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秋田巡礼-霊的講話【2】-2016年5月4日シュテーリン神父様「天主の憐れみとはどういうことか」

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2016年5月4日 秋田巡礼 シュテーリン神父様霊的講話2
「天主の憐れみとはどういうことか」
-憐れみの御母を深く知る為に-
同時通訳:小野田圭志神父

では続きをお話します。

今年は憐れみの聖年ですので、「憐れみの御母であるマリア様」についてお話しをしたいと思います。憐れみの聖年については、また後にしばらくしてからお話しますが、まず最初に「憐れみの御母」、つまりマリア様の中に深く、もっと近くに皆さんを連れて行きたいと思っています。マリア様のその存在の深みの中に深く入っていく為には、マリア様の色々な、どのような方であるか、色々な角度から考察しなければなりません。

コルベ神父様によると、ルルドの観点は、マリア様の「無原罪の御宿り」です。ファチマは、「汚れ無き御心」です。或いはマリア様を「元后」として、「女王」として考える運動もあります。

例えばコルベ神父様と聖グリニョン・ド・モンフォールは、マリア様を、「母」であり、「元后」として「女王」として見ました。

教会の非常に初期からあったのが、この「憐れみの御母」という称号です。「天主の御憐れみ」、「マリア様の憐れみ」という事は、まぁ一応言葉の意味は分かります。イエズス様の「憐れみ深い聖心」、マリア様の「憐れみ深い御心」というのは、「愛する御心が私たちの、惨めな私たちに愛を注いでいる」という事です。

どのような本物の御出現であれ、それが本物であれば、「マリア様がこのような、このように罪人を憐れんで下さる」というタイトルに気が付きます。

今日の午後、私たちは秋田のマリア様のその御像の前に行きますけれども、皆さんが何千何百万ものお願いをマリア様に捧げる前に、まずマリア様のその御顔をご覧になって、マリア様を眺めて下さい。ご覧になってマリア様に、「あぁ、御母マリア様よ。み母マリアよ、御身は何とお優しく、何と憐れみ深い方でしょうか。私にとって、私にどれほどの優しい方だったでしょうか」と祈って下さい。

マリア様の御像、或いはイコン、或いは御影の中には、特に「憐れみの母」という事をよく表しているものがあります。

ファチマのマリア様には2つの御像があります。マリア様が最初に現れた時の、「手を合わせて雲の上に立っている御像」です。第2の御像は、御心、「ご自分の御心を見せて、両手を開いている御像」です。これは第2の御出現に基づいているものです。第2の御像をよくご覧になってこれを黙想すると、「マリア様がどれほど御憐れみに満ちた方か」という事がよく理解できます。

北欧のヴィリニュスという所には、最も太古からあるマリア様のイコンがあります。このイコンのタイトルが、「憐れみの御母“Mater misericordiae”」です。この個人的な話で申し訳ありませんが、私には本当に一番好きな所です。何故かというと、このイコンの、奇跡を起こしているイコンの2m先まで近付いて、この前に跪いてお祈りする事ができるからです。誰もそこに行った人は同じ事を思います、「マリア様は本当に、憐れみ深い御母である」と。


グアダルーペでも同じ事を感じます。ちょうどこのヴィリニュスのマリア様と同じように、グアダルーペのマリア様も私たちの方に目を眼差しを向けていて、マリア様に馳せ寄って来る人たちに全て、「憐れみで包みたい」という態度を見せています。

「憐れみの御母」という事をよく仰って、説教をした3人の聖人たちがいます。中世の偉大な教会博士であり教父、クレルヴォーの聖ベルナルドです。聖コルベ神父様は、クレルヴォーの聖ベルナルドをよく引用するのが好きでした、「天主は、正義であって憐れみである。しかし天主は、『憐れみ』というその属性をマリア様に全て与えて、自分は『正義』というタイトルだけを持つ事を望んだ。」ベルナルドはこう言います、「おぉマリアよ、天主は御身に、憐れみの秩序の王国を全て委ね給うた」と。

