父を賛美し、またそれによって天主にかたどって創られた人間を呪う。同じ口から賛美と呪いが出る。しかし兄弟たちよ、そうであってはならない。泉が同じ口を通して甘い水と苦い水を出すだろうか。兄弟たちよ、いちじくの木がオリーブを、ぶどうの木がいちじくの実を結ぶだろうか。同様に塩辛い泉は甘い水を出せない。あなたたちの中に賢明なそして経験のある人がいるだろうか。その人はよい生活をし、知識と柔和をもってその業を行っていることを示せ。しかし。心で苦々しい熱心と争いを好んでいるのなら、自らを誇らず、また真理に背いて偽るな。その知識は上から下るものではなく、地上的な情欲的な悪魔的なものである。ねたみと争いの心のあるところには乱れとすべての悪がある。上からの知恵はまず清いもの、そして平和な寛容な謙譲なもの、あわれみとよい実に満ち、人を差別せず、偽らないものである。義の実は平和を行う人々のために、平和のうちにまかれるものである」(ヤコボ3章2-18節)。
私たちの主イエズス・キリストは真理(ヨハネ14章6節)であり、真理のみ言葉であって、「恩寵と真理に満ちておられ」(ヨハネ1章14節)ます。主はピラトに言われました。「私は真理を証明するために生まれ、そのためにこの世に来た。真理につく者は私の声を聞く」(ヨハネ18章37節)。主に請い求めましょう、主のための、真理のための偉大なる愛を、そして真理を語り決して偽りを言わない恩寵を! 実際、私たちの主は悪魔について言われました。「彼は真理において固まっていなかった。彼の中には真理がないからである。彼はうそをつくとき心底からうそを言う。彼はうそつきで、うその父だからである」(ヨハネ8章44節)。(対立する)二つの陣営は明らかです。ですから私たちは、キリストの陣営につき、悪魔の陣営に対抗することを固い決意で選びます。私たちは真理に従い、あらゆる偽りを避けることを選ぶのです!
聖霊は、「父から出る真理の霊が来るとき、それが私について証明されるであろう」(ヨハネ15章26節)。これは、最も正しい証言です! 「その方つまり真理の霊が来るとき、霊はあなたたちをあらゆる真理に導かれるであろう。それは、自らを語るのではなく、聞いたことを語って未来のことを示されるであろう」(ヨハネ16章13節)。聖霊は、私たちにこう教えてくださいます。「真理にあって愛により、すべてにおいてかしらであるキリストによって成長するためである」(エフェゾ4章15節)。
童貞聖マリアは常に、ほかの誰よりも、愛徳において真理を行われました。これが、聖母がまったく光の中におられ、まったく汚れなき方である理由です。聖母を通じて祈りましょう。私たちが真理を愛し、真理を実践することができ、そうすることで、天国で永遠の真理を観想すること、見つめることが許されますように! アーメン。
愛する兄弟姉妹の皆様、
レネー神父様の「天主の十戒」についてのお説教をご紹介いたします。
第9回目は、第八戒「汝偽証するなかれ」についてです。
天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)
2016年6月12日 聖霊降臨後の第4主日―大阪 お説教「第八戒」
親愛なる兄弟の皆さん、
私たちはこれまで、すべての掟が命を扱っていることを見てきました。それらの掟は、永遠の命に到達するための、地上での聖なる命(人生)とはどんなものであるべきかを示す道です。それらの掟は、私たちに命の至高の作者である天主を礼拝し、私たちが受けた命の経路として両親を敬い、命そのものや、命の伝達、命を維持する手段を尊重するよう命じています。しかし今回、第八戒は命とどのような関係があるのでしょうか? 第八戒は社会的な命、社会生活を保護するのです。
人間は一人で生きるようにつくられたのではなく、他人と一緒に共同体で生きるようにつくられました。つまり、人間は「社会的」存在です。実際、生まれてすぐから、人間は自分を育て、自分を保護してくれ、自分に教育を受けさせてくれる両親を必要とします。それも長年にわたって必要とします。そのため、家族は最初にして最も自然な社会です。しかし、さらに言えば、一人の人間があらゆる技能を持っていることはあり得ませんから、人間は各自が他人の技能による助けを必要とします。ですから、農民であったり、建設業者であったり、衣服を製造したり、医者であったり、教師であったりするなどです。従って、人間は他の人間と共に社会の中で生きる必要があります。また、こういった違いや相互の必要性は、私たちが愛徳を実践するように、天主によって意図されたのです。各自が、天主がその人に与え給うた技能によって、他人に利益を提供するのです。
