アヴェ・マリア・インマクラータ!
愛する兄弟姉妹の皆様、
2016年10月1日(初土)に大阪で聖伝のミサを捧げました。その時のお説教をご紹介いたします。
天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)
2016年10月1日 初土曜日 聖母の汚れ無き御心の随意ミサ
小野田神父説教
聖母の汚れ無き御心教会にようこそ。
今日は2016年10月1日、10月の初土曜日のミサをしています。聖母の汚れ無き御心のミサです。
10月から聖母のロザリオの聖月が始まりました。たくさんのロザリオを唱えて下さい。聖ピオ十世会のエコンの伝統によると、5月と10月には、いつもロザリオの時には聖母の連祷を唱える習慣があるので、もしもできましたら聖母の連祷を唱えて下さい。
10月は実は司祭の黙想会があります。10月10日から15日までです。
そこで残念ながら大阪でミサをいつものようにミサをする事ができなくなってしまいました。ご了承ください。司祭の黙想会がよくできますようにお祈り下さい。
10月は初金曜日の御聖体降福式ができなかったので、今日はその代わりに御ミサの直後に公教要理の代わりに、御聖体にましますイエズス様を賛美したいと思います。そこで聖心の連祷や人類を奉献する祈りも唱えたいと思っています。1週間早いのですけれどもしたいと思っています。
今日は初土曜ですから初土の信心もなさって下さい。マリア様と共に15分間の黙想と、御聖体拝領、告解、そしてロザリオを唱えて下さい。マリア様と共に、マリア様の汚れ無き御心に犯された罪を償う為にどうぞ捧げて下さい。
ロザリオの十字軍の報告も皆さんから待っています。
来年はファチマ100周年で、聖ピオ十世会では国際巡礼団をファチマに行こうと思っています。皆さん、来年の、100年に一度の特別のイベントで、世界中から心を同じくそのマリア様をお愛ししたいという方々が集まりますので、是非どうぞ皆さんファチマに行く事ができるように色々工夫して計画なさって、もしかしたら犠牲も払わなければなりませんかもしれませんが、どうぞ皆さん一緒にファチマに行く事にしましょう。ローマにも行きましょう。
“Exsultavit cor meum in salutari meo.”
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。
愛する兄弟の皆さん、今日ミサの、聖母の汚れ無き御心のミサをしていますが、その昇階誦“Graduale”の中に、詩編の12番と44番が歌われて、その次にアレルヤ誦があります。アレルヤ誦はマリア様のマニフィカトから取られています。
この汚れ無き御心のミサを黙想しているうちに、この昇階誦とアレルヤ誦がまさにぴったりと重なって見えてきました。
「旧約で歌われた、詩編で歌われた事がマリア様において成就している」という事がよく見えてきました。言葉も全く同じですし、ただ違っているのは、詩編では「私の心は、救い主に於いて喜ぶ」となっているところを、マリア様は、「私の精神は、我が精神は天主である救い主に於いて喜ぶ」、私の「心」が「精神」になって、また「救い主」だけが、「天主である救い主に於いて」となっているだけで、全く同じ言葉です。
そこで今日、マリア様の御心の歌、讃美歌と言われるこのマニフィカトと共に、「私の精神は、救い主である主に喜ぶ」というところを一緒に黙想して、
マリア様の御心は一体何を喜んでおられたのか?
それで私たちのその喜び、このマリア様の喜びはどうしたら私たちの喜びになるのか?
その喜びに反対するものは何なのか?
