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偉大なる教会博士、聖ヒエロニモ。その人生、功績、教え、いちばん大切にしたものとは?

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アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

2016年9月30日(金)に大阪で聖伝のミサを捧げました。その時のお説教をご紹介いたします。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

2016年9月30日 教会博士証聖者司祭聖ヒエロニモのミサ
小野田神父説教
聖母の汚れ無き御心教会にようこそ。

今日は2016年9月30日、聖ヒエロニモの、司祭証聖者教会博士聖ヒエロニモの祝日を祝っています。

今日は初金の御ミサではないので、この後に終課を、聖体拝領後の祈りミサの後の祈りの後に、終課を皆さんとしたいと思っています。

明日は初土曜日です。普通でしたら公教要理がありますけれども、10月は残念ながら初金の聖体降福式ができないので、明日ミサの後に代わりに御聖体降福式をやる事を提案します。

10月は聖母の聖なる月です。ロザリオの月ですので、ロザリオの時にはエコンの伝統によると、聖母の連祷をロザリオに付け加える事になっています。皆様ももしよろしかったら付け加えて下さい。特にロザリオの十字軍をたくさん唱えるようになさって下さい。皆さんから多くの報告をお待ちしております。それと犠牲をお願い致します。

来年の8月にはファチマとローマに行こうと思っています。どうぞ皆さんその為にその詳しい事をお知らせする予定です。アジア管区では締め切りが11月30日までに、少なくとも500シンガポールドルとパスポートの写しを、名前とか写真のあるところの写しをシンガポールに提出して、「この人たちが行く」と、提出しなければなりません。ですからその時までにどうぞ決意を固めて、たくさんこの皆さんがいらっしゃるようにお待ちしておりいます。

10月の次の金・土は、残念ながら司祭の黙想会の為にミサをする事ができませんが、どうぞご了解下さい。皆さんのお祈りをお願い致します。


「聖ヒエロニモ、我らの為に祈り給え。」

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

愛する兄弟の皆さん、今日は聖ヒエロニモの祝日です。そこで今日は皆さんと一緒に、聖ヒエロニモの人生にはどんな事があったのか、聖ヒエロニモというのは一体何をなさった方なのか、どんな人だったのか、という事を第1に黙想して、

第2に、聖ヒエロニモが一番大切にした事は何か、何を教えていたのか、聖ヒエロニモの言葉を少し引用して、その聖ヒエロニモが私たちに教えた事を見てみる事にします。

最後に、私たちは今日の祝日を黙想しながら、聖ヒエロニモから何を学ぶべきか、私たちはこれからどのような遷善の決心をとったら良いか、という事を黙想致しましょう。

この黙想を準備しながら、私も聖ヒエロニモの偉大さを再発見致しました。

聖ヒエロニモは、ダルマチアという地方の、今ではクロアチアという国の一部ですけれども、それのストリドンという所に約347年頃に生まれました。お父さんもお母さんもその家族はキリスト教信者で、裕福な家庭でした。お父さんの名前はエウゼビオと言って、そこでこの子供をヒエロニモを、ローマで勉強するようにと送り出しました。

ローマで非常に優秀なドナトゥスという教師の学派のもとで学問を修めて、366年に約20歳ぐらいの時に洗礼を受けました。その当時は聖アウグスティヌスの例もあるように、どうも幼児洗礼を本当ならばしなければならないところを、それをしない人たちも何かいたようです。聖ヒエロニモも20歳頃になってから洗礼を受けました。

その後に、聖書に非常に関心を持って、今のフランスのガリアという所で「もっと勉強したい」という事で色々勉強しました。

その次に「ギリシャに行きたい、ギリシャで勉強したい」とギリシアに行きました。

ギリシャで特に、コンスタンチノープルのナジアンスの聖グレゴリオの弟子となりました。自分でも後に、この「聖グレゴリオから多くの事を学んだ」と言っています。

その後に、「イエズス様の生活されたパレスチナ、聖地に行きたい」と巡礼に行きました。特にシリアで孤独の隠遁生活を送りながら、4年間の間勉強をします。もちろんガリアとかギリシャとか、或いは他のパレスチナでは、色々多くの聖書学者や教授たちと会って勉強するのですけれども、シリアでは特に隠遁生活をしながら4年間の間勉強を深めました。

キリスト教生活と異教の生活がどれほど違うか、という事をしみじみと感じ、アンティオキア、シリアにあるアンティオキアの司教様であるパウリーノという人から司祭に叙階されました。司祭に叙階される前にも、「司祭に叙階されても、私はお祈りの生活を続けたい」という条件が許されて司祭に叙階されました。

