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長崎巡礼-お説教-2016年5月2日 「聖アタナシウスはどのような義人であったか」

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アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

長崎巡礼で5月2日(月)教会博士証聖者司教聖アタナシウスのミサでの御説教をご紹介いたします。
どうぞお読み下さい。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

2016年5月2日 長崎巡礼 教会博士証聖者司教聖アタナシウスのミサ 
小野田神父説教
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

愛する巡礼者の皆さん、5月は聖母の月で、毎日、別のお恵みが準備されています。今日はマリア様は私たちに、聖アタナシウスを通して、特別のお恵みを与えようとして下さいます。そこで聖アタナシウスの、聖アタナシウスという別の義人について、その義人がどういう方であったのか、義人のその聖アタナシウスの義の特徴は何だったのかを見て、その義の結果、義人であった結果、どんな事をしたのか。その目標とするものは何だったのか。一体聖アタナシウスにとって、一番何が大切だったのかを黙想して、最後に私たちの遷善の決心を取る事に致しましょう。

第1のポイント。聖アタナシウスの人生について少し垣間見てみます。聖アタナシウスは今から約1700年前に生きていた方です。ちょうど今から400年前に、江戸では元和の大殉教で400人や500人の人々が焼かれ、或いは雲仙では、内堀家族と内堀の兄弟が指を切られ、有明に捨てられましたが、今から1700年前、ちょうどエジプトのアレキサンドリアという大都市に、それはナイル川の河口に位置する大きな都市ですけれども、そこの助祭として既にニケア公会議において、「イエズス・キリストが真の天主であった。イエズス・キリストは天主御父と全く同じ本性を持っていた。ただの人間ではない、真の天主にして真の人である。」という事を、公会議で一生懸命雄弁に弁護した方です。その信仰の、信仰の証人として生きた方です。

義人というのは「正義」というのは、「他者に、その人に与えられるべきものを与える」という事ですが、聖アタナシウスはまさに「天主に、天主の真理に、知性と意志の同意を全く与えた」という意味で義人でした。

聖書にも、ローマの手紙の中にも聖パウロはこう言っています、「義人は信仰によって生きる。」と。聖アタナシウスは、信仰によって生きたが為に、やはり義人でありました。

第2のポイントは、では聖アタナシウスはその後、どのような信仰生活を送ったのでしょうか?

それはまさに、今日の聖パウロの書簡に書かれている、素晴らしく書かれている通りです。聖アタナシウスはこの信仰を守ったが為に、アリウス派のこの信仰を否定する、「イエズス・キリストはただの人間だ」と言う人々の迫害を受けました。自分の司教区を5回追放されました。17年間逃亡の身でした、追放の身でした。遂にはアレクサンドリアの司教になるのですけれども、教皇リべリウスから破門をされています。

有名なニューマンというカトリックの神学者がいます。このニューマン枢機卿の研究によると、「もうこれは疑いのない事実として、外見上聖アタナシウスは教皇によって破門され、あたかもも離教徒であったかのように目に映ったのだけれども、しかし事実は現実は、聖アタナシウスこそが信仰のチャンピオンであって、正当な信仰を終わりまで守り通したその人であった。」
その当時に生きていた聖ヒエロニモによると、その「私たちが朝起きると、全世界はアリウス派の司教によって占められていた。」とあります。アタナシウスや聖バジリオなど少数の人々を除いて、皆司教様たちはアリウス派の異端に染まってしまいました。ニューマン枢機卿によると、「80%以上の司教がアリウス派になってしまった」という事です。

いわばあたかも、教導教会がその時口を閉ざしてしまって、あたかも停止してしまったかのようでした。あたかも、全世界はイエズス様の御教えの約束の通り「この地獄の門に負けない。」と言ったその教会があたかも打ち負かされてしまったかのように見えていました。

しかし事実はそうではありませんでした。聖アタナシウスが最後までニケア公会議のこの信仰箇条を、このアリウス派に対して1人で、少数の司教たちと守り通したのでした。たとえ迫害を受けようとも、たとえ破門の汚名を受けようとも、「いや、カトリック信仰は、祖先から受け継がれた、使徒たちから受け継がれた信仰はこれである。」と。

まさに聖パウロと同じく、「私たちは生きているが、しかしキリストの死を帯びている。私たちは迫害はされているけれども、しかし捨てられてはいない。私たちは許す事によって許され、私たちは命を与える事によって命を与えられるのだ。」と。

今日イエズス様の聖福音に書かれてあることとまさに同じです。聖アタナシウスは、永遠の命を与えるイエズス・キリストを、真の天主を信じていました。「イエズス・キリストはただの人ではない。真の天主だ。イエズス・キリストだけが私たちに永遠の命を与える事ができる。だから私たちの体を殺す人を恐れるのではなく、私たちを永遠の火に落とす事ができる方を、天主を傷付ける事、天主を否む事をのみ、天主に対して罪を犯す事だけを恐れる。」という人生を送ったのでした。

では最後に、私たちは今日どのような決心を取ったら良いでしょうか?

イエズス様が十字架にかかった時に、マリア様がいらっしゃいました。殉教者が自分の命を捧げる時に、いつもマリア様がそれを助けて下さいました。聖アタナシウスも同じです。もしも私たちがイエズス様に続き、殉教者に続き、聖アタナシウスと同じ信仰を持つなら、持とうとするなら、聖アタナシウスの人生はまさに私たち聖伝のカトリック信者とぴったりと映るのではないでしょうか。ルフェーブル大司教様は第2の聖アタナシウスのようではないでしょうか。私たちには必ずマリア様が必要です。マリア様インマクラータの御取り次ぎを求めて、今日の巡礼の良い日を過ごす事に致しましょう。

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。


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