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Channel: Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた
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天主の十戒「第十戒」ー汝、人の持ち物をみだりに望むなかれーこの世に愛着するな、至高の善、いと高き天主、永遠の救いを無視するな。:聖ピオ十世会司祭 レネー神父様

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アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

レネー神父様の「天主の十戒」についてのお説教をご紹介いたします。

最終回の第11回目は、第十戒「汝、人の持ち物をみだりに望むなかれ」についてです。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

2016年7月17日 聖霊降臨後の第9主日―大阪 霊的講話「第十戒」

親愛なる兄弟の皆さん、
私たちは最後の掟に到達しました。「隣人の家をむさぼるな。隣人の…しもべ、はしため、牛、ろば、すべて隣人の持ち物をむさぼるな」(脱出[出エジプト]20章17節)。第九戒と同様に、この掟は自分の内的な望みをコントロールし、その望みを、天主へと、天国へと、霊的なものへと向けさせ、貪欲や富への強欲、嫉妬、そしてあらゆる種類のゆがんだ愛情から離れさせるのです。

富への強欲と嫉妬は大罪になり得ます。実際、聖パウロは、それらの大罪を他の大罪と共に挙げ、「彼らはすべての不義、悪心、私通、貪欲、不正に満ち、嫉妬、殺人、争乱、詐欺、狡猾に満ちる」(ローマ1章29節)として、彼の時代の異教徒の腐敗を非難しています。そしてガラツィア人に対して、聖パウロは妬みを、救いから排除される肉のわざの一つとして非難しています。「肉の行いは明白である。すなわち、私通、不潔、猥褻、邪淫、偶像崇拝、魔術、怨恨、争闘、嫉妬、憤怒、喧嘩、争乱、異説、猜忌、殺人、酩酊、遊蕩、そしてそれらに似たことなどである。私は前にもいったように、またあらかじめ注意する。以上のようなことをおこなう人は、天主の国を嗣がない」(ガラツィア5章19-21節)。

私たちの主イエズス・キリストが私たちに教えてくださいます。「『すべての貪欲をよく警戒せよ。どんなに物が豊かでも、その人の命は持ち物が多いことで保証されるのではない』。それからたとえで話された。『ある金持ちがいた。畑が豊かに実ったので、その人は心の中で〈さてどうしよう。作物を納める所がないが…〉と考え、〈ではこうしよう。倉を壊してもっと大きいのを建て、そこに穀物と財産をみな納めよう。そして自分の魂に向かって言おう、“魂よ、おまえはもうこれから長い年月を過ごせる多くの財を蓄えたから、休め、飲め、食べよ、楽しめ”〉と言った。ところが天主はその人に、〈愚かな者よ、お前の魂は今晩呼び戻されるのだ。するとおまえの蓄えた物は誰のものになるのか〉と仰せられた。自分のために財を積んでも、天主のために財を積まぬ者はこの人と同じことである』」(ルカ12章15-21節)。

一見、この男は何も禁じられたことをしなかったように思われます。彼は盗んでいないし、殺してもいない、他の罪も犯していません。彼はだた成功した農民であり、かつ良い事業者にしかすぎなかったのです。では、何が問題なのでしょうか? なぜ、私たちの主は彼のことを「愚かな者よ!」と言われたのでしょうか。その理由は、彼が貪欲で、この世の宝を愛し、永遠の救いを無視したからです。何という教訓でしょうか! いかに多くの人々が、この世のものに究極の目標を置き、至高の善、いと高き天主を完全に無視するほど、この世のものに愛着しているでしょうか。彼らは成功を追求し、成功の上にさらにこの世の成功を追求し、永遠のものをまったく無視するのです。

このような態度の間違いを証明するために、第一に、この世のものは過ぎ去るもの、一時的なものであり、そのため永遠と比べれば無のようなものであることを考えてみましょう。そして、これらこの世のものを好む人々は、それらが過ぎ去るものであることを大変よく知っています。これが、彼らがそれらを失わないために急ぐ理由です。なぜなら、彼らはそれらが過ぎ去りつつあるもので、後になって手に入れることができないかもしれないと知っているからです。彼らは年老いた人々を見て、その人々がもはやこれら過ぎ去るものを楽しむことができないと思い、自分たちも毎日年を取っていっていることを考えません。時が過ぎていくのが分かっていて、そんな過ぎ去るものに愛着を持つのは愚かなことです。なぜなら、私たちは永遠の真理を理解できる霊を持っているのであり(例えば、数学の定理は、その永遠の側面を持っています。定理の真理は時を超えており、過去でも現在でも未来でも常に真理なのです)、そのため私たちの心は時を超えており、過ぎ去るものでは決して満足できないからです。聖アウグスティヌスは言います。「汝はわれらを汝のために造り給うた。われらの霊魂は、汝において憩うまで憩うことなし」(告白1章1節)。また、聖パウロが美しく言います。「私たちは見えるものではなく見えないものに目を向ける。見えるものは限られた時間のものであるが、見えないものは永遠のものである」(コリント後書4章18節)。

