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「罪の結果、恩寵の必要性」:聖ピオ十世会司祭 レネー神父様

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アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、
レネー神父様の「罪の結果、恩寵の必要性」の霊的講話(日本語訳)をご紹介いたします。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

2016年10月9日 聖霊降臨後の第21主日―大阪 霊的講話「罪の結果、恩寵の必要性」
親愛なる兄弟の皆さん、

これまで見て来たように、十戒は、私たちが天主の子としてこの地上で既に超自然の命を生きることによって、またキリストが私たちのうちに生きておられることによって、永遠の命に至る道を私たちに示してくれます。しかし、たちまち次のような反論が出てきます。すべての掟に従うことは、あまりにも難しすぎるように思われる。掟に従うことは誰にもできないように思われる。ルターは、掟を守ることは不可能である、とまで言いました。プロテスタントの中にはしばしば、さらに先に行っている人々がいます。彼らは言います。天主は律法によって、すなわち掟への服従によって人間を救うという最初のご計画をおつくりになったが、それはうまくいかなかった。そのため今では、これらのプロテスタントたちによれば、天主は律法ではなく恩寵に基づく新たな契約をつくられ、この契約においては、私たちはもはや律法の下にはいない、と。つまり彼らは、私たちがもう律法に従うことを義務づけられず、律法から自由である、ということを意味すると解釈しているのです。

このプロテスタントの解釈の仕方には、悪魔によるとんでもない欺きがあります。カトリックの真理は二つの単純かつ本質的な真理で要約されます。1)私たち自身では、実際に掟を守ることはできません。私たちの主イエズス・キリストは言われました。「私がいないとあなたたちには何一つできぬ」(ヨハネ15章5節)。2)私たちの主イエズス・キリストの恩寵があれば、私たちは掟を守ることができ、また守らなければなりません。この聖書の同じ一節の中で、私たちの主イエズス・キリストは言われました。「私はぶどうの木で、あなたたちは枝である。私がその人の内にいるように私にとどまる者は多くの実を結ぶ」(ヨハネ15章5節)。「あなたたちが多くの実をつけることは、私の父の光栄であり、そして、あなたたちは私の弟子になる」(ヨハネ15章8節)。また聖パウロが言います。「私を強め給うお方において私にはすべてができる」(フィリッピ4章13節)。

このプロテスタントの解釈の仕方がいかに誤っているかを理解するために、教会は、旧約の律法において掟を三種類に区別しなければならない、と教えています(列王上8章58節参照)。1)第一の掟にして最も重要なものは、十戒のような道徳上の掟です。2)第二に、儀式上の掟があり、これは割礼、犠牲を捧げること、「不浄な食べ物」を避けることを含む多くの種類の洗浄-などです。3)そして、第三の掟は「法的な掟」です。これは特定の罪に対して特定の罰を適用します。ですから、多くの大罪が死刑によって罰せられました。偶像崇拝、冒涜、殺人、姦淫、同性愛などです。もっと軽い罰は、盗みのようなもっと軽い罪に適用されました。

さて教会は、旧約の儀式上の掟は新約においては停止されたと教えています。新約の新しい儀式である七つの秘蹟によって置き換えられました。その中で最も重要なのはミサの聖なる犠牲であり、旧約のすべての犠牲が告知し、前じるしとなっていました。ですから、洗礼が割礼に取って代わり、悔悛が旧約のすべての洗浄に取って代わり、ミサの聖なる犠牲は、旧約の多くの犠牲のすべてに取って代わった、といった具合です。この領域において、前じるしで告知されていたものを実現させたことによって、新約は「旧約を成就させています」。しかし現実が前じるしに取って代わったのですから、もはや旧約の犠牲を行うことは許されません。そんなことをすれば、キリストの来臨を否定するに等しいのです。ローマへの方角を示している道路標識は、ローマの外では見られるでしょうが、ローマに到着したときにそんな標識があるなら間違っています。その標識があれば、まだローマに着いていないことになってしまいます。これらの旧約の儀式は来るべきメシアを告知しているのですから、それを行うことはメシアがもう来られたということを暗に否定しています。このため、新約において聖パウロは言います。「あなたたちが割礼を受けるなら、キリストは何の役にも立たなくなる」(ガラツィア5章2節)。これは、聖パウロが、私たちは「もはや律法の下にはいない」(ガラツィア5章18節)と言うときの中心となるポイントです。聖パウロは、教会に入って来る異邦人に対してこれらの旧約の儀式を押し付けようとした「ファリザイ人の異端」(使徒行録15章5節)に反駁していました。

