アヴェ・マリア・インマクラータ!
愛する兄弟姉妹の皆様、
レネー神父様の霊的講話「洗礼の秘蹟について」(日本語訳)をご紹介いたします。
天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)
2016年11月13日 聖霊降臨後の第26主日―大阪 霊的講話「洗礼の秘蹟について」
親愛なる兄弟の皆さん、
洗礼は七つの秘蹟のうちの最初の秘蹟です。最初に洗礼を受けなければ、誰も他の秘蹟を受けることはできません。洗礼は、他の秘蹟への扉、特にご聖体の秘蹟への扉なのです。すでに聖ユスティノがこう言いました。「この食べ物は私たちの間では『エウカリスチア』(ご聖体)と呼ばれており、私たちが教えていることが真理であると信じており、かつ罪の赦しのための洗浄で洗われて新たに生まれ、かつキリストが命じたように生きている人以外は、それにあずかることは許されていない」。まことの信仰、洗礼、そして命が成聖の恩寵の状態にあること、ご聖体を受けるためのこれらの条件は、こんにちでも教会の始まりのときと同じです。
洗礼が最初であるのは、それが誕生だからです。命の始まりです! 「まことにまことに私は言う。人は新たに生まれないと、天主の国を見ることはできぬ」(ヨハネ3章3節)。この新たな誕生は「水と聖霊によ」(ヨハネ3章5節)るのです。そして、これは永遠に続く命の誕生です。洗礼のときに受けたその新たな命は天国で花を咲かせます。ここ地上ではそれを失うこともありますが、天国ではもう失うことはありません。しかし本質的には同じ命です。
教会は次のように教えています。主が洗礼を制定なさったのは、主がヨルダン川で洗礼を受けられたときであり、それによって主は水を聖化されました。主が洗者聖ヨハネによって洗礼を受けられたあと、天が開けて御父の声が聞こえ、聖霊が鳩の外観のもとに来られました。これは、洗礼によって私たちが天主の子となり、聖霊の神殿となることを表しています。その後、主ご自身が洗礼を始められました。主は最初の使徒たちに洗礼を授け、その後、聖ヨハネが言うように(ヨハネ4章1-2節)、その使徒たちが他の弟子たちに洗礼を授けました。聖ヨハネは一番最初の二人の使徒のうちの一人であり、おそらく主ご自身によって洗礼を授けられました。
洗礼の質料は天然の水、いやむしろ天然の水によって洗われることです。洗礼を行うことのできる三つの方法があり、教会の始まりの時点では普通だった浸礼によってなされるか、体の上に流れるように水を注ぐことによってなされるか、または(本当に洗うのに十分な量の水による)灌水によってなされるかです。実際、皆さんが体を洗う必要のある場合、お風呂に入るか、水道の蛇口の下で洗うか、シャワーを浴びるかのどれかでしょう。こんにち洗礼を授ける普通の方法は水を注ぐことですが、それは他の方法よりも実際に行いやすい方法だからです。浸礼は、特に寒い国々では危険でした。特に小さな子どもにとっては!