第二に、私たちはそのこの世のもの、物質的なものは、多くの人々が同時に所有できないということを考えてみましょう。「共同所有権」があるなら、それは部分的な所有権にすぎず、誰も他人の同意なくしてものを完全に処分することはできません。母親がバナナを持っていてそれを食べると、子どもはバナナを食べることはできません。その母親がバナナを子どもに与えて子どもが食べると、母親はそれを食べることはできません。なぜなら、皆さんが物質的なものを与えると、それを失うからです。従って、物質的なものへの望みが人々を分裂させます。節度を欠いたこの世のものへの望みはしばしば、紛争、妬み、詐欺、あらゆる種類の悪へつながります。聖パウロは警告しています。「富を求める人々は、誘いとわなと、人間を堕落と滅亡に落とし込む愚かな恥ずかしい欲望に陥る。実にすべての悪の根は金への執心である。それを得て信仰から迷い、さまざまの苦しみをもって自分自身を刺し貫いた人々がいる」(ティモテオ前書6章9-10節)。また聖ペトロは、次の人々を非難します。「彼らの目は姦通に満ち、飽くまで罪を犯し続ける。心の定まらぬ霊魂を惑わす彼らの心は、貪欲に慣れた呪いの子である」(ペトロ後書2章14節)。

第三に、富はしばしば、もっと重い罪である傲慢につながります。傲慢はあらゆる種類の悩みにつながり、平和と素朴な喜びを奪うのです。

それは、私たちがこの世での成功を気にかけず、成功への努力をすべきでないという意味でしょうか? 決してそうではありません。怠惰と義務の無視も、キリスト教的道徳に反します。子どもたちはよく勉強し、テストで良い成績を得るよう努力すべきですし、大人たちは自分の仕事に勤勉に励んで会社の目標を達成するために努力すべきです。しかし、これらすべての努力において、彼らの究極の目的がこの世での成功であってはなりません。彼らの努力は、義務感から、奉仕の精神によって行われるべきですが、この世のことへの貪欲や際限のない欲望から行われるべきではありません。実際、私たちは隣人から多くを受けたのですから、社会では隣人のために特定の奉仕で貢献すべきであり、その貢献から私たちは収入を得るに値するのです。しかし、これはすべて、奉仕の精神によって、義務感から行われるのであり、お金が欲しいから、もっとお金が欲しいから、もっと金持ちになりたいから行われるのではありません。聖パウロは、この奉仕と義務の感覚を非常にうまく説明しています。「盗人はもう盗むな。むしろ、貧しい人々に施すために、自分の手で何かよい仕事をして働け」(エフェゾ4章28節)。聖パウロは一生懸命働くよう勧めていますが、その目的は何でしょうか? 金持ちになるためではなく、自分の義務を果たし、他人を助ける立場になるためです!

私たちが「互いにイエズス・キリストの心を心と」(フィリッピ2章5節)するならば、私たちは天のものに渇き、地上のものから離れ、聖心の祝日の聖体拝領後の祈りで唱えるように、「地上のことを軽んじ、天のことを愛する」のです。愛は心の動きです。同時に上と下へ行くことはできません。ですから、私たちが天のものを愛するならば、必ず地上のものから離れなければなりません。

私たちの主ご自身が、次の素晴らしい知恵を教えてくださいます。「自分のためにこの世に宝を積むな。ここではしみと虫が食い、盗人が穴を開けて盗み出す。むしろ自分のために天に宝を積め。そこではしみも虫もつかず、盗人が穴を開けて盗み出すこともない。あなたの宝のあるところには、あなたの心がある」(マテオ6章19-21節)。

地上のものに関しては、主は気にかけたり心配したりするのを避けるよう忠告してくださいます。私たちは義務を果たし、受けたものの賢い管理人でなければなりませんが、しかしそれを気にかけてはなりません。「だから、まず天主の国とその正義を求めよ。そうすれば、それらのものも加えて与えられる。明日のために心配するな。明日は明日が自分で心配する。一日の苦労は一日で足りる」(マテオ6章33-34節)。

