アヴェ・マリア・インマクラータ!
愛する兄弟姉妹の皆様、
2016年6月18日(土)に大阪で聖伝のミサを捧げました。その時のお説教をご紹介いたします。
天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)
2016年6月18日 ベルナデッタ吉崎さんの追悼ミサ
小野田神父説教
聖母の汚れなき御心教会にようこそ。今日は2016年6月18日、 6月4日の初土曜日に魂を、霊魂を天主様に返しましたベルナデッタさんの為に追悼ミサをしております。
今日のこの御ミサの後に、いつものように公教要理、特に今回は公教要理の続きの「信仰について」信仰の徳は色々な徳の内の中で1番なのか2番なのか、或いは信仰の徳に反する罪について、或いは不信について不信仰について、或いは異端について、皆さんとこの話を進めていきたいと思っています。今日この公教要理が終わった後にも、皆さんどうぞ聖歌の練習をなさって下さい。
7月1日はここでミサがあります。特にイエズス様の尊き御血の祝日です。
「私は復活であり、命である。私を信じる者は死んでも生きる。」
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。
愛する兄弟の皆さん、今日は追悼ミサをしているので、私たちも「死」について、私たちがどうしても避ける事ができない死について、黙想する事に致しましょう。
一体、死というのは何なのか?死というのは義人にとって、或いは罪人にとってどのような違いがあるのか?イエズス様は私たちの為に、このどのような事をなさって下さったのか?私たちは死の時に、私たちにこれほどして下さったイエズス様に対して、どのようにお会いするのか?遷善の決心を立てる事に致しましょう。
ベルナデッタさんは、もう20年以上前からずっと聖伝のミサに与ってきました。最初に大阪の方でミサをし出すようになった最初の時からミサに与ってこられて、ミサがある時に必ず、1度も欠かした事がなくミサに来られていました。ミサに来られて、お祈りをされて、色々なところで働いて、お掃除をされたりとか、公教要理を勉強したり、とてもイエズス様の為に、「イエズス様の御旨を果たしたい。イエズス様をお愛ししたい。イエズス様を讃美したい。イエズス様の為に何か役に立ちたい。」という事を、口で、体で、いつもこの思ってそれを表現していた方でした。
お姉様は聖体奉仕会のシスターで、シスター杉岡で、シスター笹川と一緒に聖体奉仕会で生活して、シスター笹川が聖体奉仕会の秋田を出されても、その後も一緒になってシスター笹川から離れずに、ずっと共同生活をされていた方でした。この姉妹2人共が、イエズス様への愛に燃えていた姉妹でした。
特に大阪の私たちにとっては、ベルナデッタさんとかシスター杉岡、またその他私たちの侍者をなさって下さっている福島さんとか色々な深い関係があって、或いは藤枝教会のヨゼフ・マリ・ジャック神父様とかと深い関係があって、秋田の聖母とは深い関係が与えられました。
このベルナデッタさんの生涯を見ると、イエズス様の事だけを、イエズス様の愛に満ちた生活でしたので、その死は私たちにとって大きな希望と安心を与えてくれます。イエズス様が仰ったように、「私は復活であり、命である。私を信じる者は死んでも生きる。」という事がまさに実現するべき方であるからです。
聖アルフォンソ・デ・リグオリによると、「ちょうど、死を迎えるというのは、牢屋に閉じ込められていたお姫様を解放するかのようである。」と言っています。「お姫様が牢屋でジメジメとした所で、苦しみと悲しみと、故郷から離れて一人ぼっちで辛い思いをしている所を、『さぁ、もう牢屋にいる必要はない。さぁ、祖国に帰りなさい。さぁ、お姫様の玉座につきなさい。さぁ、王国に戻りなさい。』と言って、誰かがドアを開けてくれる。それに似ている。」と。
