アヴェ・マリア!
愛する兄弟姉妹の皆様、
今から330年前の1683年9月には、第二次ウィーン包囲戦がありました。
神聖ローマ帝国の首都であるウィーン、またオスマン帝国に対峙するキリスト教世界の東の要所としてのウィーンにおける攻防戦でした。以前はキリスト教の中心地の一つであったコンスタンチノープルはイスラムに攻撃され、1453年5月29日イスラムの手に落ちました。コンスタンチノープルはイスタンブールとなりトルコのオスマン帝国の首都となっていました。
1683年、オスマン帝国はイスタンブールを基地として、西方のキリスト教世界の首都に大攻撃を仕掛けました。
キリスト教世界を、異教徒らの攻撃から外部から守り、異端者らの攻撃から内部から守るという使命を持っていた神聖ローマ帝国皇帝は、その当時、ハプスブルク家の皇帝レオポルト一世でした。ウィーンは自分の住む居住地でもありました。
当時のフランス王ルイ十四世は、レオポルトよりも強くローマ皇帝を助けることができたのですが、そして教皇インノチェンテ十一世がルイ十四世に援助を求めていたのも関わらず、それを断ります。ウィーンは、ポーランドの王ヤン・ソビエスキによってきわめて劇的に救われたのでした。そしてウィーン市民たちが聖クララのアブラハム神父(Abraham a Santa Clara)に励まされて守ったのでした。エルンスト・リュディガー・フォン・シュターレンベルク(Ernst Rüdiger von Starhemberg)が、神聖ローマ皇帝レオポルト1世からウィーン防衛司令官に任じられていました。
オスマン帝国は、1672年6月にポーランドに攻撃をかけたとき、弱いミハウ・ヴィシニョヴィエツキがポーランド王でした。(二年後にヤン三世ソビエスキが王位に就きます。)オスマン帝国の大宰相カラ・ムスタファ(Kara Mustafa)は、ポーランドからウクライナを要求しましていました。軍司令官としてヤン・ソビエスキがウクライナに行きオスマン帝国と戦争し、教皇クレメンテ十世は他のカトリック君主たちにポーランドを助けるように要請しました(答えは無し)。1676年、ミハウの死後、ソビエスキが王に選ばれました。
1682年5月13日、オスマン帝国の第19代皇帝メフメト四世は、大宰相カラ・ムスタファにウィーンを占領するように命じて聖なる「予言者の旗」を渡しました。もしウィーンを手に入れれば、神聖ローマ帝国に対する勝利であり、その影響は計り知れないものがあります。7月13日にはオスマン帝国の大軍はウィーンに到着します。14日にはトルコの大砲がウィーンの城壁を攻撃し、26日にはウィーン市の道路でフォン・シュターレンベルクが戦いを交えています。8月初めには、ウィーンは完全に包囲されてしまいました。
神聖ローマ帝国皇帝レオポルトはソビエスキにウィーンを守ってほしいと要請すると、すぐに自分から軍を率いてワルシャワを出発しました。7月22日にウィーンの防衛は首都ワルシャワの安全よりも重大である、と書いています。ウィーンに向かって南に行進し、途中チェンストホーバで立ち寄り祈りを捧げました。8月15日クラクフを発ったソビエスキは、オーストリアやドイツの諸侯と、ドナウ河のトゥルン(Tulln an der Donau)で集合することにしていました。8月23日、ソビエスキは教皇に最期まで戦うと書き送りました。8月末になるとウィーンの城壁内では食べ物が底をついていました。
8月26日、オスマン・トルコはウィーンの降伏を要求しますが、フォン・シュターレンベルクはこれをあくまでも拒否します。強い雨が降り続け、オスマン帝国の攻撃は鈍っていました。9月の最初、フォン・シュターレンベルクは、ウィーンの城壁はもはや長くは持ちこたえられない、と書いています。9月4日、トルコ軍はウィーン城壁を火薬で爆破し始めます。ソビエスキ率いるポーランド軍は14日間で350キロを行進しました。9月6日、ポーランド軍はトゥルンでオーストリア皇帝軍と合流しています。
オスマン軍はウィーンの突破口を開きつつありました。守備軍は必死に抵抗し、ウィーンは辛うじて守られていただけでした。オスマントルコ軍は大宰相カラ・ムスタファにウィーンの防御は「絶望的である」と報告します。しかし、フォン・シュターレンベルクもソビエスキも、そうは考えませんでした。ウィーンの城壁内からは聖シュテファン・ドム(聖ステファノ司教座大聖堂)の高い塔から劇的な様子を見守っていました。それと同時にソビエスキはウィーンの郊外カーレンベルク(Kahlenberg)の丘からウィーンの町並みとウィーンを包囲するオスマン軍の様子を見渡していました。
