Quantcast
Channel: Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた
Viewing all articles
Browse latest Browse all 4247

長崎巡礼-霊的講話-2016年5月2日シュテーリン神父様「聖マキシミリアノ・コルベの生涯【後半】」

$
0
0
2016年5月2日 長崎巡礼 シュテーリン神父様霊的講話【その3の続き】
同時通訳:小野田圭志神父

【長崎大浦天主堂の元神学校前にて】
では1930年に何でマキシミリアのコルベ神父様はここにいらっしゃったのでしょうか?何故かというと、地方の教区長の許しなく宣教師が入る事ができなかったからです、「中国に宣教師として行く」という許可を、口頭の許可はもらったのですけれども、しかし実際に行ってみると、コルベ神父様は入国を拒否されました。ところで、「長崎の司教様が、神学校の教授を必要としている」という事を聞いて、コルベ神父様は使徒職をする為にここにやって来ました。神父様と一緒に来たのは4名の修道士たちでした。その当時この5人のポーランドのフランシスコ会の人たちは、日本語を一言も知りませんでした。ポケットの中に1銭もありませんでした。

今からこの中に入ろうとするこの神学校で、コルベ神父様たちは日中の間、多くの授業を教えました。それからこの丘の下に麓にある小さな家の部屋に、お部屋を借りてそこに下宿していました。

では、コルベ神父様のご生活とその修道士たちの生活はどうだったのでしょうか?神学生にはラテン語で授業をしました。ブラザーたちは家で、第1号、創刊号を準備して、無原罪の聖母の騎士の出版の為に働いていました。コルベ神父様は無原罪の聖母の騎士の原稿をラテン語で書いたのですけれども、ラテン語から日本語に翻訳して下さる方を見つけて、到着1ヶ月後には、すでに『無原罪の聖母の騎士の創刊号』を出版する事になりました。ところでこの翻訳、ラテン語から日本語に翻訳したのは、コルベ神父様の大ファンで、コルベ神父様の仕事のお手伝いをした人ですけれども、実はメソジストのプロテスタントの牧師さんだったのです。

ところでこの当時の一緒にいた人たちは、外国人たちに対してあまり熱心にこう「協力しよう」という感じではありませんでした。しかしマリア様が日本の方々の心を開いて、コルベ神父様の無原罪の聖母の騎士のニュースレターを受け入れる事が出来るように準備して下さいました。何故かというと、カトリックではなかったり、異教徒だったり、プロテスタントだったりするのですけれども、でもこの「マリア様についての話を読んでみたい。」という気持ちを起こさせて下さったのです。

マキシミリアノ・コルベ神父様の最初の数年の生活について、具体的にはこの神父様の下宿の部屋の所でお話ししたいと思いますけれども、でもこの神学校は、フランス人のパリ外国宣教会の神父様たちが「どうやって日本の方にカトリックの教えを伝えようか」とやって建てた神学校であって、どのように働いたのかとても面白い点があります。

ここに、250年間隠れて信仰を守っていた、隠れキリシタンたちをカトリック信者たちを発見したその場所、ここがその場所であって、ここに神学校を建てて、ここから宣教の本拠地とした、フランス人のパリ外国宣教会の神父様たちの、ものすごい大活躍の中心地であります。

今からこの神学校に入って、もう今では博物館になって記念館になっていますけれども、どうやってフランス人の神父様たちが、「日本の方々に、イエズス様の教えを教えよう、伝えよう」としたのか、その素晴らしい業をご覧になって下さい。この中の展示の時の説明文も出来る限りよくお読みになって理解して下さい。これからこの後に、コルベ神父様が泊まった下宿の家にも行きます。それからそこでまた詳しくお話しいたします。どうもご清聴ありがとうございます。


【コルベ神父様の下宿の家(聖コルベ館)にて (大浦天主堂へ登る坂道の途中にある)】
この写真の多くはポーランドのニエポカラヌフからのものです。この無原罪の園、聖マキシミリアノ・コルベの列聖式の写真です。ここでの写真の中で一番特徴的なのはこの2つです。ここの左側に写真の中にあるのは、今見た大浦天主堂です。その天主堂の隣の神学校もあります。この写真に写っている下の方にある家がこの家で、ちょうどここに来た時に住まいとして下宿しました。