第二の律法は、新約においては軽減されています。例えば、姦淫を犯した女がイエズスのところに連れて来られたとき、イエズスは言われました。「あなたたちの中で罪のない人がまずこの女に石を投げよ」(ヨハネ8章7節)。そしてイエズスご自身も石を投げられませんでしたが、むしろその女にはっきりと警告されました。「私もあなたを罰しはしない。行け、これからはもう罪を犯さぬように」(ヨハネ8章11節)。これは、死刑が廃止されたという意味ではありません。そうではなく、聖パウロ自身は次のように教えています。「上に立つ者は善い行いのためではなく、悪い行いのために恐れねばならぬ。あなたは権威を恐れないことを望むか。それなら善を行え。そうすれば彼から賞められる。彼はあなたを善に導くために天主に仕える者である。もしあなたが悪を行うなら恐れよ。彼はいたずらに剣を帯びているのではないからである。彼は天主に仕える者であって、悪をする者に怒りをもって報いる」(ローマ13章3-4節)。でも、新約において死刑が適用されるのは、冷血殺人のようなずっと重い罪だけです。

第三の律法、道徳の法は、新約において決して廃止されていません。むしろ、より完全性の高い段階へと揚げられています。山上の垂訓全体がそれを示しています。「知ってのとおり、昔の人は『殺すな…』と教えられた。だが私は言う、兄弟に怒ることさえするな」(マテオ5章21-22節)! 聖アウグスティヌスが言います。兄弟に対して怒らないように命じるお方は、殺すなという掟を廃止するのではなく、むしろさらに高い完全性を要求する、と。同様に、私たちの主は言われました。「知ってのとおり、『姦通するな』と今まで教えられている。だが私は言う、色情をもって女を見れば、その人はもう心の中で姦通している。右の目がつまずきになるなら抜き出して捨てよ。全身がゲヘナに投げ込まれるより、体の一部を失う方がましである」(マテオ5章27-29節)。聖パウロ自身が言いました。「聖徒にふさわしいように、あなたたちの中では、淫行、いろいろな汚れ、情欲は口にさえもするな。…淫行の者、好色な者、情欲の者はみな―これは偶像崇拝者と同じである―、キリストと天主の国を継げない」(エフェゾ5章3、5節)。ですから、道徳の法は新約においてもまだ義務づけられており、より高い完全性さえも要求しているのは明らかです。

これらのプロテスタントたちを欺いているものは、聖パウロの言う「私たちは律法の下にはない」(ローマ6章14節他)ということを彼らが理解していないということです。教父たちは、これらの言葉を正しく説明しました。聖アウグスティヌスは説明します。われらは律法の下にいるのではないが、それはわれらが律法を破るのを許されているというのではなく、われらの主イエズス・キリストの恩寵によって、聖霊の恩寵によって、われらが愛によって律法を守る力を与えられているからそういわれるのである。であるから、律法はもはやわれらを破滅させる重荷ではない。実に、われらの主を拒否し、律法に従う力を持たない人々は、律法に従わないとして律法が彼らを有罪とする。それゆえに、彼らは律法によって破滅させられると感じる。これすなわち「律法の下」にいることである。しかし、律法は、われらの主イエズス・キリストの恩寵によって力を与えられて、実際に律法を守る人々の友となる。実に、律法は、箴言に書かれているように、永遠の命への道を私たちに示してくれる友として彼らと共にある。「掟は灯であり、律法は光である」(箴言6章22節)。彼らは律法によって破滅させられず、律法の下にはなく「キリストの律法と共に」ある。(コリント前書9章21節)。

