アヴェ・マリア・インマクラータ!
愛する兄弟姉妹の皆様、
2016年8月20日(土)に大阪で聖伝のミサを捧げました。その時のお説教をご紹介いたします。
天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)
2016年8月20日(土)教会博士大修院長聖ベルナルドのミサ
小野田神父説教
聖母の汚れなき御心聖堂にようこそ。今日は2016年8月20日、聖ベルナルド大修道院長それから教会博士の祝日を祝っています。この御ミサの後には、公教要理特に堅振について、特に「聖霊の7つの賜物と至福八端」について復習をしたいと思っています。
それから8月15日からロザリオの十字軍が始まりました。皆さんの寛大なご参加をお願い致します。
来年の2017年8月17日から27日まで約10日間に渡って、ファチマへの国際巡礼があります。この参加希望者を今募っていますけれども、これは早めに申し込みをしなければなりませんので、どうぞ予定を組んで早めにお知らせ下さい。
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。
今日は大修道院長そして教会博士聖ベルナルドの祝日です。では聖ベルナルドの人生を黙想して、聖ベルナルドが一体どんな所でどのような方だったのか、どんなに聖徳が高かったのかを黙想して、では聖ベルナルドの秘密は何だったのか、聖ベルナルドにとって一番大切だったのは何だったのか、その結果聖ベルナルドは教会に、或いは全世界に何をしようとしたのかを黙想して、最後にその聖ベルナルドのそこまでできたその秘密を黙想しましょう、その秘密はイエズス様とマリア様への愛でした。聖ベルナルドは最後に、もしも21世紀の現代に、私たちに今ここで現われたとしたら、21世紀の私たちに何を訴えるだろうか、という事も一緒に黙想致しましょう。それを結論に、遷善の決心を立てる事に致しましょう。
聖ベルナルドはミサのパンフレットにもありますように、1091年に生まれました。若くしてシトー会に入会し、最も厳しい修道会の1つでした。本当に多くの青年たちを引き連れて入会し、家族を引き連れて入会し、「クレルヴォー“輝かしい光の谷”」と言われる所に新しい修道会を創りました。そこから多くの娘の修道院、或いは孫娘の修道院たちが全ヨーロッパに広がって、最後に1153年にクレルヴォーで亡くなりました。
聖ベルナルドが色々、修道院を創立の為にヨーロッパ中を回ると、或いは教皇様に会う為に移動すると、「修道院の沈黙が黙想が一緒に、聖ベルナルドと動いていた」と言われています。聖ベルナルドは修道生活の復興者であったばかりでなく、キリスト教世界に平和をもたらす人でした。
アレキサンダー三世教皇様は聖ベルナルドを列聖した時に、「聖ベルナルドは、ただ聖徳によっての模範によって輝いたばかりでなく、その信仰とその影響力によって異教の国々に、野蛮な国々に信仰の光をもたらして、多くの無数の人々を霊的生活の正しい道にもたらした。それでその為に、その信仰とその聖なる影響において、もっと輝き出している」と言っています。
その当時ヨーロッパは大きな危機に与っていました。道徳的な危機と知的な危機でした。正しい知性の使い方が分からなくて、ただ人々は言葉をもて遊んだり、ただ自分の知恵を見せびらかしたり、或いは言葉でだけを知識だけを使っていて、生活を伴わない人々がたくさんいました。その時に聖ベルナルドは、聖書とイエズス様の黙想から多くの知恵を得ました。聖ベルナルドが言うには、「天主様に導かない知識というのは、全く無意味だ。正しい生活に導かない議論というのは、全く無意味だ。キリストの知恵に導かないものは、全く無意味だ。そんな学習は全く無意味だ」と言いました。