社会での生活は、個人と個人の意思の伝達を必要とします。人間は単なる動物ではないため、感覚で知ることのできる命を持つだけでなく、さらに重要であるのは知的な命を持つことです。人間の意思の伝達は単に感覚的レベルだけでなく、知的レベルにあることが欠かせません。それは霊魂の働きである心で思ったこと、概念の伝達です。でも、自分の概念を心で直接他人に伝達することはできません。私たちは天使ではありません。天使ならそれができますが、私たちにはできません! このように、人間は自分の心の中の概念を、感覚で知ることのできるものである言葉というものによって表現します。これが人間の言語です。同じ心の中の概念を、いろいろな言語で表現することができます。言語は概念を表す単なる記号に過ぎません。さてここで、これらの記号は偽りではなく真実であることが不可欠です。
うそをつくこと、思っていることと反対のことを言うこと、これは社会生活に不可欠である意思の伝達を台無しにします。仲間を信頼できないなら、その人は独りぼっちになってしまいます。皆さんの周りが皆うそつきだったら、皆さんはもはや信頼できる人はおらず、独りぼっちです。このように、うそをつくことは社会生活を台無しにします。従って、聖パウロは言います。「だから偽善を捨てて、おのおの隣人に真実を語れ。あなたたちは互いに肢体だからである」(エフェゾ4章25節)。聖パウロが、真実を話す義務と、私たちは独りぼっちではなく、「互いに肢体」であるという事実を、どれほど強く関連づけているかを見てください。
永遠の命は正直な人間に約束されています。「主よ、誰があなたの幕屋に入り、尊い山に住むのか。申し分なく歩み、正義を行い、心から真実を語り、舌でそしらぬ人。隣人(となりびと)に悪をせず、ののしらぬ人。主に見捨てられた者をあなどり、主を恐れる者を尊ぶ人。友に誓ったことを破らず、利息をとって金を貸さず、賄賂を取って罪なき人に損害をかけぬ人。こう言う人は永遠に揺らぐまい」(詩篇14章1-5節)。また、イザヤが同じことを言います。「正義を歩む者、まことをもって話す人、強奪した物を退ける人、手を振って、賄賂を取らない人、耳をふさいで、血なまぐさいことを聞かない人、目を閉じて、悪を見ない人、この人たちは高いところに住」(イザヤ33章15-16節)む。「彼の口には忠実の教えがあり、そのくちびるには悪がなかった」(マラキア2章6節)。
聖アウグスティヌスは、うそをつくことは常に罪であり決して許されない、と教えています。しかし、それが常に大罪だという訳ではありません。隣人に対して深刻な害がなされたのでないなら、それは小罪です。でも、それは罪であって、うそをつくべきではありません。しでかしてしまった失敗を隠すためにうそをつく場合(例えば、生徒が宿題をするのを忘れ、言い訳として作り話をする場合)、 第一の悪に第二の悪を加えるのです。これは決して良い解決法ではありません! 良い解決法は、「第一の罪を告白」した上で、二度とその罪を犯さず、その償いをするという固い決心を持つことです。
しかし、うそが隣人に対して深刻な害を及ぼす場合、それは大罪です。それは例えば、商売で詐取したり騙したりすることで起こり得ます(第七戒と第八戒に反する二つの罪)。しかしまた、中傷によって他人の評判に深刻な害を及ぼす場合にも起こり得ます。中傷(または言葉による名誉棄損)とは、その人が犯していない罪でその人を非難することです。これはまた、他人の罪を誇張する場合に起こり得ます。誇張されていれば、それは偽りであり、従って名誉毀損になります。気を付けてください。人が他人によって傷つけられたとき、その人はそのことを誇張し、傷つけてきた相手を実際よりも悪く見せようとしがちです。ですから、自分を抑えるよう気を付けなければなりません。強く非難するのではなく控えめにし、非難するのは確実であって疑いのない場合だけにとどめるのが、常に、より安全です。そして、すぐに赦すべきであり、隣人に対して恨みを持ち続けるべきではありません。