或いは、聖カルロ・ボロメオという聖人は偉大な聖人でしたが、自分の司教の家に「死」の絵を書かせたのだそうです。その死の死神というか、死の象徴が刀を持って、死を表していたのですが、それを画家に言って、「いや刀ではなくて、黄金の鍵をつけてほしい。何故かというと、「死」というのは義人にとって、永遠の喜びへの始まりだからである。何故かというと、もはやこれによって、イエズス様を罪によって悲しませる事もないし、罪を犯す事によって天国の永遠の福楽を失ってしまうという危険もなくなるし、イエズス・キリスト様の為に自分を全て、自分の持てるものを全て捧げる事ができるから。イエズス様に倣って自分の命を天主に捧げる事ができるから。死というのはもはや喜びだから。永遠の天国への鍵だから。ここをどうしても通らなければ入れないものだから。だから黄金の鍵に変えてほしい。」と言ったそうです。
ある時には、これはやはり聖アルフォンソ・デ・リグオリによると、ある時お父さんが自分の子供が病気にかかって、その教会に多くの献金をして、このお願いをしたのだそうです、「天主様、どうぞこの子が長い、長い長い命が与えられますように。」するとお祈りをした、そのようなお祈りしたのですけれども、その子供は亡くなってしまったそうです。するとがっかりしたお父さんがその悲しんでいると、そのお父さんに天使が現れて、「心配するな。お前の子は永遠の命に入った。本当に長い、長い長い喜びの中に入った。これこそがお前の望んでいたものだ。心配するな。」と慰めたのだそうです。
私たちイエズス様に従う者にとって、死は永遠の始まりであります。
私たちは、シュテーリン神父様が仰って下さった黙想を何度も思い返します、「この世の悲劇は実は、『現実』、どうしても私たちの変える事ができない『現実』と、『自分の思い』とを混同してしまっているという事だ」と。どういう事かというと、「現実というのは、例えばこの目の前にある『壁』は、どうしても壁であって、これが在るのが好きでも嫌いでも、或いはこれが在ってほしくなくてもこれは壁であって、どうしても私たちが変える事ができない現実である。私たちの色んな想像や妄想や、その願いというのは、私たちの頭の中だけにあるのであって、それはそれが必ずしも現実ではない。それを、でもこの人たちは現代の悲劇は、それを混同してしまっている事である。」という事です。
私たちがどうしても、どのように思っても、大きな「現実」があります。それは「私たちが死を迎えなければならない。どうしてもこの肉体は滅びてしまう」という事で、「この世に永久に住む事はできない」という事です。「この地上での生活をこのままずっと続ける事はできない」という事です。もう一つの現実は、「この短い生涯の後に、永遠が待っている」という事です。「天国、或いは地獄」「この世を創った創造主であり、私たちを救って下さった救世主、イエズス・キリストが私たちを必ず裁かれる」という現実です。
私たちが好きであっても好きでなくても、これがどうしても変わる事のない現実です。それを認めようとしなくても、認めなくても認めても、それは「どうしても避ける事ができない」という事です。
しかし悲劇は、それを「認めたくない」という人は、それを「自分の思う事が現実である、自分の思う通りになる」と幻想しているからです。
しかし「この世が偶然にできたのではなく、この全ての在る目に見えるものが偶然できたものではなく、私たちも創られたものであり、イエズス・キリスト様は真に復活され、私たちの為に今天に上げられて、裁きに来られる」という事が現実である限り、私たちは、「私たちには死の直後、イエズス・キリストが裁き主として私たちを裁かれ審判され、永遠が決められる」という現実が待っています。
その時その死を迎えた時に、イエズス・キリストを否んできた人、イエズス・キリストの望みよりも自分の望みを大切にしてきた人、或いはイエズス・キリストの教えを迫害した人、イエズス・キリストを信じるような人々を、「信じているから」といって嫌がらせや悪さをした人、或いは迫害をして死に至らせたような人々は、どれほどその時に、赤面と苦しい立場に置かれる事でしょうか。