1年と数ヶ月ここに居たのですけれども、でもその当時居た家はなくなってしまって、このこれの柱だけが残っています。このこれはですね暖炉で、ここで火を起こしたのですけれども、この一部だけ暖炉の一部だけがこのレンガでできていて、その他は木造でした。ここでコルベ神父様が何をやったかっていうのが面白い興味のものです。

まず最初にやった事は、ここに小さなチャペルを作る事でした。規則正しい祈りの生活を始めました。でもミサは、この上の教会の聖母の祭壇でミサを捧げました。午前中ミサの後には、神学校で授業があって授業を教えていたのですけれども、その間ブラザーたちがここに残って、マリア様のお仕事をしていました。授業が終わって自由時間になると、その自由時間の全てを使って使徒職に使っていました。

ここでの生活は非常に困難でした。家は本当に貧しくて、住むに耐えないものでした。ここにある暖炉は全く価値がなくて、ここで火を焚いても、熱は全て外に逃げてしまっていて、部屋は全然暖まりませんでした。夏は、長崎の夏は非常に暑くて、冬はそれほど氷点下それほどのものではないのですけれども、湿度の高い寒さで、乾燥した寒さよりも身に染みるものでした。

ブラザーたちが生活したのは、まずコルベ神父様が神学校の教授として受けるお礼としての月謝、謝礼は、まだ神父様が食べていくのにだけに充分なものでした。ブラザーたちの食事とか他の全ての生活費に必要なものは、ポーランドのニエポカラヌフから来ました。この家からポーランドに書く手紙にはいつも必ず、「あの、すいませんお金がまだ届いていません」「あの、お金はいつ送りましたか?」「あの、私たちの事を忘れてしまったのでしょうか?」「お金はまだでしょうか?」「お金が届いていません」という事でした。そこで神父様たちは本当に貧しくてお金がなくて、時には食べる物がありませんでした。

そこでここで、長崎で一番安い食べ物がお米でした。そこで、朝お米、昼お米、夜お米、ごはん、ごはん、ごはんだけを食べていました。時々信徒の方が卵を贈り物として贈ると、それは大祝日のごちそうでした。

皆さん覚えていますか?コルベ神父様はポーランドの時から既に結核を患っていました。ですから結核の為に機能していたのは、たった1つの肺のうちの3分の1でした。そこでこの家での貧しさと貧困と、寒さと、飢餓の為に、この結核が非常に進行してしまって、顔さえも顔つきさえも変わってしまいました。顔にもシワが、苦悩のシワが入るようになりました。この家の家主は、かなり高価な金額をこの神父様たちに要求しました。

しかしこの家で、最初の『無原罪の聖母の騎士の創刊号』が出されました。この無原罪の聖母の騎士の雑誌が、コルベ神父様の事とそのインマクラータの事業について多くの人に知れ渡る事になりました。

でもこの神父様にとってこの周りの環境は良くないもので、何故かというと、近くに港があって、多くの人はその港の船人を扱って商売をしていたので、その「お金、お金、お金」神父様はそのお金で騙されたり、という事があって、あまりここに住むのが好きではありませんでした。

第2の問題は、ここに神父様が「来るように」と仰った司教様でした。ところでこの司教様がこの神父様をこう招待したのですけれども、その身分証明書としてローマからの、ローマ布教聖省からのそういう身分証明書みたいな物を発行されなければなりませんでした、フランシスコ会の司祭として。しかしローマの布教聖省はあまりその事に注意を払いませんでした。そこでその手紙が到着しませんでした。ところで手紙が到着するのは2、3ヶ月後の事です。

そこでコルベ神父様がやって来た時に、その内のここの長崎の神父様の1人が、その名前は今ちょっと忘れてしまったのですけれども、コルベ神父様がその紙を持ってない、証明書を持っていないので、「これは偽物の司祭だ。これはローマからのこの証明書がない。このローマから公認を受けて来ていない。」という事で、告発しました。「きっとこの5人のフランシスコ会士は、ここで日本に来て面白おかしい生活をしたかったのだろう。」と言いました。その時に司教様は、電話も無ければEメールもFAXも無かったので、ローマに確認を取る事ができませんでした。

そこで司教様は、ここのコルベ神父様の所に行って、「非常にすまないけれども、もう日本に居る事はできない。」と言わなければならなくて、コルベ神父様は、「日本からいつ追い出されるんじゃないか」と恐れていました。そこでポーランドから来たその荷物はそのままま、まだカバンの中に入れたまま、それも紐解く事もせずに、「いつここから追い出されるか」その手紙を待って、待って、待っていました。