「私たちはもっと救いへと導く為に、もっとイエズス・キリスト、天主を愛するように動かす為に学ぶべきだ。もしも私たちが隣人と自分の聖徳の為に学ばないならば、全く虚しい。もしも私たちが自分を他の人に知らせる為に学ぶとしたら、自分の知識をみせびらかす為だけに学ぶとしたら、それは虚栄だ。もしも私たちがただ知る為だけに知るとしたら、それは好奇心に過ぎない。もしも私の自分の知識を他の人に売ってお金を得たり、或いは名誉を得たりする為だけだったら、それは単なる利益だ。しかし他人の為に他人を照らす為に学ぶ事は、愛徳であって、自分の聖徳の為に学ぶのは、これは賢明だ。」
聖ベルナルドは「蜜の流れるような博士」と言われています。、「自分は知恵を得るのだけれども、その知恵を得るのは丁度ミツバチが蜜蝋と蜜を一緒に運んでくるのと同じだ」と言います。「何故かというと、ミツバチは蜜蝋を運ぶのだけれども、その蜜蝋というのがこれは蝋にして燃やすと光を出す。これは知性のシンボルだ、理解のシンボルだ。でも蜜蝋だけではなくて蜜も持ってくる。その蜜というのは、味わいのある甘いものであって、これは天主様のお恵みであり、天主様への愛だ。だから私たちには真理を知る光と、それから甘い愛の蜜がなければならない。もしも光を輝かすだけだったら、愛がないのならば、それは傲慢に過ぎない、全く意味がない。だからといってただ燃え立つだけで、甘いだけであって真理の光がなければ、それでは道を誤ってしまう、それでは不十分だ。燃えて、輝かせなければならない。そうしてこそ完全になる。」
この聖ベルナルドの教えは、ルフェーブル大司教様によって聖ピオ十世会にもたらされました。これはローマのフランス人神学校での教えであり、「教義、敬虔を伴った、信心の伴った教義であって、教義の伴った信心。信心と教義は2つは一緒でなければならない」という教えです。この愛と真理との一緒になった、ミツバチが運んできた蜜蝋と蜜の混ざったこの知恵は、私たちに本当の観想と、イエズス・キリストに対する知識を与えてくれます。これこそが私たちを天主様へと導いてくれます。
でもただ天主についての知識を得る、というのは最終の目的ではありません。聖ベルナルドが言うには、「これは天主へと導く道であって手段に過ぎない」と言います。「でもこの道を通るならば、もうこの地上における愛に既に、天主をその甘さをそのほぼ、無限の幸せである天主をこの地上のうちから味わう事ができる」と言います。聖ベルナルドはそれを味わいつつ、この地上で生きていました。
聖ベルナルドは言います、「天主様は、私たちが天主を恐れたり或いはただ敬ったりするよりはむしろ、私たちが天主をますます愛する事を望む。」
聖ベルナルドが求めていたのは、私たちが貞潔な聖なる愛で天主を愛する事でした。甘い、喜ばしい愛で天主様を愛する事でした。本当に純粋で、それから晴れ渡ったような天気のような美しい愛で、天主様と私たちが相互に、緊密に、強く愛し合う事を聖ベルナルドは求めていました。何故かというと、このそうする時に私たちと天主様は、2つが1つの精神となるからです。
ある時聖ベルナルドはこう言います、「天主を愛する理由は、天主である。天主様を愛するその限度は、限度なく愛する事である。もしも天主を愛するならば、天主への愛があるならば、そこには『辛い』が無くて、『甘い』だけがある。」或いは聖ベルナルドはイエズス様に対する天主様に対する愛のあまり、「おぉ主よ、私は御身と共に一緒にいるならば、この地上の苦しい事や辛い事を全て耐え忍んだ方が、あなたが無くて天国にいるよりもはるかに良い事です」とさえ言いました。
このような天主への愛は聖ベルナルドに、このヨーロッパにおいて教会の為に働くというものすごい決心を、その情熱を与えてくれました。聖ベルナルドはフランスの王聖ルイ九世にこう手紙を書いています、「私たちは教会の息子だ。私たちはもしも教会が苦しんでいるのを見て、何もしないでいる事はできない。教会がこのように屈辱を受けているのを見て、放っておく事はできない。私たちは立ち上がって、死ぬ覚悟をして、もしも必要ならば死に至るまで教会の為に戦いたい、私たちの母なる教会の為に、私たちに許された武器をとって戦いたい。私たちに許された武器とはつまり、盾と剣ではなく、祈りと天主様に対する懇願だ。祈りと犠牲を以て教会の為に全てを捧げて戦いたい」と言っています。