この言葉をよく、よく、よく、黙想しなければなりません。聖コルベ神父様によると、「もしもマリア様のこの中に入ろうと望むならば、この言葉からスタートしなければならない」と。

皆さん、これから少し深みに入るので、難しいと思われるような話しをするかもしれません。しかし皆さんあの、睡眠時間にならない事を期待しています、司祭がその神秘の深みに深めれば深めるほど、皆さんの頭を深く深く沈んでいくという事がないように。(^_^;)

まず、「憐れみの御母」という事を理解する為に、「憐れみ」という言葉が理解できていなければなりません。ところでとてもおもしろい事が起こっています。教皇様が「憐れみの聖年」聖なる年を宣言したのですけれども、「では、一体憐れみとは何か?」という事を深く私たちに説明しようとする方がいらっしゃらないのです。

よく起こる事ですけれども、「言葉は表面的に使うのですけれども、その一体何を意味するかよく分かっていない」という事がよくあります。よくこのような人々は、「自由!」「自由!」「自由!」と言いますけれども、でも「自由」という言葉の本当の意味を知っているのでしょうか?

また人々がよく使って、乱用してさえいるのが、「愛」という言葉です。「愛」という言葉の名前で全ての事をしています。カトリックの中でさえも、「愛」というものが本当は何を意味するかよく理解していない人がいます。

この私たちの人生と、聖なる宗教のキーワードである「憐れみ」という事の、その言葉の何を意味するのかをよく知らなければなりません。

では、「憐れみ」という言葉の本質と、そのエッセンスを黙想します。

「憐れみ」というのは、天主様の「属性」です。天主様は、天主様の属性というものには他に何があるかというと、「全能」であったり、「全知」であったり、或いは「全善」であったり、「永遠」であったりします。天主は「単純」であって、天主は「愛」であって、天主は「憐れみ」であります。

「憐れみ」というのはラテン語では、「misericordiae」と言います。この「憐れみ“ misericordiae ”」というのは、3つの言葉が含まれています。1つは「miser」という言葉。次に、「cor」です。その次に、その「miser」と「cor」の間に「i」という言葉で音で繋がっています。「misericordiae」の「miser」の意味は、「憐れ」という意味です。憐れであって、悲惨であって、もう目も当てられなくて、どうしようもなくて、もう助けを必要としている、という状態です。「misericordiae」の「cor」というのは、「心」という意味です。

では「憐れみ」とは何でしょうか?

まず「憐れみ」という言葉の中には要素の中には、「憐れ、惨め」という意味があります。これが私たちの今置かれている状況です。何故かというと、私たち被造物は自分では何も無いからです。私たちは貧しい「無」です。聖マキシミリアノ・コルベ神父様は皆さんの事を、「0(ゼロ)だ」と言っています。0。全く0。何にもない「無」、0です。全てが欠けています。もしも喉が渇いたとしても、自分で喉の渇きを癒やす事もできません。裸です。その私たちは自分の弱みを痛いほど感じています。

皆さんが一番よく、「無である」という事を感じるのはいつでしょうか?病気の時です。病気の時はもう弱々しく、もう惨めで、憐れな状態に陥っています。病気であればあるほど、病気が苦しければ苦しいほど、ますます憐れです。

「心」は命の源です、命です。ここでは実は、「天主様の聖心」の心の事を話しています。天主様の、命の源である天主様の「心」は、全てを持っています。天主の聖心は、「存在の充満」です。無限の大洋の大海の海のその豊かさです。

皆さん、この「憐れみ“ misericordiae ”」の中には、2つの両極の極端が1つに混ざっています。1つは「無に等しい憐れ」と、それから「豊かな無限の富である天主の心」です。1つには「究極の貧しさ」、反対には「究極の豊かさ」があります。一方では「無」があり、もう片方では「存在の充満」があります。一方には「惨めさであり、病気であり、病であり、死」があります。もう一方には「若々しさと、命と、喜び」があります。