考えてもみて下さい。私たちがもしも自分のお友達の為に一生懸命、命懸けになって朝夕働いて、その友達が借金がある、サラ金で困っている、もうしょうがない、もう首が回らない、もう食べ物もない、もうお金もない、という時に、「あぁ、じゃあもう自分の貯蓄を使ってそれを払いなさい。もうこれでサラ金しちゃだめだよ。」と言ったにもかかわらず、密かにそのお金を使って、またギャンブルをしたり、ろくでもない使い方をして、「あぁまた 、また借金だ。」
或いは自分が、その人が「病気だ」というから、自分が自分の臓器を移植させてあげた。それにもかかわらず、生活を改めないし、そうやって恩を受けたにもかかわらず、他の人の前ではその恩人についてバカにして笑っている、「ははっ。何でもないよ。」と悪口を言っている、遂には悪さをする。その時に、そのような恩人がちょうど悪口を言っているその最中にふと通りかかったら、その人はどんなにバツが悪いでしょうか。
もしもその悪さをした人が、その犯罪を犯したその人が、その犠牲者が実は日本の裁判官の長官で、自分の裁判官だとしたら、どれほどバツが悪いでしょうか。
その代わりにイエズス様、私たちに善には善を報いて下さるイエズス様が裁判官として立った時に、生前生きてる間にイエズス様の事だけを考えて、イエズス様の利益を全てに勝って優先させて「イエズス様の御望みの事、イエズス様を喜ばせよう」とした事だけを考えた人にとって、その裁き主の前に出る事はどれほど喜びでしょうか。
愛する兄弟の皆さん、今日テレジアさんの追悼ミサで、ベルナデッタさんが早く煉獄から解放されて天国に行かれますように祈ると共に、私たちも多くの殉教者、多くの良い先輩たちに倣って、イエズス様の為にこの一生をより良く使う事ができますように。私たちに与えられた時間と才能とタレントを、イエズス様を愛する為にのみ使う事ができますように、この御恵みをお祈り致しましょう。
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。
愛する兄弟姉妹の皆様、
2016年6月18日(土)に大阪で聖伝のミサを捧げました。その時のお説教をご紹介いたします。
天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)
2016年6月18日 ベルナデッタ吉崎さんの追悼ミサ
小野田神父説教
聖母の汚れなき御心教会にようこそ。今日は2016年6月18日、 6月4日の初土曜日に魂を、霊魂を天主様に返しましたベルナデッタさんの為に追悼ミサをしております。
今日のこの御ミサの後に、いつものように公教要理、特に今回は公教要理の続きの「信仰について」信仰の徳は色々な徳の内の中で1番なのか2番なのか、或いは信仰の徳に反する罪について、或いは不信について不信仰について、或いは異端について、皆さんとこの話を進めていきたいと思っています。今日この公教要理が終わった後にも、皆さんどうぞ聖歌の練習をなさって下さい。
7月1日はここでミサがあります。特にイエズス様の尊き御血の祝日です。
「私は復活であり、命である。私を信じる者は死んでも生きる。」
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。
愛する兄弟の皆さん、今日は追悼ミサをしているので、私たちも「死」について、私たちがどうしても避ける事ができない死について、黙想する事に致しましょう。
一体、死というのは何なのか?死というのは義人にとって、或いは罪人にとってどのような違いがあるのか?イエズス様は私たちの為に、このどのような事をなさって下さったのか?私たちは死の時に、私たちにこれほどして下さったイエズス様に対して、どのようにお会いするのか?遷善の決心を立てる事に致しましょう。