或いは別のクリュニーの聖ペトロ大修道院長にはこう言っています、「私は、もしも私がそれを受けるのにふさわしいと思われたのならば、苦しみにおいてそれを自分の栄光としたい。それは教会の為に、教会が凱旋する事、これこそが私の栄光であって、私の喜びだ。これにおいて私は頭を上げる。もしも私が教会の苦しみにその一部を得ているのなら、私は公教会を慰める為にも何かしたい、私の母の為に働き苦しみたい」と書いています。教会、カトリック教会の為に、パレスティナの為に、或いはキリスト教の君主たちに向かって、大きな声で天主への愛を呼びかけました。十字軍を呼びかけました。
こうやって教会の為に、天主を愛する為に命を尽くした聖ベルナルドは、その秘密は、イエズス様への愛とマリア様への愛に生かされていた事でした。ある時聖ベルナルドはこう言っています、「私は、イエズス様が出ない言葉を聞くのはあまり面白くない。イエズス様の名前の出ない本を読んでも何の面白みもない。イエズス様のない会話が聞いても何の面白みもない。でもイエズス様がいるならば全ては意味があるし、意義がある。」
それからマリア様に対してはこう言っています、「マリア様の手を通さなければ、私たちは何も得る事ができない、というのが天主の御旨である。私たちがマリア様の手を通して全てを得る、という事が天主の御旨である。マリア様はちょうど『海の星』という意味に解釈できる。星は大きな大海原の上に光を出している。だけれども光を出したとしても、普通の松明が燃えるように、星はだからといって傷ついたり無くなったりしない。ちょうどマリア様も童貞女として御子イエズス様を、自分が傷つく事なく、私たちに世の光を与えてくれた。この空の星は、松明や普通の火が燃えると材木が無くなってしまったり燃え尽きてしまうけれども、星はそんな事がない、いつも光を変えずに輝いている。それと同じようにマリア様も、御子を私たちに与えて、その美しさは決して変わる事がない。ヤコブから出た栄光の星、私たち全てを照らす星、それがマリア様だ。」「もしも苦しい事があったら、もしも傲慢の顔が持ち上がってきたら、もしも野心が出て来たら、もしも憎しみがやって来たらマリア様を見よ、マリア様を呼べ。もしも怒りがやって来たら、もしも貪欲がやって来たらマリア様を呼べ。マリア様と一緒にいるならば私たちは決して道を間違えない」と。
では聖ベルナルドは私たちに何を現在仰るでしょうか?
おそらく聖ベルナルドは、「この世で一番大切なのは天主様への愛である。この世の地上の全てのものに勝るものが天主への愛である。残念ながら、今21世紀の人々が忘れ去っている、しかし最も大切なのは、天主への愛である。この天主への愛を得る為には、マリア様が必要だ。マリア様へのお祈りがあれば、マリア様を通してでなければ私たちはその愛を得る事ができない」と言うことでしょう。
私たちはそのベルナルドのその声を聞いて、マリア様に馳せ寄る事に致しましょう。私たちの天の母であるマリア様。それと同時に聖ベルナルドは、カトリック教会の事をおそらく非常に苦しんでご覧になっていると思います。教会の、私たちの母である教会がこのように苦しんでいるので、私たちに祈りの十字軍を起こすように、ロザリオの十字軍を起こすように、マリア様にお願いして、教会の為に私たちも、私たちに許された武器、「ロザリオと祈り」と「犠牲」を以て教会の為に戦いなさい、十字軍で戦いなさい、と招いておられます。
私たちは聖ベルナルドの声に今日はよく耳を澄まして、遷善の決心として、マリア様を通して天主への愛を受ける事、永遠の知恵イエズス・キリストへと辿り着く道を歩む事、それからロザリオの十字軍、祈りの十字軍に寛大になって、カトリック教会の為に祈りと犠牲を捧げる事を決心を致しましょう。
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。
