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マルレ司教様による霊的講話【東京】・・・ルフェーブル大司教様のローマに対する態度について

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アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

2016年9月11日(主日)にティシエ・ド・マルレ司教様が東京で堅振の秘蹟を授けてくださり、主日のミサを捧げてくださいました。
その後の霊的講話をご紹介いたします。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

2016年9月11日(主日)ティシエ・ド・マルレ司教様霊的講話
同時通訳:小野田圭志神父
愛する信徒の皆様、

今回は、ルフェーブル大司教様のローマに対する態度についてお話ししたいと思います。

このお話しは、3つの部分に分かれています。

第一は、ルフェーブル大司教様がローマに対して持っていた原理について、つまり、ローマに対する尊敬と愛についてお話しします。
第二に、その原理に従って、ルフェーブル大司教様がローマに対してどのような行動をとられたかをお話しします。
第三に、ルフェーブル大司教様がもしも今生きておられたら、現在、ローマに対してどのような行動を取られるだろうか、についてです。

では、ルフェーブル大司教様は、ローマに対してどのような原理をもっていたのでしょうか。

ルフェーブル大司教様は神学生である私たちにこう教えて下さいました。私はその当時神学生でした。「教会は、カトリック教会は、イエズス・キリストである。何故ならば教会は、イエズス・キリストの神秘体であるから」と。「私たちが救われる為に、救霊の為には、イエズス・キリストの神秘体に属していなければならない。従って、救われる為には私たちは、カトリック教会に所属してなければならない。」

ピオ十二世教皇様は2回、「ローマカトリック教会こそがキリストの神秘体である」とはっきり教えてくれました。ですから教会はカトリック教会は、聖なる救いの宝庫、宝を持っています。その他の宗教はどのようなものであれ、その他の「キリスト教」と言われる名前が付いた教派がどのようなものであれ、救われる事はできません。

ルフェーブル大司教様は半分冗談を言うような感じで、「天国には、仏教徒もいなければ、ヒンドゥー教徒もいなければ、イスラム教徒もいなければ、プロテスタントもいない。天国にいるのはカトリックだけだ。もしもヒンドゥー、或いは仏教徒が天国にいたとしたら、それはカトリックに回心したからだ。」

これは明確です。何故ならばイエズス様は、「私は門である」と仰いました。「私を通らずには、誰も父のもとに行く事はできない。」イエズス様は仰いました、「私は道であり、真理であり、命である。」カトリック教会こそが、イエズス・キリスト様の神秘体です。イエズス・キリスト様は2つも3つも体を持っていません。では現代の神学者たちの言うには、「もしかしたらイエズス様は、体を3つ4つ持ってるかもしれない」と言っていますけれども、それはできません。

第2に、このキリストの神秘体は「永遠のローマ」です。何故かというとローマには、聖ペトロの後継者がいるので、教皇様がいるので、ローマこそがキリスト教の神秘体の中心地です。それが例え悪い教皇様であったとしても、例えばヨハネ二十三世とかパウロ六世とかであったとしても、教皇様です。ルフェーブル大司教様は言いました、私たちに言いました、「私たちの個人的な考えではなくて、教会が考える事を考えよう。」ルフェーブル大司教様が私たちにいつも教えて下さった事は、「私は、教会が考えるように考えたいと思っている」という事です。「私は自分の個人的な考えや、自分だけの考えで行動するようには決して望みませんでした。」

約100年前、ルフェーブル大司教様は若い神学生、ローマの神学生でした。ルフェーブル大司教様は神学生である私たちに、「ローマでは、私たちは信仰の学校に学んだ」と言っていました。「もしもローマに数年、誰かが住みながら、信仰の事を理解できなかったとしたら、これは時間の無駄だ」と。その当時のローマでは、典礼、或いはその生活それ自体、聖ペトロ大聖堂での素晴らしい荘厳な典礼儀式などは、「信仰の学校」でした。ルフェーブル大司教様は言いました、「私はローマで、幼きイエズスの聖テレジアの列聖式に与かった。聖ヨハネ・ビアンネー、アルスの聖司祭の列聖式に与かった。この美しい儀式によって、私たちはあたかも天国に運ばれてしまったかのようだった。この列聖式などはまさに、カトリックの信仰の宣言だった。つまり聖三位一体に対する信仰宣言だった。天主を讃美し、そして諸聖人を讃美する、生ける教会のその有様だった。」

