2016年5月4日 秋田巡礼 シュテーリン神父様霊的講話1
「私たちはマリア様のことを何も知らない」
同時通訳:小野田圭志神父
また今年も、皆さんの中にいる事ができてとても嬉しく思います。
まず既に長崎に一緒に巡礼をされた方々に申し上げたいと思います。この2つの部分が、巡礼の2つの部分が区別がある、違っているという事に気が付いて下さい。
長崎では私たちの目が開かれて、多くのものを見る機会でした。私たちは色々な場所に詣出て、歩き、イエズス様のなさった、マリア様を通してなさった多くのたくさんの出来事を驚きを以て見ました。それらを黙想しました。私たちは、日本の殉教者たちが私たちに与える素晴らしいメッセージに大変感動しました。永井博士とその周りを囲むカトリック信者たちの素晴らしい、原爆を受けた時のその反応を見ました。また素晴らしいコルベ神父様の模範と、その建てた無原罪の園を拝見しました。
これら全てはマリア様の、マリア様の御取り次ぎによってのみ、これら全てができたという事を理解しました。
今からは全く別の状況に入ります。秋田は色々なものを私たちに次から次へと見せてくれるわけではなく、それに見せてくれるものに関してはおそらくそれよりも貧しいものです。私たちのほとんどの時間はこのチャペルと講話で時を過ごそうとしています。私たちが見るものといえば、木造の木彫りの単純なマリア像です、それだけです。マリア様は、今までやった事とは全く別の事を私たちにするようにと招いています。マリア様は私たちの目を開けるというよりは閉じるように皆さんに求めています、というかもっと上手く言うと、「私たちの眼差しを1つの現実に、マリア様に固定させて、じっとそのマリア様を見つめる」という事を願っています。
マリア様は信じられないほど、非常に偉大な方であって、とても力があるという事が分かりました。100年の間に、異教徒たちを回心させて、100万人の殉教者という信仰の英雄たちに変える事ができました。マリア様はたった一瞬の間に人々の心を変えて、英雄に大聖人に変える事ができました。「マリア様、マリア様はそれほど素晴らしい力のある方であって、それほどの能力のある方であって、一体御身はどなたなのですか?」この問いの答えを求める為に、私たちはここにます。
私たちはマリア様の事をよく知らなければなりません。何故かというと、私たちはマリア様の事をよく知らないからです。
「え?神父様、何を仰っているのですか?私はちゃんとマリア様の事を知っています。マリア様にいつもお祈りしています。神父様よりもちゃんとお祈りしています。マリア様といつもお話ししています。それなのに『マリア様を知らない』と言うのですか?」
はい、知りません。私はコルベ神父様の言葉を引用して、それを繰り返して、「はい、知りません」と言います。実に私たちは、マリア様の事を何も知らないのです。私たちは確かに一般的に、マリア様が天主様の御母である、天主様の母がどのような方であるか知っているかのように思います。でも現実には私たちは、「マリア様の事をほとんど知らない」と告白しなければなりません。マリア様は知られていない世界のようです。でも子供たちによって知られる事を望んでいます。コルベ神父様はマリア様の事をずっと研究した特別の聖人です。しかしこの聖人が、「マリア様の事をよく知っていない」と言うのです。コルベ神父様と比べたら私たちは一体何なのでしょうか?
公教要理においてのマリア様に関する知識を持っています。確かに良い事です。でもちょっと聞いてみたいのですけれども、「公教要理に書かれているマリア様についての事をよく知っていますか?」「マリア様は天主の御母で、」「もちろん。マリア様は私たちの御母で、これがどういう事を意味するか知ってますか?」「もちろん知っています。」「マリア様は、マリア様がアンナ様の胎内に宿られた時に原罪の汚れ無く宿られたという事を知っていますか?」「はい、知っています。」
このような事は単語は、皆さんの頭の中に片隅に残っていますけれども、表面的な事しか知っていません。聖マキシミリアノ・コルベと全てのマリア聖人は言います、「もっと深みに、深くそれを理解しなければならない」と。
本当のマリア様に関する知識は、本当の、マリア様に対する本当の愛と、マリア様に対する本当の信心を養ってくれます。私たちはマリア様のタイトルを称号を口に出して使いますけれども、でもこのタイトルが称号が何を意味するかよく分かっていません。特にこの称号の内の1つ、とても有名な称号の1つに、私たちはスポットライトを当ててそれを理解する事にします。
それが「憐れみの御母」です。
「憐れみの御母」。それはどういう事でしょうか?私たちの今生きている時代の問題を考えて下さい。私たちはいつも非常に、ある人は強く頻繁にもうしょっちゅう、この言葉を何度も何度も繰り返して言うのですけれども、でもこれが一体何を意味するのかよく分かっていません。ですから言っている事も非常に表面的で、私たちが理解していない事をただ言う、口先だけで言っているのです。
例えば、「天主様の愛」という事を、この言葉だけを黙想してみて下さい。例えば私たちがお祈りする「天にまします我らの父よ」。「天にまします、ベラベラベラベラ」、「我らの父」、「父」というのはどういう意味でしょうか?父というのは、子供の為に命を与える人です。子供は父から、父親から遺産として全てを受けます。永遠の天主、この全地、目に見えるものと見えないものを創造された天主が、在りて在る者である天主、皆さんは無である存在ですけれども、その天主が皆さんの「父親になろう」と望んでいる。