洗礼の質料は、罪と罪による罰から霊魂を洗うことを表していますが、また「キリストとともに葬られること」も表しています。浸礼による洗礼ははっきりとそれを表していますが、単に水を注ぐことだけでも確かにその意味を持っています。実際、埋葬の儀式においては通常、信者は花か土を棺の上に置きますが、必ずしも棺を完全に覆ってしまうのではありません。さて聖パウロはこう言います。「キリスト・イエズスにおいて洗礼を受けた私たちは、みなキリストの死において洗礼を受けたことを、あなたたちは知らないのか。それゆえ私たちはその死における洗礼によってイエズスとともに葬られた。それは、御父の光栄によってキリストが死者の中からよみがえったように、私たちもまた新しい命に歩むためである」(ローマ6章3-4節)。
洗礼が有効であるためには、水が肌の上を流れることが必要です。プロテスタントの中には、洗礼を行う方法があまりにずさんであるため、時には洗礼が無効である場合があります。私がアメリカで知っているケースでは、カトリック信者になりたがっていた若い男性が私に話してくれたのですが、彼はプロテスタントの牧師である彼のおじによって洗礼を授けられたそうなのですけれども、そのおじが彼に言うには、自分の一本の指を水の中に少しつけたあと、その指でひたいに十字架のしるしをしたというのです。さて、皆さんが泥の中に転んだ場合、そのあと一本の指を水の中に少しつけて泥だらけの肌の上に十字架のしるしをして、それできれいになるでしょうか? なるはずがありません! お風呂に入るかシャワーを浴びるか、あるいは少なくとも水道の蛇口の下で洗う必要があります! 聖アルフォンソが彼の著書「倫理神学」の中で、そんなケースについてはっきりと言及しており、その場合はその人が条件つきで再洗礼を受ける必要があると言っていることを知るのは興味深いことです。
洗礼の「質料」の意味は、洗礼の「形相」によって明確になります。この形相は、次の聖福音の中にはっきりと見いだされます。「行け、諸国の民に教え、聖父と聖子と聖霊の御名によって洗礼を授けよ」(マテオ28章19節)。至聖なる三位一体の御名において行うことは、洗礼が単なる体の洗浄ではなく聖なる洗浄であることを明確にしています。すべての罪とそれによる罰が受洗者の霊魂から完全に取り除かれるのは、至聖なる三位一体の力によるのです。また司祭は、至聖なる三位一体を敬うため、(受洗者に)水を流すとき、その水で三つの十字のしるしをします。
多くのプロテスタントたちが洗礼のこの正しい「形相」を使っていないことを知っておく必要があります。彼らは使徒行録の中で、ある人たちが「主イエズスの御名によって洗礼を受けた」(使徒行録19章5節)と読んでいます。ですから彼らは、洗礼の形相は「私は、主イエズスの御名によって、あなたに洗礼を授けます」と言うことだと、間違って思っているのです。そんな洗礼の方法は確実に無効であり、私たちの主イエズス・キリストご自身が教えられたことに反しており、聖マテオの福音書で主が使徒たちに明確に与えられた指示に反しており、教会が始まりのときから続けてきた変わることのない実践に反しています。
では、使徒行録の中で聖ルカはなぜ「彼らは主イエズスの御名によって洗礼を受けた」と言ったのでしょうか。第一に、使徒行録の目的は、典礼についての本を書くことや、秘蹟をどのように授けるかを書くのではなく、むしろペトロとパウロの使徒職によって福音が広がっていったことを記述することであったのであり、これらのプロテスタントたちは聖ルカの言葉から不適切な結論を引き出しているのです。第二に、「主イエズスの御名によって洗礼を受けた」という言葉は、「ヨハネによる洗礼」と対比しようという意図で使われています。これはエフェゾのケースではっきりしています。エフェゾの町の最初の弟子たちは、アポロと呼ばれる男によって教えを受けており、アポロは洗者聖ヨハネの弟子でしたが聖三位一体のことを明確には知らなかったのです。聖パウロがそこに着いたとき、彼らが聖霊の存在さえも知らなかったことが分かりました。ですから聖パウロは彼らに尋ねました。「『どんな洗礼を受けたのですか』。彼らは答えました。『ヨハネの洗礼です』」(使徒行録19章3節)。ここではっきり分かるのは、彼らがイエズスの洗礼を受けていたのなら、まさに「聖父と聖子と聖霊の御名によって洗礼を受けて」いたはずですから、必ず聖霊を知っていたはずだということであり、また彼らが聖霊を知らなかったのなら、それは明らかに彼らが「イエズスの洗礼」によって洗礼を受けていなかったことを意味していたということです。洗礼の正しい形相を尊重していないため、多くのプロテスタントの洗礼は無効です。
このことから、第二バチカン公会議以前は、最初の洗礼が正しい質料と正しい形相および意向で行われ、有効であったと証明されえない限り、教会はプロテスタントからの改宗者に全て条件付きで再洗礼を授けていました。
