アヴェ・マリア・インマクラータ!
愛する兄弟姉妹の皆様、
2016年6月19日 聖霊降臨後第5主日に東京で聖伝のミサを捧げました。その時のお説教をご紹介いたします。
天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)
2016年6月19日 聖霊降臨後第5主日
小野田神父説教
聖なる日本の殉教者巡回教会にようこそ。
今日は2016年6月19日、聖霊降臨後第5主日のミサをしています。今日午後の14時30分からいつものように公教要理の復習会があります。
今日は「希望の徳について」、希望の徳と信仰の徳と愛徳と、一体どちらの方が一番上なのか、希望の徳に反対する罪とはどんなものがあるのか、不信仰と絶望と或いは慢心と、どちらの方が罪が重いのか、など皆さんと一緒に考察していきたいと思っています。
16時から第2晩課があります、主日の第2晩課があります。
明日の朝ここで7時からミサがあります。
7月は司祭の都合により、7月3日と10日の主日にここでミサがあります。これはできるだけレギュラーにしたかったのですけれども、レネー神父様の姪御さんがフランスで誓願を立てるという事で、レネー神父様がそれに黙想会を指導しに行かれて、その誓願式に与るという事で、その為に少し予定がずれました、どうぞご理解下さい。
8月10日から15日には、シュテーリン神父様が指導して下さるモンフォールによる聖母黙想会があります。これは非常に大切な黙想会なので、是非皆さんできるだけ与るようになさって下さい。8月10日から、10日の夜から15日のお昼頃までです。大阪で行います。
「誰も兄弟に向かって怒る者は、裁きに渡される。」
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。
愛する兄弟の皆さん、今日私たちの主は、「私たちの義徳が善徳が正義が、律法学士やファリサイ人の旧約の人たちが要求したよりも遥かに優らなければ、天の国には入れない。昔の人は言った、『殺すな』。しかし私は言う、怒るな。それだけでもう裁きに渡されるだろう。」
では私たちの主は、「怒るな」という事で、一体何を教えていらっしゃるのでしょうか?「怒るな」という事はどういう事なのでしょうか?もしも誰か私たちに不正な事をしたら怒って当然ではないでしょうか?当然の権利を要求して何が悪いのでしょうか?何故裁きに渡されなければならないのでしょうか?今日のミサ全体を、集祷文、或いは書簡書、その福音を、イエズス様の仰った「怒るな」という、この怒りの観点から黙想してみる事を提案します。ではこの「怒り」というのは何であって、何を怒ってはいけなくて、何を怒るのはいいのか?それから私たちは怒らない為にはどうすれば良いのか?或いは怒ってしまったらどうしたら良いのかを、一緒に黙想する事に致しましょう。
「怒り」というのは、聖人たちの言うには、「私たちの顔を引きつらせて動物のように醜くさせるのみならず、霊魂を破壊してしまって、理性を暗ましてしまって、すべての悪徳を私たちに開いて、注ぎ受け入れさせてしまうドアのようなものだ。」と言っています。
これは一体どういう事かというと、怒る事によって、私たちの正常な理性、或いは平常心が失われてしまうので、或いは冒涜、或いは不正義、或いは悪口、或いは讒言(ざんげん)、躓き、或いは憎しみ、憎悪などを私たちの心に注いでしまうからです。一体、善が何であるか、悪が何であるか、正しいものが何であるか、やりすぎが何であるかが分からなくなってしまいます。あまりにも情念が理性を暗ましてしまうので、理解が暗んでしまうからです。
その時の危険は、私たちにこの怒りが留まってしまう事です。怒りが留まってしまうと、これは簡単に憎しみになります。怒りというのが、急激にアッと起こったものだとすると、それが蓄積されて憎しみとなります。
聖アウグスティヌスは言います、「私たちは区別しなければならない。誰かが兄弟が犯した『罪』をその『悪』を憎むのは、それは時にはそれは合法的な事で、時には私たちの義務であるけれども、特に私たちが管理職や或いは指導の立場にある者にとっては、その悪を罪を憎むのは義務であるけれども、しかしその罪を犯した悪を犯した『兄弟』を、その『人』を、『罪人』を憎むのは、これは許されていない。」と。
ここで聖アウグスティヌスは、「罪を憎む」のと「罪人を憎む」のとは違う、「罪について怒る」というのと、「罪人を怒る」のは違う、という事を教えています。ですから私たちが、罪を犯したというが為にその人を憎む事は決して許されていません。例えそれがどれほど酷い罪を犯したとしても、その人を憎む事は許されていません。何故かというと、その憎しみは非常にしばしば復讐に変身するからです。