第3の点は、この、「このような全てにおいて、私たちはローマで、教皇様を愛する事を学んだ。この当時、教皇様たちは本当にカトリック的な教皇様でした。例えば幼きイエズスの聖テレジアを列聖した、そしてアルスの聖司祭を列聖したピオ11世紀教皇様。私たちは教皇様を崇敬していました。教皇様は私たちローマの神学生たちを、ご自分の謁見に招いて下さり、私たちに直接お話下さいました。教皇様は私たちに、『ローマ的であって下さい。ローマを愛して下さい』と仰って下さいました。」

「ローマでは、教皇様だけでなく枢機卿様たち、重要な枢機卿様たちともコンタクトがありました。例えば聖ペトロ大聖堂で、聖ピオ十世教皇様の以前の国務長官であったメリデルバル枢機卿様が荘厳な司教ミサを捧げておられ、この信心深い様子、この敬虔な様子に心を打たれました。この高い身分の枢機卿様たちからは、信仰の息を吸っていました。」

ルフェーブル大司教様は神学生である私たちに言葉を続けて、「私はこの同じ精神において、聖ピオ十世会を創立したのです」と教えてくれました。ルフェーブル大司教様は言葉を続けて、「聖ピオ十世会を創立したのは、教皇様に反対する為だとか、第二バチカン公会議に反対する為だとかでは決してありません」と言いました。「聖ピオ十世会を創立したのは、カトリック教会の精神に従って、聖なる司祭を養成する為です」と教えてくれました。「私はただ単に、聖なるカトリック教会の聖伝に従って、信仰のある、教義をよく知っている司祭を養成したい、それを養成する、という事だけを目的としていました」と。

ですから、ルフェーブル大司教様は私たちに教えて下さったのは、「聖ピオ十世会の歴史において1970年11月1日という日付は非常に大切な日付です」と。何故かというと、この日付でフリブールの司教様であるシャリエール司教様が、教会の名前によって聖ピオ十世会を認可して下さったからです。私はその時の事をよく覚えています。私は神学生でフリブールに居て、フリブール大学で講義を受けて、そして講義から帰って着く時に、ルフェーブル大司教様は私たちを玄関で迎えて下さいました。

ルフェーブル大司教様はシャリエール司教様がサインをして、シールを許可のハンコを付けた、この公式の認可の文書を見せて下さって、「さぁ、認可の手紙がここにあるよ」と見せてくれたのを今でも覚えています。そして「これが私たちの出産証明書です」と言ってくれました。「教会における誕生の証明だ」と。

大司教様は、「私は、この当地の司教様の許可なく何事1つもしようとは思いません」と言いました。何故ならば教会の事業、教会の業をしなければならないからです。しかし必要に迫られて、避ける事ができずに、ルフェーブル大司教様はパウロ六世と衝突しなければなりませんでした。私は覚えています、1969年待降節の第1主日の前日、ルフェーブル大司教様は私たち9名の神学生たちを集めてこう言いました、「明日、新しいミサがどこかしこでも捧げられるだろう」と。ルフェーブル司教様は私たち神学生に質問しました、小さな声で、「私たちは一体、どうしたらいいだろうか?」と。そしてその自分の出した質問に自分で答えて、やはり小さな声で、「古いミサを、やり続けますよね?」と答えました。

親愛なる信徒のみなさん、この決定は歴史的な事実でした。何故かというと、最初に新しいミサを、この神学生たちと共に神学校全てで、新しいミサを拒否したからです。それも本当に小さな優しい声で拒否しました。ルフェーブル大司教様は強かったのですけれども、柔和でもありました。