幼きイエズスの聖テレジアは、この「我らの父よ」というこの言葉だけを黙想して、何ヶ月も何ヶ月も何ヶ月も黙想して、目に涙を浮かべながら、この天主の愛について黙想しました。
私たちは理解しなければなりません。つまり、本当に、現実に、このマリア様の称号が一体何を意味しているのか?その深みに深く入って行かなければなりません。
とすると、すぐに別の問題にぶつかります。何故かというと、絶望的に私たちは表面的に上面です。第2の問題は、私たちの聖なる宗教の深い神秘を、単なる物事であるかのように考えています。つまりどういう事かというと、「信仰の玄義、神秘」というのは、真理のリストであって、美しい教義の理論であり、或いは美しいパフォーマンスであったり行動であったり、或いは私たちの耳にとても心地良い音楽であったり、この全てこのようなものは本物でとても良いものですけれども、十分ではありません。
私たちの信仰、宗教の最も本質的なものは何かという「物事」ではなくて、「誰か」です。
私たちが無原罪のマリア様、インマクラータの黙想をする時に、その準備をする時に注意しなければならない事は、物や何かの、こう冷たい物事の事ではなくて、「生きている御方の事を考えている」という事を意識しなければなりません。コルベ神父様は言葉を続けて言います、「生きている御方であって、私たちを愛している方である。その方の事を考えているのだ」と。
マリア様の事を考える時には、生きておられる、私たちを愛しておられるそのマリア様を目の前に置いて下さい。私たちをご覧になっているその眼をよく見て下さい。マリア様が皆さんの前にこうやって手を出して、「おぉ娘よ、息子よ。さぁお前の手をおくれ」と手を、きれいな手を私たちの前に差し出している、その生きているマリア様を考えて下さい。
私たちは本当に汚らしい、もう惨めな子供なので、鼻水を垂らしているようですけれども、そのような子供にきれいな天の母が、「さぁ、子よ、いらっしゃい」と招いているのです。
私たちは、口を閉ざして、沈黙の内にこの美しいマリア様の方に目を向けて、マリア様の仰る事をよく聞いて下さい。
お祈りをする時に、私たちはどうやってお祈りをするでしょうか、いつも。皆さんは大体、「聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。マリア様、頭がちょっと、頭が痛くて、こうあの子の、私の友達がこんなに私の悪口を言って、このお金は今ポケットの中に空でお金が必要だし、仕事が必要で、この問題もあって、この早く解決して下さい、早く早く早く、…」とお祈りするのではないでしょうか。或いは、「あぁ、お祈りの時間だ!」と言って、「あぁ!」ダーッと走って来て、このミサの途中でこの教会の中に入ってきて、「あぁ、ちょっと」キリエを皆歌っている時に、「ハァ、ハァ、ハァ、」と入って来て、このちょうど空いている席を見つけてバッと入って来て、「キリ~エ~♪」と歌うのではないでしょうか。歌いながら、「あぁ何だこの隣の人は、ちょっと調子が外れて音痴だなぁ。」「あぁ、あの侍者、あいつ昨日僕の悪口を言ったよね。あいつが侍者やるべきじゃない。」聖体拝領の時には一体どこにいるでしょうか?
などと私たちはやっているのではないでしょうか。これはもうやめなければなりません。皆さんには今その機会が与えられています。
マリア様が特別にこの場所を選んで、特別に個人的にやって来て、特別の現存を私たちの前に与えて下さっています。それは私たちがルルドの聖ベルナデッタであるかのようになる事ができる為です。ベルナデッタはこう言っていました、「マリア様は私に全てを教えてくれました。」ベルナデッタがある時に、「あなたの霊性は何ですか?あなたの霊的な特徴は何ですか?」と言われた時に、こう簡単に答えました、「あぁ、私はマリア様を見て、マリア様の真似をするのです。マリア様が私にどうやってお祈りをするか、どうやってお友達に隣人に対するのか、どうやって生きるのか、という事を教えてくれます。」
マリア様を見てお祈りをする時には、本当にお祈りができます。お祈りというのはベラベラと喋る事ではありません。口を閉ざして、よくマリア様の言う事を聞く事です。目を開いて、マリア様の事を見つめる事です。
秋田の巡礼の最初において皆さんにお願いしたい事は、皆さんがマリア様にこうお願いする事です、「あぁマリア様、御身の事を深く知る事を許して下さい。私が御身の事を深く知り、深く愛する事ができるようにして下さい。」
愛する母親は、その愛する子供が自分の事を全てよく知る事を望んでいます。皆さんの内にはお母さんがいますけれども、お母さんの内で自分の子供の事に関心を持たない人がいますか。子供はお母さんに、ただお母さんの事を、ただお母さんからお小遣いをもらう時だけに関心を持つべきでしょうか。「お母さん、愛しています。」「娘よ、いくら欲しいのかい。」私たちはいつもマリア様に対してそんな事をやっているのではないでしょうか。「マリア様、お願いします。」
マリア様は、もしそういうだけだったら本当に悲しい思いをされる事でしょう。何故かというと、マリア様はもっともっともっと皆さんに、「与えたい」と思っているからです。何故かというと、マリア様は私たちに、「永遠の、終わりのない無限の幸せを与えたい」と思っているからです。この世が忘れてしまっている、本当の心の平安を、マリア様は与えたいと思っています。マリア様は私たちに光を与えて、「この世の生活が一体何であって、一体何故終わるのか、という事を教えたい」と思っているからです。皆さんは本当に弱々しいので、マリア様は「力を与えたい」と思っています。