これは明らかに、聖パウロが教えていることです。「あなたたちは律法の下にはなく恩寵の下にあるから、罪はあなたたちの上に何の力もないであろう。それはどういうわけか。私たちはもう律法の下にはなく恩寵の下にあるから罪を犯してよいのか。決してそうではない。あなたたちがある人に従うために奴隷として自分の身を捧げるなら、あなたたちは自分が従うその人の奴隷となることを知らないのか。罪に身を捧げるのは死のためであり、従順であることは正義のためである。だが私は天主に感謝する。なぜなら、これまで罪の奴隷であったあなたたちが、罪から解放されて正義の奴隷となったからである。私はあなたたちの肉の弱さを顧みて、人間的な言い方で話す。あなたたちは、不法に至るためにその肢体を不浄と不法の奴隷としたが、今は聖徳に至るためにその肢体を正義の奴隷として捧げよ」(ローマ6章14-19節)。恩寵が私たちに罪を犯すことを許すのではなく、反対に、恩寵は「聖徳に至るために正義の奴隷となる」よう私たちに力を与えてくれるということが、この一節から非常に明白です。

では、私たちは「律法の善業によって義化される」のでしょうか? そうではありません。律法への従順は義化の後にあり、義化の前にあるのではありません。私たちが義とされるのは私たちの主イエズス・キリストの恩寵によってであり、その結果、私たちに律法を守る力が与えられるのです。聖パウロははっきりと言います。「あなたたちはその恩寵により、信仰によって救われた。それはあなたたち自身によるのではなく、天主の賜物である。それは行いによるのではない。誰もそれを誇ってはならぬからである。私たちは天主に創られた者であり、天主があらかじめ備えられた善業を行うために、キリスト・イエズスにおいて創造された」(エフェゾ2章8-10節)。善業は義化の前にあるのではなく、むしろ義化の後になければならないのです。

ここが信仰についての大変重要なポイントです。律法を守るため、天国に行くために、私たちは私たちの主イエズス・キリストの恩寵を必要とします! そしてその恩寵があれば、私たちは律法を守ることができ、また実際に守るのです。私たちがこの恩寵を必要とする二つの主な理由があります。第一の理由は、キリスト教徒の命の目標は超自然の目標、天国の永遠の命、天主の子として天主の命と幸せを共にすることだからです。さて、これが人間の本性の持つ能力を超えているのは確かです。そのため、そんな高い目標に達するためには、私たちには天主の恩寵が、もったいないほどの天主の御助けが絶対に必要なのです。この理由から、童貞聖マリアでさえ、私たちの主イエズス・キリストの恩寵が絶対に必要でした。キリスト教徒の命は天主の養子としての命です。そのような命は私たちの本性の能力を超えています。ですから、天主の子としてふさわしく生きるために、私たちは御独り子、私たちの主イエズス・キリストの恩寵を必要とするのです。そのとき、この恩寵は、私たちがそのような命を生きることをはっきりと可能にする七つの「聖霊の賜物」の源です。教会は、恩寵は私たちの本性をこの超自然の命へと高める、と言います。

第二の理由は、私たち人間の本性は罪によって傷ついているからであり、そのため、自然法を守ることさえできないからです。この第二の理由は、(主の本当に特別な恩寵によって)罪なくして宿り給うた聖母には当てはまりませんが、原罪を持って生まれた私たちすべてに当てはまります。実際、どのような罪であっても三つの結果が出てきます。汚れ、当然受けるべき罰、そして傷です。聖トマス・アクィナスの説明を聞きましょう。

罪による第一の結果は、「罪の汚れ」です。すなわち、心の闇、成聖の恩寵の喪失です。罪の行為は過ぎ去りますが、この「罪の状態」は残ったままです。このままでは、霊魂は成聖の恩寵を奪われ、天主に対する反逆の状態にあり、聖霊の光を奪われ、闇の中にいるのです。そのため、「汚れ」と呼ばれます。罪のよるこの最初の結果は、洗礼で「洗われ」ます。洗礼の後に大罪を犯したなら、この罪の汚れは悔悛の秘蹟で浄化されます。実際、これらの秘蹟は、霊魂をその光で満たし、それによって罪の闇を追い出すお方である聖霊の甘美なる現存によって、成聖の恩寵を戻してくれます。