秘蹟は、それが意味するものを実際につくり出します。こうして、洗礼は霊魂の洗浄を意味するだけでなく、実際に霊魂を完全に洗浄するのです。教会は、洗礼はそれ以前に犯した罪をすべて洗い去ると教えています。洗礼は原罪と大罪、小罪のすべてを洗い去ります。洗礼はまた、これらの罪による罰をすべて赦しますから、洗礼ののちすぐに死ねばその人は煉獄に行く必要がなく、直接天国へ行きます。
私たちはこれまで、罪による三つ目の結果があることを見てきました。それは罪による傷であり、それは洗礼によって完全に癒やされるのではありません。洗礼は癒やしの過程を始めるのであり、傷に対して薬をつけるのですが、その薬で癒やしがすべて完了するには時間がかかるのであり、信者の側の協力が必要になります。
洗礼は受洗者に成聖の恩寵をつくり出します。これは、罪を洗い去るのと同じ現実の肯定的な面です。闇は光によって追い払われます。罪は成聖の恩寵によって追い払われます。成聖の恩寵が注入されることなしに罪が赦されることは不可能です。また、反対に、罪を追い払うことなしに成聖の恩寵を受けることも不可能です。実際、成聖の恩寵と罪は同じ霊魂に同時に存在できません。光と闇が同じ場所に同時に存在できないのと同じように。「人は二人の主人に仕えるわけにはいかぬ」(マテオ6章24節)。成聖の恩寵は、天主ご自身の命にあずかることです。聖ペトロはこう言っています。「主は私たちに偉大で尊い約束を与えられた。それは、その約束によって、あなたたちを天主の本性にあずからせるためであった」(ペトロ後書1章4節)。天主の本性にあずかること、天主の命にあずかること、天主からそのような命を受けることは、天主の子になることを意味します。天主の御独り子である私たちの主イエズス・キリストの肢体にならなければ、これは決して起こりません。私たちは、天主の御子の肢体として、天主の御子において天主の子なのですから。キリストの体、すなわち教会、カトリック教会の中にいなければ、天主の命を生きることは不可能なのです。このことから、有効で実り豊かな洗礼が、私たちをカトリック教会の肢体にするのです。
もう一つの重要な洗礼の効果は、洗礼によって霊魂に刻まれる刻印です。洗礼によって、私たちは天主の子としてのしるしを付けられます。この刻印は永遠に続くもので、洗礼にふさわしく生きて天国へ行く人々の栄光となり続け、または不信心な生き方によって洗礼を汚して地獄へ行く人々の恥となり続けます。この刻印は、一生の間、助力の恩寵、つまり天主の子としてふさわしく生きるよう助ける恩寵を与える素晴らしい源泉なのです。
秘蹟というものは、「エクス・オペレ・オペラート―なされた行為それ自体によって」働きます。その意味は、その秘蹟を受けたという事実それ自体によって、その秘蹟の効果を受けたということですが、ただ一つ条件があります。その条件とは、秘蹟の効果に対して障害を置いていないことです。たとえば、実際、盗人が洗礼を受けても同時に盗んだ物を返すことを拒んだ場合、その盗んだ物への愛着が恩寵を受ける障害となります。この場合、盗人は洗礼の刻印を受けますが、成聖の恩寵を受けず、罪の赦しを受けず、むしろこれまでの罪に汚聖の罪を加えることになるのです!
洗礼の恩寵に対して最もよくある障害は異端です。まことの信仰を、カトリック信仰を拒否することです。このことこそ、プロテスタントの洗礼が恩寵を与えない理由です。例外は赤ん坊だけで、それはもちろんそのような障害を置いていないからです。そのような障害は、使徒たちの信仰、すなわちカトリック信仰を受け入れることによって回心し、悔悛の秘蹟を受けることによって取り除かれます。
洗礼の秘蹟の通常の執行者は司祭です。司祭は、教会の美しい典礼のすべてを使って「荘厳な洗礼」を授けることができます。しかし、緊急の場合には、信者なら全員、さらには誰であっても、カトリック信者でない人でさえも、洗礼を授けることができます。なぜそうなのでしょうか? なぜなら、天主はすべての人の救いを望んでおられ、それゆえに人々が洗礼を受けるのを広く可能にされるからです。ですから、もしカトリック信者の母親が子どもを産むときに、出産に際して困難が起こるならば、母親は看護師に洗礼をお願いすることができるのです。その看護師がカトリック信者でない人であっても、子どもに洗礼を授けるようにお願いし、洗礼が適切に行われるかを確認します。すなわち、看護師が、「われ、聖父と聖子と聖霊との御名によりて汝を洗う」と言いながら子どもの肌の上に水を注ぐのを確認するのです。看護師が、母親が意向として持っていることを行うという意向を持っていれば、意向を正しくするには十分です。なぜなら、母親は教会が意向として持っていることを行うという意向を持っているからであり、すなわち有効な洗礼になるからです!