皆さんは、どれほどマリア様が皆さんが来るのを待っていて、待って、待って、待って 待って、待ち焦がれていたのかを知りません。マリア様は全てを、これら全てを待ち構えていた全てを与える事ができるのですけれども、それは皆さんがある条件、つまり「マリア様の事を知りたい」と思う時にこれができるのです。
もう一度繰り返します。皆さんは理論的には、単語的には、マリア様の事をよく知っています、全て知っているかもしれません。私は皆さんに、天主様からの特別の啓示とかメッセージを受けて皆さんに「こうだ、こうだ」という新しい事を言うのではありません。私はですね皆さんに、「あぁ!皆さん、私はマリア様のビジョンを見ました。マリア様はこんな事を言いました」とは言いません。「あの、マリア様が私に何と言ったか教えてあげましょうか?マリア様はこういう風なお姿で、こういう風な顔をして、こうやってこうやってこんな事を言って、こうだこうだ」とは言いません。そうではありません。マリア様がご自分を与えるのはこういうやり方ではありません。もしも、この公教要理に書かれていないような新しい事を皆さんに話し始めたとしたら、おそらく私は異端者でしょう。
時々あるのです。「私はビジョンを見ました。マリア様が現れてこんな事を言った、こうだ、新しい事を言った、こうだこうだ」という事があります。夕食の後でこうカトリックの婦人たちが集まって、「あぁ、聞きました?あのマリア様があそこに現れたそうで!」「え!?あそこにも現れたそうで!」「え!?あそこにも!」というよくサークルがあります。そうすると、マリア様はあそこではこう言ったし、ここではああ言ったし、あそこでは…といって色んな話しがあって、「一体どうなっているんだろう?」と皆さん思う事でしょう。
私たちはですから、母なる聖なる公教会によって、「本当に、確かに、正真正銘の、マリア様の御出現だ、メッセージだ」と言われたものだけに限らなければなりません。その内のもっとも偉大なのはファチマとか、ルルドとか、ラサレットです。私たちは秋田に来ましたけれども、それは公教会によって、「確かに、正真正銘だ」と確認、確証されたからです。
ですからこの条件を満たして下さい、「マリア様の事を知りたい」と思って下さい。マリア様という巨大な、もう果てしのない、美しい世界の中に入る為には、私たちは沈黙でなければなりません。
皆さんが聖人となるか、ならないか失敗するか、或いは救霊を達成するか、できないかは、この数日にかかっているかもしれません。この与えられた時間を大切に使って下さい。携帯を使って、「あ、Yahooニュース」とか、「Googleニュース」これは日曜日、この巡礼が終わってからでもよく知る事ができます。「コンピューターゲーム」それはブーン!と外に投げ出して下さい。もしもこの世の事に気を散らして、「あのスターが」「あの事が」などと言って気を散らしていたら、マリア様の世界に入る事はできないのです。
もちろんお互いに私たちは隣人愛を実践して、話しをする機会もあります。でもそれは自由時間とかレクリエーションの、その隣人愛を実践しなければならない時に実践しして下さい。しかし皆さんができる限り、マリア様との親しい接触に、マリア様との親しい会話の中に入るようにお願いします。
沈黙を愛して下さい。お願いします、この聖堂では沈黙は絶対の義務であって、絶対のルールであって、この聖堂では沈黙が必ず守らなければなりません。
考えてもみて下さい。皆さんがこう御聖堂に、「マリア様とお話しをしたい。マリア様のお話しを聞きたい」と入って来た時に、その後ろで、「ベラベラベラ、クチャクチャクチャ、ベラベラベラ」と言っていると、そのせっかくのお話しもマリア様からの、このお祈りもできなくなってしまいます。ですから愛徳の為に、どうぞ沈黙を守って下さい。
もしもお話しをするならば、このホテルには他の場所もありますし、広さもあるので、そのスペースに移動して下さい。もしも「このホテルでは足りない」という時には森の中に入って、或いは外の公園に行っておしゃべりをして下さい。
でもマリア様との接触の為には、「言葉の沈黙」というのは第1の条件であって、それでは不十分です。「マリア様が私たちのものである」という事を望まなければなりません。「だから私は、他の事ではなくてマリア様の事だけを考えていたい」と思わなければなりません。「私の心と体全ては、マリア様とマリア様の御子イエズス様の事だけでいっぱいになりたい」と思わなければなりません。
沈黙の最大の敵は何か知っていますか?隣人ではありません。携帯でもありません。携帯は敵かもしれませんが、まだ悪い敵がいます。最大の敵は、私たちの中にいます。過去の事や未来の将来の事を考える事によって、沈黙が崩れてしまいます。ここでは皆さんは本当の沈黙に入らなければなりません。
皆さんよく思い出して下さい。天主様の偉大な業というのは、みな沈黙の内に行われました。
天主様が、イエズス・キリスト様が人となられた時には、大沈黙、絶対の沈黙の内に行われました。
イエズス様が贖いの業を十字架の上で成し遂げた時には、聖金曜日の絶対的な沈黙の内になされました。
イエズス様が、死と地獄と罪に勝ち、命へと復活した時に、その時も大沈黙の内になされました。
また御聖体における、御聖櫃における沈黙よりもさらに深い沈黙を、一体どこに見出す事ができますか?イエズス様がパンを自分の本当の体に変えて、ブドウ酒を自分の本当の御血に変えて、私たちの前にいらっしゃる時に、来る時に、大沈黙の内になされました。
天主様は雑音や騒音の中にはいらっしゃいません。沈黙というのが、天主様の雰囲気です。このような事を考えながら目の前に考えて、沈黙の中に入って下さい。