新しいミサを受け入れなかったので、ルフェーブル大司教様はすぐに迫害を受けました。ルフェーブル大司教様は私たちに言いました、「このような迫害が来るという事は知っていました。教皇様と衝突するという事は望まなかったけれども、必要に迫られてこうなってしまった」と。そこで国務長官であったヴィヨ枢機卿はフランス人だったので、フランス人の同僚の司教たちに言って、聖ピオ十世会の廃止を要求しました。そしてパウロ六世は、2人の視察官をエコンの神学校に送って、エコンを視察させました。

この訪問の視察官たちは、私たち神学生に質問しました、尋ねたのです。例えばこんな質問です、「イエズス・キリストの復活というのは、歴史的な事実だろうか?そうではないだろうか?」私たちは、「もちろんそうです!イエズス様は亡くなっていた、死んでいたにもかかわらず、復活されたからです。」しかしこの視察者たちは答えました、「う~ん、そうではなくて、そんなにはっきりしていない。」

また他の質問をしました、「おぉ、君、真理とは一体何だろう?真理とはここにあるのか?それともこのここら辺にあるのだろうか?」私たちは答えました、「真理とはここにあります!真理。1つの真理。」するとその人たちは、「おぉ、そんなにはっきりしていない。」

この視察官は私たちに尋ねました、「司祭は結婚するべきだろうか?する事ができるだろうか?」私たちは、「いいえ、できません!」すると、「そんなにはっきりしていない。司祭が結婚する日が来るかもしれない。」ローマ教皇庁から派遣された視察官が、こんな事を私たちに言ったのです。

ルフェーブル大司教様はそれを聞いて、非常に驚きました。これはスキャンダラスな事で、憤りました。ルフェーブル大司教様はローマに行って、「このようなおかしい視察官が送られてきた」という事を報告しました。そしてそのおそらく私の思うには、聖霊の息吹によってインスピレーションによってだと思うのですけれども、ローマに着いたら1枚の紙に、信仰宣言を一気に書きました。その中でルフェーブル大司教様は2つのローマについて描写しています。その中でルフェーブル大司教様は、「私たちは全身全霊を込めて、永遠のローマ、真理と知恵の教師であるローマに愛着し、それを支持し、それに密着する。」言葉を続けて、「私は、新しい近代主義の、そして新しいプロテスタント主義への傾向を持っている新しいローマは拒否し、それをいつも拒否してきた」と書きました。「第二バチカン公会議後の改革は、異端から来て、私たちをして異端へと導くものである」とさえも言いました。なんと厳しい言葉だったでしょうか。おぉ!ルフェーブル大司教様はその結論に、「反乱するわけでは全くなく、苦々しい考えも全くなく、ただ単に、カトリック教会の聖伝の教えをそのまま保ち続けます」と言いました。

ルフェーブル大司教様がローマから帰って来て、そして私たち神学生の前でその自分の書いた文書をお読みになった時、それを聞いていた神学生たちは皆拍手しました。しかしパウロ六世教皇様はこれを聞いて嬉しく思いませんでした。そこで聖ピオ十世会の廃止を望みました。

そうこうしたうちに、1975年5月6日、シャリエール司教様の後継者であるフリブールの司教様が、「聖ピオ十世会の創立のその認可を撤回する」という文書を書きました。ヴィヨ枢機卿はすぐにルフェーブル大司教様に手紙を書いて、「さぁ神学校を閉じて、その神学校を皆ローマ教皇庁に譲りなさい」と命令しました。その時私たちの置かれた状況は非常に悲劇的でした。個人的に、私は決してルフェーブル大司教様への信頼心を失いませんでした。ルフェーブル大司教様はそのような通知をもらってすぐに、神学生である私たちにこう言ってくれました、「この廃止は不合法であって、不正義である」と。「もしも私がそのようにそれに従ってするならば、私は教会の自己破壊に協力する事になる。もしも神学校のドアを閉じてしまうならば、教会の自己破壊に協力する事になる。」そして第二バチカン公会議と、パウロ六世のその当時教えていた事を批判しました。「私たちはカトリック教会の教導職に密着して、それに愛着して、それを信じて、それを支持しているけれども、教導職、教導権というのは、『過去から繋がる継続』なのである。本当の教導権であるという為には、本当の教導職という為には、『過去からの継続された教え』でなければならない。つまり『過去の教会がずっと教えてきた事と、今の教えている事が対立しているようであっては、これは教導職ではない。』」