中傷と関連しているのが、悪口の罪です。それ自体はうそではありませんが、誰かの隠された罪を理由もなく人に知られるようにすることです。でも、それは罪です。なぜなら、悪を拡散させ、状況をさらに悪くするからです。いくつかのケースでは、誰かの罪を公表することが許されます。しかし、その場合、常にそれに釣り合った善い目的が必要です。許されるのは例えば、犯罪者の矯正を実現するためです。ですから、隣人が、悪いことをしている子どもを目撃した場合、その隣人はその子どもの親にそれを報告することが許されますが、そうするのは腹いせや悪意からではなく、はっきりとその子どもの善のためであるべきです。あるいは、教師が子どもを虐待している人物である場合、親は学校当局や他の親たちに自分たちの子どもが被害を受けないよう警告することが許されます(また、すべきです)。しかし、その状況にまったく関係のない第三者にその悪について話すことは許されません。話せば、悪口の罪になるでしょう。善が知られる価値があるのと同じほどには、悪は知られる価値はありませんから、周囲に広がらないようにすべきです。
もっと低いレベルでは、うわさ話をするという罪があります。それは、公に知られた他人の罪について話すことです。そのことはすでに公になっているため、そのうわさ話をすることは、その内容を知らせることではありません。しかし、他人の悪について話をすることで満足感を得るのは悪いことです。このことは、公人の罪が新聞で報道されるときに起こり得ます(新聞記者であって、うわさ話の罪を避けることは困難です!)。もっと限定されたレベルでは、職場や隣人などの間でのうわさ話があり得ます。これは良くありません! 私が言う意味は、周囲で起きていることを見ないようにすべきだというのではなく、聖パウロが次のように言っていることです。「すべて徳を立てるためにしなければならぬ」(コリント前書14章26節)。何かを言うことが徳を立てないなら、それを言うべきではありません。
聖トマス・アクィナスは第八戒に反する罪に、あと二つの罪を付け加えています。まず、「いいふらすこと」、これはすなわち、友人たちの間に疑いや不和を引き起こすことであり、従って友情を引き裂いて傷つけるのです。これは、家族の間にある友愛に害を及ぼす場合、特に夫婦の関係に害を及ぼす場合、とりわけ悪いものになり得ます。第二の罪は嘲笑の罪であり、これは隣人を尊ぶべきことに反しています。他人をからかうことは良くありません。
預言者ザカリアは言います。「おまえたちが、守らねばならないのは、互いに真実を語り、門で平和の裁きを行うことである」(ザカリア8章16節)。これらの言葉で彼は、真理が特に必要とされているのは裁判である、法廷であると明確にしています。そして、これがもっと正確な第八戒の目的です。実際、掟は広く適用されるよう意図されていますが、掟は通常、特別な領域での主要な罪を禁じています。ですから、第六戒は貞潔の徳を守ることが意図されており、貞潔に反するすべての罪を禁じていますが、直接的には主要な罪である姦淫を禁じています。そのため、第八戒は直接的には偽証を禁じています。偽証は法廷外においてよりも、法廷内で行われる方がずっと重い罪であることは明らかです。
法廷は危険なところです! 聖トマスは説明します。裁判官の側に罪があり得るのは、裁判官が賄賂を取って判決をねじ曲げ、天主の法や国家の正しい法律を適用しないときです。検察官の側に罪があり得るのは、検察官が偽って訴追したり(第八戒によって直接禁じられています)、悪事を行う者を起訴しなかったりしたときであり、賄賂のせいであっても脅迫に屈していても、その結果は悪事を行う危険な者に反社会的な犯罪を犯し続けることを許してしまうことになるからです。被告の側に罪があり得るのは、自分が行ったことを偽って否定したり、他人に対する自分の過ちを認めなかったりするときです。証人の側に罪があり得るのは、特に偽りの証言をしたり、するべき証言をしなかったりして、無実の者を有罪にさせたり悪事を行う者が放免されるのを助けたりするときです。弁護人の側に罪があり得るのは、特にどんな種類の偽りであってもそれを使ったり、単に悪の原因を擁護したりして、悪事を行う者を助けるときです。
しかし、正義は素晴らしい善であり、良きかつ正直な裁判官は多くの善を行うことができます。例えば、イングランドの大法官だった聖トマス・モアです。彼は国王ヘンリー八世によって殉教しました。彼は最後まで正直であり、真理を守り抜いたのです!
