アヴェ・マリア・インマクラータ!
愛する兄弟姉妹の皆様、
6月24日は洗者聖ヨハネの祝日でした。そこで、聖ヨハネの祝日に聖務日課で歌う有名な Ut queant laxis resonare fibris という賛歌にまつわるお話をご紹介します。
洗者聖ヨハネの賛歌(モンテカシーノのベネディクト会修道士であった助祭パウロ (Paulus Diaconus)の作った、サッポー詩節(Sapphicum)という韻律で書かれたもの)でその第1節は、11世紀にグィド・ダレッツォ(Guido d'Arezzo)によってソルフェージュの名前をつけるために使われました。
サッポー調というのは、次のようなリズムを持った詩のことです。
UT queant laxis || REsonare fibris
― U ― ― ― || U U ― U ― x
MIra gestorum || FAmuli tuorum
― U ― ― ― || U U ― U ― x
SOLve polluti || LAbii reatum
― U ― ― ― || U U ― U ― x
Sancte Iohannes.
― U U ― x
(― は長い、Uは短い、xはどちらでも可を意味します。)
グィド・ダレッツォ(Guido d'Arezzo)は、この賛歌の最初の三行の、ut, re, mi, fa, sol, la という最初の音節がドレミの音階の名前として使いました。最後の行(Sancte Iohannesの部分)はその時は特に使いませんでした。
しかし16世紀に7番目の音に名を付けるために Sancte Iohannes の最初の文字を取って SI をつかうようになりました。これは、フランダースのアンセルム(Anselme de Flandres)によるとのことです。
最初の ut は16世紀にイタリアで、do と置き換えられました。1536年には既に、ピエトロ・ダレッツォの書いたものの中に、イタリア語として使われた記録があります。このピエトロ・アレティーノ(1492 - 1556, Pietro Aretino, フランス語では Pierre l'Arétin)は、グィド・ダレッツォとは別の人です。これについての研究は、音楽家であった Corselis 神父(Mr l'abbé Corselis, Professeur de solfège et maître de chapelle du Collège du Sacré-Cœur de Tourcoing)のものがあります。
フランス語の語源辞典によると、17世紀初頭の人であったジョヴァンニ・バッティスタ・ドニ(Giovanni Battista Doni)が自分の名前の最初の音節から取ったのではないことになる、とあります。さらに、1673年にボノンチニ(Bononcini)が、イタリアの音楽家ドニの名前からとって ut を「ド」とした、という説もあるのですが、ドニとボノンチニとが生きている前から、既にドの名前が音符の名前として使われていた記録が残っていることから、ジョヴァンニ・バッティスタ・ドニを「ド」のゆかりとする説は否定されています。
Prononc. et Orth. : [do]. Ds Ac. 1878 et 1932. Étymol. et Hist. 1768 (ROUSSEAU). Mot ital. attesté dep. 1536 (l'Arétin ds BATT.) inventé pour remplacer ut*, moins facile à énoncer en solfiant; l'attest. de l'Arétin prouve que le mot n'a pas été inventé par G. B. Doni (1re moitié XVIIe s.) d'apr. la 1re syllabe de son nom. Fréq. abs. littér. : 68. Bbg. HOPE 1971, p. 360. SAIN. Sources t. 3 1972 [1930], p. 162.