聖パウロの言葉を引用して、ガラツィア人への手紙の中にこう言っているのを引用しました、「たとえそれが天からの天使であったとしても、私たちがあなた達に伝えた福音とは違う、新しい福音を述べ伝えるならば、彼は排斥されよ。」(ガラツィア人への手紙第1章8節)

そして、「第二バチカン公会議の中のいくつかの教えの中には、カトリック教会が過去教えていた事に対立しているもの、反対しているものがある」と指摘しました。

この理由で私たちは迫害を受けています。何故かというと、教会の過去ずっと教えてきた事、常なる教導職に私たちは忠実に留まったからです。

その当時、カトリックの人々は非常に混乱して、色んな事を考える人がいました。ある人は、「あぁ、今の教皇様はそんなにおかしくなってしまっているから、これは教皇様ではない」とさえ言う人もいました。そのような人によれば、「ですから聖座は今、空位だ」と。その為に「聖座空位主義者」という言葉が出ましたが、それはこのような人たちを指しています。またあるカトリックの人々は、「あぁ、教皇様は不可謬だから、教皇様のやる事は何でもかんでもどんな事でも私たちは従うべきだ」と言いました。

ルフェーブル大司教様は、「そうではなくてこっちもあっちも間違っている」と言いました。「私たちは教皇様を尊敬しますが、しかしその教皇様が、私たちに間違った事をしている時には、それには従う事ができない」と教えました。これがルフェーブル大司教様の教えです。間違った命令に従うのは、間違った悪い従順です。

ルフェーブル大司教様は私たち神学生たちの為に、ピオ十二世教皇様が書いた回勅の一節を読んで下さいました。これは回勅「“Mistyci Corporis” 教会について」の一節でした。教皇様の言うには、「時々、教会は私たちの持っている人間の弱い条件を、私たちに見せつける事がある。そのような弱さは、教会の創立の制定から来るものではない。そうではなく、その弱さは、その構成員の弱さから来るものであって、その構成員は教会の最も高い地位にある人をも含む」と言いました。「これも有り得る。それは、牧者とそしてその羊の忍耐と、信仰を試す試練を与える為に、それも、そのような弱さがそのような高い地位から起こる事、由来する事も有り得る」とさえピオ十二世教皇様は書かれました。「天主様の御摂理によって、私たち、つまり牧者や羊たちの徳を試す試練を与える為に、そのような事が起こる事を許す」と書いています。

ルフェーブル大司教様はこの一節をお読みになって、「これは本当に予言的だ」と仰いました。「私たちの時代の為に書かれている」と。「つまりこれによって、私たちが忍耐と信仰の徳を実践する事ができるように、御摂理はこれが起こるのを許したのだ」と。

以上が、ルフェーブル大司教様がローマに対して持っていた尊敬と愛の面です。

ではその結果、ルフェーブル大司教様はローマに対してどのような行動をとられたでしょうか?