正しい意向、すなわち教会が行うことを行うという意向もまた必要です。なぜなら、言葉と儀式の意味そのものは、最終的には秘蹟の執行者の意向によって決定されるからです。一部のプロテスタントのように、教会の意向がはっきりと拒否されている場合、意向の欠如によって秘蹟は無効になります。教皇レオ十三世は、英国国教会の叙階の秘蹟について次のように説明しました。いけにえを捧げる司祭職ということを拒否することによって、彼らは正しい意向を持っていなかったため、彼らの叙階は無効であった、と。通常は、カトリックの儀式を行うことそのものが、意向が正しいことの保証なのです。
洗礼の儀式は美しく、更なる恩寵の源です。洗礼の儀式は、大変重要な問いと答えで始まります。司祭は問いかけます。「あなたは天主の教会に何を求めますか?」。求道者は答えます。「信仰を求めます!」。続いて司祭は問いかけます。「信仰はあなたに何を与えますか?」。求道者は答えます。「永遠の命を与えます!」。そして司祭はこう締めくくります。「あなたが永遠の命を求めるなら、掟を守りなさい」。これらの短い問いと答えは、洗礼の精神と目的のすべてを含んでいます。最終目標は天国での永遠の命です。キリスト教徒の全生涯を通じて、常に目の前にその目標を置いておかなければなりません。私たちは、ここ地上においては巡礼者であり、「この涙の谷でのちくたくの身」です。「あなたたちは聖徒たちと同市民、天主の家族である」(エフェゾ2章19節)。
天国へ行くために、人は信仰を必要とします。ですから、求道者はまことの教会からまことの信仰を求めます。「あなたは天主の教会に何を求めますか? 信仰を求めます!」。そして洗礼が与えるものはこれです。私が数週間前に説明したように、洗礼は注入された信仰の徳、希望の徳、愛の徳を成聖の恩寵と一緒に与えます。しかし、信仰だけでは十分ではなく、天国への道であり、それゆえに教会の勧告である掟に従う必要があるのです。「命を求めるなら、掟を守りなさい」。これは、主に「よき師よ、永遠の命を受けるために私はどんなよいことをすればよいのでしょうか?」(マテオ19章16節)と尋ねた若者に主ご自身が言われたことです。私たちの主は答えられました。「命に入りたいのなら掟を守れ」(マテオ19章17節)。
ノブス・オルドの典礼の洗礼では多くのものが削除されており、これら最初の問いと答えも任意とされました。まことの教会からまことの信仰を求めることがなくなり、天国を望むことがなくなり、いや少なくともこれが任意になってしまいました。
その後、司祭は、聖霊降臨のときの強い風のように、聖霊のくだる象徴として、子どもに息を吹きかけます。そしてこう言います。「汚れたる霊よ、この者よりいでよ。しかして聖霊に席を譲れ」。こうして、ある戦い、つまり霊魂を求める戦いが続いていることが分かります。天主はこの霊魂を救うことを望んでおられますが、悪魔は霊魂をだまして破滅に導こうと躍起になっています。原罪と自罪があるため、洗礼を受けていない者は一定程度、自分の餌食を失いたくない悪魔の支配下にあったのです。キリストは、その霊魂を悪魔の力から解放されます。これは悪魔祓いの儀式でさらにはっきりとします。