それを黙想して遷善の決心を立てる事に致しましょう。
愛する兄弟の皆さん、私たちの人生、この地上での人生はちょうど、高山右近がマニラに追放されて故郷を、故郷の全てのお城や、財産や、友人や、親戚家族を奪われて、マニラに追放されたかのようです。ちょうど私たちの人生というのは、いきなり拉致されて北朝鮮に連れて行かれて、貧しい惨めな暮らしをさせられているかのようです。シベリアに流刑になって、祖国に帰る事ができずにそのまま、「早く帰りたい」と思っているにもかかわらず、寒い所で強制労働させられて辛い思いをして、残飯とかを食べているようなものです。ちょうどISに捕虜となって、いつ殺されるか、皆の前でYouTubeの前で殺される撮影をさせられるのがいつになるのか、どうなのか、早く祖国に帰りたいのだけれども帰れないであるかのようなものです。
私たちの本当の祖国は、私たちがその為に生まれてきた、その為に創られたのは、天国のであって、永遠の命であって、天主様の命であります。でもこの現代世界は、その事をすっかり忘れてしまっているかのようです。
でも私たちは、この流刑の地であるこの地上において、いつも祖国の事を考えて、「祖国に早く行ける日はいつか」、ちょうどイスラエルの人たちがバビロンの流れのほとりに居て、「早くエルサレムに帰りたい。早く聖地に帰りたい」と、「どうしてこのバビロンの異国の地で、主の賛美の歌がまともに歌えようか」と嘆いているかのようです。
もしもそのような私たちに、例えば「あぁ、喜べ!私たちはもう祖国に帰れるんだぞ!さあ、今日本政府が、もうシベリアから、ピョンヤンから」或いは「ISから解放してくれる。さぁ、明日飛行機に乗って帰るんだ。お父さんお母さんの顔も見れる。お友達にも会える。皆待っている。さぁ、さぁ、」と言ったら、私たちはどれほど喜びに、「え!?本当だろうか!?もうここから自分の家に帰る事ができるんだ!自由になるんだ!」と思えば、どれほど喜ぶでしょうか。
時にはそこまでなくても、この例えば宝くじが当たったとか、何かこの世ですごい進級したとか、昇進したとかというとそれだけでも、よいポストになったというだけでも、「え!?」もう死なんばかりに喜ぶような人がいます。
マリア様は、やはりマリア様が聖エリザベトに会って、「なぜ主の御母がこの私の所に来たのでしょうか!」「天主の御母になった」というその事を聞いて、このマニフィカトで答えました。「わが魂は主を崇め奉り、」主を偉大なものとし、そして「我が霊魂は、我が精神は救い主である天主に喜び踊る。」
マリア様がその時に持っていた、もう言葉で言う事ができない、喜びの大洪水、ものすごい喜びの、燃えるような竈の轟々とした炎は、霊魂と御心、汚れ無き御心と精神とその全てをもう満たしていて、その喜びに溢れて、「救い主である天主が人となって、人類を解放される為に私の体内に宿っている」その御託身の神秘を喜んだのでした。
「これでもう祖国に行く事ができる、天国に行く事ができる。救い主はもう今この自分の体内に宿っている。救い主は今ここに居られる、生まれるのを待っておられる。」このマリア様の溢れにみなぎった喜びにみなぎった、もうこれ以上喜びがないというほどの、もう目で見る事も、耳で聞くことも、頭でも想像する事ができないような、天国の喜びのような喜びを持って、「天主様が私たちを憐れんで下さった!」天主様のその偉大な業、憐れみの御業、その善い業をマリア様は喜んだのでした。
「これこそ御恵みの中の御恵みであって、憐れみの中の憐れみであって、全ての宝に勝る宝であって、この地上の全ての喜びは、全く儚い煙のようであるかのように思えてしまう、その物凄い贈り物、これ以上今後一切これほどの喜びはありえない」というほどの物凄い喜びと、「その宝を頂いた」というその嬉しさが、マリア様の心にみなぎっていたのでした。
「私の心は、救い主に於いて喜び踊る。」それは詩編において、詩編の6節において既に預言されていたものでした。
聖ヨハネ・ユードによれば、「もしも聖霊がマリア様を支えて下さっていなかったならば、喜びのあまりマリア様は、おそらく息を絶えて霊魂を天に上げてしまっていたに違いない。息を引き取っていたに違いない」と言います。
