アヴェ・マリア・インマクラータ!
愛する兄弟姉妹の皆様、
レネー神父様の「天主の十戒」についてのお説教をご紹介いたします。
第10回目は、第九戒「汝、人の妻を恋(こ)うるなかれ」についてです。
天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)
2016年7月17日 聖霊降臨後の第9主日―大阪 お説教「第九戒」
親愛なる兄弟の皆さん、
今回から最後の二つの掟に入ります。「隣人の家をむさぼるな。隣人の妻をのぞむな。そのしもべ、はしため、牛、ろば、すべて隣人の持ち物をむさぼるな」(脱出[出エジプト]20章17節)。ここには一つの掟しかないように思えますが、そうではないことを聖アウグスティヌスと教会の聖伝が非常に見事に説明しています。つまり、隣人の妻を望むということの本質と、隣人の持ち物を望むということの本質が本来異なるものであるため、ここでは二つの別個の義務、二つの別個の掟があるのです。ちょうど第六戒と第七戒が別個であるように。
この十戒についての一連の説教の冒頭で、私たちは、プロテスタントが第二戒として提示しているもの、つまり、「刻んだ像をつくってはならぬ」(脱出20章4節)は、実際には第一戒が禁じているのと全く同じ罪、すなわち偶像崇拝の罪を禁じている、と説明しました。したがって、このプロテスタントの第二戒は、第一戒とは別の掟になるのではありません。まさに次の句が、そのことを分かりやすくしています。「その像の前にひれ伏してはならぬ。それらを礼拝してはならぬ」(脱出20章5節)。ここでは反対に、姦通が盗みと異なるように、色情の罪は貪欲の罪とは異なっていることは明らかです! これらは明らかに二つの異なる義務であるため、二つの異なる掟に対応しています。そこで私たちは、伝統的な掟の番号付けを守るべきであって、プロテスタントの真似をしてはなりません。残念ながら、多くの現代主義のカテキズムは、プロテスタントの番号に従っていますが、これは間違っています。
従って、第九戒は色情の罪を禁じています。「汝、人のつまを恋うるなかれ!」。ここでの原則は非常に単純です。つまり、何かをすることが悪いことである場合、それを望むのも悪いことだということです。天主は私たちに、外的な聖性、つまり悪い行為を外的に行うことを避けることを要求されるだけではありません。内的な聖性、つまり悪いことを行うのを望むことさえも避けることを要求されるのです。私たちの主イエズス・キリストは、聖福音で非常にはっきりと言われます。「知ってのとおり、『姦通するな』と今まで教えられている。だが私は言う、色情をもって女を見れば、その人はもう心の中で姦通している」(マテオ5章27-28節)。
悪い考えは悪い行いに至り、良い考えは良い行いに至ります。私たちの主イエズス・キリストは実際、言われました。「良い人はその心の良い倉から良いものを出し、悪い人は悪い倉から悪いものを出す。口は心にあふれるものを言葉に出すからである」(ルカ6章45節)。私たちが罪と闘わなければならないのは、そのまさに根っこにおいてです。つまり心の中においてです。私たちは、悪い行いを避けるだけでなく、悪い望みや悪い考えも避けなければなりません。「だが口から出るものは、心から出たもので、これが人を汚す。つまり、悪意、殺人、姦淫、私通、窃盗、偽証、冒涜などは心から出る。これらが人を汚す」(マテオ15章18-20節)。
さて、目は霊魂の窓です。悪い考えや望みが来るのは、目を通してです。従って、私たちは、自分の目それ自体をコントロールしなければなりません。それゆえに、私たちの主イエズス・キリストは言われました。「もし目が罪をつくる機会となるなら抜き出して捨てよ。片目で命に入るほうが両目あって火のゲヘナに投げ込まれるよりもよい」(マテオ18章9節)。