ヤン3世ソビエスキのポーランド軍と、オイゲン・フォン・ザヴォイエン(Eugen Franz von Savoyen-Carignan、プリンツ・オイゲン(Prinz Eugen))の率いるオーストリア軍らは、偵察によりオスマン軍の情報を得て、オスマン軍は数の上で連合軍を上回っているけれども、オスマン軍の一部のタタール軍などはカラ・ムスタファに対して非協力的なこと、カラ・ムスタファの指揮が不統一であること、士気が弛緩していること、防備体制が弱体であることなどを見抜き、9月12日朝6時5分、総攻撃をかけました。連合軍による攻撃の開始は、9月13日が予定されていたのですが、ソビエスキが9月12日に連合軍に総攻撃を命じたのです。
総攻撃の前、カーレンベルクの丘でソビエスキと指揮官たちはミサにあずかっていました。このミサ聖祭は教皇特使である、カプチン会司祭マルコ・ダヴィアノ神父によって捧げられました。ソビエスキ自身がこのミサで侍者をしました。攻撃の前、ソビエスキはチェンストホーバの聖母に熱心な祈りを捧げました。
この記念として、後にこの場に教会が立てられました。
聖母の聖誕(9月8日)の八日間内の主日であった9月12日、この決定的な日にトルコ軍には9万の兵士が、キリスト教軍には7万の兵士が戦いました。夕方6時頃にソビエスキの指揮する2万名からなる重装騎兵がウィーンの丘を駆け下り、ポーランドの有名な有翼重装騎兵がオスマン軍を大混乱に陥れました。偵察によってカラ・ムスタファの本営の位置を突き止めていたソビエスキは、オスマン軍に対して中央突破します。オスマントルコ軍司令部は混乱に陥れられ、1時間ほどの戦闘によって、カラ・ムスタファの軍は散り散りになり、戦場に1万5千の兵士を見捨てたまま潰走しました。キリスト教軍は1500名が戦場で失われました。カラ・ムスタファは着の身着のまま馬を一頭もって逃げ、その他の所持品などは陣地に残されたままでした。(戦いの後、ウィーンの市民たちはオスマン軍の残していったコーヒー豆の袋を大量に見つけ、ポーランド王ヤン三世の将校フランチシェク・クルチツキ(Franciszek Jerzy Kulczycki)がウィーンで最初の珈琲のお店を開いたとのことです。彼がそのコーヒーに牛乳を入れてのみ、マルコ・ダヴィアノ神父を記念してカプチーノと名前がつけられたそうです。ウィーンにはフランチシェク・クルチツキにちなんだ"コルシツキー通り"(Kolschitzky gasse)という道路があるそうです。)
ソビエスキは、ユリウス・カエサルの有名な言葉(Veni, vidi, vici)をもじって、この大勝利を教皇にこう報告しています。Venimus, vidimus, Deus vicit. 私たちはやって来た、私たちは見た、天主は勝利した、と。
夕暮れで暗くなったために追撃は早々に打ち切られたため、カラ・ムスタファは無事に逃げ延びることができたのですが、逃亡したイスラム軍は、10月9日ソビエスキによってハンガリーのパルカニの戦いによって壊滅させられました。
戦いに負けたカラ・ムスタファは、1683年12月25日、責任を問われてベルグラードで死刑に処されました。
Von diesen Anhöhen zogen am Morgen des 12. September 1683 Johann III Sobietzki, König v. Polen, der kaiserliche General Lieutenant Herzog Carl v. Lothringen, die Churfürsten Johann Georg III v. Sachsen und Max Emanuel v. Bayern, Fürst Georg Friedrich v. Waldeck, die Markgrafen Hermann und Ludwig Wilhelm v. Baden und andere Heerführer mit den Truppen des Kaisers Leopold I. sowie mit deutschen und polnischen Hilfsvölkern in den Kampf zur Befreiung der von der türkischen Kriegsmacht durch ein und sechzigtagige Belagerung schwer bedrängten Stadt Wien. In dankbarer Erinnerung an den ruhmvollen Sieg des Entsatzheeres die Stadt Wien: 12. September 1883.