愛する兄弟姉妹の皆様、
2016年8月20日(土)に大阪で聖伝のミサを捧げました。その時のお説教をご紹介いたします。
天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)
2016年8月20日(土)教会博士大修院長聖ベルナルドのミサ
小野田神父説教
聖母の汚れなき御心聖堂にようこそ。今日は2016年8月20日、聖ベルナルド大修道院長それから教会博士の祝日を祝っています。この御ミサの後には、公教要理特に堅振について、特に「聖霊の7つの賜物と至福八端」について復習をしたいと思っています。
それから8月15日からロザリオの十字軍が始まりました。皆さんの寛大なご参加をお願い致します。
来年の2017年8月17日から27日まで約10日間に渡って、ファチマへの国際巡礼があります。この参加希望者を今募っていますけれども、これは早めに申し込みをしなければなりませんので、どうぞ予定を組んで早めにお知らせ下さい。
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。
今日は大修道院長そして教会博士聖ベルナルドの祝日です。では聖ベルナルドの人生を黙想して、聖ベルナルドが一体どんな所でどのような方だったのか、どんなに聖徳が高かったのかを黙想して、では聖ベルナルドの秘密は何だったのか、聖ベルナルドにとって一番大切だったのは何だったのか、その結果聖ベルナルドは教会に、或いは全世界に何をしようとしたのかを黙想して、最後にその聖ベルナルドのそこまでできたその秘密を黙想しましょう、その秘密はイエズス様とマリア様への愛でした。聖ベルナルドは最後に、もしも21世紀の現代に、私たちに今ここで現われたとしたら、21世紀の私たちに何を訴えるだろうか、という事も一緒に黙想致しましょう。それを結論に、遷善の決心を立てる事に致しましょう。
聖ベルナルドはミサのパンフレットにもありますように、1091年に生まれました。若くしてシトー会に入会し、最も厳しい修道会の1つでした。本当に多くの青年たちを引き連れて入会し、家族を引き連れて入会し、「クレルヴォー“輝かしい光の谷”」と言われる所に新しい修道会を創りました。そこから多くの娘の修道院、或いは孫娘の修道院たちが全ヨーロッパに広がって、最後に1153年にクレルヴォーで亡くなりました。
聖ベルナルドが色々、修道院を創立の為にヨーロッパ中を回ると、或いは教皇様に会う為に移動すると、「修道院の沈黙が黙想が一緒に、聖ベルナルドと動いていた」と言われています。聖ベルナルドは修道生活の復興者であったばかりでなく、キリスト教世界に平和をもたらす人でした。
アレキサンダー三世教皇様は聖ベルナルドを列聖した時に、「聖ベルナルドは、ただ聖徳によっての模範によって輝いたばかりでなく、その信仰とその影響力によって異教の国々に、野蛮な国々に信仰の光をもたらして、多くの無数の人々を霊的生活の正しい道にもたらした。それでその為に、その信仰とその聖なる影響において、もっと輝き出している」と言っています。
その当時ヨーロッパは大きな危機に与っていました。道徳的な危機と知的な危機でした。正しい知性の使い方が分からなくて、ただ人々は言葉をもて遊んだり、ただ自分の知恵を見せびらかしたり、或いは言葉でだけを知識だけを使っていて、生活を伴わない人々がたくさんいました。その時に聖ベルナルドは、聖書とイエズス様の黙想から多くの知恵を得ました。聖ベルナルドが言うには、「天主様に導かない知識というのは、全く無意味だ。正しい生活に導かない議論というのは、全く無意味だ。キリストの知恵に導かないものは、全く無意味だ。そんな学習は全く無意味だ」と言いました。