聖なる人ヨブは、すでに旧約で、次の美しい言葉を言いました。「私は自分の目と契約を結んだ、どんな娘にも目を留めないと。そうしないと上なる天主からどんな分け前をもらい、高きところの全能者からどんな遺産を受けただろうか。天主は不正な者に滅びを、悪人に災いを下される。天主は私の道を見ず、私の歩みを数えないだろうか」(ヨブ31章1-4節)。行為においてだけでなく、まさに思いそのものにおいて実行される、そのような貞潔の徳が信仰の霊の実であるのは、これらのヨブの言葉からまったく明らかです。ヨブは、「天主は自分の道を見」ておられるということを大変よく知っており、ヨブはその事実、つまりどこであっても天主が現存しておられるという事実を意識して生きているのです。天主は私を見ておられる! 私たちの主イエズス・キリストは、すべての時間、昼も夜も、私を見ておられる。主は、私がしていることだけでなく、私が望んでいること、私が考えていることまでも見ておられるのです。「被造物のうち一つとして天主のみ前に隠れられるものはないのであって、私たちがいつか裁きを受けねばならぬ天主のみ前に、すべては明らかであり開かれている」(ヘブライ4章13節)。「人間は目で見るけれども主は心を見る」(サムエル前16章7節)。
さて、現代の世界では、目の慎みの無さは非常に増大してきており、想像を絶するほどです。街の通りや新聞、雑誌、そしてインターネット空間で、ポルノが公然と、際限なく表示されています。これは罪深いものです! これらは第九戒に反する罪です。慎みの無さが軽い場合は小罪かもしれませんが(それが誘惑する目的で行われる場合を除きます)、ハードコアポルノは疑いなく第九戒に反する大罪であり、第六戒に反する外的な行為がそのあとに続かなくても大罪です。このようなことに関わってはなりません!
「もし目があなたに罪を犯させるなら、それを抜き取れ。片目で天主の国に入るのは、両眼があってゲヘナに投げ込まれるよりもよい。そこではうじは失せず、その火は消えぬ」(マルコ9章47-48節)。私たちの主は「あなたの目を閉じよ」とは言われず、「それを抜き取れ」と言われます。テレビが皆さんをつまずかせるなら、テレビのスイッチを消すのでは十分ではなく、家から完全にテレビを取り除いてください! 私の父は意識して家にテレビを置かないという選択をしました。私はその賢明な決断を天主に感謝しています。父がそうしていなかったら、父は司祭である三人の息子を持つことはなかったでしょう。
このことはテレビに当てはまりますが、インターネットについても当てはまります。今日ではインターネットは多くのことに必要な手段となってきていると異議を唱えることができるかもしれませんが、それならばインターネットを他のことに、不必要なことに使うことは絶対に自制すべきです。インターネットを無駄に閲覧することは避けなければならず、それは、ポルノとはっきり分かるものを避けるだけではありません。インターネットの使用において、自ら本当に禁欲することが必要です。そして、人は堕落したならばしたほど、自制する必要があり、自分の罪を償う必要があり、将来の罪を犯さないようにする必要があります。
聖霊修道会において、ルフェーブル大司教は現代主義の司祭たちの行動を見て苦しまれました。彼らの中には夕食の食卓を離れる者がおり、そのとき大司教が総長としてそこにおられたのにもかかわらず、テレビのある部屋に急いで行き、そのあと終課を行うための御聖堂にいなかったのです。そのため大司教は、聖ピオ十世会を創立したとき、自分たちの住居にテレビを置かないという規則を作り、こう言われました。「私たちのテレビはご聖櫃である!」。私たちは、世の人々がテレビの前で過ごす時間を、ご聖櫃の前で過ごしましょう。