喜びの大洪水がマリア様の霊魂を満たして、精神を満たして、御心を満たして、その喜びに震わされて唇がその、この歌を歌ったのでした、「わが霊魂は主を崇め奉り、わが精神は救い主なる天主に於いて喜び奉る。」
このマリア様の喜びは、この地上の与える喜びに比べるとどんなに違ったものでしょうか。
本物のお金と偽物のお金、偽札の違いがあります。似ているのですけれども本質が違います。この世の喜びは儚く空ろで、あっという間に終わってしまい、そして本当の喜びを与えません。
しかしマリア様の持っていた喜びは永遠の喜びであって、救いの喜びであって究極の喜びであって、この喜びをマリア様は私たちに与えようと思っています。それはマリア様が私たちの御母であるからです。
今日の福音はその事をはっきり教えています。イエズス様は弟子に言いました、「汝の母を見よ」と。マリア様は、マリア様の汚れ無き御心は、この喜びを私たちに与える為に、母として構えています。
アルスの聖司祭によると、「この私たちはこの人生において、私たちの存在において、3つの時に特別な助けが必要だ。一番強い助けが必要だ。」「第1は、この地上での人生において。いつでも悪魔が私たちの喜びを取り去ろうとしてしまう。その代わりに偽札を掴ませようとする。使う事ができないような価値のない紙切れを、毒の混じった食べ物を私たちに食べさせようとする。それは見かけは本物のようだけれども、実はそれは私たちに死をもたらすものだ。だからこの地上においていつも、私たちは強い助けが必要である。」
聖ヴィアンネー神父様によると、「私たちの死のその瞬間、また裁きを受けるその瞬間、私審判を受けるその瞬間、特別の弁護者が必要である。悪魔が絶望させないように、悪魔が私たちに真の痛悔をさせないように、或いはその天主からの特別の憐れみを私たちが受ける事ができるように、裁きにおいて特別の寛大な情状酌量が与えられるように、誰か特別の方が必要だ。」「また第3に、煉獄において。長い年月の間火で、煉獄の火で燃やされ浄められている間に、誰かに助けられなければならない。」「その私たちを、この3つの段階において助ける力強い方がおられる。それは天主の御母であって、マリア様であって、マリア様の汚れ無き御心だ。その3つの段階で助ける為に、マリア様は私たちにロザリオを下さった」とヴィアンネー神父様は言います。
シスタールチアは、ファチマのシスタールチアはこう言います、「天主様は私たちに最後の救いの手段として、マリア様の汚れ無き御心を私たちに与えた。つまり最後の究極の救霊の手段、天国に行く為に、私たちが祖国に戻る為の究極の手段は2つある。それは『ロザリオ』であって、もう1つは『聖母の汚れ無き御心に対する信心』だ。この2つで、これが最後で、これを逃すと他にはない」と言っています。「今悪魔は最後の段階に来ているので、霊魂を滅ぼそうと最大の力を、最大限の力を使って私たちを攻撃している。祖国に私たちが、祖国に帰らないように、飛行機に乗らないように、何とか妨害して私たちが行かないようにして、しかし2つの強力な手段があって、これによれば必ず大丈夫。ロザリオと汚れ無き心に対する信心。」
「マリア様は私たちの、危険な状態にある、祖国に帰るべき私たちの避難所として与えられました。」ファチマのルチアはそう言っています。マリア様はご自分でルチアに、「私の汚れ無き御心は天主へと導く道であり、避難所となるでしょう。私の汚れ無き御心に対する信心をする人には、救いを保証します。約束します。嘘はつきません」と仰っています。
この地上が約束するユートピア、この地上での楽園儚い喜びや楽しみ、嘘ばかりの約束と比べると何と大きな違いでしょうか。
愛する兄弟の皆さん、ですから今日はこの昇階誦、「私の心は、救い主である主に喜び踊る。」アレルヤ誦のマニフィカトを黙想しながら、私たちの心にもいつも、この天国に対する強い憧れと希望、そしてマリア様の持っておられた天国の喜びを、私たちもがいつも汚さずに持ち続ける事ができますように。「私たちは天国に行く身なのだ。私たちの洗礼の時に受けた、きれいな婚姻の礼服を逃しては汚してはならない。これを着て天国の婚姻の宴会に、多くの天使聖人たちがきれいに着飾って最高のドレスを着て、天主御子の婚姻の席に与っているのを、私たちも与らなければならないのだ」と思いつつ、今日はこの汚れ無き御心のミサを続けていきましょう。