昨日起こった事、「あぁ、こんな事があった」「あぁ、昔こうだったなぁ」という事が頭の中に思い出される。これは普通の事です。よく年を取られたご婦人は、こう思い出します、「あぁ、何十年か前は私は本当に美しかった。」或いは老人になられた男性の方は、「あぁ、私がまだ若い時は本当に金持ちだった、力もあった、能力があった。」仕事の問題、家族の問題、隣人の問題が頭の中に走り駆けるかもしれません。マリア様と話をしようとする時に、そういう思いが目の前を駆け巡るかもしれません。
或いは将来の事を考える方もいらっしゃるかもしれません。「あぁ、来年何が起こるだろうか。」「次の地震はいつ起こるだろうか。」「来年教会はどうなっているだろうか。」皆さんの貧しい頭の中に、「来年は、来月はどうなるだろうか」という事が心配が駆け巡ります。
今の問題もあります。この周りの風景を見て、「あ、すごい。」「今日お昼は何を食べようかなぁ?お刺し身はもう嫌だ。あぁ刺し身は食べれなくてもう神父様にやっちゃうから、空腹で空腹で死んじゃうかもしれない。」「あぁ、シンガポールは良いなぁ、ここはもっと寒くて寒くて、シンガポールが懐かしい。」皆さんの今日の悲しみや苦しみが、それから皆さんの好奇心、「今日は何が起こるんだろう?何の話しがあるんだろう?」「あぁ、あのアメリカ合衆国の大統領は今日をどうやって朝起きたのだろうか?」「今日のニュースは何だろうか?」それが頭の中によぎります。ですからテキストで、Whats Appとかそういうニュースがそれが皆さんの貧しい頭の中によぎります。
どうやってこれが祈りになるでしょうか?マリア様の事にどうやって専念できるでしょうか?1つしかチャンスがありません。その1つのチャンスというのは、こう頭の中によぎる色んな事を、「横にやる」という事です。それが「沈黙」という事です。それがみなさんの今日のお仕事です。これが今日の戦いです。何故でしょうか?何故かというと、こう過去、現在、未来がこう来るときに、「あ、マリア様。あ、こうではなくてマリア様の事だけを考えたいのです」と祈るのです。そこで、「あぁマリア様、めでたし聖寵充ち満てるマリア…」すると、バッとこれがやって来て「昨日の事と、今日の事、あぁ足が寒いし、パフラゴニアという国からの別のニュースがWhats Appに上がったし、」「いやいやそうではなくて、マリア様、」という事の繰り返しです。それが私たちの本性です。
このWhats Appが、私の目の前に来たいと思っています。でも皆さんこれを後ろに押し倒して下さい。でも戻ってきます、ビヨヨヨ~ン、ビヨヨヨ~ンと。皆さん一生懸命それを倒して下さい。できる限りこれを長く留めておいて下さい。もしも3分、これを長く留める事ができたら、成功です。皆さん喜んで下さい。
ですから皆さん、神父様たちの所に行って、「神父様、お祈りできません。」と仰らないで下さい。「神父様、天主様はもう私の事を愛していないのです。何故かというともう雑念でお祈りできません。私はもう極悪の罪人で、もうお祈りできません。」もしかしたら皆さん告解でそう仰って、そういう告白をするかもしれません。何故かというと、皆さんは公教要理の事をよく知らないからです。
もしも「雑念を望まないならば、それに同意しないならば」それは罪ではありません。何故かというと、これが私たちの人間の性であって、皆こうなのです。これは告解の材料ではなくて、戦いの材料です。
この今日、この講話の最初で皆さんにこの事を申し上げたのは何故かというと、これから続く色んなお話しが、この雑念とこの気を散らす事によって、頭の中に心に染み通らないからです。皆さんの中には、雑念をこうやっていつも追い払うならば、それらこのように蚊を追い払うかのように考えるなら、蚊がブンブンやって来たらこの蚊を取ろうと立ち上がって、この蚊と悪戦苦闘するのではなくて、蚊がたとえ来ても、マリア様の方に集中して、蚊がこの止まったら追っぱらって、蚊が止まったら追っぱらって、というふうに、蚊の事よりも、マリア様の事に集中して下さい。
皆さん私が冗談を言っているかのように思うかもしれませんけれども、これがどれほど重要か理解して下さい。私の人間の性の弱さのできる限りを使って、それにもかかわらず、「マリア様、御身と共にいる事を許して下さい。それを望みます」と祈って下さい。
しかしもしも故意に「何かニュースがあるかなぁ?」とか或いは、「何か他の面白い事はないかなぁ?」とか言って、わざとこの気晴らしとか雑念を探して求めるのであれば、マリア様は私たちの中に入る事ができなくなってしまいます。
皆さん、固い決心を立てて下さい。今から跪いて、イエズス様の前で決心を立てましょう。
聖父と聖子と聖霊との御名よりて、アーメン。
我が主イエズス・キリスト、御身は御聖櫃の内に真に在し給う。
願わくは、我が心を変えて下さい。私の心に愛を満たして下さい。御身の母を愛する事を許して下さい。今までよりも更に御身を愛する事ができるようにして下さい。私の心を全てを尽くして愛する事ができる為に。マリア様の汚れ無き御心の中に入る事ができる為に。私の心がいつも御身と御身の御子イエズス様の事で専念する事ができますように。御身イエズス・キリストとマリア様の事に心を奪われる事ができますように。
至聖なるイエズスの聖心、我らを憐れみ給え。
聖マリアの汚れ無き御心、我らの為に祈り給え。
聖ヨゼフ、我らの為に祈り給え。
聖マキシミリアノ・マリア・コルベ、我らの為に祈り給え。
聖父と聖子と聖霊との御名よりて、アーメン。