ベルナデッタさんは、もう20年以上前からずっと聖伝のミサに与ってきました。最初に大阪の方でミサをし出すようになった最初の時からミサに与ってこられて、ミサがある時に必ず、1度も欠かした事がなくミサに来られていました。ミサに来られて、お祈りをされて、色々なところで働いて、お掃除をされたりとか、公教要理を勉強したり、とてもイエズス様の為に、「イエズス様の御旨を果たしたい。イエズス様をお愛ししたい。イエズス様を讃美したい。イエズス様の為に何か役に立ちたい。」という事を、口で、体で、いつもこの思ってそれを表現していた方でした。
お姉様は聖体奉仕会のシスターで、シスター杉岡で、シスター笹川と一緒に聖体奉仕会で生活して、シスター笹川が聖体奉仕会の秋田を出されても、その後も一緒になってシスター笹川から離れずに、ずっと共同生活をされていた方でした。この姉妹2人共が、イエズス様への愛に燃えていた姉妹でした。
特に大阪の私たちにとっては、ベルナデッタさんとかシスター杉岡、またその他私たちの侍者をなさって下さっている福島さんとか色々な深い関係があって、或いは藤枝教会のヨゼフ・マリ・ジャック神父様とかと深い関係があって、秋田の聖母とは深い関係が与えられました。
このベルナデッタさんの生涯を見ると、イエズス様の事だけを、イエズス様の愛に満ちた生活でしたので、その死は私たちにとって大きな希望と安心を与えてくれます。イエズス様が仰ったように、「私は復活であり、命である。私を信じる者は死んでも生きる。」という事がまさに実現するべき方であるからです。
聖アルフォンソ・デ・リグオリによると、「ちょうど、死を迎えるというのは、牢屋に閉じ込められていたお姫様を解放するかのようである。」と言っています。「お姫様が牢屋でジメジメとした所で、苦しみと悲しみと、故郷から離れて一人ぼっちで辛い思いをしている所を、『さぁ、もう牢屋にいる必要はない。さぁ、祖国に帰りなさい。さぁ、お姫様の玉座につきなさい。さぁ、王国に戻りなさい。』と言って、誰かがドアを開けてくれる。それに似ている。」と。
或いは、聖カルロ・ボロメオという聖人は偉大な聖人でしたが、自分の司教の家に「死」の絵を書かせたのだそうです。その死の死神というか、死の象徴が刀を持って、死を表していたのですが、それを画家に言って、「いや刀ではなくて、黄金の鍵をつけてほしい。何故かというと、「死」というのは義人にとって、永遠の喜びへの始まりだからである。何故かというと、もはやこれによって、イエズス様を罪によって悲しませる事もないし、罪を犯す事によって天国の永遠の福楽を失ってしまうという危険もなくなるし、イエズス・キリスト様の為に自分を全て、自分の持てるものを全て捧げる事ができるから。イエズス様に倣って自分の命を天主に捧げる事ができるから。死というのはもはや喜びだから。永遠の天国への鍵だから。ここをどうしても通らなければ入れないものだから。だから黄金の鍵に変えてほしい。」と言ったそうです。
ある時には、これはやはり聖アルフォンソ・デ・リグオリによると、ある時お父さんが自分の子供が病気にかかって、その教会に多くの献金をして、このお願いをしたのだそうです、「天主様、どうぞこの子が長い、長い長い命が与えられますように。」するとお祈りをした、そのようなお祈りしたのですけれども、その子供は亡くなってしまったそうです。するとがっかりしたお父さんがその悲しんでいると、そのお父さんに天使が現れて、「心配するな。お前の子は永遠の命に入った。本当に長い、長い長い喜びの中に入った。これこそがお前の望んでいたものだ。心配するな。」と慰めたのだそうです。
私たちイエズス様に従う者にとって、死は永遠の始まりであります。
私たちは、シュテーリン神父様が仰って下さった黙想を何度も思い返します、「この世の悲劇は実は、『現実』、どうしても私たちの変える事ができない『現実』と、『自分の思い』とを混同してしまっているという事だ」と。どういう事かというと、「現実というのは、例えばこの目の前にある『壁』は、どうしても壁であって、これが在るのが好きでも嫌いでも、或いはこれが在ってほしくなくてもこれは壁であって、どうしても私たちが変える事ができない現実である。私たちの色んな想像や妄想や、その願いというのは、私たちの頭の中だけにあるのであって、それはそれが必ずしも現実ではない。それを、でもこの人たちは現代の悲劇は、それを混同してしまっている事である。」という事です。