ルフェーブル大司教様は、こう私たちに聞かれました、「では、私たちはローマとの繋がりを切ってしまうべきだろうか?それとも切らないで保つべきだろうか?」と。ルフェーブル大司教様は言いました、「いや、私は決してローマとの繋がりを切ってしまおうとは、その橋を切って壊してしまおうとは思わない、望まない。私はローマに行って、ローマの人々とローマの聖職者と語りかける事を望む、続ける。私は、教皇様に反対するような、或いはローマに反対するような侮辱の態度をとる事を受け入れない。教皇聖下に対して、軽蔑するような言葉を私が言ったりとか、或いはとても傲慢でローマを侮辱するような態度とったという事で、誰も私の事を非難できる人はいない」と。「私はローマに行って、ローマの人々と話をする」と。

「はい、」ルフェーブル大司教様は言いました、「色々な私を批判するパンフレットとか、印刷物が出回っていて、私は“裏切り者だ”、私は“悪魔と対話をしている”、“敵と対話をしている”と言って私を攻撃する印刷物が出回っています。しかし、いいえ違います、私は裏切り者ではありません。私はローマに、『私たちを自由にして下さい、私たちを邪魔しないで下さい』とお願いしているだけです。私はパウロ六世教皇様にこうお願いしました、『聖伝の実験を致しましょう。』」

何故かというとその当時、私たちのその当時いた時代では、色んな“典礼の実験”という事で、自由に何でもかんでもやってもよかったからです。ですから、「もしも色んな事が許されるなら、一体何故、聖伝の実験はできないのか」と、ただ提案したのです。つまり「本当のミサと、本当のカテキズムと、本当の秘跡の実験」です。

こういう事によって、ルフェーブル大司教様は私たち神学生に、どのような態度をお取りになっているか、という事を理解させてくれました。そして教会の中にある「2つの陣営」について教えてくれました。

1つは、「色々な聖職者たちがいる、教皇様の指導のもとにいるローマ」です。このローマ当局は確かに、近代主義の影響と自由主義の影響を受けていますけれども、リベラルな影響受けていますけれども、しかし当局は当局で権威を持っています。確かに過去の教会がいつも、「これは、これはいけない。こうではない」と言っていた原理を、その教会が排斥してきたその原理に従って、彼らはいますが、しかしそれにもかかわらず彼らは権威を持っています。

その一方で、良い原理に、昔からの教会の教えの原理に従う、エコンの神学校があり、聖ピオ十世会があり、聖伝を守っているその家族があります。もしも教会の中に、その近代主義とその過去の原理との対立があったとしたら、その分裂があったとしても、私たちがその分裂を起こした責任者ではありません。私たちは何をするべきでしょうか?

ルフェーブル大司教様は私たちに聞きました、「私は一体どうしたら良いのだろうか?」と。「私たちは、信仰の拠点であり、城砦であるような修道院の中にいて閉じこもっていて、ローマとは一切関係を断つべきだろうか?象牙の塔の中に閉じこもるべきだろうか?」「いえ、」と言いました。「私はローマの人々と話し合いをする。私は教会の中の悲惨な状況を制限したい。このリベラルな人たちを何とか説得したい。この指を置いて、教会の危機がどこにあるかを、こう一つ一つ指摘したい。彼らを説得して少なくとも、『私たちを邪魔しない、私たちを黙認してくれるように』お願いしたい。もしも少なくとも、教会で私たちが黙認されたら、それは何と素晴らしい事だろうか」と。「何故なら、私たちは私たちの戦いを、信仰を守る戦いを大きく広げる事ができるからだ。全世界に向かってやる事ができるからだ。そして、私たちを絶滅させてしまうという事ができない、という事が、彼らは理解できるだろうから」と。

ルフェーブル大司教様は言いました、「少なくとも、私たちが黙認されるような解決に到達する事を望む、期待している。もしもそれができたら、極めて大きな第1歩が踏める。もしもそうなったら、多くの司祭たちが本当のミサに戻るだろうし、本当の教えに戻るだろう。多くの信徒たちも聖伝に戻る事ができるだろう。ローマの当局に行って、『私たちを迫害をもうしないように』とお願いする、お願いしたい」と言いました。