聖ピオ十世会日本のお説教・講話がここに掲載されています。
「私たちはマリア様のことを何も知らない」
同時通訳:小野田圭志神父
また今年も、皆さんの中にいる事ができてとても嬉しく思います。
まず既に長崎に一緒に巡礼をされた方々に申し上げたいと思います。この2つの部分が、巡礼の2つの部分が区別がある、違っているという事に気が付いて下さい。
長崎では私たちの目が開かれて、多くのものを見る機会でした。私たちは色々な場所に詣出て、歩き、イエズス様のなさった、マリア様を通してなさった多くのたくさんの出来事を驚きを以て見ました。それらを黙想しました。私たちは、日本の殉教者たちが私たちに与える素晴らしいメッセージに大変感動しました。永井博士とその周りを囲むカトリック信者たちの素晴らしい、原爆を受けた時のその反応を見ました。また素晴らしいコルベ神父様の模範と、その建てた無原罪の園を拝見しました。
これら全てはマリア様の、マリア様の御取り次ぎによってのみ、これら全てができたという事を理解しました。
今からは全く別の状況に入ります。秋田は色々なものを私たちに次から次へと見せてくれるわけではなく、それに見せてくれるものに関してはおそらくそれよりも貧しいものです。私たちのほとんどの時間はこのチャペルと講話で時を過ごそうとしています。私たちが見るものといえば、木造の木彫りの単純なマリア像です、それだけです。マリア様は、今までやった事とは全く別の事を私たちにするようにと招いています。マリア様は私たちの目を開けるというよりは閉じるように皆さんに求めています、というかもっと上手く言うと、「私たちの眼差しを1つの現実に、マリア様に固定させて、じっとそのマリア様を見つめる」という事を願っています。
マリア様は信じられないほど、非常に偉大な方であって、とても力があるという事が分かりました。100年の間に、異教徒たちを回心させて、100万人の殉教者という信仰の英雄たちに変える事ができました。マリア様はたった一瞬の間に人々の心を変えて、英雄に大聖人に変える事ができました。「マリア様、マリア様はそれほど素晴らしい力のある方であって、それほどの能力のある方であって、一体御身はどなたなのですか?」この問いの答えを求める為に、私たちはここにます。
私たちはマリア様の事をよく知らなければなりません。何故かというと、私たちはマリア様の事をよく知らないからです。
「え?神父様、何を仰っているのですか?私はちゃんとマリア様の事を知っています。マリア様にいつもお祈りしています。神父様よりもちゃんとお祈りしています。マリア様といつもお話ししています。それなのに『マリア様を知らない』と言うのですか?」
はい、知りません。私はコルベ神父様の言葉を引用して、それを繰り返して、「はい、知りません」と言います。実に私たちは、マリア様の事を何も知らないのです。私たちは確かに一般的に、マリア様が天主様の御母である、天主様の母がどのような方であるか知っているかのように思います。でも現実には私たちは、「マリア様の事をほとんど知らない」と告白しなければなりません。マリア様は知られていない世界のようです。でも子供たちによって知られる事を望んでいます。コルベ神父様はマリア様の事をずっと研究した特別の聖人です。しかしこの聖人が、「マリア様の事をよく知っていない」と言うのです。コルベ神父様と比べたら私たちは一体何なのでしょうか?
公教要理においてのマリア様に関する知識を持っています。確かに良い事です。でもちょっと聞いてみたいのですけれども、「公教要理に書かれているマリア様についての事をよく知っていますか?」「マリア様は天主の御母で、」「もちろん。マリア様は私たちの御母で、これがどういう事を意味するか知ってますか?」「もちろん知っています。」「マリア様は、マリア様がアンナ様の胎内に宿られた時に原罪の汚れ無く宿られたという事を知っていますか?」「はい、知っています。」
このような事は単語は、皆さんの頭の中に片隅に残っていますけれども、表面的な事しか知っていません。聖マキシミリアノ・コルベと全てのマリア聖人は言います、「もっと深みに、深くそれを理解しなければならない」と。
本当のマリア様に関する知識は、本当の、マリア様に対する本当の愛と、マリア様に対する本当の信心を養ってくれます。私たちはマリア様のタイトルを称号を口に出して使いますけれども、でもこのタイトルが称号が何を意味するかよく分かっていません。特にこの称号の内の1つ、とても有名な称号の1つに、私たちはスポットライトを当ててそれを理解する事にします。
それが「憐れみの御母」です。
「憐れみの御母」。それはどういう事でしょうか?私たちの今生きている時代の問題を考えて下さい。私たちはいつも非常に、ある人は強く頻繁にもうしょっちゅう、この言葉を何度も何度も繰り返して言うのですけれども、でもこれが一体何を意味するのかよく分かっていません。ですから言っている事も非常に表面的で、私たちが理解していない事をただ言う、口先だけで言っているのです。
例えば、「天主様の愛」という事を、この言葉だけを黙想してみて下さい。例えば私たちがお祈りする「天にまします我らの父よ」。「天にまします、ベラベラベラベラ」、「我らの父」、「父」というのはどういう意味でしょうか?父というのは、子供の為に命を与える人です。子供は父から、父親から遺産として全てを受けます。永遠の天主、この全地、目に見えるものと見えないものを創造された天主が、在りて在る者である天主、皆さんは無である存在ですけれども、その天主が皆さんの「父親になろう」と望んでいる。