http://atilf.atilf.fr/
http://www.cnrtl.fr/definition/do
Découvrir la musique médiévale は、以上のことを指摘して、ラテン語の Dominus から「ド」の名前が来ているという説を支持しています。
ラルース(Larousse)の音楽事典 « Dictionnaire de la musique »の Ut queant laxix の項によると、
このメロディーは、11世紀以前には(つまりグィド・ダレッツォ以前には)、そのソルフェージュのメロディーでは歌われたことがなかったこと、
そこでしばしば信じられていることとは反対に、グィド・ダレッツォは、この賛歌だけを利用したのであってもともとのメロディーを利用したのではなかったこと、
このメロディーは、同じサッポー詩節で書かれたホラティウスの叙情詩を歌うためにあった学習用の歌のメロディーから取られたか、あるいは、グィド・ダレッツォがソルフェージュのために作曲したか、のどちらかであること、
などが指摘されています。
実際、Silvia Walli の書いた Melodien aus mittelalterlichen Horaz-Handschriften. Edition und Interpretation der Quellen あるいは Jan M. Ziolkowski 著の Nota Bene: Reading Classics and Writing Melodies in the Early Middle Ages (Turnhout: Brepols, 2007)によれば、ホラーティウスの『歌集』4巻11歌1-20 Est mihi nonum superantis annum という叙情詩にこれと同じメロディーが付けられて11世紀の写本(Montpellier, Ecole de Médecine 425H)に残っています。
上記のラルース音楽事典は、ジャック・ヴィレ(Jacques Viret)とジャック・シャイエ(Jacques Chailley)が1981年に発表した発見についても言及しています。
それによると、よく「いろは歌の謎」などと言われる、例えば「とがなくして死す」というようなやり方の、深い意味がこの助祭パウロの詩には隠されていたとのことです。私の思うには、こじつけですが。
ジャック・ヴィレとジャック・シャイエによれば、この詩の中央に SOL という音節があり、これはラテン語では「太陽」を意味する。この「太陽」を文字でイメージすると SOL の真ん中の O の文字である。この O は、ギリシア語の最後の文字であるオメガに対応する。黙示録で天主は「私はアルファでありオメガである、はじめであり終わりである」と言っている。
この賛歌では SOL が、 FA と LA の音節に囲まれているが、これは ALFA アルファにつながる(中世ではアルファを ALPHA の代わりによく ALFA と転写した)。
ファの前は MI だけれども、これは M と I とから成立している。 M はラテン語では千を意味し I は一を意味する。マクロな世界とミクロな世界である。
FA と LA を ALFA と読んだように、SANcte IOhannes を IONAS と読むことができる。これは旧訳の予言者でキリストの復活の前兆である。云々。
では、 Ut queant laxis resonare fibris という賛歌の翻訳をご紹介します。
ラテン語
Ut queant laxis resonare fibris
mira gestorum famuli tuorum,
solve polluti labii reatum,
Sancte Iohannes.
このラテン語に一番正確なフランス語の訳は次の通りです。
« Afin que les serviteurs (de Dieu) puissent clamer à pleine voix les merveilles de tes actions, ôte l'erreur de leurs lèvres impures, saint Jean. »
インターネットで見つける訳では、本当は、gestorum tuorum (あなたの行為(複数)の)という意味なのに、リズムの関係で famuli tuorum となっていることに引きずられてか、famuli tui (あなとのしもべたち)という意味で訳したもののコピペが氾濫しています。
洗者聖ヨハネには、しもべたちがおらず、これは天主のしもべたちが、あなた(つまり洗者聖ヨハネ)の驚くべき生涯を歌うことができるようにして下さい、という意味なのです。そのところをこのフランス語はちゃんと理解しています。
英語で凝った訳として、ラテン語のリズムを生かして訳した次のものあります。
Let thine example, Holy John, remind us
Ere we can meetly sing thy deeds of wonder,
Hearts must be chastened, and the bonds that bind us
Broken asunder.
あるいは、
O for thy Spirit, Holy John, to chasten,
Lips sin-polluted, fettered tongues to loosen,
So by thy children might thy deeds of wonder
Meetly be chaunted
ベネディクト会のシスターであった Cecile Gertken, OSB (1902-2001) は次のように、ド・レ・ミという音を生かして訳しました。英語では Do が「ド」ではなく「ドゥ」ですけれど。
Do let our voices
resonate most purely,
miracles telling,
far greater than many;
so let our tongues be
lavish in your praises,
Saint John the Baptist.