罪による第二の結果は、当然受けるべき罰です。正義は、罪びとが自分の罪を償い、その罰が正義の要求を満たすように要求します。天主は善きお方であり、悪が勝利するままにはなさいません。天主は悪に最終決定権を持たせることはなさいません。正義は、罪の償いを要求し、それは当然受けるべき罰です。簡単な例を挙げて、それを明らかにしましょう。盗みを働いたとき、謝るだけでは十分ではなく、償わなければなりません! 自分が駄目にしたものを回復させなければなりません! 洗礼はすべての罪を赦すだけでなく、罪のために当然受けなければならないすべての罰も赦します。しかし、洗礼ののちに罪を犯すなら、そのときは悔悛の秘蹟がその罪を赦しますが、罪による罰をすべて赦すという訳ではありません。悔悛が必要であり、当然受けるべき罰という代償を支払うことが必要です! なだめの犠牲であり、天主の正義を満足させ、すなわち、当然受けるべき罰という代償を支払う、私たちの主イエズス・キリストの犠牲において、私たちの悔悛は、主の功徳と一致することによって価値を持つのです。

罪による第三の結果は大変重要です。それは罪による傷です。罪は、私たちの本性に傷を負わせます。原罪がすべての人間に傷を負わせましたが、私たち自身の罪がその傷の上に加わります。人類を見るとき、人は悪と罪の大きさによって圧倒されます。天主によって善きものとして創られたのなら、人間がそれほど罪を犯しやすいのはどうしてなのでしょうか? 天主は実際、最初の人間を善きものとして創られましたが、この最初の人間であるアダムは自分の罪、すなわち原罪によって、自分自身と自分の子孫を破滅させました。第一のアダムによって入り込んだこの悪を癒やすため、私たちは新しいアダムである私たちの主イエズス・キリストを必要とします。主の恩寵が私たちの本性を癒やします。私たちの主イエズス・キリストは実際、全能の天主であり、私たちを罪から救うために人となられた聖三位一体の第二のペルソナです。主は、私たちの本性を癒やす御力をお持ちです。主の御力を最もよく証明するものは、主の御母、童貞聖マリアに与えられた優れた恩寵です。主は、聖母を原罪の伝染から全く完全にお守りになったため、聖母は「原罪から保護され」、それによって聖母は無原罪の御宿りとなられました。聖母だけには原罪がなく、罪による傷もなかったのです。聖母が無原罪であるのは、この優れた癒やしの恩寵という予防薬の効能なのです。

その傷は、どんなものから構成されていますか? 聖トマス・アクィナスは、それは四重の傷であり一定の悪への傾きだ、と説明しています。私たちの本性の能力には、一定の機能不全があります。私たちの知性は無知によって傷を負っており、私たちの意志は悪意によって傷を負っており、私たちの強い欲求は弱さによって傷を負っており、私たちの感情的な欲求は情欲によって傷を負っています。私たちの知性における無知による傷は、真理に到達することを一定程度困難にしています。私たちは結論に一足飛びに行き過ぎるか、あるいは結論を把握しないかのどちらかです。私たちの意志における悪意による傷は、主に自己中心であり、天主を第一の場所に置く代わりに自分自身を第一の場所に置くのです。弱さによる傷は、善きことにおいて忍耐し、特に困難において忍耐する強さが欠けていることです。情欲による傷は、この世のものや楽しみに向かう傾向が行き過ぎることです。いくつか例を挙げて、簡単にこれらの傷を見ることができます。酒に酔った男は、また飲みすぎようとする傾向を持つようになるでしょう。子どもが最初に嘘をつくときはいつもぎこちないものですが、次は簡単になる、といったものです。嵐のため木が片方に倒れたとき、農夫はその木を元の垂直に戻しますが、木を反対側に引っ張るためのロープも使います。ですから、私たちも自分自身に対してそうしなければならず、自制と苦行を行うことによって、これらの悪しき傾きに対して闘わなければなりません。「私のあとに従おうと思うなら、自分を捨て、日々自分の十字架を背負って従え」(ルカ9章23節)。