主を礼拝し、主とともに時間を過ごすことは、第九戒に反する罪に対する最善の薬です。自分の時間をテレビやインターネットの前で無駄に使うこと、さらには、これら現代のメディアから私たちの霊魂に対する毒を飲むために私たちの限られた時間をさらに悪く使ってしまうことをする代わりに、私たちはご聖体を黙想するという、ずっと良いことをするのです。黙想は超自然の真理を、愛を込めて見つめることです。私たちの主を見つめ、主を愛せば、霊魂が天の喜びで満たされます。アルスの聖なる司祭、聖ヴィアンネーが、ある日、自分の教会でちょうど彼の座席に男性が座っているのを見つけたことを思い出してください。司祭はその男性に尋ねました。「あなたはそこで何をしていますか?」。すると、男性は答えました。「私は主を見ています、主は私を見ておられます!」。これが黙想です!「主を喜びとすれば、主はあなたの望みをかなえられる」(詩篇36章4節)。
親たちは子どもたちを見張る必要があり、親たちの監督下にないまま子どもたちを自由にさせてはなりません。洗礼が原罪そのものを洗い流した後でも残っている情欲の傷は、実際にあるのです。洗礼は、癒やしの過程を開始させたのですが、その癒やしはまだ終了していません。自分の心を癒やすには、十分に見張ること、苦行することが必要です。若いときに親たちから苦行を学ぶ子どもたちは幸いなるかな! このような監督をせずに子どもたちを自由にさせる親たちは、子どもたちに残酷であり、義務を果たしていないのです。
ここで、誰かが言うかもしれません。「しかし神父様、自分の考えをコントロールすることは大変難しいことです」。皆さんは何も考えないということはできませんから、悪しき考えを追い出す唯一の方法は、その悪しき考えを良い考えで置き換えることであり、良い考えの最上のものは、十字架上の私たちの主イエズス・キリストのことを考えることであるのは確かです。誘惑を受けたとき、常にそこに、十字架の下に戻ってください! 鞭で引き裂かれた主の全身を黙想してください。皆さんのために釘付けにされた主の御足、主の御手を黙想してください。皆さんを愛するがために槍で刺し貫かれた主の聖心を黙想してください! 十字架の下の主の聖なる御母を黙想し、主が感じられたこと、聖母が感じられたことなどを考えてください。そうすれば、悪しき考えは、たちまち皆さんの考えの中から出ていくでしょう。まことに私たちの主イエズス・キリストはあらゆる罪のための薬なのです。
皆さんが自分の考えをコントロールしたい場合、読む本をコントロールする必要があります。良い本を読み、聖人伝や、聖人の書いた文章、そして何にも増して聖福音をすべて読んでください。良い考え、聖なる考えで皆さんの心を養うためです。そうすれば、皆さんが悪しき考えを良い考えと入れ替えるのは簡単になるでしょう。しかし、皆さんが心に良い考えがないままにするならば、自然は空虚(真空)を嫌うので、皆さんの心はたちまち悪しき考えで満たされてしまうでしょう。
自分の考えをコントロールすることは、私たちの望みをコントロールすることに結びついています。人間は単なる動物ではありません。人間は理性を持ち、理性で自分の望みを支配しなければなりません。すべての運動は、特定の方向を向いており、すべての活動は、特定の目標を持っています。目標を知って意識してその目標を望むということは、理性に属しています。私たちの心が、私たちの情熱をコントロールする代わりに、その情熱のコントロールを放棄し、これらの情熱によって動かされるという事実そのものが、間違っています。ですから私たちは、私たちの行動の方向を常に知っておく必要があります。私たちが追求している目標は何でしょうか? 私たちは天主に近づいているのでしょうか、それとも、私たちは被造物やコントロール不能な快楽に引きつけられ、自分を堕落させているのでしょうか?