ところで憐れみの本質というのは、この両極端が1つに混ざっているところに本質があります。この豊かな充満、「存在の充満」である心が、「無」に心を留めるのです。「無限の豊かさ」が、「惨めな、憐れな無」に心を留めます。光は、この闇を照らそうとします。この富が、裸を衣を着せようとします。生ける泉の生ける水は、この渇ける無を癒やそうとします。在りて在るものが、無を満たそうとします。

聖トマス・アクイナス、これは神学者の中で最も偉大な神学者ですけれども、「憐れみ」という天主の属性についてそれに言及して、「『憐れみ』というのは、天主の属性の中で最も偉大な属性である。」

皆さん反論を出すかもしれません、「聖トマス様、でも旧約聖書によると、『天主は在りて在るものである。』在りて在る、この『在る』というのが、天主の一番最も重要なものであって、『憐れみ』ではないのじゃないですか?聖トマスよ。」「しかも新約聖書によれば、『天主は愛である』と聖ヨハネは言っています。だから憐れみではなく『愛』が、天主の真の最も大切な属性です、聖トマス様。聖トマス・アクイナス様、本当に最も最高の神学者なのでしょうか?」

聖トマス・アクイナスは、こうその反論に異論に回答しています。

天主の「憐れみ」というのをよく頭の中に記憶させて下さい。永遠の天主、無限の大海の海であるかのような天主、この大海の大海原と比べると、水の一滴でさえもないような、無である私たちをご覧になる。この無限の在りて在るものが、この無に等しい、全く無いに等しい「無」に関心を抱いている。

皆さん、皆さんは家でお掃除をする時に、この机の上に溜まったちょっとゴミの中に、「あぁ、偉大なゴミ。ゴミよ、塵よ」と仰るでしょうか?天主様は、この無に等しいゴミとか、この塵に等しい、もう何でもないような私たちに関心を持って、そのこのゴミに自分の豊かさを注がれるのです。

皆さんは私たちは在りませんでした。無でした。存在していませんでしたが、それを存在させられて在らしめられました。皆さん持っていなかった才能、能力を、天主様は与えました。全く無である私たちは、無償で天主様からものすごいものを受けて、受けて、受けて、受け続けています。

確かに天主様は「愛」です。どのような行動でもその最初に、天主の愛がありました。「愛」というのは天主様の「善性」です、「善さの表れ」です。

天主様について2つの事をよく区別しなければなりません。「天主様の内的な命、内的な生活、内的な天主それ自体」と、「天主が被造物に対してなさる行為」という事です。この2つを区別して下さい。

「天主様の内的な命」というのは、過去あり・現在あり・将来あるだろう全てのものの中で最も偉大な神秘です。

私たちはこの世の事や、この人生の事で頭がいっぱいになっています。私たちは「人間人類の歴史がどうだ」、「この私の祖国はどうなる」、「過去どんな事があった」、「教会がどうなる」という事に関心を持っています。で、「一番大切なのは私の、私の生涯だ。」

では皆さん、この地上に生きた、将来生きる全ての人類一人一人を皆集めて、その人生を全部集めて下さい。全人類の歴史を、その最初から最後まで全部集めて下さい。世界中に存在した、存在するだろう全ての国々と、王国と、共和国を全て集めて、しかも天使たちの国も集めて下さい。それら全てを集めたとしても、「天主様の内的な命」と比べると無に等しいのです。

皆さん、大海の太平洋にある大海原の全ての水一滴一滴を数えて下さい。この大海の大海原の水全てを集めて、この水の一滴、この瓶にピタッと付いている一滴の水を比べて下さい。しかし天主というのは、この大海の大海原の全て集めても、それは無に等しいような、天主は更に大きな無限の存在です。この全世界は、この一滴に比べるよりも更に小さな存在です。