悪魔祓いは、私たちを悪魔から解放するための天主への単なる祈りではありません。悪魔祓いとは、主にその権能を与えられたキリストの役務者により、私たちの主イエズス・キリストの御名によって悪魔に対して与えられる、実際の指図であり、命令です。悪魔はそんな悪魔祓いの前でおののき、求道者の霊魂に対する力を失います。ノブス・オルドの典礼の洗礼は、これらの悪魔祓いのすべてを廃止してしまい、悪魔に対抗する祈りがたった一つだけしか残っていません。悪魔に対して離れるようにとの命令はもはやまったくありません。
その後、司祭は、「汝のひたいにも心にも十字架のしるしを受けよ。天の教えの信仰を受け、天主の神殿となるにふさわしい行いをせよ」と言いながら、求道者のひたいと胸に十字架のしるしをします。他にも何回か十字架のしるしが求道者になされます。秘蹟の前には、求道者の胸と両肩に”求道者の油”でなされ、これによって十字架を愛し、十字架を担う勇気を持つよう励まされます。洗礼のあとには、頭の上に聖香油で十字架のしるしがなされ、子どもが聖霊の神殿になったことが表されます。これらの十字架のしるしが明らかにしているのは、十字架につけられた私たちの主イエズス・キリストの弟子になること、すべての恩寵は十字架から来ること、そして「自分を捨て、日々自分の十字架を背負って(十字架の)キリストに従わ」(ルカ9章23節)なければならないことです。またもや、新典礼では、これらの十字架のしるしの多くは廃止されてしまっているのです。
求道者は、腐敗しない象徴、霊的な良き味の象徴として、祝別された塩を受けます。これはまた、「最初の食べ物」であり、ご聖体である「いのちのパン」(マテオ6章11節)を求道者に渇望させます。
その後、求道者は司祭のストラに導かれて教会の中に入ります。これは唯一のまことの教会、カトリック教会に入り、教会の聖職階級に服従することを象徴しています。求道者が教会の中で行う最初のことは、洗礼の準備で習った使徒信経を告白することです。子どもの場合には、子どもの代わりに代父母が子どもの名によってカトリック信仰を告白し、子どもに信仰を教える約束をします。実際、まことの信仰は、カトリック教会の一致をつなぐ、最初にして最も基礎的なものです。この信仰こそ、求道者が全生涯にわたって保持し、実行しなければならない信仰です。次に、求道者はすべての祈りの手本である「天にまします」を唱えます。なぜなら、カトリック的生活は、本質的に、天主の子としての祈りと天主との友情の生活であるからです。この祈りは毎日しなければなりません。
その後、三回の悪魔の放棄、三回の信仰告白があります。これは最も重要なことです。私たちは、特に誘惑に遭うとき、かつて、きっぱりと、これら悪魔の誘惑をすべて放棄したことを思い起こさなければなりません。つまり、私たちは、罪に対して固い決意をもって「いいえ」と言ったのです。私たちは、悪魔が私たちを誘惑するとき、この決意を新たにしなければなりません。「私は悪魔を捨てます。その業を捨てます。その欺きを捨てます」と。私は悪魔を捨てます。なぜなら、私は固い決意をもって天主を選んだのですから。天主に対して「はい」、悪魔に対して「いいえ」と!
