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長崎巡礼-お説教-2016年5月3日 「この剣はマリア様の御心をグサリと貫いた。マリア様はその時、千回死ぬかと思うほどの苦しみを感じた。」

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アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

2016年5月3日 長崎巡礼 聖マリアの七つの御悲しみの随意ミサでのシュテーリン神父様の御説教をご紹介いたします。

【無原罪の聖母の騎士誌】
無原罪の聖母の騎士誌 第1号

無原罪の聖母の騎士誌 第2号

【ニュース】
 アジア管区のニュースレター「アポストル」第44号ができました。ここです。どうぞご覧下さい。Apostle No 44

【2017年ファチマ・ローマ巡礼】
「ファティマとローマへの聖ピオ十世会国際巡礼 2017」についてのご案内は、こちらをご覧下さい。

天主様の祝福が豊かにありますように!

トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

2016年5月3日 長崎巡礼 聖マリアの七つの御悲しみの随意ミサ
シュテーリン神父様御説教
同時通訳:小野田圭志神父

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

私たちはこの地にやって来て、多くの聖人たちのものすごい素晴らしい行為を見ました。その全ては、1つの源から源泉から、お恵みの源としてやって来て、その源とはイエズス様の、イエズス・キリストの聖心であって、その全ての聖心からのお恵みは、マリア様の汚れ無き御心に与えられました。

今回私たちは、日々ものすごい偉大な業を見ました。「全ての良い事、全ての英雄的な事、全ての偉大な事は、全てマリア様の御心から流れて来ている」という事も見ました。今日マリア様は私たちに、この事を黙想するようにと招いて下さいます。

では一体、その多くの恵みを湛えるこのマリア様の汚れ無き御心ですけれども、一体どうやって私たちの為に母となり、霊的母となり、全ての聖寵の仲介者となったのでしょうか?どうやって?

実は、命の源、真理の源、存在の源、全ての良い事の源は、天主様です。天主様だけです。マリア様は私たちにこの事をよく強調しています。「天主様の御前では私たちは、全く、もちろんマリア様を含めて、全く無に等しい何でもないものである」という事です。私たちには2人の仲介者があるわけではなく、2人の救世主があるのではありません。1人しかいません。これはドグマの、信仰のドグマであって、私たちの救い主はイエズス・キリストただ御一人であり、人となった天主の御子、私たちの為に十字架に付けられて苦しまれた、この1人しかいらっしゃいません。

しかしこの私たちの主イエズス・キリストが、私たちの救いの為に、「1人の方と共に、救霊の大事業を果たそう」と望まれました。これがその御旨でした。イエズス様は二重のやり方で、共にこの事業を果たす事を望みました。

まず第1に、イエズス様はマリア様が御自分の母である事を望みました。イエズス様はご自分の聖なる浄配である教会、公教会を作った時に、マリア様が同時に私たちの母である事をも望みました。そこで十字架の上で贖いの業を達成したその瞬間、公式にマリア様を任命します、人類の母となるように、「見よ、御身の母ここにあり」と。

イエズス様が十字架の上で亡くなって、苦しまれて、苦しまれて、苦しまれて、勝ち取った全ての功徳は、マリア様に与えられました。このイエズス様の望みは、意思は、その意向は、「自分の全て勝ち取った全ての恵みが、マリア様を通してのみ私たちに与えられる事、全ての母の最高の母、全ての女性の内の最高の女性の手を通して、私たちに与えられる事」を望んだのです。

私たちの為に、十字架の上で贖いの功徳を積まれた、という事の意味を理解しなければなりません。

イエズス様は、この世の全ての人々の聖化、その浄め、その回心の為に必要な、もうありとあらゆる御恵みを十字架の上で勝ち取りました。一人一人の為に勝ち取りました。それは回心の御恵みです。この回心の恵みが、日本の長崎において信じられないようなやり方で実りをもたらした事を見ました。何百万の人々が信仰を勝ち取る事ができるように、回心の御恵みをしましたが、それはこの十字架の贖いの功徳であって、マリア様を通して与えられました。永井博士の回心の御恵みもやはり、イエズス様の十字架からマリア様を通して到達しました。