チェンストホーバの聖母マリアに熱心に祈って戦いに臨んだこのソビエスキは、この勝利によりイスラム教オスマン帝国の侵略からキリスト教世界を守ったのです。キリスト教連合軍の総指揮官であるポーランド王ヤン三世ソビエスキは、世界史において最も決定的な戦いに勝利を収めたのでした。これをもってオスマントルコはヨーロッパの侵略を中断します。ヨーロッパ中の王たちは、ソビエスキに祝福の言葉を贈り、ポーランド王とその軍隊は、キリスト教世界の守護者として賞賛を浴びました。(ただ、残念ながら、オーストリアは十八世紀にはポーランドを侵略します。)チェンストホーバの聖母マリア様のおかげで、ソビエスキのおかげで、今でもその昔と同じように、ウィーンには聖ステファノ大聖堂の高い塔が立ち続けています。
福者インノチェンテ十一世は、ソビエスキがこの戦いにおける保護をチェンストホーバの聖母マリアに委ねていたので、このウィーンでの勝利を記念して9月12日を聖母マリアの聖名の祝日として制定しました。
Concede, quaesumus, omnipotens Deus:
ut fideles tui, qui sub sanctissimae Virginis Mariae Nomine et protectione laetantur; eius pia intercessione a cunctis malis liberentur in terris, et ad gaudia aeterna pervenire mereantur in coelis. Per Dominum nostrum Jesum Christum, Filium tuum, qui tecum vivat et regnat in unitate Spiritus Sancti, Deus, per omnia saecula saeculorum. Amen.
全能の天主よ、願わくは、至聖なる童貞マリアの名前と保護とのもとにおいて喜ぶ御身の信者らが、聖母マリアの優しき取り次ぎにより、この世においては全ての悪から解放され、天においては永遠の喜びにたどり着くにふさわしい者とならんことを。
チェンストホーバの聖母マリアよ、我らのために祈り給え!
チェンストホーバの聖母マリアよ、我らを守り給え!
チェンストホーバの聖母マリアよ、我らを憐れみ給え!
西方キリスト教世界を救ったチェンストホーバの聖母マリアに感謝!
ソビエスキに感謝!ポーランド軍に感謝!
愛する兄弟姉妹の皆様の上に天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)
明日9月13日から大阪で聖伝のミサがあります。
9月15日には東京で主日のミサ聖祭があります。
愛する兄弟姉妹の皆様、
今から330年前の1683年9月には、第二次ウィーン包囲戦がありました。
神聖ローマ帝国の首都であるウィーン、またオスマン帝国に対峙するキリスト教世界の東の要所としてのウィーンにおける攻防戦でした。以前はキリスト教の中心地の一つであったコンスタンチノープルはイスラムに攻撃され、1453年5月29日イスラムの手に落ちました。コンスタンチノープルはイスタンブールとなりトルコのオスマン帝国の首都となっていました。
1683年、オスマン帝国はイスタンブールを基地として、西方のキリスト教世界の首都に大攻撃を仕掛けました。
キリスト教世界を、異教徒らの攻撃から外部から守り、異端者らの攻撃から内部から守るという使命を持っていた神聖ローマ帝国皇帝は、その当時、ハプスブルク家の皇帝レオポルト一世でした。ウィーンは自分の住む居住地でもありました。
当時のフランス王ルイ十四世は、レオポルトよりも強くローマ皇帝を助けることができたのですが、そして教皇インノチェンテ十一世がルイ十四世に援助を求めていたのも関わらず、それを断ります。ウィーンは、ポーランドの王ヤン・ソビエスキによってきわめて劇的に救われたのでした。そしてウィーン市民たちが聖クララのアブラハム神父(Abraham a Santa Clara)に励まされて守ったのでした。エルンスト・リュディガー・フォン・シュターレンベルク(Ernst Rüdiger von Starhemberg)が、神聖ローマ皇帝レオポルト1世からウィーン防衛司令官に任じられていました。
オスマン帝国は、1672年6月にポーランドに攻撃をかけたとき、弱いミハウ・ヴィシニョヴィエツキがポーランド王でした。(二年後にヤン三世ソビエスキが王位に就きます。)オスマン帝国の大宰相カラ・ムスタファ(Kara Mustafa)は、ポーランドからウクライナを要求しましていました。軍司令官としてヤン・ソビエスキがウクライナに行きオスマン帝国と戦争し、教皇クレメンテ十世は他のカトリック君主たちにポーランドを助けるように要請しました(答えは無し)。1676年、ミハウの死後、ソビエスキが王に選ばれました。