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。
聖ピオ十世会日本のお説教・講話がここに掲載されています。
愛する兄弟姉妹の皆様、
2016年10月1日(初土)に大阪で聖伝のミサを捧げました。その時のお説教をご紹介いたします。
天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)
2016年10月1日 初土曜日 聖母の汚れ無き御心の随意ミサ
小野田神父説教
聖母の汚れ無き御心教会にようこそ。
今日は2016年10月1日、10月の初土曜日のミサをしています。聖母の汚れ無き御心のミサです。
10月から聖母のロザリオの聖月が始まりました。たくさんのロザリオを唱えて下さい。聖ピオ十世会のエコンの伝統によると、5月と10月には、いつもロザリオの時には聖母の連祷を唱える習慣があるので、もしもできましたら聖母の連祷を唱えて下さい。
10月は実は司祭の黙想会があります。10月10日から15日までです。
そこで残念ながら大阪でミサをいつものようにミサをする事ができなくなってしまいました。ご了承ください。司祭の黙想会がよくできますようにお祈り下さい。
10月は初金曜日の御聖体降福式ができなかったので、今日はその代わりに御ミサの直後に公教要理の代わりに、御聖体にましますイエズス様を賛美したいと思います。そこで聖心の連祷や人類を奉献する祈りも唱えたいと思っています。1週間早いのですけれどもしたいと思っています。
今日は初土曜ですから初土の信心もなさって下さい。マリア様と共に15分間の黙想と、御聖体拝領、告解、そしてロザリオを唱えて下さい。マリア様と共に、マリア様の汚れ無き御心に犯された罪を償う為にどうぞ捧げて下さい。
ロザリオの十字軍の報告も皆さんから待っています。
来年はファチマ100周年で、聖ピオ十世会では国際巡礼団をファチマに行こうと思っています。皆さん、来年の、100年に一度の特別のイベントで、世界中から心を同じくそのマリア様をお愛ししたいという方々が集まりますので、是非どうぞ皆さんファチマに行く事ができるように色々工夫して計画なさって、もしかしたら犠牲も払わなければなりませんかもしれませんが、どうぞ皆さん一緒にファチマに行く事にしましょう。ローマにも行きましょう。
“Exsultavit cor meum in salutari meo.”
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。
愛する兄弟の皆さん、今日ミサの、聖母の汚れ無き御心のミサをしていますが、その昇階誦“Graduale”の中に、詩編の12番と44番が歌われて、その次にアレルヤ誦があります。アレルヤ誦はマリア様のマニフィカトから取られています。
この汚れ無き御心のミサを黙想しているうちに、この昇階誦とアレルヤ誦がまさにぴったりと重なって見えてきました。
「旧約で歌われた、詩編で歌われた事がマリア様において成就している」という事がよく見えてきました。言葉も全く同じですし、ただ違っているのは、詩編では「私の心は、救い主に於いて喜ぶ」となっているところを、マリア様は、「私の精神は、我が精神は天主である救い主に於いて喜ぶ」、私の「心」が「精神」になって、また「救い主」だけが、「天主である救い主に於いて」となっているだけで、全く同じ言葉です。
そこで今日、マリア様の御心の歌、讃美歌と言われるこのマニフィカトと共に、「私の精神は、救い主である主に喜ぶ」というところを一緒に黙想して、
マリア様の御心は一体何を喜んでおられたのか?
それで私たちのその喜び、このマリア様の喜びはどうしたら私たちの喜びになるのか?
その喜びに反対するものは何なのか?