私たちがこれまで言ってきたように、洗礼の秘蹟によって罪の汚れは洗われ、罪による罰は完全に赦されます。そして罪による傷の癒やしの過程が始まるのです。私たちの主イエズス・キリストは、良き医者のように、その傷を清め、そこに薬を塗り、絆創膏で包んでくださり、それから私たちに言われました。さあ、気を付けなさい! ですから、イエズスはベトサイダの池で癒やし給うた男に言われました。「どうだ、あなたは治った。さらに悪いことが起こらぬように、もう二度と罪を犯すな」(ヨハネ5章14節)。初期のキリスト教徒の多くは、このように洗礼から死に至るまでの恩寵に忠実でしたし、教会の歴史を通じて、そのようにした聖人たちがいました。幼きイエズスの聖テレジアのように。しかし、洗礼ののち罪に戻ってしまった場合、その傷が再び口を開け、また頻繁に罪に陥る場合は、「その人の後の状態は前より悪くなる」(ルカ11章26節)のです。私たちの主イエズス・キリストは使徒たちに強く言われました。「誘惑に陥らぬように目を覚まして祈れ。心は熱しても肉体は弱いものだ」(マテオ26章41節)。

これらの傷があるため、私たちは皆、私たちの主イエズス・キリストの恩寵を絶対に必要とするのです。それゆえに、私たちがキリストの恩寵を必要とする二つの理由があります。1)私たちが招かれている超自然の幸せを得るため、2)私たちの本性に罪による傷があるため、です。私たちの主イエズス・キリストの恩寵は、私たちを癒やしてくれる恩寵であり、かつ私たちを高めてくれる恩寵です。この恩寵は、私たちの本性を、罪による傷から癒やし、天主の子の命にまで高めてくれます。これら二つの面は切り離すことができません。罪から癒やされる必要がなく、悔悛と秘蹟がなくとも、天主の子の命を生きることが可能であると言い張るのは自分をだましていることになるでしょう。また、天主の子として生きることなく、まるで自然の善に到達するので十分であるかのようにするなら、罪から癒やされることは不可能でしょう。

私たちは、私たちの主イエズス・キリストの恩寵を必要としますが、私たちはそれをどのようにして得るのでしょうか? それは、祈りと秘蹟によって得るのです! これらは、恩寵を得るために私たちの主が私たちに与えてくださる二つの手段です。しかし、求めなくても主が与えてくださる多くの恩寵もあります。事実、主が私たちに祈る恩寵を与えてくださらなかったら、私たちは回復の道を進み始めることは決してなかったでしょう。最初の恩寵は常に、功徳なしに与えられますが、人間は恩寵に協力しなければなりません。もし、私はキリストからすべての恩寵をいただけると思っているので何もする必要はない、と言ったとしたら、それは自分をまったく欺いているのです。良き主人として、私たちの主イエズス・キリストは私たちにいくつか才能を与えてくださいましたが、私たちはその才能が実を結ぶようにしなければなりません。さもないと、私たちは私たちの主から、次の非難の言葉を聞くことになるでしょう。「悪い怠け者のしもべだ!…この役立たずのしもべを外の闇に投げ出せ。そこには嘆きと歯ぎしりがあろう」(マテオ25章26、30節)。

親愛なる兄弟の皆さん、この説教には多くの教理がありましたが、次の非常に重要なポイントを覚えておいてください。私たちの主イエズス・キリストの恩寵がなければ、私たちは何も善いことができません。しかし、主の恩寵があれば、私たちは、天国に行くために私たちが守らなければならない道徳の法を守ることができます。私たちの主の恩寵は、私たちを四重の傷から癒やし、私たちの本性を天主の子の命にまで高めてくれます。私たちは、熱心な祈りと秘蹟によって、癒やしかつ高めてくれる恩寵を豊かに得ることができます。聖母と諸聖人に祈りましょう。私たちの祝されし主が、私たちに恩寵を豊かに与えてくださり、私たちをその恩寵と完全に協力させてくださり、それによって、私たちが永遠の命に至る実を結ぶことができますように! アーメン。



聖ピオ十世会日本のお説教・講話がここに掲載されています。

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