幼きイエズスの聖テレジアは、この「我らの父よ」というこの言葉だけを黙想して、何ヶ月も何ヶ月も何ヶ月も黙想して、目に涙を浮かべながら、この天主の愛について黙想しました。
私たちは理解しなければなりません。つまり、本当に、現実に、このマリア様の称号が一体何を意味しているのか?その深みに深く入って行かなければなりません。
とすると、すぐに別の問題にぶつかります。何故かというと、絶望的に私たちは表面的に上面です。第2の問題は、私たちの聖なる宗教の深い神秘を、単なる物事であるかのように考えています。つまりどういう事かというと、「信仰の玄義、神秘」というのは、真理のリストであって、美しい教義の理論であり、或いは美しいパフォーマンスであったり行動であったり、或いは私たちの耳にとても心地良い音楽であったり、この全てこのようなものは本物でとても良いものですけれども、十分ではありません。
私たちの信仰、宗教の最も本質的なものは何かという「物事」ではなくて、「誰か」です。
私たちが無原罪のマリア様、インマクラータの黙想をする時に、その準備をする時に注意しなければならない事は、物や何かの、こう冷たい物事の事ではなくて、「生きている御方の事を考えている」という事を意識しなければなりません。コルベ神父様は言葉を続けて言います、「生きている御方であって、私たちを愛している方である。その方の事を考えているのだ」と。
マリア様の事を考える時には、生きておられる、私たちを愛しておられるそのマリア様を目の前に置いて下さい。私たちをご覧になっているその眼をよく見て下さい。マリア様が皆さんの前にこうやって手を出して、「おぉ娘よ、息子よ。さぁお前の手をおくれ」と手を、きれいな手を私たちの前に差し出している、その生きているマリア様を考えて下さい。
私たちは本当に汚らしい、もう惨めな子供なので、鼻水を垂らしているようですけれども、そのような子供にきれいな天の母が、「さぁ、子よ、いらっしゃい」と招いているのです。
私たちは、口を閉ざして、沈黙の内にこの美しいマリア様の方に目を向けて、マリア様の仰る事をよく聞いて下さい。
お祈りをする時に、私たちはどうやってお祈りをするでしょうか、いつも。皆さんは大体、「聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。マリア様、頭がちょっと、頭が痛くて、こうあの子の、私の友達がこんなに私の悪口を言って、このお金は今ポケットの中に空でお金が必要だし、仕事が必要で、この問題もあって、この早く解決して下さい、早く早く早く、…」とお祈りするのではないでしょうか。或いは、「あぁ、お祈りの時間だ!」と言って、「あぁ!」ダーッと走って来て、このミサの途中でこの教会の中に入ってきて、「あぁ、ちょっと」キリエを皆歌っている時に、「ハァ、ハァ、ハァ、」と入って来て、このちょうど空いている席を見つけてバッと入って来て、「キリ~エ~♪」と歌うのではないでしょうか。歌いながら、「あぁ何だこの隣の人は、ちょっと調子が外れて音痴だなぁ。」「あぁ、あの侍者、あいつ昨日僕の悪口を言ったよね。あいつが侍者やるべきじゃない。」聖体拝領の時には一体どこにいるでしょうか?
などと私たちはやっているのではないでしょうか。これはもうやめなければなりません。皆さんには今その機会が与えられています。
マリア様が特別にこの場所を選んで、特別に個人的にやって来て、特別の現存を私たちの前に与えて下さっています。それは私たちがルルドの聖ベルナデッタであるかのようになる事ができる為です。ベルナデッタはこう言っていました、「マリア様は私に全てを教えてくれました。」ベルナデッタがある時に、「あなたの霊性は何ですか?あなたの霊的な特徴は何ですか?」と言われた時に、こう簡単に答えました、「あぁ、私はマリア様を見て、マリア様の真似をするのです。マリア様が私にどうやってお祈りをするか、どうやってお友達に隣人に対するのか、どうやって生きるのか、という事を教えてくれます。」
マリア様を見てお祈りをする時には、本当にお祈りができます。お祈りというのはベラベラと喋る事ではありません。口を閉ざして、よくマリア様の言う事を聞く事です。目を開いて、マリア様の事を見つめる事です。
秋田の巡礼の最初において皆さんにお願いしたい事は、皆さんがマリア様にこうお願いする事です、「あぁマリア様、御身の事を深く知る事を許して下さい。私が御身の事を深く知り、深く愛する事ができるようにして下さい。」
愛する母親は、その愛する子供が自分の事を全てよく知る事を望んでいます。皆さんの内にはお母さんがいますけれども、お母さんの内で自分の子供の事に関心を持たない人がいますか。子供はお母さんに、ただお母さんの事を、ただお母さんからお小遣いをもらう時だけに関心を持つべきでしょうか。「お母さん、愛しています。」「娘よ、いくら欲しいのかい。」私たちはいつもマリア様に対してそんな事をやっているのではないでしょうか。「マリア様、お願いします。」
マリア様は、もしそういうだけだったら本当に悲しい思いをされる事でしょう。何故かというと、マリア様はもっともっともっと皆さんに、「与えたい」と思っているからです。何故かというと、マリア様は私たちに、「永遠の、終わりのない無限の幸せを与えたい」と思っているからです。この世が忘れてしまっている、本当の心の平安を、マリア様は与えたいと思っています。マリア様は私たちに光を与えて、「この世の生活が一体何であって、一体何故終わるのか、という事を教えたい」と思っているからです。皆さんは本当に弱々しいので、マリア様は「力を与えたい」と思っています。