聖イグナチオが勧めたように、良心の糾明を行うことは、罪を避けるために、特に第九戒および第十戒に反する罪を避けるために、非常に有益です。毎朝、聖性への道を進もうとする決心、天主に近づこうとする決心、私たちの主イエズス・キリストに私たちをさらに統治していただくために近づこうとする決心を新たにし、そして、その目的に到達できるよう主の御助けを願うのです。また毎晩、自分の行動を振り返って、自分の行動がこの正しい道から外れているかどうかを確認し、その日の過ちの赦しを願います。そのような過ちはうまくすれば少しだけであればよいのですが、それが更に少なくなっていくことを確認します。そしてこの過ちを犯した機会を調べて、今後その機会を避けるようにします。そして、私たちの主イエズス・キリストの恩寵によって、翌日はさらに良くしていこうという決心を立てるのです
もう一つの良い実践は、短い「射祷」の実践です。これは、私たちの心からイエズスの聖心へ射かけられる小さな矢のようなもので、助けを呼び求め、天主への私たちの愛と望みを表現し、赦しまたは多くの他の恩寵を願うか、あるいは、天主の愛に満ちたご配慮の下で、天主の現存において生きているのが幸せであると愛する天主にただ話すのです。このような愛の矢、「聖なる呼祷」は、私たちの心に良きかつ聖なる考えを持ち続けるよう、そして私たちの心を危険な考えや望みから守るよう、大いに助けてくれます。心は、自然に私たちが愛するものについて考えるものです。私たちが「すべての心、すべての知恵、すべての霊、すべての力をあげて」(マルコ12章33節)まことに天主を愛するならば、そのような考えを持つことがほとんど自然になります。聖トマス・アクィナスは、望む対象物を心に置くことによって愛情や望みが生じる、と教えています。ですから、私たちが心に聖なる考えを持ち続ければ、私たちの心は聖なる望みを持ち続けられるのです。
この第九戒に完全に従う最も美しい模範は、童貞聖マリアです。ずば抜けて優れた罪のないお方であり、貞潔に反する小罪さえも、その他のあらゆる徳に反する小罪さえも決して犯さなかったお方です。そして天主は、そのような無垢を愛されるのです! 天主は、その無垢の源でいらっしゃるのです。十字架の上の私たちの主イエズス・キリストは、全身全霊で主に立ち返るマリア・マグダレナのように痛悔する者を愛されます。しかし主が、主から決して離れようとはなさらなかった童貞母をそれ以上に愛されたのは疑いありません。
愛する兄弟姉妹の皆様、
レネー神父様の「天主の十戒」についてのお説教をご紹介いたします。
第10回目は、第九戒「汝、人の妻を恋(こ)うるなかれ」についてです。
天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)
2016年7月17日 聖霊降臨後の第9主日―大阪 お説教「第九戒」
親愛なる兄弟の皆さん、
今回から最後の二つの掟に入ります。「隣人の家をむさぼるな。隣人の妻をのぞむな。そのしもべ、はしため、牛、ろば、すべて隣人の持ち物をむさぼるな」(脱出[出エジプト]20章17節)。ここには一つの掟しかないように思えますが、そうではないことを聖アウグスティヌスと教会の聖伝が非常に見事に説明しています。つまり、隣人の妻を望むということの本質と、隣人の持ち物を望むということの本質が本来異なるものであるため、ここでは二つの別個の義務、二つの別個の掟があるのです。ちょうど第六戒と第七戒が別個であるように。
この十戒についての一連の説教の冒頭で、私たちは、プロテスタントが第二戒として提示しているもの、つまり、「刻んだ像をつくってはならぬ」(脱出20章4節)は、実際には第一戒が禁じているのと全く同じ罪、すなわち偶像崇拝の罪を禁じている、と説明しました。したがって、このプロテスタントの第二戒は、第一戒とは別の掟になるのではありません。まさに次の句が、そのことを分かりやすくしています。「その像の前にひれ伏してはならぬ。それらを礼拝してはならぬ」(脱出20章5節)。ここでは反対に、姦通が盗みと異なるように、色情の罪は貪欲の罪とは異なっていることは明らかです! これらは明らかに二つの異なる義務であるため、二つの異なる掟に対応しています。そこで私たちは、伝統的な掟の番号付けを守るべきであって、プロテスタントの真似をしてはなりません。残念ながら、多くの現代主義のカテキズムは、プロテスタントの番号に従っていますが、これは間違っています。