私たちは、このような態度において素晴らしい平和を見いだします。「足ることを知る人々にとって敬虔は利益の道である。私たちは何も持たずにこの世に来て、また何も持って去ることができない。食べる物と着る物があれば、それで満足しなければならない。…しかし、天主の人たるあなたはそれらのことを避け、正義、敬虔、信仰、愛、忍耐、柔和を求めよ」(ティモテオ前書6章6-8,11節)。「強欲なふるまいはするな。持っている物で満足せよ。天主は『私はおまえを見放さず見捨てない』と言われる」(ヘブライ13章5節)。

第九戒のときに説明したように、この第十戒を実践するよい手段は良心の糾明です。私たちは、この世のものをあまりにも気にし過ぎていませんか? 私たちは自分の義務をよく果たしていますか? また、どのような目的のためにそれをしていますか? ドン・マルミオンは美しく教えています。私たちは「天主がお望みになることを、私たちがそれをするにあたっては天主がお望みになる方法で、天主がお望みになるという理由で、行なわなくてはなりません」と。このように、私たちはすべての行動を天主に委ね、この世の強欲を避けるのです。

私たちの心が本当にこの世のものから離れているならば、私たちはそれを失っても平和でいるべきです。この世のものを失ったとき、とても怒ったり苦しんだりする人々がいます。これは、彼らがこの世のものに、あまりにも強い愛着があることを明らかにしているだけです。その反対に、旧約において聖なる人ヨブは、持っているものすべてを一日で失ったとき、家が竜巻で壊れて十人の子どもたちを失ってさえいても、まったく落ち着いていました。ヨブは言いました。「私は母の胎から裸で出た。裸でまた、向こうへ帰ろう。主は与え、また奪われた。主はみ心の通りになされる。主のみ名は祝されよ」(ヨブ1章21節)。ヨブは金持ちで、それも非常に金持ちでしたが、強欲ではありませんでした。それどころか、ヨブは愛に満ちていました。「私は盲人の目となり、不具者の足となり、貧しい者の父とな…った」(ヨブ29章15-16節)。彼の模範が示すように、強欲と闘うよい方法は慈善と善行を行うことです。

教会の危機について、ひとこと記します。驚くべきことに、新しい典礼では、体系的に「この世のものを軽んじること」への言及が削除されており、まったくないのではありませんが、多くの場合なくなっているのです。例えば、先に述べた聖心の祝日の美しい聖体拝領後の祈りにはなくなっています。

キリストのまことの精神はむしろ、この世のものを放棄することに、清貧という福音的勧告を実践することに導きます。「心の貧しい人は幸せである、天の国は彼らのものである」(マテオ5章3節)。「もし完全になりたいなら、持ち物を売りに行き、貧しい人々に施しをせよ。そうすれば天に宝を積む。それから私についてくるがよい」(マテオ19章21節)。これが本当に、第十戒の究極の実践です。天のものをさらに完全に所有するために、この世のものを放棄するのです。

地上で最も素晴らしい宝は、ご聖体にまします私たちの主イエズス・キリストです。これが、私たちの望みの最大の目的であるべきです。主は非常に高価な真珠です。このことについては、私たちの主ご自身が言われました。「天の国は美しい真珠を求める商人のようである。価の高い真珠一個を見つけると、持ち物を全部売りに行き、それを買ってしまう」(マテオ13章45-46節)。

天主の十戒に関する考察の最後に、愛は律法を完成させるということを思い起こしましょう。律法全体は愛の法であり、どのようにして、すべてものを超えて天主を愛し、また自分と同じように隣人を愛するかを説明しています。一つ一つの掟は愛の要求であり、私たちが十戒の掟に従うことができるのは、愛によってなのです。聖パウロは言います。「人を愛する者は律法を果たす。『姦通するな、殺すな、盗むな、偽証するな、むさぼるな』、その他のすべての掟は『隣人を自分と同じように愛せよ』という言葉に要約される。愛は隣人を損なわぬ。したがって、愛は律法の完成である」(ローマ13章8-10節)。愛は、犠牲に至るまで、私たち自身を超えた天主の愛です。愛は、「私たちに与えられた聖霊によって、この心に注がれた」(ローマ5章5節)のです。

これらの掟を守るよう私たちを促してくれる聖人たちの模範があります。とりわけ、特にベツレヘムで清貧の生活を送られた聖ヨゼフと聖母の模範です。しかし何にも増して、模範は私たちの中に生きておられ、私たちがこれらの徳を行い、掟を守るようにさせてくだるイエズスご自身です。「私を遣わされたお方は、私とともにましまし、常にみ旨にかなうことを行う私を、ひとりにしてはおかれぬ」(ヨハネ8章29節)。私たちが常に、主の恩寵に従順であり、主の掟を守り、そうして天国で永遠の至福に到達しますように! アーメン。

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