司祭に叙階された後にローマに行きました。382年の事でした。もうすでに聖ヒエロニモは35歳となっていました。

その当時から聖ヒエロニモは、「ダルマチア出身の秀才、色んな所に留学していて、ラテン語はペラペラだし、ギリシャ語はペラペラだし、ヘブライ語もペラペラで、あとそれのみならずカルデア語、古代カルデア語も知っている。聖書の事はもう色んなラビや、他の聖書学者と話して、その教えを受けて、その博学で、しかも厳しい苦行の生活と祈りの生活をしている」という事で非常に有名でした。

その当時ローマでは教皇様は聖ダマソで、その聖ダマソが聖ヒエロニモに会って、「是非、聖書をラテン語に訳してほしい。この頃はみんな誰も彼もが、ちょっとヘブライ語やちょっとギリシャ語が分かるというと自分で翻訳できると思って、もうベラベラ勝手に訳しているけれども、しかしカトリック教会の公式の正確な、間違いのない訳が必要だから、それを研究して訳してほしい」と言われて、その従順にそれに従いました。

その当時から教皇聖ダマソ、或いは聖アウグスチヌスなど有名な人たちが、聖書で難しいものがあるといつも聖ヒエロニモに伺いを立てて、「これはどういう意味だろうか?」と尋ねていたほど、当時非常に有名な聖書学者でした。

「聖ヒエロニモがもしかしたら教皇様にもなったかもしれない、その可能性は十分にあった、その候補者となる可能性があった」と言われています。

ローマでは、特にローマの貴婦人たちは、「キリスト教の生活を、完徳の生活を送りたい」という事で、そのような熱心な婦人たちを指導しました。有名な方々にはローマの貴婦人で貴族のお金持ちの女性だったのですけれども、パウラとか、マルチェッラ、アッセラ、レアなどがいて、その人々は「ギリシャ語やヘブライ語も勉強して聖書を勉強して、聖ヒエロニモから色々なこの聖書の事を学んでいた」と記録に残っています。

しかし教皇様の聖ダマソが亡くなると、385年にローマを発って、「もっと聖書を深く勉強したい」とパレスチナに聖地に行きます。色々パレスチナを巡礼して、エジプトにも行ったり巡礼するのですけれども、究極的には、「天主の御言葉が人間となって生まれた、私たちの所に来て生まれたこの『ベトレヘム』が、聖書の天主の御言葉を勉強するのに一番良い」という事で、特にローマからお友達だったパウラという貴婦人の寛大な援助で、そこに男子修道院と、女性の為の修道院と、あと巡礼者の宿泊ができるようなホスピスと呼ばれるものを造りました。

ヨゼフ様やマリア様の事を考えて、その巡礼者たちを宿す事ができるような、ベトレヘムではヨゼフ様やマリア様は家がなかったので、その少なくともヨゼフ様とマリア様の為に、そのような巡礼者の為に施設を造って、愛徳を以てお世話をした、その世話をする施設を造りました。死ぬまで、420年に亡くなるまでずっとベトレヘムで、祈りと苦行と勉強の生活をし続けました。

年を取るにつれて、病や苦しみで非常に困難で、目もだんだん見えなくなっていたにもかかわらず、それでも聖書の朗読や、本を書いたりする事に一生懸命でした。

聖ヒエロニモのやった一番の功績というのはやはり、聖書を、旧約聖書をヘブライ語からラテン語に訳した事です、それを完成させた事です。昔あった新約聖書の翻訳もこの誤りなどを間違った所を、旧約聖書はヘブライ語に基づいて、新約聖書はギリシャ語の写本に基づいてそれを直したところです。聖ヒエロニモはお金を使ってたくさんの写本を買い占めて、色々なこの写本を比べて研究して、「どれが一番原文のもとに正しかったのか」或いは訳で違う所があったら、「その原文はどうなっていたのか」という事で、多くの時間を使って研究して、最高の翻訳を作りました。

聖ヒエロニモによると、「この書かれている言葉の順序さえも意味があるのだ。だからこの順序さえも間違わずに、正確にラテン語に訳したい。順序であってもそれも神秘である」と言って、聖書を最新の心を注意を払ってラテン語に訳しました。