私たちは時々、「全くこれは不正義だ。もう我慢できない。堪忍袋の緒が切れた。」と、もう怒りにメラメラと燃え立って、もうグツグツと燃えるコンロかやかんのようにフーッフーッと言って、顔を真っ赤にしてもう台風が来たかのように、嵐のように怒るかもしれませんが、しかしよくある事は、それが静まってよく考えてみると、その人の立場に考えてみると、自分にとって「何かすごい悪い事だな。」と思った事も、その人から見れば「まぁ、そうしても有り得るかな。それもそんなに悪い事じゃなかった。」という事もよく起こりがちです。これは何故かというと、怒りによって目が暗まされてしまったからです。その暗まされた目は簡単に憎悪として、復讐へと成長していくからです。
ですからイエズス様は、「怒るな。」と教えて下さいました。
では私たちは、怒りを感じる時にはどうしたら良いでしょうか?怒りを感じないというのは難しいと思います。何故かというと、「怒り」というのは、聖トマスアクィナスによると、「悪に直面した時に、それに対して立ち向かおうとする時の感情」であるからです。もしも「悪が来た時に、それから逃げてしまう」というのは、それは「恐れ」と言います。しかし、それに立ち向かって何とかしよう、というのが怒りであるからです。
その時に私たちは、その怒りに対して、柔和を以て立ち向かわなければなりません。つまり「理性と心の平和を保ちつつ、立ち向かわなければならない」という事です。不平を言ったり、或いは情念の燃えるままに任せてしまう事なく、いわば「イエズス・キリストに倣う」という事です。
イエズス様は、イエズス様の聖心はこう言いました、「私は、心の柔和謙遜な者であるから、私に倣え。」と。またイエズス様は真福八端で、「柔和な者は幸いなるかな。何故なら彼らは地を受け継ぐであろうから。」と、柔和を私たちに勧めて下さっています。
聖パウロも言います、「憐れみの衣を着よ。互いに許しあえ。」と。今日使う聖パウロの書簡を読むと、まさにここにあります、「私たちは兄弟愛を愛し、柔和で、謙遜で、悪に悪を返すな。」と勧めています。
また集祷文では教会は、私たちの心をもっと上にあげて、「私たちは主を倣うが為に、主を愛するが為に、その全てのこの地上のものを超えて主を愛せ。」と。「何故かというと、全てを超えて主を愛する者の為には、私たちはもう見る事もできない、目も想像する事もできない、特別の約束が準備されているから。天の特別の至福が準備されているから、この地上の事であまり腹を立てるな。」と言っているかのようです。
実際に私たちの主もそうでした。イエズス様は真の王の王でありました。しかしその事を信じてもらえず、ローマ兵たちはイエズス様を喜劇の王として侮ったではないでしょうか。イエズス様の正義の当然の権利がどれほど否まれた事でしょうか。イエズス様が本当なら受けるべき尊敬は、どれほど拒否された事でしょうか。イエズス様がやった親切に対して、感謝の言葉がどれほど欠けていた事でしょうか。しかしイエズス様は、私たちの永遠の幸せを準備する為に、それを全て忍耐されました。
もしもイエズス様が忍耐されたのでしたら、私たちも当然、「あぁ、ビジネスクラスのお金を払ったのに、何だエコノミーしかくれないのか。」「これを、当然これをしたのに、それもなれないのか。」という事があったとしても、「当然受けるべき尊敬がなかった。」「当然受けるべき感謝がなかった。」「当然なされて然るべきものがなかった。」という時も、イエズス・キリストを思えば、私たちがどうしてそれを忍耐し、柔和に耐え忍ばない事があるでしょうか。
キリシタンたちもそうでした。キリシタンたちがお坊さんと色々討論した時に、ある時のお坊さんが唾を吐いたのです。それをその時に、キリシタンは何も言わずに拭いて、そのまま何事もなかったかのように話を続けました。当時、「人の顔に唾吐く」というのは非常に無礼な行為でした。「もうただ事ではおかない!何だお前!」と言って、ここで決闘が、もう人殺しが起こって当然だったかもしれませんが、何も起こりませんでした。このキリシタンに唾を吐いたお坊さんは後で、「私もキリシタンになりたい。」と言ってきたそうです。
多くの私たちの祖先、殉教者たちは、ミゼリコルディアの組によって、病気の人を看病し、貧しい人を助け、善を施し、愛徳を施してきました。そのお礼に政府は、この人たちを逆さ吊りにして、蓑を着せて火を点けて火踊りをさせて、或いは水攻めにして、或いは爪の間に釘を刺してそれで土を引っ掻かきさしたり、拷問の後の拷問、一体本当に、受けるべき善に対する感謝もなかったどころか、却って悪さをされました。しかしキリシタンたちは、それを許す許しと、忍耐と、感謝と、平和の心でそれを耐え忍びました。
それを見ると、私たちが他の方々から受ける、この21世紀に受ける屈辱や、侮辱や、悪口や、その他嫌がらせというのも、本当に子供の遊びのように思われます。
ではもしも、つい私たちが不幸にして怒ってしまったならば、どうしたら良いでしょうか?誰かから注意されたので、その注意してくれた事を「ありがとう。」とも言わずに、「何だ!」と怒ってしまったり、或いは私たちが何か善意で言われた事を「屈辱だ」と思って、「侮辱された」と思って腹を立てたり、或いは「当然怒るべきだ!」と思って怒ったものについてはどうしたら良いでしょうか?