皆さんは、どれほどマリア様が皆さんが来るのを待っていて、待って、待って、待って 待って、待ち焦がれていたのかを知りません。マリア様は全てを、これら全てを待ち構えていた全てを与える事ができるのですけれども、それは皆さんがある条件、つまり「マリア様の事を知りたい」と思う時にこれができるのです。
もう一度繰り返します。皆さんは理論的には、単語的には、マリア様の事をよく知っています、全て知っているかもしれません。私は皆さんに、天主様からの特別の啓示とかメッセージを受けて皆さんに「こうだ、こうだ」という新しい事を言うのではありません。私はですね皆さんに、「あぁ!皆さん、私はマリア様のビジョンを見ました。マリア様はこんな事を言いました」とは言いません。「あの、マリア様が私に何と言ったか教えてあげましょうか?マリア様はこういう風なお姿で、こういう風な顔をして、こうやってこうやってこんな事を言って、こうだこうだ」とは言いません。そうではありません。マリア様がご自分を与えるのはこういうやり方ではありません。もしも、この公教要理に書かれていないような新しい事を皆さんに話し始めたとしたら、おそらく私は異端者でしょう。
時々あるのです。「私はビジョンを見ました。マリア様が現れてこんな事を言った、こうだ、新しい事を言った、こうだこうだ」という事があります。夕食の後でこうカトリックの婦人たちが集まって、「あぁ、聞きました?あのマリア様があそこに現れたそうで!」「え!?あそこにも現れたそうで!」「え!?あそこにも!」というよくサークルがあります。そうすると、マリア様はあそこではこう言ったし、ここではああ言ったし、あそこでは…といって色んな話しがあって、「一体どうなっているんだろう?」と皆さん思う事でしょう。
私たちはですから、母なる聖なる公教会によって、「本当に、確かに、正真正銘の、マリア様の御出現だ、メッセージだ」と言われたものだけに限らなければなりません。その内のもっとも偉大なのはファチマとか、ルルドとか、ラサレットです。私たちは秋田に来ましたけれども、それは公教会によって、「確かに、正真正銘だ」と確認、確証されたからです。
ですからこの条件を満たして下さい、「マリア様の事を知りたい」と思って下さい。マリア様という巨大な、もう果てしのない、美しい世界の中に入る為には、私たちは沈黙でなければなりません。
皆さんが聖人となるか、ならないか失敗するか、或いは救霊を達成するか、できないかは、この数日にかかっているかもしれません。この与えられた時間を大切に使って下さい。携帯を使って、「あ、Yahooニュース」とか、「Googleニュース」これは日曜日、この巡礼が終わってからでもよく知る事ができます。「コンピューターゲーム」それはブーン!と外に投げ出して下さい。もしもこの世の事に気を散らして、「あのスターが」「あの事が」などと言って気を散らしていたら、マリア様の世界に入る事はできないのです。
もちろんお互いに私たちは隣人愛を実践して、話しをする機会もあります。でもそれは自由時間とかレクリエーションの、その隣人愛を実践しなければならない時に実践しして下さい。しかし皆さんができる限り、マリア様との親しい接触に、マリア様との親しい会話の中に入るようにお願いします。
沈黙を愛して下さい。お願いします、この聖堂では沈黙は絶対の義務であって、絶対のルールであって、この聖堂では沈黙が必ず守らなければなりません。
考えてもみて下さい。皆さんがこう御聖堂に、「マリア様とお話しをしたい。マリア様のお話しを聞きたい」と入って来た時に、その後ろで、「ベラベラベラ、クチャクチャクチャ、ベラベラベラ」と言っていると、そのせっかくのお話しもマリア様からの、このお祈りもできなくなってしまいます。ですから愛徳の為に、どうぞ沈黙を守って下さい。
もしもお話しをするならば、このホテルには他の場所もありますし、広さもあるので、そのスペースに移動して下さい。もしも「このホテルでは足りない」という時には森の中に入って、或いは外の公園に行っておしゃべりをして下さい。
でもマリア様との接触の為には、「言葉の沈黙」というのは第1の条件であって、それでは不十分です。「マリア様が私たちのものである」という事を望まなければなりません。「だから私は、他の事ではなくてマリア様の事だけを考えていたい」と思わなければなりません。「私の心と体全ては、マリア様とマリア様の御子イエズス様の事だけでいっぱいになりたい」と思わなければなりません。
沈黙の最大の敵は何か知っていますか?隣人ではありません。携帯でもありません。携帯は敵かもしれませんが、まだ悪い敵がいます。最大の敵は、私たちの中にいます。過去の事や未来の将来の事を考える事によって、沈黙が崩れてしまいます。ここでは皆さんは本当の沈黙に入らなければなりません。
皆さんよく思い出して下さい。天主様の偉大な業というのは、みな沈黙の内に行われました。
天主様が、イエズス・キリスト様が人となられた時には、大沈黙、絶対の沈黙の内に行われました。
イエズス様が贖いの業を十字架の上で成し遂げた時には、聖金曜日の絶対的な沈黙の内になされました。
イエズス様が、死と地獄と罪に勝ち、命へと復活した時に、その時も大沈黙の内になされました。
また御聖体における、御聖櫃における沈黙よりもさらに深い沈黙を、一体どこに見出す事ができますか?イエズス様がパンを自分の本当の体に変えて、ブドウ酒を自分の本当の御血に変えて、私たちの前にいらっしゃる時に、来る時に、大沈黙の内になされました。
天主様は雑音や騒音の中にはいらっしゃいません。沈黙というのが、天主様の雰囲気です。このような事を考えながら目の前に考えて、沈黙の中に入って下さい。