1682年5月13日、オスマン帝国の第19代皇帝メフメト四世は、大宰相カラ・ムスタファにウィーンを占領するように命じて聖なる「予言者の旗」を渡しました。もしウィーンを手に入れれば、神聖ローマ帝国に対する勝利であり、その影響は計り知れないものがあります。7月13日にはオスマン帝国の大軍はウィーンに到着します。14日にはトルコの大砲がウィーンの城壁を攻撃し、26日にはウィーン市の道路でフォン・シュターレンベルクが戦いを交えています。8月初めには、ウィーンは完全に包囲されてしまいました。
神聖ローマ帝国皇帝レオポルトはソビエスキにウィーンを守ってほしいと要請すると、すぐに自分から軍を率いてワルシャワを出発しました。7月22日にウィーンの防衛は首都ワルシャワの安全よりも重大である、と書いています。ウィーンに向かって南に行進し、途中チェンストホーバで立ち寄り祈りを捧げました。8月15日クラクフを発ったソビエスキは、オーストリアやドイツの諸侯と、ドナウ河のトゥルン(Tulln an der Donau)で集合することにしていました。8月23日、ソビエスキは教皇に最期まで戦うと書き送りました。8月末になるとウィーンの城壁内では食べ物が底をついていました。
8月26日、オスマン・トルコはウィーンの降伏を要求しますが、フォン・シュターレンベルクはこれをあくまでも拒否します。強い雨が降り続け、オスマン帝国の攻撃は鈍っていました。9月の最初、フォン・シュターレンベルクは、ウィーンの城壁はもはや長くは持ちこたえられない、と書いています。9月4日、トルコ軍はウィーン城壁を火薬で爆破し始めます。ソビエスキ率いるポーランド軍は14日間で350キロを行進しました。9月6日、ポーランド軍はトゥルンでオーストリア皇帝軍と合流しています。
オスマン軍はウィーンの突破口を開きつつありました。守備軍は必死に抵抗し、ウィーンは辛うじて守られていただけでした。オスマントルコ軍は大宰相カラ・ムスタファにウィーンの防御は「絶望的である」と報告します。しかし、フォン・シュターレンベルクもソビエスキも、そうは考えませんでした。ウィーンの城壁内からは聖シュテファン・ドム(聖ステファノ司教座大聖堂)の高い塔から劇的な様子を見守っていました。それと同時にソビエスキはウィーンの郊外カーレンベルク(Kahlenberg)の丘からウィーンの町並みとウィーンを包囲するオスマン軍の様子を見渡していました。
ヤン3世ソビエスキのポーランド軍と、オイゲン・フォン・ザヴォイエン(Eugen Franz von Savoyen-Carignan、プリンツ・オイゲン(Prinz Eugen))の率いるオーストリア軍らは、偵察によりオスマン軍の情報を得て、オスマン軍は数の上で連合軍を上回っているけれども、オスマン軍の一部のタタール軍などはカラ・ムスタファに対して非協力的なこと、カラ・ムスタファの指揮が不統一であること、士気が弛緩していること、防備体制が弱体であることなどを見抜き、9月12日朝6時5分、総攻撃をかけました。連合軍による攻撃の開始は、9月13日が予定されていたのですが、ソビエスキが9月12日に連合軍に総攻撃を命じたのです。
総攻撃の前、カーレンベルクの丘でソビエスキと指揮官たちはミサにあずかっていました。このミサ聖祭は教皇特使である、カプチン会司祭マルコ・ダヴィアノ神父によって捧げられました。ソビエスキ自身がこのミサで侍者をしました。攻撃の前、ソビエスキはチェンストホーバの聖母に熱心な祈りを捧げました。
この記念として、後にこの場に教会が立てられました。
聖母の聖誕(9月8日)の八日間内の主日であった9月12日、この決定的な日にトルコ軍には9万の兵士が、キリスト教軍には7万の兵士が戦いました。夕方6時頃にソビエスキの指揮する2万名からなる重装騎兵がウィーンの丘を駆け下り、ポーランドの有名な有翼重装騎兵がオスマン軍を大混乱に陥れました。偵察によってカラ・ムスタファの本営の位置を突き止めていたソビエスキは、オスマン軍に対して中央突破します。オスマントルコ軍司令部は混乱に陥れられ、1時間ほどの戦闘によって、カラ・ムスタファの軍は散り散りになり、戦場に1万5千の兵士を見捨てたまま潰走しました。キリスト教軍は1500名が戦場で失われました。カラ・ムスタファは着の身着のまま馬を一頭もって逃げ、その他の所持品などは陣地に残されたままでした。(戦いの後、ウィーンの市民たちはオスマン軍の残していったコーヒー豆の袋を大量に見つけ、ポーランド王ヤン三世の将校フランチシェク・クルチツキ(Franciszek Jerzy Kulczycki)がウィーンで最初の珈琲のお店を開いたとのことです。彼がそのコーヒーに牛乳を入れてのみ、マルコ・ダヴィアノ神父を記念してカプチーノと名前がつけられたそうです。ウィーンにはフランチシェク・クルチツキにちなんだ"コルシツキー通り"(Kolschitzky gasse)という道路があるそうです。)