イエズス様はまず、「もしもそういう事を思い出したならば、例え天主様に対する祭壇に生け贄を供えるという事であったとしても、その前に和解して、それから祭壇に供えるように。」つまり私たちの心に、その怒りをまず消し去る事を要求されています。
旧約聖書の中で、ヨブの中にもありました。ヨブは財産を全て失っても、「それは全て主が下さり、主が取り去り給うた。主の御名は讃美せられさせ給え。」旧約聖書では、ダヴィドが悪口を言われた時に、「これは、主が彼らの口を使って、私に言わしめているのだ。」と言いました。
ですから私たちはこの6月に、イエズス様の聖心の中に深く入る事に致しましょう。イエズス様が耐え忍んで下さったそのすべての苦しみの為に、イエズス様が私たちに持っておられるそのすべての愛の為に、イエズス様を愛するが為に、イエズス様を全てを超えて愛するが為に、私たちに永遠の命が、全てを超える喜びが準備されているが故に、この地上の事を全て、柔和に、平和のうちに耐え忍ぶ事ができる御恵みを乞い求めましょう。
「私は言う、もしも兄弟に対して怒るならば、あなたは裁きに渡される。」
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。
愛する兄弟姉妹の皆様、
2016年6月19日 聖霊降臨後第5主日に東京で聖伝のミサを捧げました。その時のお説教をご紹介いたします。
天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)
2016年6月19日 聖霊降臨後第5主日
小野田神父説教
聖なる日本の殉教者巡回教会にようこそ。
今日は2016年6月19日、聖霊降臨後第5主日のミサをしています。今日午後の14時30分からいつものように公教要理の復習会があります。
今日は「希望の徳について」、希望の徳と信仰の徳と愛徳と、一体どちらの方が一番上なのか、希望の徳に反対する罪とはどんなものがあるのか、不信仰と絶望と或いは慢心と、どちらの方が罪が重いのか、など皆さんと一緒に考察していきたいと思っています。
16時から第2晩課があります、主日の第2晩課があります。
明日の朝ここで7時からミサがあります。
7月は司祭の都合により、7月3日と10日の主日にここでミサがあります。これはできるだけレギュラーにしたかったのですけれども、レネー神父様の姪御さんがフランスで誓願を立てるという事で、レネー神父様がそれに黙想会を指導しに行かれて、その誓願式に与るという事で、その為に少し予定がずれました、どうぞご理解下さい。
8月10日から15日には、シュテーリン神父様が指導して下さるモンフォールによる聖母黙想会があります。これは非常に大切な黙想会なので、是非皆さんできるだけ与るようになさって下さい。8月10日から、10日の夜から15日のお昼頃までです。大阪で行います。
「誰も兄弟に向かって怒る者は、裁きに渡される。」
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。
愛する兄弟の皆さん、今日私たちの主は、「私たちの義徳が善徳が正義が、律法学士やファリサイ人の旧約の人たちが要求したよりも遥かに優らなければ、天の国には入れない。昔の人は言った、『殺すな』。しかし私は言う、怒るな。それだけでもう裁きに渡されるだろう。」
では私たちの主は、「怒るな」という事で、一体何を教えていらっしゃるのでしょうか?「怒るな」という事はどういう事なのでしょうか?もしも誰か私たちに不正な事をしたら怒って当然ではないでしょうか?当然の権利を要求して何が悪いのでしょうか?何故裁きに渡されなければならないのでしょうか?今日のミサ全体を、集祷文、或いは書簡書、その福音を、イエズス様の仰った「怒るな」という、この怒りの観点から黙想してみる事を提案します。ではこの「怒り」というのは何であって、何を怒ってはいけなくて、何を怒るのはいいのか?それから私たちは怒らない為にはどうすれば良いのか?或いは怒ってしまったらどうしたら良いのかを、一緒に黙想する事に致しましょう。