日本語では、次のような意味になります。
しもべらがゆるやかな声帯で
御身の驚くべき行為を歌い響かせ得るように
けがれた唇の罪を赦したまえ
聖ヨハネよ。
韓国語の訳は次の通りです。
세례자 요한이여 들어주소서
위대한 당신업적 기묘하오니
목소리 가다듬어 찬양하도록
때묻은 우리입술 씻어주소서
中国語では、次のようです。
神的僕人以誠摯的歌聲
讚美令人驚嘆的神蹟,
以除去他們言語間的罪惡,
啊!聖約翰我們讚美你。
では、日本語をもう一度ご紹介します。
聖務日課では、晩課、朝課、讃課の三回に分けて歌います。
【晩課】
Ut queant laxis resonare fibris しもべらがゆるやかな声帯で
mira gestorum famuli tuorum, 御身の驚くべき行為を響かせることが出来るよう
solve polluti labii reatum, けがれた唇の罪を赦したまえ
Sancte Iohannes. 聖ヨハネよ。
Nuntius celso veniens Olympo 高き天より御使いが来たりて
te patri magnum fore nasciturum, 偉大なる御身が生まれることを
nomen et vitae seriem gerendae 御身の名とその一連の生涯を
ordine promit. 正しく御身の父に預言する。
Ille promissi dubius superni 父は天からの預言を疑い
perdidit promptae modulos loquelae, 意のままに話す力を失った
sed reformasti genitus peremptae しかし御身は生まれると
organa vocis. 失われた声の喉を直した。
Ventris obstruso positus cubili 御身は閉ざされし母胎にあるとき
senseras regem thalamo manentem; 寝室にいる王を察知した
hinc parens nati meritis uterque ここから両の親は子供の功徳により
abdita pandit. 秘密のことを明らかにする。
【朝課】
Antra deserti teneris sub annis 御身は少年のとき民の喧騒を避けて
civium turmas fugiens petisti, 荒野の洞穴におもむいた
ne levi saltem maculare vitam 軽薄な会話でその生きざまを
famine posses. せめて汚すことがないように。
Praebuit hirtum tegimen camelus 駱駝が剛毛の衣服を、羊が腰紐を
artubus sacris, strophium bidentes, 聖なる体に与えた
cui latex haustum, sociata pastum 飲物は水であり食物は
mella locustis. 蜂蜜といなごであった
Ceteri tantum cecinere vatum 他の予言者達が予感の心で告げたのは
corde praesago iubar adfuturum, ただの光の到来にすぎなかった
tu quidem mundi scelus auferentem ところが御身は世の罪を取り除くお方を
indice prodis. 指を指して明らかにした。
Non fuit vasti spatium per orbis 広き世界の中でもヨハネに以上に
sanctior quisquam genitus Iohanne, 聖なる人が生まれたことはない
qui nefas saecli meruit lavantem 彼は世の罪を洗い清めるお方を
tingere lymphis. 水で濡らすを許された。
【讃課】
O nimis felix meritique celsi, ああ余りにも幸福で高き功徳の人
nesciens labem nivei pudoris, 白い純潔の汚れ知らず
praepotens martyr eremique cultor, いとも力ある殉教者にして隠遁の信奉者
maxime vatum! 最大の予言者!