単に、闇から光に、地獄から天国に、誤りから真理に、という回心の御恵みだけではありません。それだけではなく、天主様の「恵みの充満」にまでの恵みもあります。それが「聖化」のお恵みです。従って公教会は、十字架を、生ける木の樹木と比較します。この樹木の実りが、果実が、十字架に付けられたイエズス・キリスト様なのです。この十字架に付けられたイエズス様は、1人の女性にこの十字架の木の実りを全て集めて、「人々に配りなさい」と命令したのです。この事をして、マリア様を「全ての聖寵の仲介者」と呼びます。

でもイエズス様はもっと御望みになりました。イエズス様は自分の成し遂げようとした贖いの業に、もっと口で表現し尽くす事のできないような素晴らしいようなやり方で、信じられないようなこう崇高なやり方で、非常に高い、特異なやり方で、マリア様が自分の贖いの業に参与するように御望みになりました。イエズス様が無限の実りを、功徳を積んで、その全ての功徳をマリア様に譲って、マリア様はその功徳を皆に分配する、マリア様だけがそれを分配する事ができるという事だけでも偉大な事です。

しかしもしもそうだとしたら、マリア様は確かに分配者ではありますけれども、その分配の中身に対しては、何ら「自分のもの」と言う事ができない、「自分とは関係ないもの」と留まってしまったかもしれません。

しかし、イエズス様の御苦難をその目の前で直接に見たマリア様の御悲しみは、どれほど大きなものだった事でしょうか。何故かというと、マリア様の全生涯はイエズス様だったからです。マリア様はイエズス様をご自身よりも更に愛しておられました。もしも愛する、愛の深い母親がいたとして、その自分の愛する子供が苦しむのを見たら、その母はその子供が苦しむよりも更にもっと苦しむ事でしょう。もちろんその母の苦しみはその子供よりも更に大きいのです。

イエズス様は、マリア様が全ての被造物の中で最高の被造物である、という事をよく知り、誰よりもイエズス様を愛している、という事を知っています。イエズス様の全てのフィーリングは感情は、マリア様も同じく感じていました。イエズス様の望みはマリア様の望みでした。イエズス様の苦しみもマリア様の苦しみでした。これも信仰の真理です。

これについては、聖アウグスチヌスがきれいに表現しています、「イエズス様が御肉体において苦しんだ全てのものを、マリア様は御心に於いて、心に於いて霊的に苦しんだ。」

イエズス様の苦しみのシンボルは、イエズス様から滴り落ちる「御血」です。マリア様の御心に於ける、心に於ける苦しみのシンボルは「涙」です。

マリア様の御涙は、ご自分が私たちの救いの為にどれほど、どういう役割を示して、果たしているのかという事を明らかに示しています。

一方で、イエズス・キリストの贖いの御業、能動的な業があります。御体はただれ、朱の血に染み、御頭は冠をかぶせられ、釘を付けられ、贖いの業を達成されます。遂には、御心は貫かされ、それは開いて、そこから御血が流れ出ます。

この「受難」に対応して、マリア様の「共同受難」があるのです。マリア様の共同受難というのは、「イエズス様と一緒に、共に苦しんで、同じ感情を、同情をした」という事です。共同受難という事は、「2つの御心を1つに一致させた」という事です。イエズス様の聖心が槍で貫かされた時に、聖ベルナルドはこう言っています、「イエズス様は何も感じなかった。何故かというと、イエズス様はもう息絶えていたからだ。しかしこの剣は、マリア様の御心をグサリと貫いた」と言います。「マリア様はその時、千回死ぬかと思うほどの苦しみを感じた」と。

今日秋田に参りますが、私たちが秋田で黙想しなければならない事はこの事です。私たちはマリア様が涙を流しておられるのを見るでしょう。101回、木像のマリア様が涙を流されたという事は奇跡です。でもマリア様が本当に、現実に涙を流されたのは、カルワリオで十字架のふもとで御子が亡くなるのを見たときの涙です。ところで、このマリア様の涙についての素晴らしい黙想は、この七つの御悲しみのミサの続誦「Stabat mater」にあります。