従って、第九戒は色情の罪を禁じています。「汝、人のつまを恋うるなかれ!」。ここでの原則は非常に単純です。つまり、何かをすることが悪いことである場合、それを望むのも悪いことだということです。天主は私たちに、外的な聖性、つまり悪い行為を外的に行うことを避けることを要求されるだけではありません。内的な聖性、つまり悪いことを行うのを望むことさえも避けることを要求されるのです。私たちの主イエズス・キリストは、聖福音で非常にはっきりと言われます。「知ってのとおり、『姦通するな』と今まで教えられている。だが私は言う、色情をもって女を見れば、その人はもう心の中で姦通している」(マテオ5章27-28節)。
悪い考えは悪い行いに至り、良い考えは良い行いに至ります。私たちの主イエズス・キリストは実際、言われました。「良い人はその心の良い倉から良いものを出し、悪い人は悪い倉から悪いものを出す。口は心にあふれるものを言葉に出すからである」(ルカ6章45節)。私たちが罪と闘わなければならないのは、そのまさに根っこにおいてです。つまり心の中においてです。私たちは、悪い行いを避けるだけでなく、悪い望みや悪い考えも避けなければなりません。「だが口から出るものは、心から出たもので、これが人を汚す。つまり、悪意、殺人、姦淫、私通、窃盗、偽証、冒涜などは心から出る。これらが人を汚す」(マテオ15章18-20節)。
さて、目は霊魂の窓です。悪い考えや望みが来るのは、目を通してです。従って、私たちは、自分の目それ自体をコントロールしなければなりません。それゆえに、私たちの主イエズス・キリストは言われました。「もし目が罪をつくる機会となるなら抜き出して捨てよ。片目で命に入るほうが両目あって火のゲヘナに投げ込まれるよりもよい」(マテオ18章9節)。
聖なる人ヨブは、すでに旧約で、次の美しい言葉を言いました。「私は自分の目と契約を結んだ、どんな娘にも目を留めないと。そうしないと上なる天主からどんな分け前をもらい、高きところの全能者からどんな遺産を受けただろうか。天主は不正な者に滅びを、悪人に災いを下される。天主は私の道を見ず、私の歩みを数えないだろうか」(ヨブ31章1-4節)。行為においてだけでなく、まさに思いそのものにおいて実行される、そのような貞潔の徳が信仰の霊の実であるのは、これらのヨブの言葉からまったく明らかです。ヨブは、「天主は自分の道を見」ておられるということを大変よく知っており、ヨブはその事実、つまりどこであっても天主が現存しておられるという事実を意識して生きているのです。天主は私を見ておられる! 私たちの主イエズス・キリストは、すべての時間、昼も夜も、私を見ておられる。主は、私がしていることだけでなく、私が望んでいること、私が考えていることまでも見ておられるのです。「被造物のうち一つとして天主のみ前に隠れられるものはないのであって、私たちがいつか裁きを受けねばならぬ天主のみ前に、すべては明らかであり開かれている」(ヘブライ4章13節)。「人間は目で見るけれども主は心を見る」(サムエル前16章7節)。
さて、現代の世界では、目の慎みの無さは非常に増大してきており、想像を絶するほどです。街の通りや新聞、雑誌、そしてインターネット空間で、ポルノが公然と、際限なく表示されています。これは罪深いものです! これらは第九戒に反する罪です。慎みの無さが軽い場合は小罪かもしれませんが(それが誘惑する目的で行われる場合を除きます)、ハードコアポルノは疑いなく第九戒に反する大罪であり、第六戒に反する外的な行為がそのあとに続かなくても大罪です。このようなことに関わってはなりません!