Serta ter denis alios coronant 三十の果実をつけた冠が、他の人達を飾り
aucta crementis, duplicata quosdam, 別の人達をその倍の果実の冠が飾る
trina centeno cumulata fructu ところが聖者よ御身を飾るのは
te, sacer, ornant. 三百の果実を盛った冠なのだ
Nunc potens nostri meritis opimis 最善の功徳もて力ある御身は今こそ
pectoris duros lapides repelle, われらの胸の堅き石を除きたまえ
asperum planans iter et reflexos 起伏多き道をならし
dirige calles, 曲がれる小道を伸ばしたまえ
Ut pius mundi sator et redemptor 世の優しき救い主かつ贖い主が
mentibus pulsa livione puris 邪念の去った清い人々の心に
rite dignetur veniens sacratos 正しく聖なる足取りを置いて
ponere gressus. かたじけなくも来給わんことを。
Laudibus cives celebrant superni 天の住民は御身を称賛し奉る
te, Deus simplex pariterque trine, 一にして三位なる天主よ、
supplices ac nos veniam precamur, われらもまた伏して許しを願い奉る
parce redemptis. 贖われた者たちを容赦し給え。
Sit decus Patri genitaeque Proli 聖父および生まれし聖子に
et tibi, compar utriusque virtus, 聖父と聖子との等しく両者の力なる聖霊よ御身にも、
Spiritus semper, Deus unus, omni 唯一の天主よ、常に栄光あれ
temporis aevo. いつの世にも
Amen.アーメン
韓国語の訳もご紹介します。
세레자 요한이여 들어주소서
위대한 당신업적 기묘하오니
목소리 가다듬어 찬양하도록
때묻은 우리입술 씻어주소서
저높은 하늘에서 내려온사신
위대한 주님탄생 알려주시고
이름과 생애까지 일러주시며
낱낱이 아버지께 예고하였네
그약속 의심했던 당신아버지
그즉시 언어능력 잃으셨으나
당신이 이세상에 태어나시자
잃었던 목소리를 돌려받았네
어머니 모태속에 숨어계실때
태중의 임금님을 알아보시니
양친도 당신덕에 눈이밝아져
놀랍게 숨은사실 드러내셨네
드높은 하늘나라 시민들이여
하느님 삼위일체 찬미하여라
저희도 겸손되이 용서비오니
저희죄 사하시고 구원하소서
높은덕 빛나시는 세례자요한
죄없이 눈과같이 깨끗하시네
사막의 은수자요 크신예언자
용감한 순교자로 복되시도다
꽃으로 곱게꾸민 빛나는화관
성인들 머리위에 올려지나니
어떤이 이중화관 받아쓰지만
당신은 삼중화관 받아쓰셨네
무수한 공로세운 능하신이여
저희의 굳은마음 녹여주시고
함한길 고르시어 평탄케하사
굽어진 오솔길도 곧게하소서
만물을 지어내신 우리구세주
마음의 어지러움 물리치시고
깨끗한 저희마음 찾아오시어
거룩한 당신거처 마련하시리
드높은 하늘나라 시민들이여
하느님 삼위일체 찬미하여라
저희도 겸손되이 용서비오니
저희죄 사하시고 구원하소서
아멘.
愛する兄弟姉妹の皆様、
6月24日は洗者聖ヨハネの祝日でした。そこで、聖ヨハネの祝日に聖務日課で歌う有名な Ut queant laxis resonare fibris という賛歌にまつわるお話をご紹介します。
洗者聖ヨハネの賛歌(モンテカシーノのベネディクト会修道士であった助祭パウロ (Paulus Diaconus)の作った、サッポー詩節(Sapphicum)という韻律で書かれたもの)でその第1節は、11世紀にグィド・ダレッツォ(Guido d'Arezzo)によってソルフェージュの名前をつけるために使われました。
サッポー調というのは、次のようなリズムを持った詩のことです。
UT queant laxis || REsonare fibris
― U ― ― ― || U U ― U ― x
MIra gestorum || FAmuli tuorum
― U ― ― ― || U U ― U ― x
SOLve polluti || LAbii reatum
― U ― ― ― || U U ― U ― x
Sancte Iohannes.