これは、これと同じような事がポーランドのインマクラータの都市ニエポカラヌフでも起こりました。コルベ神父様と一緒に働いた修道士のブラザーの1人は、とてもこの事で有名です。このコルベ神父様はこの彼を選んだのですけれども、それはそのポーランドで一番頑固で、言う事を聞かない修道士だったのです。この頑固でちょっと言う事を聞かないブラザーは「ゼノ」というのですけれども、このゼノ修道士は、いつもポーランドでは皆共同の物、持ち物は共通で共同の物を使っています。コルベ神父様だけが自分の固有の服を持っていて、他の修道士たちは皆同じ物を使っていました。ところで講義の為の授業の準備をして、レッスンプランをこう立ててて、「これをこうやって、こうやって、こうやって、これを教えて、こうやって」この講義の原稿を書いていたのです。ところがその原稿が無くなってしまいました。「ど、どこにやったんだ!?」

ポーランドで、もしも靴が汚れたりこの濡れたりしたら、どうするか知っていますか?濡れた靴の中に紙を詰めて、紙がこの水を吸収して、靴を乾かします。一生懸命考えて、ラテン語でこう授業の準備をしたこの講義の原稿が、その靴を乾かす為に使われて、ゼノ修道士がこう一生懸命靴の中に入れて、それに使われていました。

コルベ神父様が日本で一緒に来る時にこう選んだのは、このゼノ修道士のように、このエリートではなくて、ゼノ修道士のようにちょっと性格が厳しいとか、ちょっと中々物分かりの良くないような人たちを選んで来ました。

まずゼノ修道士がどうやって修道士になるか、とそのきっかけについて話します。「どの修道会が良いかなぁ?」と色々な写真を見ていました。そうするとコルベ神父様の修道士たちは、ピカピカに光っている靴を履いていました。そこでゼノ修道士は、「コルベ神父様、私はこの修道会に入りたいのです。何故かというと、こういう靴を履きたいから。」しかしこのゼノ修道士はこの長崎に来て、非常に荒々しく野蛮だったのが、聖人に変わりました。

考えて下さい。コルベ神父様は、食べ物とか住む所とか色々な、このローマからの手紙とか証明書とか、色々な問題、講義の授業とか色々な授業の準備とか、色々なこう心配とか仕事の中で、同じ自分の連れて来たブラザーも問題を起こすブラザーだったのです。

何故この4人をこの難しい4人を選んで、他の4人を連れてこなかったのでしょうか?何故かというと、「この4人ならば、どんなに難しいミッションにも耐え忍ぶだろう。」と分かったからです。確かに神父様の考えた通りに、ゼノ修道士はコルベ神父様の右腕となって、コルベ神父様が無原罪の園を発った後もそれを、コルベ神父様の仕事を続ける人となりました。コルベ神父様がやったのは、「自分が好きだから」とか、「自分の思い」というよりは、「マリア様が確かにこの人を、これだ、マリア様の御旨だから」という事だけをしました。この無原罪の園でコルベ神父様が日本に居る時には、必ずゼノ修道士がそのすぐ横にいます。

何故ここに居た所の1年居て後に、無原罪の園に行く事になるかというと、ある夜、ある雪の降り積もる冬、屋根が落ちて、寝ているブラザーたちの頭に雪が降って、屋根が無くなったのに気づいて、「ブラザー、そろそろ私たちもここを出なければならない。」と理解したのです。

実は他の代わりになる場所を色々探したのですけれども、お金が無かったので行く事ができませんでした。でももしも私の記憶が正しければ、ゼノ修道士が、この今から行く無原罪の園の場所を発見しました。

でも、その当時長崎で最も立地条件の悪い、考えられない所でした。まず使徒職で一番大切な、郵便局から最も遠い所でした。またコルベ神父様が教えなければならない神学校から最も遠い所でした。それは坂の山の上の傾斜に建っています。ゼノ修道士がこれを見せると、「ブラザー、一体ここにどうやって家を建てるのですか?」