「もし目があなたに罪を犯させるなら、それを抜き取れ。片目で天主の国に入るのは、両眼があってゲヘナに投げ込まれるよりもよい。そこではうじは失せず、その火は消えぬ」(マルコ9章47-48節)。私たちの主は「あなたの目を閉じよ」とは言われず、「それを抜き取れ」と言われます。テレビが皆さんをつまずかせるなら、テレビのスイッチを消すのでは十分ではなく、家から完全にテレビを取り除いてください! 私の父は意識して家にテレビを置かないという選択をしました。私はその賢明な決断を天主に感謝しています。父がそうしていなかったら、父は司祭である三人の息子を持つことはなかったでしょう。
このことはテレビに当てはまりますが、インターネットについても当てはまります。今日ではインターネットは多くのことに必要な手段となってきていると異議を唱えることができるかもしれませんが、それならばインターネットを他のことに、不必要なことに使うことは絶対に自制すべきです。インターネットを無駄に閲覧することは避けなければならず、それは、ポルノとはっきり分かるものを避けるだけではありません。インターネットの使用において、自ら本当に禁欲することが必要です。そして、人は堕落したならばしたほど、自制する必要があり、自分の罪を償う必要があり、将来の罪を犯さないようにする必要があります。
聖霊修道会において、ルフェーブル大司教は現代主義の司祭たちの行動を見て苦しまれました。彼らの中には夕食の食卓を離れる者がおり、そのとき大司教が総長としてそこにおられたのにもかかわらず、テレビのある部屋に急いで行き、そのあと終課を行うための御聖堂にいなかったのです。そのため大司教は、聖ピオ十世会を創立したとき、自分たちの住居にテレビを置かないという規則を作り、こう言われました。「私たちのテレビはご聖櫃である!」。私たちは、世の人々がテレビの前で過ごす時間を、ご聖櫃の前で過ごしましょう。主を礼拝し、主とともに時間を過ごすことは、第九戒に反する罪に対する最善の薬です。自分の時間をテレビやインターネットの前で無駄に使うこと、さらには、これら現代のメディアから私たちの霊魂に対する毒を飲むために私たちの限られた時間をさらに悪く使ってしまうことをする代わりに、私たちはご聖体を黙想するという、ずっと良いことをするのです。黙想は超自然の真理を、愛を込めて見つめることです。私たちの主を見つめ、主を愛せば、霊魂が天の喜びで満たされます。アルスの聖なる司祭、聖ヴィアンネーが、ある日、自分の教会でちょうど彼の座席に男性が座っているのを見つけたことを思い出してください。司祭はその男性に尋ねました。「あなたはそこで何をしていますか?」。すると、男性は答えました。「私は主を見ています、主は私を見ておられます!」。これが黙想です!「主を喜びとすれば、主はあなたの望みをかなえられる」(詩篇36章4節)。
親たちは子どもたちを見張る必要があり、親たちの監督下にないまま子どもたちを自由にさせてはなりません。洗礼が原罪そのものを洗い流した後でも残っている情欲の傷は、実際にあるのです。洗礼は、癒やしの過程を開始させたのですが、その癒やしはまだ終了していません。自分の心を癒やすには、十分に見張ること、苦行することが必要です。若いときに親たちから苦行を学ぶ子どもたちは幸いなるかな! このような監督をせずに子どもたちを自由にさせる親たちは、子どもたちに残酷であり、義務を果たしていないのです。
ここで、誰かが言うかもしれません。「しかし神父様、自分の考えをコントロールすることは大変難しいことです」。皆さんは何も考えないということはできませんから、悪しき考えを追い出す唯一の方法は、その悪しき考えを良い考えで置き換えることであり、良い考えの最上のものは、十字架上の私たちの主イエズス・キリストのことを考えることであるのは確かです。誘惑を受けたとき、常にそこに、十字架の下に戻ってください! 鞭で引き裂かれた主の全身を黙想してください。皆さんのために釘付けにされた主の御足、主の御手を黙想してください。皆さんを愛するがために槍で刺し貫かれた主の聖心を黙想してください! 十字架の下の主の聖なる御母を黙想し、主が感じられたこと、聖母が感じられたことなどを考えてください。そうすれば、悪しき考えは、たちまち皆さんの考えの中から出ていくでしょう。まことに私たちの主イエズス・キリストはあらゆる罪のための薬なのです。