「怒り」というのは、聖人たちの言うには、「私たちの顔を引きつらせて動物のように醜くさせるのみならず、霊魂を破壊してしまって、理性を暗ましてしまって、すべての悪徳を私たちに開いて、注ぎ受け入れさせてしまうドアのようなものだ。」と言っています。
これは一体どういう事かというと、怒る事によって、私たちの正常な理性、或いは平常心が失われてしまうので、或いは冒涜、或いは不正義、或いは悪口、或いは讒言(ざんげん)、躓き、或いは憎しみ、憎悪などを私たちの心に注いでしまうからです。一体、善が何であるか、悪が何であるか、正しいものが何であるか、やりすぎが何であるかが分からなくなってしまいます。あまりにも情念が理性を暗ましてしまうので、理解が暗んでしまうからです。
その時の危険は、私たちにこの怒りが留まってしまう事です。怒りが留まってしまうと、これは簡単に憎しみになります。怒りというのが、急激にアッと起こったものだとすると、それが蓄積されて憎しみとなります。
聖アウグスティヌスは言います、「私たちは区別しなければならない。誰かが兄弟が犯した『罪』をその『悪』を憎むのは、それは時にはそれは合法的な事で、時には私たちの義務であるけれども、特に私たちが管理職や或いは指導の立場にある者にとっては、その悪を罪を憎むのは義務であるけれども、しかしその罪を犯した悪を犯した『兄弟』を、その『人』を、『罪人』を憎むのは、これは許されていない。」と。
ここで聖アウグスティヌスは、「罪を憎む」のと「罪人を憎む」のとは違う、「罪について怒る」というのと、「罪人を怒る」のは違う、という事を教えています。ですから私たちが、罪を犯したというが為にその人を憎む事は決して許されていません。例えそれがどれほど酷い罪を犯したとしても、その人を憎む事は許されていません。何故かというと、その憎しみは非常にしばしば復讐に変身するからです。
私たちは時々、「全くこれは不正義だ。もう我慢できない。堪忍袋の緒が切れた。」と、もう怒りにメラメラと燃え立って、もうグツグツと燃えるコンロかやかんのようにフーッフーッと言って、顔を真っ赤にしてもう台風が来たかのように、嵐のように怒るかもしれませんが、しかしよくある事は、それが静まってよく考えてみると、その人の立場に考えてみると、自分にとって「何かすごい悪い事だな。」と思った事も、その人から見れば「まぁ、そうしても有り得るかな。それもそんなに悪い事じゃなかった。」という事もよく起こりがちです。これは何故かというと、怒りによって目が暗まされてしまったからです。その暗まされた目は簡単に憎悪として、復讐へと成長していくからです。
ですからイエズス様は、「怒るな。」と教えて下さいました。
では私たちは、怒りを感じる時にはどうしたら良いでしょうか?怒りを感じないというのは難しいと思います。何故かというと、「怒り」というのは、聖トマスアクィナスによると、「悪に直面した時に、それに対して立ち向かおうとする時の感情」であるからです。もしも「悪が来た時に、それから逃げてしまう」というのは、それは「恐れ」と言います。しかし、それに立ち向かって何とかしよう、というのが怒りであるからです。
その時に私たちは、その怒りに対して、柔和を以て立ち向かわなければなりません。つまり「理性と心の平和を保ちつつ、立ち向かわなければならない」という事です。不平を言ったり、或いは情念の燃えるままに任せてしまう事なく、いわば「イエズス・キリストに倣う」という事です。
イエズス様は、イエズス様の聖心はこう言いました、「私は、心の柔和謙遜な者であるから、私に倣え。」と。またイエズス様は真福八端で、「柔和な者は幸いなるかな。何故なら彼らは地を受け継ぐであろうから。」と、柔和を私たちに勧めて下さっています。
聖パウロも言います、「憐れみの衣を着よ。互いに許しあえ。」と。今日使う聖パウロの書簡を読むと、まさにここにあります、「私たちは兄弟愛を愛し、柔和で、謙遜で、悪に悪を返すな。」と勧めています。
また集祷文では教会は、私たちの心をもっと上にあげて、「私たちは主を倣うが為に、主を愛するが為に、その全てのこの地上のものを超えて主を愛せ。」と。「何故かというと、全てを超えて主を愛する者の為には、私たちはもう見る事もできない、目も想像する事もできない、特別の約束が準備されているから。天の特別の至福が準備されているから、この地上の事であまり腹を立てるな。」と言っているかのようです。