「私たちはもっと救いへと導く為に、もっとイエズス・キリスト、天主を愛するように動かす為に学ぶべきだ。もしも私たちが隣人と自分の聖徳の為に学ばないならば、全く虚しい。もしも私たちが自分を他の人に知らせる為に学ぶとしたら、自分の知識をみせびらかす為だけに学ぶとしたら、それは虚栄だ。もしも私たちがただ知る為だけに知るとしたら、それは好奇心に過ぎない。もしも私の自分の知識を他の人に売ってお金を得たり、或いは名誉を得たりする為だけだったら、それは単なる利益だ。しかし他人の為に他人を照らす為に学ぶ事は、愛徳であって、自分の聖徳の為に学ぶのは、これは賢明だ。」
聖ベルナルドは「蜜の流れるような博士」と言われています。、「自分は知恵を得るのだけれども、その知恵を得るのは丁度ミツバチが蜜蝋と蜜を一緒に運んでくるのと同じだ」と言います。「何故かというと、ミツバチは蜜蝋を運ぶのだけれども、その蜜蝋というのがこれは蝋にして燃やすと光を出す。これは知性のシンボルだ、理解のシンボルだ。でも蜜蝋だけではなくて蜜も持ってくる。その蜜というのは、味わいのある甘いものであって、これは天主様のお恵みであり、天主様への愛だ。だから私たちには真理を知る光と、それから甘い愛の蜜がなければならない。もしも光を輝かすだけだったら、愛がないのならば、それは傲慢に過ぎない、全く意味がない。だからといってただ燃え立つだけで、甘いだけであって真理の光がなければ、それでは道を誤ってしまう、それでは不十分だ。燃えて、輝かせなければならない。そうしてこそ完全になる。」
この聖ベルナルドの教えは、ルフェーブル大司教様によって聖ピオ十世会にもたらされました。これはローマのフランス人神学校での教えであり、「教義、敬虔を伴った、信心の伴った教義であって、教義の伴った信心。信心と教義は2つは一緒でなければならない」という教えです。この愛と真理との一緒になった、ミツバチが運んできた蜜蝋と蜜の混ざったこの知恵は、私たちに本当の観想と、イエズス・キリストに対する知識を与えてくれます。これこそが私たちを天主様へと導いてくれます。
でもただ天主についての知識を得る、というのは最終の目的ではありません。聖ベルナルドが言うには、「これは天主へと導く道であって手段に過ぎない」と言います。「でもこの道を通るならば、もうこの地上における愛に既に、天主をその甘さをそのほぼ、無限の幸せである天主をこの地上のうちから味わう事ができる」と言います。聖ベルナルドはそれを味わいつつ、この地上で生きていました。
聖ベルナルドは言います、「天主様は、私たちが天主を恐れたり或いはただ敬ったりするよりはむしろ、私たちが天主をますます愛する事を望む。」
聖ベルナルドが求めていたのは、私たちが貞潔な聖なる愛で天主を愛する事でした。甘い、喜ばしい愛で天主様を愛する事でした。本当に純粋で、それから晴れ渡ったような天気のような美しい愛で、天主様と私たちが相互に、緊密に、強く愛し合う事を聖ベルナルドは求めていました。何故かというと、このそうする時に私たちと天主様は、2つが1つの精神となるからです。
ある時聖ベルナルドはこう言います、「天主を愛する理由は、天主である。天主様を愛するその限度は、限度なく愛する事である。もしも天主を愛するならば、天主への愛があるならば、そこには『辛い』が無くて、『甘い』だけがある。」或いは聖ベルナルドはイエズス様に対する天主様に対する愛のあまり、「おぉ主よ、私は御身と共に一緒にいるならば、この地上の苦しい事や辛い事を全て耐え忍んだ方が、あなたが無くて天国にいるよりもはるかに良い事です」とさえ言いました。
このような天主への愛は聖ベルナルドに、このヨーロッパにおいて教会の為に働くというものすごい決心を、その情熱を与えてくれました。聖ベルナルドはフランスの王聖ルイ九世にこう手紙を書いています、「私たちは教会の息子だ。私たちはもしも教会が苦しんでいるのを見て、何もしないでいる事はできない。教会がこのように屈辱を受けているのを見て、放っておく事はできない。私たちは立ち上がって、死ぬ覚悟をして、もしも必要ならば死に至るまで教会の為に戦いたい、私たちの母なる教会の為に、私たちに許された武器をとって戦いたい。私たちに許された武器とはつまり、盾と剣ではなく、祈りと天主様に対する懇願だ。祈りと犠牲を以て教会の為に全てを捧げて戦いたい」と言っています。