何故そこが選ばれたかというと、それはコルベ神父様でも買う事ができるほど安かったかというと、それは昔動物の埋葬所だったのです、お墓だったのです。人々は、「ここには祟りがあるのじゃないか」とか、何か「亡霊がいる」だとか「幽霊が出る」という事で恐れて、誰も買おうとしませんでした。もしもそこに誰か家を建てたら、ちょっと頭がおかしいとしか考えられませんでした。

そこでところがそんな反対を色々、反対意見を色々受けた中で、コルベ神父様は、「私はここに引っ越す。」と決めました。1945年8月9日になるまで、そこの意味が分かりませんでした。ブラザーたちでさえも、「何でコルベ神父様はこんなに遠い山奥に、何でこんな遠い所に修道院を建てたのか」分かりませんでした。ところで原爆が長崎に炸裂した時に、無原罪の園だけは、長崎の中で傷を受けなかった所でした。ですからインマクラータにニエポカラーナに信頼しなければなりません。ではここでロザリオを一連唱えます。

【聖コルベ記念館(長崎市本河内)にて その1】
コルベ神父様の原則はいつもこうでした、「天主様、イエズス様と、インマクラータ無原罪のマリア様の為なら最高のものを。私たち自分たちの為には、受ける為に必要最低限のものを。」という事で、ブラザーたちには本当に貧しく、しかしマリア様の宣教の為ならば最高の最新の物を惜しみなく使っていました。

コルベ神父様の使っていたお部屋がここに復元されています。この大きな修道院の修道院長、何万部もの雑誌を発行する編集委員長のこの部屋が、こういう小さな所でした。この部屋の壁や床には、コルベ神父様の汗が染み渡っています。このコルベ神父様が日本を離れて、ポーランドのニエポカラヌフに行ってそのお部屋も全く同じ構造です。机があって、それから机の上に無原罪の聖母の御像があります。それからいつもあったのが、イエズス様の聖心の御影でした。それから幼きイエズスの聖テレジアの御影もよくありました。それはコルベ神父様の話によると、「天国における、天における私のお友達。」と言っていました。

この当時どんな様子だったのか、というのは写真があるので中にあるのでご覧下さい。机の横、机の下、机の上、それからベッドの下、ベッドの横、みんな紙切れが付いていました。雑誌の記事を書いたり、講話の原案を作ったり、或いは授業の準備をしたりしていました。それから多くの手紙を書きました。私の机の上の散らかっている様子を考えて、それからコルベ神父様の机の上を見ると、あまり恥ずかしくなる必要はないなと思いました(*^_^*)笑。

こちらの壁には、コルベ神父様の若い時からゲシュタポに捕まってしまう時までの写真があります。右から4番目の写真は日本での写真ですけれども、日本でどれほど苦悩に満ちていたかというのが見てとれます。こちらにはゼノ修道士の話があります。これがコルベ神父様が使った最初の印刷機です。ところで幼きイエズスの聖テレジアの写真もここにあります。ヨハネパウロ2世の写真もありますけれども、それはもちろん彼がヨハネパウロ2世が(コルベ神父様を)列聖したからです。それから日本人で有名な女性の写真もあります、北原怜子。

ここでコルベ神父様が、マリア様の為に汗と血を流して、この場所を聖化したという事を考えながら、どうぞ見学なさって下さい。


【聖コルベ記念館にて その2】
(ポーランドの無原罪の聖母の騎士創刊号の解説)…そこの下にある蛇を貫き刺しています。この剣のこの下には、蛇のみならず本も刺し貫かれて、本には「異端」と書かれています。これはどういう事かというと、「マリア様は『聖母の騎士』という道具を使って、蛇とつまり悪魔と、それからその悪魔がその表現する異端を打ち砕く」という意味です。これはエキュメニズムではありません。コルベ神父様はこう言います、「マリア様は異端を、偽りの宗教を憎む。しかし偽りの宗教に騙されている人たちを愛して、その彼らがその暗闇から本当の宗教に回心する事を望んでいる。」ところでもう1つの剣は、やはり蛇を貫くのですけれども、蛇の下に本があって、その本には「フリーメイソン」と書かれています。マリア様の下には地球があって、その地球の上に立ち、蛇を踏み砕いているのですけども、そこの地球の上には、聖書から来た、それから典礼から取った、私たちのモットーが書かれています、M・Iのモットーが書かれています。それは、「彼女は蛇の頭を踏み砕くだろう。」もう一つは、「御身は御一人で全ての異端を打ち砕いた、滅ぼし給うた。」