― U U ― x
(― は長い、Uは短い、xはどちらでも可を意味します。)
グィド・ダレッツォ(Guido d'Arezzo)は、この賛歌の最初の三行の、ut, re, mi, fa, sol, la という最初の音節がドレミの音階の名前として使いました。最後の行(Sancte Iohannesの部分)はその時は特に使いませんでした。
しかし16世紀に7番目の音に名を付けるために Sancte Iohannes の最初の文字を取って SI をつかうようになりました。これは、フランダースのアンセルム(Anselme de Flandres)によるとのことです。
最初の ut は16世紀にイタリアで、do と置き換えられました。1536年には既に、ピエトロ・ダレッツォの書いたものの中に、イタリア語として使われた記録があります。このピエトロ・アレティーノ(1492 - 1556, Pietro Aretino, フランス語では Pierre l'Arétin)は、グィド・ダレッツォとは別の人です。これについての研究は、音楽家であった Corselis 神父(Mr l'abbé Corselis, Professeur de solfège et maître de chapelle du Collège du Sacré-Cœur de Tourcoing)のものがあります。
フランス語の語源辞典によると、17世紀初頭の人であったジョヴァンニ・バッティスタ・ドニ(Giovanni Battista Doni)が自分の名前の最初の音節から取ったのではないことになる、とあります。さらに、1673年にボノンチニ(Bononcini)が、イタリアの音楽家ドニの名前からとって ut を「ド」とした、という説もあるのですが、ドニとボノンチニとが生きている前から、既にドの名前が音符の名前として使われていた記録が残っていることから、ジョヴァンニ・バッティスタ・ドニを「ド」のゆかりとする説は否定されています。
Prononc. et Orth. : [do]. Ds Ac. 1878 et 1932. Étymol. et Hist. 1768 (ROUSSEAU). Mot ital. attesté dep. 1536 (l'Arétin ds BATT.) inventé pour remplacer ut*, moins facile à énoncer en solfiant; l'attest. de l'Arétin prouve que le mot n'a pas été inventé par G. B. Doni (1re moitié XVIIe s.) d'apr. la 1re syllabe de son nom. Fréq. abs. littér. : 68. Bbg. HOPE 1971, p. 360. SAIN. Sources t. 3 1972 [1930], p. 162.
http://atilf.atilf.fr/
http://www.cnrtl.fr/definition/do
Découvrir la musique médiévale は、以上のことを指摘して、ラテン語の Dominus から「ド」の名前が来ているという説を支持しています。
ラルース(Larousse)の音楽事典 « Dictionnaire de la musique »の Ut queant laxix の項によると、
このメロディーは、11世紀以前には(つまりグィド・ダレッツォ以前には)、そのソルフェージュのメロディーでは歌われたことがなかったこと、
そこでしばしば信じられていることとは反対に、グィド・ダレッツォは、この賛歌だけを利用したのであってもともとのメロディーを利用したのではなかったこと、
このメロディーは、同じサッポー詩節で書かれたホラティウスの叙情詩を歌うためにあった学習用の歌のメロディーから取られたか、あるいは、グィド・ダレッツォがソルフェージュのために作曲したか、のどちらかであること、
などが指摘されています。
実際、Silvia Walli の書いた Melodien aus mittelalterlichen Horaz-Handschriften. Edition und Interpretation der Quellen あるいは Jan M. Ziolkowski 著の Nota Bene: Reading Classics and Writing Melodies in the Early Middle Ages (Turnhout: Brepols, 2007)によれば、ホラーティウスの『歌集』4巻11歌1-20 Est mihi nonum superantis annum という叙情詩にこれと同じメロディーが付けられて11世紀の写本(Montpellier, Ecole de Médecine 425H)に残っています。
上記のラルース音楽事典は、ジャック・ヴィレ(Jacques Viret)とジャック・シャイエ(Jacques Chailley)が1981年に発表した発見についても言及しています。
それによると、よく「いろは歌の謎」などと言われる、例えば「とがなくして死す」というようなやり方の、深い意味がこの助祭パウロの詩には隠されていたとのことです。私の思うには、こじつけですが。
ジャック・ヴィレとジャック・シャイエによれば、この詩の中央に SOL という音節があり、これはラテン語では「太陽」を意味する。この「太陽」を文字でイメージすると SOL の真ん中の O の文字である。この O は、ギリシア語の最後の文字であるオメガに対応する。黙示録で天主は「私はアルファでありオメガである、はじめであり終わりである」と言っている。
この賛歌では SOL が、 FA と LA の音節に囲まれているが、これは ALFA アルファにつながる(中世ではアルファを ALPHA の代わりによく ALFA と転写した)。
ファの前は MI だけれども、これは M と I とから成立している。 M はラテン語では千を意味し I は一を意味する。マクロな世界とミクロな世界である。
FA と LA を ALFA と読んだように、SANcte IOhannes を IONAS と読むことができる。これは旧訳の予言者でキリストの復活の前兆である。云々。
では、 Ut queant laxis resonare fibris という賛歌の翻訳をご紹介します。
ラテン語
Ut queant laxis resonare fibris
mira gestorum famuli tuorum,
solve polluti labii reatum,
Sancte Iohannes.