イエズス様は御復活して、昇天されて、天国に行かれて、幸福にいらっしゃるにもかかわらず、それにもかかわらず、その以後全人類の歴史を見ると、マリア様の御像、或いは御影、或いはマリア様が御現れになった例えばラサレットのように、涙を流されている、という事が起こっています。これがカトリックの深い神秘であって玄義であります。これは、このマリア様の御涙は、近代主義に対するその強烈な鉄槌です。

近代主義の人々が何と言うか知っていますか?「イエズス様は昔々に亡くなったけれども、復活された。だから復活されたので、復活の神秘で、過越の神秘で、もう何もする必要は無いのだ。だから過越の神秘に従って、新しくミサを作らなければならないので、新しいミサはすでに天国の喜びを分かち合う、楽しいおもしろおかしいものでなければならない」と。

しかしこの考えはプロテスタントの考えで、キリスト教的ではありません。これが新しいミサです。

私たちの主は、ミサ聖祭を行う祭壇の上で、毎日、毎日、その御受難を神秘的に繰り返して、ミサで、現実に、いけにえが捧げられているのです。カルワリオで流された同じ御血が、このカリスの中に入り、私たちの前に入っているのです。それと同じようにマリア様も、この世の終わりまで御涙を流されているのです。

近代主義者はこう言います、「あぁ、マリア様というのは私たちのお姉さんで、私たちがこの地上の旅を続ける為の同僚者だ、一緒に旅をする人だ。」

でも本当は、マリア様というのは、イエズス・キリスト様と共に、共同に贖いを果たした共贖者であって、イエズス・キリスト様の贖いの業の共であるのです。

もう一度、この殉教者の御血、流した血を讃美しましょう。極めて難しい状況に置かれながらも、250年の間、何代にも何代にも渡って信仰を守ってきたキリスト信者の素晴らしい業を見ましょう。永井博士の素晴らしい生涯とその死を黙想致しましょう。もう一度マキシミリアノ・コルベ神父さまの素晴らしい生涯と死を黙想致しましょう。

これは御血と御涙の結晶であり、その実りです。イエズス・キリストが付けられた十字架の御下に、マリア様が立ち留まっておられる、という事です。マリア様はこの御体から流れる滴る御血を身に受けて、胸から流れ出る御血の滴りを受けました。その血と、マリア様の御涙は1つに混ざり合って、地上に降りたのです。

ではこの長崎の多くの聖人たちは、一体どこからその力を得たのでしょうか?なぜ彼らは残酷な拷問を耐え忍ぶ事ができたのでしょうか?どこからその力を得て、彼らはその自分の敵を許し尽くす事ができたのでしょうか?一体どこから、彼らの心に平和と、顔には微笑みをいつもたたえる事ができる力を得たのでしょうか?

それは、イエズス様の御血とマリア様の涙が混ざったそのところからです。

ではこの事が分かれば、なぜ御血と御涙のところに行かなければならないか、という事がよく理解できます。この事が分かると、聖ヨハネ・ボスコのビジョンの、夢のビジョンが分かります、「教会は二つの柱によって守られて固められている。1つは御聖体の柱であって、もう1つはマリア様の心であった」と。

そうすると、聖グリニョン・ド・モンフォールが、「終末の時代の使徒たちは、『イエズスとマリアの使徒』と言われる」というその理由が分かります。聖グリニョン・ド・モンフォールはその終末の使徒を描写して、「右の手には十字架、左の手にはロザリオ」と言っています。

もしも私たちが回心のお恵みを頂きたいのならば、もしも私たちが聖化の、聖となるお恵みを頂きたいのならば、同じ、彼らと同じ恵みの泉に行かなければなりません、源泉に行かなければなりません。

ですから私たちは皆さん、秋田に行きましょう。

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。


聖ピオ十世会日本のお説教・講話がここに掲載されています。

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