日本に着いて、日本から書いた手紙によると、神父様はすぐに、「ポーランドから別の司祭を送って下さい。」と要請しています。何故かというと1人では、「自分1人ではとても大変だから」です。ポーランドから来た1人の修道士は、司祭ではなくてまだ助祭でした。そこで助祭としてやって来たこの修道士を、日本で司祭に叙階して、その叙階の記念の写真がこの第2番目の棚にあります。コルベ神父様はここに6年間居て、その6年後離れる時には既に、司祭になるべき日本人の修道者がここに居ました。

コルベ神父様は日本に来た時に、神父様が書いた日本から書いた手紙によると、神父様は日本に来た時に、「きっと、日本で赤い冠が待っているだろうと考えている。」と書いていました。コルベ神父様は実は、日本で生活して、日本で亡くなり日本で死ぬ事を望んでいました。

日本に6年居た後に、「日本を離れなければならない、ポーランドに行かなければならない」という命令を受けたので、「これがインマクラータ、マリア様からの命令だ。その御旨だ。」という事を悟り、日本を離れ、ポーランドで修道院長として3年間過ごします。

3年間いらした間にニエポカラヌフは、ポーランドの無原罪の園、無原罪の街は本当に栄えて、第2次世界大戦が勃発する直前までに、1,000名の修道者たちを抱えていました。20世紀において、このニエポカラヌフの修道院は、世界で最大の修道者を収容する修道院でした。当時、無原罪の聖母の騎士の会員は100万名を超えていました。この無原罪の聖母の騎士の雑誌は、色んな国の言葉に翻訳され、中には司祭たちの為にラテン語でも翻訳されていました。

修道士たちの生活は、祈り・労働・休憩、祈り・労働・休憩でした。ブラザーたちが一生懸命働いた写真があります。ブラザーゼノの仕事は、郵便物を郵便局まで運ぶ事で、この重い荷物を遠い郵便局まで運ばなければならない事で文句を言っていました。ゼノ修道士は死ぬまで亡くなるまで、ここにずっと留まり続けました。第二次世界大戦後、ゼノ修道士はこの日本の恩人、偉大な恩人となりました。ここにゼノ修道士の生涯にした色々な出来事があります。

ゼノ修道士は本当に単純な男でした。例えば、「めでたし」を日本語で覚える事ができませんでした。ですから、「めでたし聖寵…」と日本語で祈り始めても、必ずポーランド語で終わっていました。でもゼノ修道士は誰をも恐れなくて、天皇陛下にお会いする事も、例えば県知事に会って交渉する事も何とも思っていませんでした。こう戦争で家を失った人たちの為に小さな家を建てて、救助に救援にあたっていました。そこでこれは「アリの街」と言われています。

あそこには永井博士の写真もあります。コルベ神父様は結核だったので、その結核のレントゲン写真を撮る為に永井博士のお世話になりました。永井博士が白血病だという事が分かった時に、「余命3年」と宣告されました。本来ならば、永井博士は1946年とか47年に亡くなっている予定でした。第二次世界大戦後、コルベ神父様がここの上に作ったルルドに、永井博士は巡礼に行きました。そこでルルドでお祈りすると、何か力を得て、「あとこれで5年生きる事ができるというように感じた」と言っています。それで、「これはコルベ神父様のお祈りのおかげだ。」と言っています。

ポーランドのニエポカラヌフから書いた神父様の手紙が、タイプライターで打ったのがニエポカラヌフから日本の無原罪の園に行って、その来た手紙がそこにあります。このコルベファンのコルベ神父様の事をよく知っている人は、いつもこのコルベ神父様の言葉をいつも引用するのですけれども、一番有名な引用文が、この長崎の共同体の為に書かれた手紙の言葉なのです。

その内容は、この長崎の共同体に与えられた内容は、「『お祈り』というのは、一番霊魂の回心の為に必要なものであるけれども、一番無視されている。」この長崎の愛する兄弟たちに送った手紙の内容は、「私たちが持っている最大の一番強い武器は、『使徒的な祈り』であって、『使徒職の祈り』であって、お祈りをする事によって、霊魂の回心を促進する事ができる。」という内容です。

ここで、神父様の使ったお部屋の中でロザリオを1連唱えて、それから皆さん一緒に神父様の作ったルルドに行きましょう。

Viewing all articles
Browse latest Browse all 4247

Trending Articles