実際に私たちの主もそうでした。イエズス様は真の王の王でありました。しかしその事を信じてもらえず、ローマ兵たちはイエズス様を喜劇の王として侮ったではないでしょうか。イエズス様の正義の当然の権利がどれほど否まれた事でしょうか。イエズス様が本当なら受けるべき尊敬は、どれほど拒否された事でしょうか。イエズス様がやった親切に対して、感謝の言葉がどれほど欠けていた事でしょうか。しかしイエズス様は、私たちの永遠の幸せを準備する為に、それを全て忍耐されました。
もしもイエズス様が忍耐されたのでしたら、私たちも当然、「あぁ、ビジネスクラスのお金を払ったのに、何だエコノミーしかくれないのか。」「これを、当然これをしたのに、それもなれないのか。」という事があったとしても、「当然受けるべき尊敬がなかった。」「当然受けるべき感謝がなかった。」「当然なされて然るべきものがなかった。」という時も、イエズス・キリストを思えば、私たちがどうしてそれを忍耐し、柔和に耐え忍ばない事があるでしょうか。
キリシタンたちもそうでした。キリシタンたちがお坊さんと色々討論した時に、ある時のお坊さんが唾を吐いたのです。それをその時に、キリシタンは何も言わずに拭いて、そのまま何事もなかったかのように話を続けました。当時、「人の顔に唾吐く」というのは非常に無礼な行為でした。「もうただ事ではおかない!何だお前!」と言って、ここで決闘が、もう人殺しが起こって当然だったかもしれませんが、何も起こりませんでした。このキリシタンに唾を吐いたお坊さんは後で、「私もキリシタンになりたい。」と言ってきたそうです。
多くの私たちの祖先、殉教者たちは、ミゼリコルディアの組によって、病気の人を看病し、貧しい人を助け、善を施し、愛徳を施してきました。そのお礼に政府は、この人たちを逆さ吊りにして、蓑を着せて火を点けて火踊りをさせて、或いは水攻めにして、或いは爪の間に釘を刺してそれで土を引っ掻かきさしたり、拷問の後の拷問、一体本当に、受けるべき善に対する感謝もなかったどころか、却って悪さをされました。しかしキリシタンたちは、それを許す許しと、忍耐と、感謝と、平和の心でそれを耐え忍びました。
それを見ると、私たちが他の方々から受ける、この21世紀に受ける屈辱や、侮辱や、悪口や、その他嫌がらせというのも、本当に子供の遊びのように思われます。
ではもしも、つい私たちが不幸にして怒ってしまったならば、どうしたら良いでしょうか?誰かから注意されたので、その注意してくれた事を「ありがとう。」とも言わずに、「何だ!」と怒ってしまったり、或いは私たちが何か善意で言われた事を「屈辱だ」と思って、「侮辱された」と思って腹を立てたり、或いは「当然怒るべきだ!」と思って怒ったものについてはどうしたら良いでしょうか?
イエズス様はまず、「もしもそういう事を思い出したならば、例え天主様に対する祭壇に生け贄を供えるという事であったとしても、その前に和解して、それから祭壇に供えるように。」つまり私たちの心に、その怒りをまず消し去る事を要求されています。
旧約聖書の中で、ヨブの中にもありました。ヨブは財産を全て失っても、「それは全て主が下さり、主が取り去り給うた。主の御名は讃美せられさせ給え。」旧約聖書では、ダヴィドが悪口を言われた時に、「これは、主が彼らの口を使って、私に言わしめているのだ。」と言いました。
ですから私たちはこの6月に、イエズス様の聖心の中に深く入る事に致しましょう。イエズス様が耐え忍んで下さったそのすべての苦しみの為に、イエズス様が私たちに持っておられるそのすべての愛の為に、イエズス様を愛するが為に、イエズス様を全てを超えて愛するが為に、私たちに永遠の命が、全てを超える喜びが準備されているが故に、この地上の事を全て、柔和に、平和のうちに耐え忍ぶ事ができる御恵みを乞い求めましょう。
「私は言う、もしも兄弟に対して怒るならば、あなたは裁きに渡される。」
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。