私たちがどうしても、どのように思っても、大きな「現実」があります。それは「私たちが死を迎えなければならない。どうしてもこの肉体は滅びてしまう」という事で、「この世に永久に住む事はできない」という事です。「この地上での生活をこのままずっと続ける事はできない」という事です。もう一つの現実は、「この短い生涯の後に、永遠が待っている」という事です。「天国、或いは地獄」「この世を創った創造主であり、私たちを救って下さった救世主、イエズス・キリストが私たちを必ず裁かれる」という現実です。
私たちが好きであっても好きでなくても、これがどうしても変わる事のない現実です。それを認めようとしなくても、認めなくても認めても、それは「どうしても避ける事ができない」という事です。
しかし悲劇は、それを「認めたくない」という人は、それを「自分の思う事が現実である、自分の思う通りになる」と幻想しているからです。
しかし「この世が偶然にできたのではなく、この全ての在る目に見えるものが偶然できたものではなく、私たちも創られたものであり、イエズス・キリスト様は真に復活され、私たちの為に今天に上げられて、裁きに来られる」という事が現実である限り、私たちは、「私たちには死の直後、イエズス・キリストが裁き主として私たちを裁かれ審判され、永遠が決められる」という現実が待っています。
その時その死を迎えた時に、イエズス・キリストを否んできた人、イエズス・キリストの望みよりも自分の望みを大切にしてきた人、或いはイエズス・キリストの教えを迫害した人、イエズス・キリストを信じるような人々を、「信じているから」といって嫌がらせや悪さをした人、或いは迫害をして死に至らせたような人々は、どれほどその時に、赤面と苦しい立場に置かれる事でしょうか。
考えてもみて下さい。私たちがもしも自分のお友達の為に一生懸命、命懸けになって朝夕働いて、その友達が借金がある、サラ金で困っている、もうしょうがない、もう首が回らない、もう食べ物もない、もうお金もない、という時に、「あぁ、じゃあもう自分の貯蓄を使ってそれを払いなさい。もうこれでサラ金しちゃだめだよ。」と言ったにもかかわらず、密かにそのお金を使って、またギャンブルをしたり、ろくでもない使い方をして、「あぁまた 、また借金だ。」
或いは自分が、その人が「病気だ」というから、自分が自分の臓器を移植させてあげた。それにもかかわらず、生活を改めないし、そうやって恩を受けたにもかかわらず、他の人の前ではその恩人についてバカにして笑っている、「ははっ。何でもないよ。」と悪口を言っている、遂には悪さをする。その時に、そのような恩人がちょうど悪口を言っているその最中にふと通りかかったら、その人はどんなにバツが悪いでしょうか。
もしもその悪さをした人が、その犯罪を犯したその人が、その犠牲者が実は日本の裁判官の長官で、自分の裁判官だとしたら、どれほどバツが悪いでしょうか。
その代わりにイエズス様、私たちに善には善を報いて下さるイエズス様が裁判官として立った時に、生前生きてる間にイエズス様の事だけを考えて、イエズス様の利益を全てに勝って優先させて「イエズス様の御望みの事、イエズス様を喜ばせよう」とした事だけを考えた人にとって、その裁き主の前に出る事はどれほど喜びでしょうか。
愛する兄弟の皆さん、今日テレジアさんの追悼ミサで、ベルナデッタさんが早く煉獄から解放されて天国に行かれますように祈ると共に、私たちも多くの殉教者、多くの良い先輩たちに倣って、イエズス様の為にこの一生をより良く使う事ができますように。私たちに与えられた時間と才能とタレントを、イエズス様を愛する為にのみ使う事ができますように、この御恵みをお祈り致しましょう。
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。