ソビエスキは、ユリウス・カエサルの有名な言葉(Veni, vidi, vici)をもじって、この大勝利を教皇にこう報告しています。Venimus, vidimus, Deus vicit. 私たちはやって来た、私たちは見た、天主は勝利した、と。
夕暮れで暗くなったために追撃は早々に打ち切られたため、カラ・ムスタファは無事に逃げ延びることができたのですが、逃亡したイスラム軍は、10月9日ソビエスキによってハンガリーのパルカニの戦いによって壊滅させられました。
戦いに負けたカラ・ムスタファは、1683年12月25日、責任を問われてベルグラードで死刑に処されました。
Von diesen Anhöhen zogen am Morgen des 12. September 1683 Johann III Sobietzki, König v. Polen, der kaiserliche General Lieutenant Herzog Carl v. Lothringen, die Churfürsten Johann Georg III v. Sachsen und Max Emanuel v. Bayern, Fürst Georg Friedrich v. Waldeck, die Markgrafen Hermann und Ludwig Wilhelm v. Baden und andere Heerführer mit den Truppen des Kaisers Leopold I. sowie mit deutschen und polnischen Hilfsvölkern in den Kampf zur Befreiung der von der türkischen Kriegsmacht durch ein und sechzigtagige Belagerung schwer bedrängten Stadt Wien. In dankbarer Erinnerung an den ruhmvollen Sieg des Entsatzheeres die Stadt Wien: 12. September 1883.
チェンストホーバの聖母マリアに熱心に祈って戦いに臨んだこのソビエスキは、この勝利によりイスラム教オスマン帝国の侵略からキリスト教世界を守ったのです。キリスト教連合軍の総指揮官であるポーランド王ヤン三世ソビエスキは、世界史において最も決定的な戦いに勝利を収めたのでした。これをもってオスマントルコはヨーロッパの侵略を中断します。ヨーロッパ中の王たちは、ソビエスキに祝福の言葉を贈り、ポーランド王とその軍隊は、キリスト教世界の守護者として賞賛を浴びました。(ただ、残念ながら、オーストリアは十八世紀にはポーランドを侵略します。)チェンストホーバの聖母マリア様のおかげで、ソビエスキのおかげで、今でもその昔と同じように、ウィーンには聖ステファノ大聖堂の高い塔が立ち続けています。
福者インノチェンテ十一世は、ソビエスキがこの戦いにおける保護をチェンストホーバの聖母マリアに委ねていたので、このウィーンでの勝利を記念して9月12日を聖母マリアの聖名の祝日として制定しました。
Concede, quaesumus, omnipotens Deus:
ut fideles tui, qui sub sanctissimae Virginis Mariae Nomine et protectione laetantur; eius pia intercessione a cunctis malis liberentur in terris, et ad gaudia aeterna pervenire mereantur in coelis. Per Dominum nostrum Jesum Christum, Filium tuum, qui tecum vivat et regnat in unitate Spiritus Sancti, Deus, per omnia saecula saeculorum. Amen.
全能の天主よ、願わくは、至聖なる童貞マリアの名前と保護とのもとにおいて喜ぶ御身の信者らが、聖母マリアの優しき取り次ぎにより、この世においては全ての悪から解放され、天においては永遠の喜びにたどり着くにふさわしい者とならんことを。
チェンストホーバの聖母マリアよ、我らのために祈り給え!
チェンストホーバの聖母マリアよ、我らを守り給え!
チェンストホーバの聖母マリアよ、我らを憐れみ給え!
西方キリスト教世界を救ったチェンストホーバの聖母マリアに感謝!
ソビエスキに感謝!ポーランド軍に感謝!
愛する兄弟姉妹の皆様の上に天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)
明日9月13日から大阪で聖伝のミサがあります。
9月15日には東京で主日のミサ聖祭があります。