聖ヒエロニモはそれでも、聖書を訳すのみならず、注釈も本をたくさん書いています。もしも分からない所があればその所に行って場所を見たり、或いはラビに聞いたり、ユダヤのその専門家に聞いたりして、詳しく研究した書を書いています。元々ローマの秀才だったので、ローマのキケロとか、雄弁なラテン語の美しいラテン語を完璧にマスターしていた人ですので、聖書の言葉はそのラテン語の雄弁さと比べるとあまりにも違っているので、「最初はそれに慣れるのが大変だった、自分はキリスト教徒であるというよりもキケロ教徒だ」という事を嘆いたほど、そのラテン語の美しい文章が身に染みた男だったので、その聖書をその語順の通りに、キケロの美しい文体に反して訳すのはもしかしたら大変だったかもしれません。

しかし聖ヒエロニモは、殉教者についてや、或いはキリスト教のその当時有名だった聖人たちの生涯の伝記を残していて、それはキリスト教文学の古典に匹敵する、キリスト教文学の最高峰として今でも残っています。多くの本を書きました。福音書の注解、聖書の注解、色々な聖人伝、手紙、或いは異端者に対する反駁、アドバイス、手紙を書きました。

聖ヒエロニモの言っていた事には、「“Nulla dies sine linea” 聖書の1行も読まないような日は一度もない。毎日必ず聖書を読む。」これが聖ヒエロニモのモットーでした。聖書こそが聖ヒエロニモの人生の中心であって、この聖ヒエロニモの翻訳したラテン語は、「カトリック教会の公式のラテン語版である、ラテン語の翻訳である」とトリエント公会議によって公式に発表されました、宣言されました。

聖ピオ十世は、ベネディクト会の修道士たちに命じて、「聖ヒエロニモのこの手から翻訳された、それの通りの同じ物を、それを私たちの公式のカトリック教会のラテン語版とする」という事で、「この1つの誤りもないように研究をするように」と命じました。驚く事なかれ、その聖ヒエロニモの訳したものを写したマニュスクリプトは何千と色々な所にあるのですけれども、それはほぼ100%、間違いなく、私たちの所に研究の結果そのまま届いています。

こうして聖ヒエロニモは西洋の4人の大教父の1人に数えられています。1人は教皇大聖グレゴリオ1世、次に聖アンブロジオ、聖アウグスチノ、聖ヒエロニモです。

「主日に私たちがミサの時にアレルヤ誦を唱えるのも、聖ヒエロニモがこれを始めたから、それをローマがそれを取り入れた。また毎日の修道生活で聖書を唱えて、聖務日課を唱える、そのそれも聖ヒエロニモの功績だ。修道生活がこうやって広がったのも聖ヒエロニモの功績だ」と言われています。

こうして聖ヒエロニモは、キリスト教世界のみならず、キリスト教を中心とした西洋文明、西洋文化にも大きな決定的な影響を及ぼして、その保護者となる事ができました。

特に聖ヒエロニモは、「聖書を知る事が一番に重要」であって、この世の事であれば例えば携帯を見て下さい。今日の最新の携帯は、明日になればもう古めかしくなってしまいますが、「天主の御言葉は常にそのまま永遠に留まる、決して古くならない」と言って、聖書を愛する事をいつも強調していました。

聖ヒエロニモはでは、どのような事を私たちに教えているでしょうか?

例えば、レタというローマの夫人に手紙を書いて、その娘の教育にはこういうふうに注意しなさいと言っています、「娘さんが毎日、聖書の1節を読むように、読んで勉強するように、それをちゃんとして下さい。祈りの後に聖書を読んで、聖書を読んでも後に祈りをするように」と。「娘さんが宝石や絹のきれいな服よりも、天主様の聖書を愛するように教育しなさい。」

或いは、「もしも聖書を知る事を、聖書の知識を愛するならば、その人は決して肉の悪徳を愛する事がない。」

或いは聖ヒエロニモは、「いつも教会の、あなたに教えられた教会の聖伝の教えに強く留まっていなさい。」

或いは司祭たちには、「福音は、私たちの行動、特に本当の愛徳の態度によって、私たちの行動によって翻訳されなければならない。文字が私たちの行動に表れて翻訳されなければならない」とか或いは、「私たちが司祭がお説教する内容のように、司祭は模範を示して生きなければならない」と、ネプティアーノという司祭にこう言っています。

或いは、後に司教になって聖人にもなったパウリーノという司祭には、「信徒たちの霊魂はキリストの神殿であるから、それを司祭はできる限り、この霊魂という至聖所を、聖徳と天主の御言葉で飾るように。それを美しくするように。それを司祭たちの捧げものを以て、捧げものをそこに置くように。キリストを受け取るように。大切に美しくしなさい」と書いています。