このラテン語に一番正確なフランス語の訳は次の通りです。
« Afin que les serviteurs (de Dieu) puissent clamer à pleine voix les merveilles de tes actions, ôte l'erreur de leurs lèvres impures, saint Jean. »
インターネットで見つける訳では、本当は、gestorum tuorum (あなたの行為(複数)の)という意味なのに、リズムの関係で famuli tuorum となっていることに引きずられてか、famuli tui (あなとのしもべたち)という意味で訳したもののコピペが氾濫しています。
洗者聖ヨハネには、しもべたちがおらず、これは天主のしもべたちが、あなた(つまり洗者聖ヨハネ)の驚くべき生涯を歌うことができるようにして下さい、という意味なのです。そのところをこのフランス語はちゃんと理解しています。
英語で凝った訳として、ラテン語のリズムを生かして訳した次のものあります。
Let thine example, Holy John, remind us
Ere we can meetly sing thy deeds of wonder,
Hearts must be chastened, and the bonds that bind us
Broken asunder.
あるいは、
O for thy Spirit, Holy John, to chasten,
Lips sin-polluted, fettered tongues to loosen,
So by thy children might thy deeds of wonder
Meetly be chaunted
ベネディクト会のシスターであった Cecile Gertken, OSB (1902-2001) は次のように、ド・レ・ミという音を生かして訳しました。英語では Do が「ド」ではなく「ドゥ」ですけれど。
Do let our voices
resonate most purely,
miracles telling,
far greater than many;
so let our tongues be
lavish in your praises,
Saint John the Baptist.
日本語では、次のような意味になります。
しもべらがゆるやかな声帯で
御身の驚くべき行為を歌い響かせ得るように
けがれた唇の罪を赦したまえ
聖ヨハネよ。
韓国語の訳は次の通りです。
세례자 요한이여 들어주소서
위대한 당신업적 기묘하오니
목소리 가다듬어 찬양하도록
때묻은 우리입술 씻어주소서
中国語では、次のようです。
神的僕人以誠摯的歌聲
讚美令人驚嘆的神蹟,
以除去他們言語間的罪惡,
啊!聖約翰我們讚美你。
では、日本語をもう一度ご紹介します。
聖務日課では、晩課、朝課、讃課の三回に分けて歌います。
【晩課】
Ut queant laxis resonare fibris しもべらがゆるやかな声帯で
mira gestorum famuli tuorum, 御身の驚くべき行為を響かせることが出来るよう
solve polluti labii reatum, けがれた唇の罪を赦したまえ
Sancte Iohannes. 聖ヨハネよ。
Nuntius celso veniens Olympo 高き天より御使いが来たりて
te patri magnum fore nasciturum, 偉大なる御身が生まれることを
nomen et vitae seriem gerendae 御身の名とその一連の生涯を
ordine promit. 正しく御身の父に預言する。
Ille promissi dubius superni 父は天からの預言を疑い
perdidit promptae modulos loquelae, 意のままに話す力を失った
sed reformasti genitus peremptae しかし御身は生まれると
organa vocis. 失われた声の喉を直した。
Ventris obstruso positus cubili 御身は閉ざされし母胎にあるとき
senseras regem thalamo manentem; 寝室にいる王を察知した
hinc parens nati meritis uterque ここから両の親は子供の功徳により
abdita pandit. 秘密のことを明らかにする。
【朝課】
Antra deserti teneris sub annis 御身は少年のとき民の喧騒を避けて
civium turmas fugiens petisti, 荒野の洞穴におもむいた
ne levi saltem maculare vitam 軽薄な会話でその生きざまを
famine posses. せめて汚すことがないように。
Praebuit hirtum tegimen camelus 駱駝が剛毛の衣服を、羊が腰紐を
artubus sacris, strophium bidentes, 聖なる体に与えた
cui latex haustum, sociata pastum 飲物は水であり食物は
mella locustis. 蜂蜜といなごであった
Ceteri tantum cecinere vatum 他の予言者達が予感の心で告げたのは
corde praesago iubar adfuturum, ただの光の到来にすぎなかった
tu quidem mundi scelus auferentem ところが御身は世の罪を取り除くお方を
indice prodis. 指を指して明らかにした。
Non fuit vasti spatium per orbis 広き世界の中でもヨハネに以上に
sanctior quisquam genitus Iohanne, 聖なる人が生まれたことはない
qui nefas saecli meruit lavantem 彼は世の罪を洗い清めるお方を
tingere lymphis. 水で濡らすを許された。
【讃課】
O nimis felix meritique celsi, ああ余りにも幸福で高き功徳の人
nesciens labem nivei pudoris, 白い純潔の汚れ知らず
praepotens martyr eremique cultor, いとも力ある殉教者にして隠遁の信奉者
maxime vatum! 最大の予言者!