皆さんが自分の考えをコントロールしたい場合、読む本をコントロールする必要があります。良い本を読み、聖人伝や、聖人の書いた文章、そして何にも増して聖福音をすべて読んでください。良い考え、聖なる考えで皆さんの心を養うためです。そうすれば、皆さんが悪しき考えを良い考えと入れ替えるのは簡単になるでしょう。しかし、皆さんが心に良い考えがないままにするならば、自然は空虚(真空)を嫌うので、皆さんの心はたちまち悪しき考えで満たされてしまうでしょう。
自分の考えをコントロールすることは、私たちの望みをコントロールすることに結びついています。人間は単なる動物ではありません。人間は理性を持ち、理性で自分の望みを支配しなければなりません。すべての運動は、特定の方向を向いており、すべての活動は、特定の目標を持っています。目標を知って意識してその目標を望むということは、理性に属しています。私たちの心が、私たちの情熱をコントロールする代わりに、その情熱のコントロールを放棄し、これらの情熱によって動かされるという事実そのものが、間違っています。ですから私たちは、私たちの行動の方向を常に知っておく必要があります。私たちが追求している目標は何でしょうか? 私たちは天主に近づいているのでしょうか、それとも、私たちは被造物やコントロール不能な快楽に引きつけられ、自分を堕落させているのでしょうか?
聖イグナチオが勧めたように、良心の糾明を行うことは、罪を避けるために、特に第九戒および第十戒に反する罪を避けるために、非常に有益です。毎朝、聖性への道を進もうとする決心、天主に近づこうとする決心、私たちの主イエズス・キリストに私たちをさらに統治していただくために近づこうとする決心を新たにし、そして、その目的に到達できるよう主の御助けを願うのです。また毎晩、自分の行動を振り返って、自分の行動がこの正しい道から外れているかどうかを確認し、その日の過ちの赦しを願います。そのような過ちはうまくすれば少しだけであればよいのですが、それが更に少なくなっていくことを確認します。そしてこの過ちを犯した機会を調べて、今後その機会を避けるようにします。そして、私たちの主イエズス・キリストの恩寵によって、翌日はさらに良くしていこうという決心を立てるのです
もう一つの良い実践は、短い「射祷」の実践です。これは、私たちの心からイエズスの聖心へ射かけられる小さな矢のようなもので、助けを呼び求め、天主への私たちの愛と望みを表現し、赦しまたは多くの他の恩寵を願うか、あるいは、天主の愛に満ちたご配慮の下で、天主の現存において生きているのが幸せであると愛する天主にただ話すのです。このような愛の矢、「聖なる呼祷」は、私たちの心に良きかつ聖なる考えを持ち続けるよう、そして私たちの心を危険な考えや望みから守るよう、大いに助けてくれます。心は、自然に私たちが愛するものについて考えるものです。私たちが「すべての心、すべての知恵、すべての霊、すべての力をあげて」(マルコ12章33節)まことに天主を愛するならば、そのような考えを持つことがほとんど自然になります。聖トマス・アクィナスは、望む対象物を心に置くことによって愛情や望みが生じる、と教えています。ですから、私たちが心に聖なる考えを持ち続ければ、私たちの心は聖なる望みを持ち続けられるのです。
この第九戒に完全に従う最も美しい模範は、童貞聖マリアです。ずば抜けて優れた罪のないお方であり、貞潔に反する小罪さえも、その他のあらゆる徳に反する小罪さえも決して犯さなかったお方です。そして天主は、そのような無垢を愛されるのです! 天主は、その無垢の源でいらっしゃるのです。十字架の上の私たちの主イエズス・キリストは、全身全霊で主に立ち返るマリア・マグダレナのように痛悔する者を愛されます。しかし主が、主から決して離れようとはなさらなかった童貞母をそれ以上に愛されたのは疑いありません。