他にも多くの美しい祈りがありますが、長くなり過ぎてしまうため、詳しくは説明できません。ただ、付け加えさせていただければ、洗礼のあと、私たちは私たちの霊魂の清さの象徴として白い衣を与えられ、そしてキリストの法廷まで、すなわち審判を受ける生涯の終わりまで、それを汚れなく保つよう忠告を受けます。幼きイエズスの聖テレジアのように、自分の霊魂を洗礼による無垢の状態に保つ人々は幸いなるかな! それを失った人々は悔悛の秘蹟を受け、それを回復させるようまことの悔悛をしなければなりません。しかし、それを失わない方がさらに良いことであり、さらに天主をお喜ばせするのです! この白い衣は、王が自分の子の婚礼の宴席に来るのを許した人々が着てくることを期待している「礼服」のことを表しているのです(マテオ22章11-12節)。
最後に、受洗者は、火のついたろうそくを与えられますが、これは受洗者の霊魂に灯されたばかりの信仰の光および愛徳の火の象徴です。「この燃えるろうそくを受けよ。汝の洗礼を非の打ちどころのない状態に保て。天主の掟を守れ。主が婚礼の祝宴に来られるとき、汝が天国の王宮ですべての聖人たちとともに主の御前にいて、永遠にそこに住むことが許されるように」。こうして、天国をその目的として始まった洗礼の儀式は、天国をその最終的な報いとして終わるのです。
洗礼によって、私たちは天主の子、キリストの肢体となり、それゆえにマリア様の子となります。聖母は洗礼を受けた人すべてをご自分の子として養子になさり、私たち一人一人を非常に特別に心にかけてくださいます。マリア様の御子である私たちの主イエズス・キリストをお喜ばせするために、私たちはマリア様の子として生きましょう。
私たちの洗礼を常に思い起こしましょう。私は洗礼を受けており、異教徒として生きることはできません! 私が、自分の洗礼に恥じぬよう、私たちのかしらであるキリストに栄光を帰すことによって、キリストの肢体としてふさわしく生き、主の徳に倣い、「主によって、主とともに、主のうちに」生きることによって、永遠に聖霊との一致のうちに御父の栄光の中に入ることができますように。アーメン。
聖ピオ十世会日本のお説教・講話がここに掲載されています。
愛する兄弟姉妹の皆様、
レネー神父様の霊的講話「洗礼の秘蹟について」(日本語訳)をご紹介いたします。
天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)
2016年11月13日 聖霊降臨後の第26主日―大阪 霊的講話「洗礼の秘蹟について」
親愛なる兄弟の皆さん、
洗礼は七つの秘蹟のうちの最初の秘蹟です。最初に洗礼を受けなければ、誰も他の秘蹟を受けることはできません。洗礼は、他の秘蹟への扉、特にご聖体の秘蹟への扉なのです。すでに聖ユスティノがこう言いました。「この食べ物は私たちの間では『エウカリスチア』(ご聖体)と呼ばれており、私たちが教えていることが真理であると信じており、かつ罪の赦しのための洗浄で洗われて新たに生まれ、かつキリストが命じたように生きている人以外は、それにあずかることは許されていない」。まことの信仰、洗礼、そして命が成聖の恩寵の状態にあること、ご聖体を受けるためのこれらの条件は、こんにちでも教会の始まりのときと同じです。
洗礼が最初であるのは、それが誕生だからです。命の始まりです! 「まことにまことに私は言う。人は新たに生まれないと、天主の国を見ることはできぬ」(ヨハネ3章3節)。この新たな誕生は「水と聖霊によ」(ヨハネ3章5節)るのです。そして、これは永遠に続く命の誕生です。洗礼のときに受けたその新たな命は天国で花を咲かせます。ここ地上ではそれを失うこともありますが、天国ではもう失うことはありません。しかし本質的には同じ命です。
教会は次のように教えています。主が洗礼を制定なさったのは、主がヨルダン川で洗礼を受けられたときであり、それによって主は水を聖化されました。主が洗者聖ヨハネによって洗礼を受けられたあと、天が開けて御父の声が聞こえ、聖霊が鳩の外観のもとに来られました。これは、洗礼によって私たちが天主の子となり、聖霊の神殿となることを表しています。その後、主ご自身が洗礼を始められました。主は最初の使徒たちに洗礼を授け、その後、聖ヨハネが言うように(ヨハネ4章1-2節)、その使徒たちが他の弟子たちに洗礼を授けました。聖ヨハネは一番最初の二人の使徒のうちの一人であり、おそらく主ご自身によって洗礼を授けられました。
洗礼の質料は天然の水、いやむしろ天然の水によって洗われることです。洗礼を行うことのできる三つの方法があり、教会の始まりの時点では普通だった浸礼によってなされるか、体の上に流れるように水を注ぐことによってなされるか、または(本当に洗うのに十分な量の水による)灌水によってなされるかです。実際、皆さんが体を洗う必要のある場合、お風呂に入るか、水道の蛇口の下で洗うか、シャワーを浴びるかのどれかでしょう。こんにち洗礼を授ける普通の方法は水を注ぐことですが、それは他の方法よりも実際に行いやすい方法だからです。浸礼は、特に寒い国々では危険でした。特に小さな子どもにとっては!