今の状況においても、この態度は非常に興味深い態度です。

そうこうするうちに、ルフェーブル大司教様の年齢も進み、新しい聖伝の司教様を聖別する必要性がやってきました。神学生たちを叙階し、そして聖伝による堅振を授ける司教様が必要です。この話題について、ローマと話し合いがまた始まりました。ルフェーブル大司教様が亡くなってしまった時の為に、その後継者が必要である、という事をローマの人々に説得し、納得してもらわなければなりません。

ルフェーブル大司教様とラッツィンガー枢機卿様は、実際的に司教様を聖別するか、しないか、或いは、という事について話し合いが始まって、これが1987年の春の事でした。ルフェーブル大司教様は、ラロッシュ神父様と私(ティシエ・ド・マルレ神父様)を選んで、ラッツィンガー枢機卿様や、ローマ教皇庁の他の方々とお話を対話をするよう任命を受けました。

私たちが、「どうしても聖伝の司教様が必要です」という事を申し上げると、「おぉ、聖ピオ十世会はもう認可されるのだから、そしたら世界中の司教様はあなたたちの神学生を叙階しますよ。ですから神父様、司教様は必要ありません」と言われました。ルフェーブル大司教様はしかし同意のサインをしました。1988年5月5日、聖ピオ五世の祝日においてでした。「ルフェーブル大司教様は1人の聖伝の司教様を求めて、そして与えられて、そして聖ピオ十世会は教会法的な地位を与えられる」という事です。

しかし翌日、ルフェーブル大司教様は自分がしたサインを撤回します。何故撤回したかというとその理由がありました。

その理由の第1は、「ローマの『聖伝の委員会』という委員会のメンバーが、聖伝の司祭たちで構成されていなければならないけれども、それが拒否されたから」です。もしもこのローマにおける聖伝の委員会があれば、ローマにおいて私たちは何らかの力と権力を持つ事になりました。そしてこの聖伝の委員会は、私たちの手のもとにあったはずです。聖伝を守る、効果的に守る事ができる目的を果たす事ができたはずです。しかしこのような委員会は拒否されました。

第2の理由は、「ラッツィンガー枢機卿様は、いつ司教聖別をしてよいか、というその正確な日付を与える事を拒否した」というのが理由です。

第3の理由は、「ローマに提出した、『この内の、3人の内の1人の司教様を選んで下さい』という、適任だと思われたその名簿の、3人とも拒否したから」です。するとラッツィンガー枢機卿は、「あぁ、教皇聖下がもっと自由に選ぶ事が出来るように、もっとたくさん名前を下さい。」これは、“ルフェーブル大司教様の推薦した人は、司教様にはしませんよ”という断りのうまい言い方でした。

ルフェーブル大司教様は、「そのような条件であるならば、先日やったしたサインをそのまま続ける事はできない。もしもそのような条件であれば、私は教皇様の意思に反したとしても、4名の司教様を叙階する」と言いました。「私たちは今、緊急の状態にいるので、必要に迫られて、教会が教会法が想定していないやり方で行動する事は許される」としました。ルフェーブル大司教様はサモサタの聖エウゼビオ司教の例を挙げて、アリウス派の異端の時代に、教会法に反して聖エウゼビオが、パレスチナで数名の司教様を司教に聖別した、という事例を挙げました。「こういう例もある。」と。

ルフェーブル大司教様は知恵深く、聖伝の家族の、聖伝を守っている修道会らを集めて、会合を開きました。それは、皆が自分の決定に従う事ができるようにする為です。例えばベネディクト会のル・バルーにあるドン・ジェラール神父修道院長とか、カルメル会の女子修道会とか、ドミニコ会の修道女たちとか等々が呼ばれて、聖伝を守っているような修道会たちが皆呼ばれて会合を開きました。