それを黙想して遷善の決心を立てる事に致しましょう。
愛する兄弟の皆さん、私たちの人生、この地上での人生はちょうど、高山右近がマニラに追放されて故郷を、故郷の全てのお城や、財産や、友人や、親戚家族を奪われて、マニラに追放されたかのようです。ちょうど私たちの人生というのは、いきなり拉致されて北朝鮮に連れて行かれて、貧しい惨めな暮らしをさせられているかのようです。シベリアに流刑になって、祖国に帰る事ができずにそのまま、「早く帰りたい」と思っているにもかかわらず、寒い所で強制労働させられて辛い思いをして、残飯とかを食べているようなものです。ちょうどISに捕虜となって、いつ殺されるか、皆の前でYouTubeの前で殺される撮影をさせられるのがいつになるのか、どうなのか、早く祖国に帰りたいのだけれども帰れないであるかのようなものです。
私たちの本当の祖国は、私たちがその為に生まれてきた、その為に創られたのは、天国のであって、永遠の命であって、天主様の命であります。でもこの現代世界は、その事をすっかり忘れてしまっているかのようです。
でも私たちは、この流刑の地であるこの地上において、いつも祖国の事を考えて、「祖国に早く行ける日はいつか」、ちょうどイスラエルの人たちがバビロンの流れのほとりに居て、「早くエルサレムに帰りたい。早く聖地に帰りたい」と、「どうしてこのバビロンの異国の地で、主の賛美の歌がまともに歌えようか」と嘆いているかのようです。
もしもそのような私たちに、例えば「あぁ、喜べ!私たちはもう祖国に帰れるんだぞ!さあ、今日本政府が、もうシベリアから、ピョンヤンから」或いは「ISから解放してくれる。さぁ、明日飛行機に乗って帰るんだ。お父さんお母さんの顔も見れる。お友達にも会える。皆待っている。さぁ、さぁ、」と言ったら、私たちはどれほど喜びに、「え!?本当だろうか!?もうここから自分の家に帰る事ができるんだ!自由になるんだ!」と思えば、どれほど喜ぶでしょうか。
時にはそこまでなくても、この例えば宝くじが当たったとか、何かこの世ですごい進級したとか、昇進したとかというとそれだけでも、よいポストになったというだけでも、「え!?」もう死なんばかりに喜ぶような人がいます。
マリア様は、やはりマリア様が聖エリザベトに会って、「なぜ主の御母がこの私の所に来たのでしょうか!」「天主の御母になった」というその事を聞いて、このマニフィカトで答えました。「わが魂は主を崇め奉り、」主を偉大なものとし、そして「我が霊魂は、我が精神は救い主である天主に喜び踊る。」
マリア様がその時に持っていた、もう言葉で言う事ができない、喜びの大洪水、ものすごい喜びの、燃えるような竈の轟々とした炎は、霊魂と御心、汚れ無き御心と精神とその全てをもう満たしていて、その喜びに溢れて、「救い主である天主が人となって、人類を解放される為に私の体内に宿っている」その御託身の神秘を喜んだのでした。
「これでもう祖国に行く事ができる、天国に行く事ができる。救い主はもう今この自分の体内に宿っている。救い主は今ここに居られる、生まれるのを待っておられる。」このマリア様の溢れにみなぎった喜びにみなぎった、もうこれ以上喜びがないというほどの、もう目で見る事も、耳で聞くことも、頭でも想像する事ができないような、天国の喜びのような喜びを持って、「天主様が私たちを憐れんで下さった!」天主様のその偉大な業、憐れみの御業、その善い業をマリア様は喜んだのでした。
「これこそ御恵みの中の御恵みであって、憐れみの中の憐れみであって、全ての宝に勝る宝であって、この地上の全ての喜びは、全く儚い煙のようであるかのように思えてしまう、その物凄い贈り物、これ以上今後一切これほどの喜びはありえない」というほどの物凄い喜びと、「その宝を頂いた」というその嬉しさが、マリア様の心にみなぎっていたのでした。
「私の心は、救い主に於いて喜び踊る。」それは詩編において、詩編の6節において既に預言されていたものでした。
聖ヨハネ・ユードによれば、「もしも聖霊がマリア様を支えて下さっていなかったならば、喜びのあまりマリア様は、おそらく息を絶えて霊魂を天に上げてしまっていたに違いない。息を引き取っていたに違いない」と言います。
喜びの大洪水がマリア様の霊魂を満たして、精神を満たして、御心を満たして、その喜びに震わされて唇がその、この歌を歌ったのでした、「わが霊魂は主を崇め奉り、わが精神は救い主なる天主に於いて喜び奉る。」