Serta ter denis alios coronant 三十の果実をつけた冠が、他の人達を飾り
aucta crementis, duplicata quosdam, 別の人達をその倍の果実の冠が飾る
trina centeno cumulata fructu ところが聖者よ御身を飾るのは
te, sacer, ornant. 三百の果実を盛った冠なのだ
Nunc potens nostri meritis opimis 最善の功徳もて力ある御身は今こそ
pectoris duros lapides repelle, われらの胸の堅き石を除きたまえ
asperum planans iter et reflexos 起伏多き道をならし
dirige calles, 曲がれる小道を伸ばしたまえ
Ut pius mundi sator et redemptor 世の優しき救い主かつ贖い主が
mentibus pulsa livione puris 邪念の去った清い人々の心に
rite dignetur veniens sacratos 正しく聖なる足取りを置いて
ponere gressus. かたじけなくも来給わんことを。
Laudibus cives celebrant superni 天の住民は御身を称賛し奉る
te, Deus simplex pariterque trine, 一にして三位なる天主よ、
supplices ac nos veniam precamur, われらもまた伏して許しを願い奉る
parce redemptis. 贖われた者たちを容赦し給え。
Sit decus Patri genitaeque Proli 聖父および生まれし聖子に
et tibi, compar utriusque virtus, 聖父と聖子との等しく両者の力なる聖霊よ御身にも、
Spiritus semper, Deus unus, omni 唯一の天主よ、常に栄光あれ
temporis aevo. いつの世にも
Amen.アーメン
韓国語の訳もご紹介します。
세레자 요한이여 들어주소서
위대한 당신업적 기묘하오니
목소리 가다듬어 찬양하도록
때묻은 우리입술 씻어주소서
저높은 하늘에서 내려온사신
위대한 주님탄생 알려주시고
이름과 생애까지 일러주시며
낱낱이 아버지께 예고하였네
그약속 의심했던 당신아버지
그즉시 언어능력 잃으셨으나
당신이 이세상에 태어나시자
잃었던 목소리를 돌려받았네
어머니 모태속에 숨어계실때
태중의 임금님을 알아보시니
양친도 당신덕에 눈이밝아져
놀랍게 숨은사실 드러내셨네
드높은 하늘나라 시민들이여
하느님 삼위일체 찬미하여라
저희도 겸손되이 용서비오니
저희죄 사하시고 구원하소서
높은덕 빛나시는 세례자요한
죄없이 눈과같이 깨끗하시네
사막의 은수자요 크신예언자
용감한 순교자로 복되시도다
꽃으로 곱게꾸민 빛나는화관
성인들 머리위에 올려지나니
어떤이 이중화관 받아쓰지만
당신은 삼중화관 받아쓰셨네
무수한 공로세운 능하신이여
저희의 굳은마음 녹여주시고
함한길 고르시어 평탄케하사
굽어진 오솔길도 곧게하소서
만물을 지어내신 우리구세주
마음의 어지러움 물리치시고
깨끗한 저희마음 찾아오시어
거룩한 당신거처 마련하시리
드높은 하늘나라 시민들이여
하느님 삼위일체 찬미하여라
저희도 겸손되이 용서비오니
저희죄 사하시고 구원하소서
아멘.