聖ヒエロニモは非常に愛徳を以て教え、指導し、教育についても、特に両親たちには、「両親たちは、最初の教師なのだから、良い模範を以て教えなさい。言葉よりも模範を以て教えなさい」とか或いは、「この天主様の神殿となるべき、天主様の神殿として建てられる貴重な宝石である霊魂の、良い養成をする事に心を配って下さい」と両親たちに書いています。「子供たちが、罪や悪の機会から逃れるように守ってあげるように。悪い友達から遠ざけるように。健全で、楽しい、喜ばしい、喜びに満ちた環境を作ってあげるように。良い習慣を作る事ができるように助けてあげるように。或いは悪い習慣がつかないように守ってあげるように。若い子供の時からその最初の瞬間、その若いその最初から、人間らしい健康な完璧な教育を、男の子にも女の子にもしてあげるように。天主様の前で人々の前で責任を持った立派なキリスト者となるように」とアドバイスを与えています。

自分はいつも警戒して、よく肉体の苦行をして、もちろん賢明に過度にやり過ぎないようにそれでも苦行をして、いつも熱心に働いて、怠けたり暇であったりという事がないように、天主にいつも従順であるように、巡礼も、「聖地の巡礼は苦行の1つだ」と教えています。

聖ヒエロニモの本はたくさんあって、言葉が色々あるのですけれども、例えば聖ヒエロニモはこう書いています、「司教や司祭は、或いは助祭たちは、童貞の男子或いは寡夫から選ばれている。司祭に選ばれた後はいつも完璧な貞潔として留まらなければならない。これは過去からもそうだ」と言っています。

或いは、「聖地では、イエズス様が昇天された時には、イエズス様の御足はオリベト山のもとにそのまま足跡が残されていた。それは見る事ができた」と書かれていて、「それはヨーロッパの方を向いていた、ローマの方を向いていた。ちょうど十字架もローマの方を向いていたように、ヨーロッパの方を向いていた」とか、

或いは聖ヒエロニモの言葉によると、「ユダの罪は、ユダが絶望して自殺した、天主の憐れみに絶望した罪は、イエズス様を裏切った罪よりももっと大きな罪だった」とか、

或いは聖ヒエロニモは、「聖人たちを崇敬する事によって私たちは、その聖人たちがその為に死んでいった天主を礼拝しているのだ」とか、

或いは、「貞潔に反する事は、ちょうどその貞潔に反する罪は、ちょうど蛇のようだ。何故かというと、蛇が私たちに噛み付いてその毒を入れるその前に、その蛇の頭を見たらすぐに踏み潰してしまわなければならないように、私たちも悪い考えが来たらすぐにそれを踏みつぶしてしまなければならない」とか、

或いは、「私は、貧しい人に寛大である人が、悪い終わりを遂げた事を見た事がない」など色々な事を言っています。

色々なテーマについて色々な言葉を言っていますが、最後にこんな事も引用するのを許して下さい。聖ダマソに教皇様に書いている言葉ですけれども、「私は、聖ペトロの座である聖下との交わりを大切にしています。何故ならば、キリストの教会はこの岩の上に立てられた、という事を知っているからです。この教会の外には救いがありません。子羊をこの家の外で食べる人は、その子羊を汚す人です。主の教会の外に身を置く人は、清い人ではありません。」

聖ヒエロニモはいつも、聖書と聖伝にいつも忠実で、カトリックの教えをそのまま清く守り、愛徳と苦行と祈りの生活、特に聖書を自分の生活の中心に置いていた、まさに教会の誇るべき4大教父の1人でした。大聖グレゴリオ、聖アンブロジオ、聖アウグスチノ、聖ヒエロニモ。今日はその特別の大聖人を祝って、遷善の決心を立てる事に致しましょう。

私たちも聖ヒエロニモのように、天主の御言葉、聖書を愛する事ができますように。それをいつも黙想している事ができますように。聖ヒエロニモは特にベトレヘムで、ヨゼフ様やマリア様の事を考えて、巡礼者たちの中にヨゼフ様とマリア様の姿を見て、マリア様に対しての愛をいつも示していました。聖ヒエロニモに倣ってマリア様に対する愛を私たちも持つ事にしましょう。

聖ヒエロニモが420年9月30日に亡くなって、遺体は一度ベトレヘムに埋葬されるのですけれども、その後にこの聖遺物は遺体はローマに運ばれて、聖マリア大聖堂にある馬小屋の聖遺物のその下に埋められています。私たちもいつもマリア様の汚れ無き御心の中に入れますように、聖ヒエロニモにお祈り致しましょう。

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。


聖ピオ十世会日本のお説教・講話がここに掲載されています。

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