イエズス様は、この天主御父にこう祈りました、今日の福音書を見て下さい、「父よ、御身は私をこの世に送られ給いました。私はこの世を今去って、御身の元に戻ります。」

皆さん、この天主からイエズス様が送られて、またイエズス様が天主の元に戻る、というこの回帰の、この回転のようなこの大運動を見て下さい。天主御父は、その無限の存在、その全ての愛、全てを御子に与えます。この大海の太平洋の大海原の全ての水が、もう全て別の大海に全てを流れ尽くしたかのようです。御子は、その全ての天主御父から受けたその愛と、全ての存在を、もう一度跳び喜ぶような喜びで、御父にまた戻します、返します、愛で返します。

教会の博士たち、教父たちは、「御父からそのものすごい大海の波のうねりが御子にドワーッと流れて、御子からはその御父に対して、愛の返答の流れがドワーッと流れ出て、この御子と御父の愛の激流の流れの後に、このまた愛の、愛がまたほとばしり出る」と表現しています。「この大海のうねりの交わって、その柱のように飛び出るようなこの海の流れが、聖霊の発出だ。」

皆さんの内の多くの人は、私に納得しています。もちろんこれこそが天主の、救われた天国にいる、救われた霊魂たちが目の前に目の当たりにする、三位一体の内的命のその秘密の、その神秘の事なのです。これが聖三位一体の真理、玄義です。これが愛の定義です。

もしも皆さんの前に、この御父から御子に対する愛の流れ、御子から御父に対する愛の激流、御父と子とその愛の結晶のその激流による聖霊の発出というのがなければ、聖三位一体に対する正しい概念を持っていない事になります。

15世紀以降、三位一体のこの玄義が、何か退屈な面白くない事になってしまっています。昔は少し前までは、「聖三位一体」という事について、非常に深い感動と興味を持っていました。でも現代、21世紀のカトリック信者の信仰は大体どんなものか知っていますか?ユダヤ教的であってイスラム教的です。これが、多くのカトリックが考える「あぁ、何か天のどこかに隠れて隅っこにいる、いとも高き御方である」と。「この世を創った建築家。」でも、この天主が一体どのような方か、あまり興味もないし関心もない。

何故私がこう言うかというと、「天主」、私たちを愛する天主、この愛の激流である天主、愛を御子に与えて、御子が愛を返すその天主、ものすごい私たちの関心をそそるべき天主に、皆さん関心がないからです。

皆さん、皆さん私たちの命は天主から来て、天主に帰るべきもので、その後では誰も、私たちの事を思い出す人はいなくなるでしょう。今21世紀のこの「教会の危機」というのは、数十年後にもう解決されて、「もうこの話は昔の話だ」と言って、誰も話さなくなるでしょう。この地上にいる人は、来て、それからどこかに消えてしまいます。

しかし、天主のみいつも、天主のみそのまま変わらずに留まります。天主はかつて在り、今在り、将来在り続ける方です。天主は愛であります。天主の憐れみというのは、この御自分の一部を皆さんに、「分かち与えたい」という事です。天主は、御自分の持っているものを皆さんに与えたい、分かち合いたい、与え尽くしたい、というこの憐れみというのは何なのでしょうか?

天主が自分の存在を、自分が在りて在るものである天主が、その自分の「在る」を分け与えて、被造物を「在らしめる」、というこの愛の動きを、「創造の業」と言います。

この創造された被造物が、そのまま在り続けて、そのまま天主の愛によって統治され統括され、その天主の支配を受けて在らしめられている、という事を、この愛のこの動きを、「御摂理」と申します。

この創造させ、創造したものを摂理によって統治し、それを聖化し、聖なるものとして天主の命へと導く、この愛の流れを、「憐れみ」と言います。

一体何故、「憐れみ」が天主の最も最高の属性なのでしょうか?

何故かというと、天主様の全ての別の色々な属性というのは、「天主の憐れみの為に、その奉仕の為にあるもの」だからです。

天主は「全能」です。しかしこの「全能である」という事を、この「憐れみの業を為す為」に使っています。天主は「全知」です。全ての事を知っていますが、これは「憐れみの業を果たす為」に使われています。天主は「全善」です。善の塊であって最高の善であります。この善は、自分の在るものを、自分の良さを、自分の存在を、他者にこう分かち与えるのですけれども、これはこの善性は、「天主の憐れみの為の道具」です。

何故私は今このような話しをしているのでしょうか?憐れみの定義を与える為でしょうか?