或いは別のクリュニーの聖ペトロ大修道院長にはこう言っています、「私は、もしも私がそれを受けるのにふさわしいと思われたのならば、苦しみにおいてそれを自分の栄光としたい。それは教会の為に、教会が凱旋する事、これこそが私の栄光であって、私の喜びだ。これにおいて私は頭を上げる。もしも私が教会の苦しみにその一部を得ているのなら、私は公教会を慰める為にも何かしたい、私の母の為に働き苦しみたい」と書いています。教会、カトリック教会の為に、パレスティナの為に、或いはキリスト教の君主たちに向かって、大きな声で天主への愛を呼びかけました。十字軍を呼びかけました。
こうやって教会の為に、天主を愛する為に命を尽くした聖ベルナルドは、その秘密は、イエズス様への愛とマリア様への愛に生かされていた事でした。ある時聖ベルナルドはこう言っています、「私は、イエズス様が出ない言葉を聞くのはあまり面白くない。イエズス様の名前の出ない本を読んでも何の面白みもない。イエズス様のない会話が聞いても何の面白みもない。でもイエズス様がいるならば全ては意味があるし、意義がある。」
それからマリア様に対してはこう言っています、「マリア様の手を通さなければ、私たちは何も得る事ができない、というのが天主の御旨である。私たちがマリア様の手を通して全てを得る、という事が天主の御旨である。マリア様はちょうど『海の星』という意味に解釈できる。星は大きな大海原の上に光を出している。だけれども光を出したとしても、普通の松明が燃えるように、星はだからといって傷ついたり無くなったりしない。ちょうどマリア様も童貞女として御子イエズス様を、自分が傷つく事なく、私たちに世の光を与えてくれた。この空の星は、松明や普通の火が燃えると材木が無くなってしまったり燃え尽きてしまうけれども、星はそんな事がない、いつも光を変えずに輝いている。それと同じようにマリア様も、御子を私たちに与えて、その美しさは決して変わる事がない。ヤコブから出た栄光の星、私たち全てを照らす星、それがマリア様だ。」「もしも苦しい事があったら、もしも傲慢の顔が持ち上がってきたら、もしも野心が出て来たら、もしも憎しみがやって来たらマリア様を見よ、マリア様を呼べ。もしも怒りがやって来たら、もしも貪欲がやって来たらマリア様を呼べ。マリア様と一緒にいるならば私たちは決して道を間違えない」と。
では聖ベルナルドは私たちに何を現在仰るでしょうか?
おそらく聖ベルナルドは、「この世で一番大切なのは天主様への愛である。この世の地上の全てのものに勝るものが天主への愛である。残念ながら、今21世紀の人々が忘れ去っている、しかし最も大切なのは、天主への愛である。この天主への愛を得る為には、マリア様が必要だ。マリア様へのお祈りがあれば、マリア様を通してでなければ私たちはその愛を得る事ができない」と言うことでしょう。
私たちはそのベルナルドのその声を聞いて、マリア様に馳せ寄る事に致しましょう。私たちの天の母であるマリア様。それと同時に聖ベルナルドは、カトリック教会の事をおそらく非常に苦しんでご覧になっていると思います。教会の、私たちの母である教会がこのように苦しんでいるので、私たちに祈りの十字軍を起こすように、ロザリオの十字軍を起こすように、マリア様にお願いして、教会の為に私たちも、私たちに許された武器、「ロザリオと祈り」と「犠牲」を以て教会の為に戦いなさい、十字軍で戦いなさい、と招いておられます。
私たちは聖ベルナルドの声に今日はよく耳を澄まして、遷善の決心として、マリア様を通して天主への愛を受ける事、永遠の知恵イエズス・キリストへと辿り着く道を歩む事、それからロザリオの十字軍、祈りの十字軍に寛大になって、カトリック教会の為に祈りと犠牲を捧げる事を決心を致しましょう。
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。