このマリア様の喜びは、この地上の与える喜びに比べるとどんなに違ったものでしょうか。
本物のお金と偽物のお金、偽札の違いがあります。似ているのですけれども本質が違います。この世の喜びは儚く空ろで、あっという間に終わってしまい、そして本当の喜びを与えません。
しかしマリア様の持っていた喜びは永遠の喜びであって、救いの喜びであって究極の喜びであって、この喜びをマリア様は私たちに与えようと思っています。それはマリア様が私たちの御母であるからです。
今日の福音はその事をはっきり教えています。イエズス様は弟子に言いました、「汝の母を見よ」と。マリア様は、マリア様の汚れ無き御心は、この喜びを私たちに与える為に、母として構えています。
アルスの聖司祭によると、「この私たちはこの人生において、私たちの存在において、3つの時に特別な助けが必要だ。一番強い助けが必要だ。」「第1は、この地上での人生において。いつでも悪魔が私たちの喜びを取り去ろうとしてしまう。その代わりに偽札を掴ませようとする。使う事ができないような価値のない紙切れを、毒の混じった食べ物を私たちに食べさせようとする。それは見かけは本物のようだけれども、実はそれは私たちに死をもたらすものだ。だからこの地上においていつも、私たちは強い助けが必要である。」
聖ヴィアンネー神父様によると、「私たちの死のその瞬間、また裁きを受けるその瞬間、私審判を受けるその瞬間、特別の弁護者が必要である。悪魔が絶望させないように、悪魔が私たちに真の痛悔をさせないように、或いはその天主からの特別の憐れみを私たちが受ける事ができるように、裁きにおいて特別の寛大な情状酌量が与えられるように、誰か特別の方が必要だ。」「また第3に、煉獄において。長い年月の間火で、煉獄の火で燃やされ浄められている間に、誰かに助けられなければならない。」「その私たちを、この3つの段階において助ける力強い方がおられる。それは天主の御母であって、マリア様であって、マリア様の汚れ無き御心だ。その3つの段階で助ける為に、マリア様は私たちにロザリオを下さった」とヴィアンネー神父様は言います。
シスタールチアは、ファチマのシスタールチアはこう言います、「天主様は私たちに最後の救いの手段として、マリア様の汚れ無き御心を私たちに与えた。つまり最後の究極の救霊の手段、天国に行く為に、私たちが祖国に戻る為の究極の手段は2つある。それは『ロザリオ』であって、もう1つは『聖母の汚れ無き御心に対する信心』だ。この2つで、これが最後で、これを逃すと他にはない」と言っています。「今悪魔は最後の段階に来ているので、霊魂を滅ぼそうと最大の力を、最大限の力を使って私たちを攻撃している。祖国に私たちが、祖国に帰らないように、飛行機に乗らないように、何とか妨害して私たちが行かないようにして、しかし2つの強力な手段があって、これによれば必ず大丈夫。ロザリオと汚れ無き心に対する信心。」
「マリア様は私たちの、危険な状態にある、祖国に帰るべき私たちの避難所として与えられました。」ファチマのルチアはそう言っています。マリア様はご自分でルチアに、「私の汚れ無き御心は天主へと導く道であり、避難所となるでしょう。私の汚れ無き御心に対する信心をする人には、救いを保証します。約束します。嘘はつきません」と仰っています。
この地上が約束するユートピア、この地上での楽園儚い喜びや楽しみ、嘘ばかりの約束と比べると何と大きな違いでしょうか。
愛する兄弟の皆さん、ですから今日はこの昇階誦、「私の心は、救い主である主に喜び踊る。」アレルヤ誦のマニフィカトを黙想しながら、私たちの心にもいつも、この天国に対する強い憧れと希望、そしてマリア様の持っておられた天国の喜びを、私たちもがいつも汚さずに持ち続ける事ができますように。「私たちは天国に行く身なのだ。私たちの洗礼の時に受けた、きれいな婚姻の礼服を逃しては汚してはならない。これを着て天国の婚姻の宴会に、多くの天使聖人たちがきれいに着飾って最高のドレスを着て、天主御子の婚姻の席に与っているのを、私たちも与らなければならないのだ」と思いつつ、今日はこの汚れ無き御心のミサを続けていきましょう。
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。
聖ピオ十世会日本のお説教・講話がここに掲載されています。