これは、「天主という方がどのような方か」という事を理解するその助けになる為です。天主様の本質とは、一番大切なものは何でしょうか?皆さんがユダヤ教的な、或いはフリーメイソン的なこう天主の理解の仕方ではなく、本当のカトリックの理解の仕方をしてもらう為です。

もしも皆さんが「天主」という名前で、「どこかのガツンとした冷たい真っ黒い石ころで、それでこの石ころがこの全世界を創った」と考えたとしたら、「何もこう心も無いような冷たい存在である」と思ったら、皆さんはイスラム教的な理解の仕方をしています。

「天主」という事をカトリック的に、キリスト教的に理解したら、「天主」というのは、「いつも心を大きく開いて、私たちを愛して、無限に愛して、限りなく愛して、境なく愛して、私たちに全てを与え尽くしている。」それが天主です。

この「憐れみの天主」をうまく言い表す固有の言い方は、「父」です。

現在のユダヤ教の天主の神、或いはイスラム教で言う神、或いはフリーメイソンで言う神、これは「父」ではありません、だから「本当の天主」ではありません。

ですから、聖トマス・アクイナスは言葉を続けてこう言います、「憐れみというのは、天主の御業の全ての御業の原因のまた原因である。」【ここでシュテーリン神父様は、聖トマス・アクイナスの言葉をラテン語で引用されましたが、その翻訳はしなくても良いと言われ翻訳は省略します。】

これを「木」のように例えています。外の木をご覧になって下さい。憐れみ、「天主の憐れみ」というのは、この木の「根っこ」に比較されます。

皆さん、ジャングルの中にいたとして下さい。例えばそのジャングルに入って、1本の幹が、この部屋くらい大きな太々とした幹だったと考えて下さい。アフリカではこれは「木の王」と言います。アフリカに私が行ってその大きな木を見ると、本当にその偉大さに畏れ多くなります。でもそれほど大きな幹があるとしたら、その根っこはどれほど大きいか知っていますか?この目の前にある木の幹はこのぐらいです。でももしもそうだとしたら、根っこはもっと大きく広がっています。この大きな根っこから幹ができます。この幹が高く、高く、高くなればなるほど、根っこは広く、広く、広く、こう深くなければなりません。この木が葉っぱを付けて、花を咲かせて、実を付けたとしたら、その全ての栄養分はこの「根っこ」から取られます。もちろん幹を通って登りますけれども、でも根っこから全てを吸い取ります。

ですから、「天主様の憐れみ」というものを「根っこ」にして、「天主様の御業がなされた」という事を理解して下さい。この木に、たくさんの木の実が成っていたとしたら、おいしい実が成っていたとしたら、それほどたくさんのものをこの根っこが力強く吸い取って、この木に与えた、という事を意味しています。

私たちは自分の、私たち自身の体験に従って物事を理解しようとします。まず、「憐れみ深い人」というのはどういう人でしょうか?

もしも良い先生がいて、教師がいて、その自分の生徒に良い教育を与えて、良い規律を与えるとしたら、これは憐れみの男です。皆さん、もしも皆さんの中に先生がいらしたら、皆さんが良い教師になるか、ならないかのその成功のキーワードは、「憐れみ」です。もしも生徒が皆さんの中に、「本当の意味での『憐れみ』というのがある」というのが分かれば、もしもそれが子供たちが分かったとしたら、それは子供たちが皆さんの持っている知識、良さ、時間、その能力を、この何も頭の中に入っていない、この無知で何も分かっていない子に、愛を込めて、憐れみで、その愛情で教えて、教えて、助けてやったという事で、その子供たちは皆さんの事を決して生涯忘れる事はないでしょう。