洗礼の質料は、罪と罪による罰から霊魂を洗うことを表していますが、また「キリストとともに葬られること」も表しています。浸礼による洗礼ははっきりとそれを表していますが、単に水を注ぐことだけでも確かにその意味を持っています。実際、埋葬の儀式においては通常、信者は花か土を棺の上に置きますが、必ずしも棺を完全に覆ってしまうのではありません。さて聖パウロはこう言います。「キリスト・イエズスにおいて洗礼を受けた私たちは、みなキリストの死において洗礼を受けたことを、あなたたちは知らないのか。それゆえ私たちはその死における洗礼によってイエズスとともに葬られた。それは、御父の光栄によってキリストが死者の中からよみがえったように、私たちもまた新しい命に歩むためである」(ローマ6章3-4節)。
洗礼が有効であるためには、水が肌の上を流れることが必要です。プロテスタントの中には、洗礼を行う方法があまりにずさんであるため、時には洗礼が無効である場合があります。私がアメリカで知っているケースでは、カトリック信者になりたがっていた若い男性が私に話してくれたのですが、彼はプロテスタントの牧師である彼のおじによって洗礼を授けられたそうなのですけれども、そのおじが彼に言うには、自分の一本の指を水の中に少しつけたあと、その指でひたいに十字架のしるしをしたというのです。さて、皆さんが泥の中に転んだ場合、そのあと一本の指を水の中に少しつけて泥だらけの肌の上に十字架のしるしをして、それできれいになるでしょうか? なるはずがありません! お風呂に入るかシャワーを浴びるか、あるいは少なくとも水道の蛇口の下で洗う必要があります! 聖アルフォンソが彼の著書「倫理神学」の中で、そんなケースについてはっきりと言及しており、その場合はその人が条件つきで再洗礼を受ける必要があると言っていることを知るのは興味深いことです。
洗礼の「質料」の意味は、洗礼の「形相」によって明確になります。この形相は、次の聖福音の中にはっきりと見いだされます。「行け、諸国の民に教え、聖父と聖子と聖霊の御名によって洗礼を授けよ」(マテオ28章19節)。至聖なる三位一体の御名において行うことは、洗礼が単なる体の洗浄ではなく聖なる洗浄であることを明確にしています。すべての罪とそれによる罰が受洗者の霊魂から完全に取り除かれるのは、至聖なる三位一体の力によるのです。また司祭は、至聖なる三位一体を敬うため、(受洗者に)水を流すとき、その水で三つの十字のしるしをします。
多くのプロテスタントたちが洗礼のこの正しい「形相」を使っていないことを知っておく必要があります。彼らは使徒行録の中で、ある人たちが「主イエズスの御名によって洗礼を受けた」(使徒行録19章5節)と読んでいます。ですから彼らは、洗礼の形相は「私は、主イエズスの御名によって、あなたに洗礼を授けます」と言うことだと、間違って思っているのです。そんな洗礼の方法は確実に無効であり、私たちの主イエズス・キリストご自身が教えられたことに反しており、聖マテオの福音書で主が使徒たちに明確に与えられた指示に反しており、教会が始まりのときから続けてきた変わることのない実践に反しています。
では、使徒行録の中で聖ルカはなぜ「彼らは主イエズスの御名によって洗礼を受けた」と言ったのでしょうか。第一に、使徒行録の目的は、典礼についての本を書くことや、秘蹟をどのように授けるかを書くのではなく、むしろペトロとパウロの使徒職によって福音が広がっていったことを記述することであったのであり、これらのプロテスタントたちは聖ルカの言葉から不適切な結論を引き出しているのです。第二に、「主イエズスの御名によって洗礼を受けた」という言葉は、「ヨハネによる洗礼」と対比しようという意図で使われています。これはエフェゾのケースではっきりしています。エフェゾの町の最初の弟子たちは、アポロと呼ばれる男によって教えを受けており、アポロは洗者聖ヨハネの弟子でしたが聖三位一体のことを明確には知らなかったのです。聖パウロがそこに着いたとき、彼らが聖霊の存在さえも知らなかったことが分かりました。