昨日起こった事、「あぁ、こんな事があった」「あぁ、昔こうだったなぁ」という事が頭の中に思い出される。これは普通の事です。よく年を取られたご婦人は、こう思い出します、「あぁ、何十年か前は私は本当に美しかった。」或いは老人になられた男性の方は、「あぁ、私がまだ若い時は本当に金持ちだった、力もあった、能力があった。」仕事の問題、家族の問題、隣人の問題が頭の中に走り駆けるかもしれません。マリア様と話をしようとする時に、そういう思いが目の前を駆け巡るかもしれません。
或いは将来の事を考える方もいらっしゃるかもしれません。「あぁ、来年何が起こるだろうか。」「次の地震はいつ起こるだろうか。」「来年教会はどうなっているだろうか。」皆さんの貧しい頭の中に、「来年は、来月はどうなるだろうか」という事が心配が駆け巡ります。
今の問題もあります。この周りの風景を見て、「あ、すごい。」「今日お昼は何を食べようかなぁ?お刺し身はもう嫌だ。あぁ刺し身は食べれなくてもう神父様にやっちゃうから、空腹で空腹で死んじゃうかもしれない。」「あぁ、シンガポールは良いなぁ、ここはもっと寒くて寒くて、シンガポールが懐かしい。」皆さんの今日の悲しみや苦しみが、それから皆さんの好奇心、「今日は何が起こるんだろう?何の話しがあるんだろう?」「あぁ、あのアメリカ合衆国の大統領は今日をどうやって朝起きたのだろうか?」「今日のニュースは何だろうか?」それが頭の中によぎります。ですからテキストで、Whats Appとかそういうニュースがそれが皆さんの貧しい頭の中によぎります。
どうやってこれが祈りになるでしょうか?マリア様の事にどうやって専念できるでしょうか?1つしかチャンスがありません。その1つのチャンスというのは、こう頭の中によぎる色んな事を、「横にやる」という事です。それが「沈黙」という事です。それがみなさんの今日のお仕事です。これが今日の戦いです。何故でしょうか?何故かというと、こう過去、現在、未来がこう来るときに、「あ、マリア様。あ、こうではなくてマリア様の事だけを考えたいのです」と祈るのです。そこで、「あぁマリア様、めでたし聖寵充ち満てるマリア…」すると、バッとこれがやって来て「昨日の事と、今日の事、あぁ足が寒いし、パフラゴニアという国からの別のニュースがWhats Appに上がったし、」「いやいやそうではなくて、マリア様、」という事の繰り返しです。それが私たちの本性です。
このWhats Appが、私の目の前に来たいと思っています。でも皆さんこれを後ろに押し倒して下さい。でも戻ってきます、ビヨヨヨ~ン、ビヨヨヨ~ンと。皆さん一生懸命それを倒して下さい。できる限りこれを長く留めておいて下さい。もしも3分、これを長く留める事ができたら、成功です。皆さん喜んで下さい。
ですから皆さん、神父様たちの所に行って、「神父様、お祈りできません。」と仰らないで下さい。「神父様、天主様はもう私の事を愛していないのです。何故かというともう雑念でお祈りできません。私はもう極悪の罪人で、もうお祈りできません。」もしかしたら皆さん告解でそう仰って、そういう告白をするかもしれません。何故かというと、皆さんは公教要理の事をよく知らないからです。
もしも「雑念を望まないならば、それに同意しないならば」それは罪ではありません。何故かというと、これが私たちの人間の性であって、皆こうなのです。これは告解の材料ではなくて、戦いの材料です。
この今日、この講話の最初で皆さんにこの事を申し上げたのは何故かというと、これから続く色んなお話しが、この雑念とこの気を散らす事によって、頭の中に心に染み通らないからです。皆さんの中には、雑念をこうやっていつも追い払うならば、それらこのように蚊を追い払うかのように考えるなら、蚊がブンブンやって来たらこの蚊を取ろうと立ち上がって、この蚊と悪戦苦闘するのではなくて、蚊がたとえ来ても、マリア様の方に集中して、蚊がこの止まったら追っぱらって、蚊が止まったら追っぱらって、というふうに、蚊の事よりも、マリア様の事に集中して下さい。
皆さん私が冗談を言っているかのように思うかもしれませんけれども、これがどれほど重要か理解して下さい。私の人間の性の弱さのできる限りを使って、それにもかかわらず、「マリア様、御身と共にいる事を許して下さい。それを望みます」と祈って下さい。
しかしもしも故意に「何かニュースがあるかなぁ?」とか或いは、「何か他の面白い事はないかなぁ?」とか言って、わざとこの気晴らしとか雑念を探して求めるのであれば、マリア様は私たちの中に入る事ができなくなってしまいます。
皆さん、固い決心を立てて下さい。今から跪いて、イエズス様の前で決心を立てましょう。
聖父と聖子と聖霊との御名よりて、アーメン。
我が主イエズス・キリスト、御身は御聖櫃の内に真に在し給う。
願わくは、我が心を変えて下さい。私の心に愛を満たして下さい。御身の母を愛する事を許して下さい。今までよりも更に御身を愛する事ができるようにして下さい。私の心を全てを尽くして愛する事ができる為に。マリア様の汚れ無き御心の中に入る事ができる為に。私の心がいつも御身と御身の御子イエズス様の事で専念する事ができますように。御身イエズス・キリストとマリア様の事に心を奪われる事ができますように。
至聖なるイエズスの聖心、我らを憐れみ給え。
聖マリアの汚れ無き御心、我らの為に祈り給え。
聖ヨゼフ、我らの為に祈り給え。
聖マキシミリアノ・マリア・コルベ、我らの為に祈り給え。
聖父と聖子と聖霊との御名よりて、アーメン。
聖ピオ十世会日本のお説教・講話がここに掲載されています。