でも、私たちがもしも憐れみの業をするとしたら、その動機は様々です。ある時は「天主様の栄光の為」、ある人は「隣人の利益の為」、或いは「国家の利益の為」、或いは「家族の善の為」、或いは「自分の給料を得る為」。

でも天主様はその動機は1つです。天主様は皆さんからお金が欲しくて創造したのではありません。皆さんが必要だから創造したのではありません。天主様は皆さんを創った事によって、何か自分が困ったこう問題を引き起こす事を創った事になります。何故天主が私たちを創造して下さったかというのは、「憐れみ」これしかありません。

永遠の、無限の、普遍の善である天主は、ただ単に憐れんで、与え、与え、与える為だけに、今ここで皆さんに与える為だけに創造されたのです。

マリア様も同じものを受けました。マリア様も天主様によって与えられて、与えられて、与えられたので、マリア様はただ喜んでこれを他の人にこれを与え、与え、与えるのを喜びとします。

でもところが、その喜びのはずのマリア様は涙を流しています。この秋田で何故涙を流したか、その主要な理由が分かりますか?

何故かというと、皆さんに「与えたい」、「いつも、いつも、与えたい、与えたい」からです。マリア様の御手は、天の宝物でもういっぱいなのです。マリア様の御心は、「与えたい」という愛でもうはち切れんばかりです。もう与えるお恵みでいっぱいなのです。天使は言いました、「聖寵充ち満てる御方よ、」それは皆さんの為です。でも私たちはそれを望まないのです、受けたくないのです。マリア様が皆さんのドアをノックするのですけれども、でもドアは開かれないのです。皆さんはこのマリア様からの宝物を、お恵みを必要としています。もしもそれを受け取らないならば、地獄に行ってしまいます。

皆さん、マリア様の涙はまず、まず皆さんが「天主様を侮辱したから」というのが最初ではありません。もちろんこれはそうですけれども、もっと深い理由があります。マリア様がお現れになった時に、「心は固く閉ざされていたから」です。マリア様はこうお現れて、「子供よ、いらっしゃい。私には天と地の全ての宝物がありますよ。あなたの為に天主様の命が全てありますよ。私の手にはあなたの幸せがあります。来て下さい、いらっしゃい。皆さん来て下さい。ここに何億円のお金があります、このお金を受け取って下さい、お願いですから受け取って下さい、そしたら私の涙は止まります。さぁ、お金を取って下さい。」

皆さん、皆さんの中でお金持ちがいて、ポケットの中に1兆円あったとして下さい。その方が誰かに「与えよう」と、「あげたい」と思っています。その為に一生懸命働きました、与える為に。もしもそれを与えるならば、本当に嬉しいのです。もしもそれをですね私に為に与える為に、私に与えてくれる為だけに働いてくれました。与えたくて与えたくてしょうがないのです。空港からタクシーに乗って、「あぁ、神父様にお金をあげよう。あぁこの為にもうたくさん一生懸命働いた。」私の部屋に来て、ノックします、「神父様、あのね、あの、僕あの、プレゼントがあります。」神父様はポケットの中に1銭もありません。神父様はこのホテルクリプトンにどうやって料金を支払ってよいか分かりませんでした。その他にも教会で借金を払わなければなりませんでした。神父様はここでドアを開けて、「あぁ!」と、「よく来てくれた!」と言わなければなりません。「天主様はあなたを送って下さったのですね!」ところが、神父様は部屋の中でこの音楽を聞いていました、ズンカ、ズンカ、ズンカ、ズンカ。「神父様?いらっしゃいますか!?おはようございます、神父様!プレゼントがあります!」「えぇ!ちょっと待って!」10分待たされます。ドアが開いて、「何か用ですか!?」「神父様、1兆円のプレゼントがあります。」「出て行け!」ドン!(ドアを閉める)

これはマリア様の、これが私たちのマリア様を泣かせる態度です。マリア様は私たちに与えたいのです。



聖ピオ十世会日本のお説教・講話がここに掲載されています。

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