この会合の結論は次の言葉に要約されます。「私たちには2つの解決のやり方がある。」

第1の解決策は、「近代主義のローマと、近代主義の教区司教区と密接な関係をとる事によって、それに近代主義に汚染されてしまうかもしれないというリスクを受け入れる。そのリスクを例え受けたとしても、その引き換えに彼らの多くを聖伝へと回心させる事ができる、という期待のもとにそれを行う。そして私たちの使徒職を発展させる、という事を期待してそうする。非常に有名な、例えば離教とか破門とかというエチケットレッテルなどを張られずに、私たちが使徒職を発展させる事ができる、というその為にそうするべきだろうか。そして近代主義的な当局から私たちを保護する事ができる、と期待しつつそうするべきだろうか。何故かというと、私たちは法的に、その近代主義の当局のもとに服従しなければならないようになるから。しかし私たちはそうでなくても、たとえそうでなくても私たちは、永遠のカトリック教会とはいつも交わりを持っています。」

これが第1の解決策で、これをまとめて言えば、「同意に達して、私たちを保全しつつ、私たちを悪い影響から守りつつ、それと同時に彼らのもとにいる」という。

第2の解決は、「『聖伝の家族を守る』という事を第1に考える。『信仰の為に戦う』というこの為に、その一致を守るべきか。」第2の解決によれば、「『聖伝を守る』という、『一致を守る』という事と比べれば、『法的なローマとの結びつき』というものとはバランスをとる事ができない、それよりももっと大切だから。何故かというと、『聖伝を守る』という事は、カトリック教会の未来に将来にかかっている事だから、そちらに重きをおくべきだろうか。」

これはこの、「どちらをとるべきか」という事は、その当時非常に大きな問題でした。その当時、多くのシスター、修道会や司祭たちは、「第2の解決策を重要視しよう」としました。そして「信仰を守る、その一致を守る、という事がまず大切だ」としました。


親愛なる信徒の皆さん、この同じような、これと同じようなものが今の状況でもあります。40年の後ですけれども、教会の状況は同じです。私たちは同意に到達するべきでしょうか?そうあるべきではないでしょうか?

フェレー司教様は、私たちの総長様は「この問題がある」という事を私たちに教えて言って下さいました。確かに第1の解決策には利点もあるけれども欠点もある。それと同時に、第2の解決策も利点はあるけれども欠点もある。

ですから私たちは総長様に、長上にこの決定を委ねましょう。そして天主様の御摂理にお委ね致しましょう。フランシスコ教皇様は明らかに聖伝にはあまり興味がありません。聖伝をむしろ軽蔑しています。しかしローマの当局は私たちの為に、教会法によるそういう地位を準備しています。この地位によれば、これの準備されたものによれば、「私たちは聖伝の司教区を持つ事ができる」ようになっています。つまり「ローマに提出する3名の候補者の内からローマが選ぶ事ができるという、そのそういう司教を持つ事ができる」という事も予定されています。

ルフェーブル大司教様がもしも今生きていたら、一体何をなさっただろうか?という事を私には言う事ができません。ルフェーブル大司教様の信仰、そして賢明さを良く知っていますけれども、同時に私は、ルフェーブル大司教様の大胆さも知っています。つまりルフェーブル大司教様はローマに、「少なくとも黙認して下さい」とさえ大胆に言う、お願いする事ができた、という事も知っています。

私たちは祈らなければなりません。私たちの任務は責務は、皆さんの責務は、私の責務は義務は、「祈る事」です。「天主様の御摂理が、私たちが従うべき道を明らかに示して下さるように」と祈りましょう。

私は良き主に信頼し、インマクラータの、無原罪のマリア様に信頼致します。この8月から始まったロザリオ十字軍、これは「フェレー司教様が光を頂く事ができるように」とお祈りをしなければならない。このロザリオの十字軍をよくしなければなりません。「天主様の御旨は何か」という事がはっきり分かるしるしを、私たちに示して下さるようにお祈り致しましょう。私は今この申し上げた事以上何も申し上げる事はできません。何故かというと、私たちは天主様に全て委ねて、それに従っているだけだからです。

皆さんの親切なご清聴に感謝致します。
(拍手)


聖ピオ十世会日本のお説教・講話がここに掲載されています。

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