聖ヤコボは、舌は体の最も小さい肢体であるが、最も邪悪なものである、と言います! 舌に関する聖ヤコボの一章全体を、第八戒に関連して考察することが非常に重要です。「私たちはみな多くの点で道を踏み外す者である。言葉を踏み外さない人は完全な人であって、全身にくつわをつけることのできる人である。私たちが馬を御するためにその口にくつわをはめれば、その全身を御する。また船を考えよ。形は大きくて強い風に押されているが、小さい舵によって操る人の思いのままに操縦される。同様に舌も小さい部分であるが、大事にすると誇ってよい。大きな森を燃やすために、ほんの小さな火で足りることを考えよ。舌は火であって不義のかたまりである。舌は私たちの肢体の中で、全身を毒するものとして地獄から火をつけられ、一生の車輪を燃やすのである。獣、鳥、這うもの、海の生き物などすべての種類は、人間によって今も昔も制せられている。しかし人は舌を制しきれない。舌は押さえきれない悪であって死の毒に満ちている。それによって私たちは主なる父を賛美し、またそれによって天主にかたどって創られた人間を呪う。同じ口から賛美と呪いが出る。しかし兄弟たちよ、そうであってはならない。泉が同じ口を通して甘い水と苦い水を出すだろうか。兄弟たちよ、いちじくの木がオリーブを、ぶどうの木がいちじくの実を結ぶだろうか。同様に塩辛い泉は甘い水を出せない。あなたたちの中に賢明なそして経験のある人がいるだろうか。その人はよい生活をし、知識と柔和をもってその業を行っていることを示せ。しかし。心で苦々しい熱心と争いを好んでいるのなら、自らを誇らず、また真理に背いて偽るな。その知識は上から下るものではなく、地上的な情欲的な悪魔的なものである。ねたみと争いの心のあるところには乱れとすべての悪がある。上からの知恵はまず清いもの、そして平和な寛容な謙譲なもの、あわれみとよい実に満ち、人を差別せず、偽らないものである。義の実は平和を行う人々のために、平和のうちにまかれるものである」(ヤコボ3章2-18節)。
私たちの主イエズス・キリストは真理(ヨハネ14章6節)であり、真理のみ言葉であって、「恩寵と真理に満ちておられ」(ヨハネ1章14節)ます。主はピラトに言われました。「私は真理を証明するために生まれ、そのためにこの世に来た。真理につく者は私の声を聞く」(ヨハネ18章37節)。主に請い求めましょう、主のための、真理のための偉大なる愛を、そして真理を語り決して偽りを言わない恩寵を! 実際、私たちの主は悪魔について言われました。「彼は真理において固まっていなかった。彼の中には真理がないからである。彼はうそをつくとき心底からうそを言う。彼はうそつきで、うその父だからである」(ヨハネ8章44節)。(対立する)二つの陣営は明らかです。ですから私たちは、キリストの陣営につき、悪魔の陣営に対抗することを固い決意で選びます。私たちは真理に従い、あらゆる偽りを避けることを選ぶのです!
聖霊は、「父から出る真理の霊が来るとき、それが私について証明されるであろう」(ヨハネ15章26節)。これは、最も正しい証言です! 「その方つまり真理の霊が来るとき、霊はあなたたちをあらゆる真理に導かれるであろう。それは、自らを語るのではなく、聞いたことを語って未来のことを示されるであろう」(ヨハネ16章13節)。聖霊は、私たちにこう教えてくださいます。「真理にあって愛により、すべてにおいてかしらであるキリストによって成長するためである」(エフェゾ4章15節)。
童貞聖マリアは常に、ほかの誰よりも、愛徳において真理を行われました。これが、聖母がまったく光の中におられ、まったく汚れなき方である理由です。聖母を通じて祈りましょう。私たちが真理を愛し、真理を実践することができ、そうすることで、天国で永遠の真理を観想すること、見つめることが許されますように! アーメン。