ですから聖パウロは彼らに尋ねました。「『どんな洗礼を受けたのですか』。彼らは答えました。『ヨハネの洗礼です』」(使徒行録19章3節)。ここではっきり分かるのは、彼らがイエズスの洗礼を受けていたのなら、まさに「聖父と聖子と聖霊の御名によって洗礼を受けて」いたはずですから、必ず聖霊を知っていたはずだということであり、また彼らが聖霊を知らなかったのなら、それは明らかに彼らが「イエズスの洗礼」によって洗礼を受けていなかったことを意味していたということです。洗礼の正しい形相を尊重していないため、多くのプロテスタントの洗礼は無効です。
このことから、第二バチカン公会議以前は、最初の洗礼が正しい質料と正しい形相および意向で行われ、有効であったと証明されえない限り、教会はプロテスタントからの改宗者に全て条件付きで再洗礼を授けていました。
秘蹟は、それが意味するものを実際につくり出します。こうして、洗礼は霊魂の洗浄を意味するだけでなく、実際に霊魂を完全に洗浄するのです。教会は、洗礼はそれ以前に犯した罪をすべて洗い去ると教えています。洗礼は原罪と大罪、小罪のすべてを洗い去ります。洗礼はまた、これらの罪による罰をすべて赦しますから、洗礼ののちすぐに死ねばその人は煉獄に行く必要がなく、直接天国へ行きます。
私たちはこれまで、罪による三つ目の結果があることを見てきました。それは罪による傷であり、それは洗礼によって完全に癒やされるのではありません。洗礼は癒やしの過程を始めるのであり、傷に対して薬をつけるのですが、その薬で癒やしがすべて完了するには時間がかかるのであり、信者の側の協力が必要になります。
洗礼は受洗者に成聖の恩寵をつくり出します。これは、罪を洗い去るのと同じ現実の肯定的な面です。闇は光によって追い払われます。罪は成聖の恩寵によって追い払われます。成聖の恩寵が注入されることなしに罪が赦されることは不可能です。また、反対に、罪を追い払うことなしに成聖の恩寵を受けることも不可能です。実際、成聖の恩寵と罪は同じ霊魂に同時に存在できません。光と闇が同じ場所に同時に存在できないのと同じように。「人は二人の主人に仕えるわけにはいかぬ」(マテオ6章24節)。成聖の恩寵は、天主ご自身の命にあずかることです。聖ペトロはこう言っています。「主は私たちに偉大で尊い約束を与えられた。それは、その約束によって、あなたたちを天主の本性にあずからせるためであった」(ペトロ後書1章4節)。天主の本性にあずかること、天主の命にあずかること、天主からそのような命を受けることは、天主の子になることを意味します。天主の御独り子である私たちの主イエズス・キリストの肢体にならなければ、これは決して起こりません。私たちは、天主の御子の肢体として、天主の御子において天主の子なのですから。キリストの体、すなわち教会、カトリック教会の中にいなければ、天主の命を生きることは不可能なのです。このことから、有効で実り豊かな洗礼が、私たちをカトリック教会の肢体にするのです。
もう一つの重要な洗礼の効果は、洗礼によって霊魂に刻まれる刻印です。洗礼によって、私たちは天主の子としてのしるしを付けられます。この刻印は永遠に続くもので、洗礼にふさわしく生きて天国へ行く人々の栄光となり続け、または不信心な生き方によって洗礼を汚して地獄へ行く人々の恥となり続けます。この刻印は、一生の間、助力の恩寵、つまり天主の子としてふさわしく生きるよう助ける恩寵を与える素晴らしい源泉なのです。
秘蹟というものは、「エクス・オペレ・オペラート―なされた行為それ自体によって」働きます。その意味は、その秘蹟を受けたという事実それ自体によって、その秘蹟の効果を受けたということですが、ただ一つ条件があります。その条件とは、秘蹟の効果に対して障害を置いていないことです。たとえば、実際、盗人が洗礼を受けても同時に盗んだ物を返すことを拒んだ場合、その盗んだ物への愛着が恩寵を受ける障害となります。この場合、盗人は洗礼の刻印を受けますが、成聖の恩寵を受けず、罪の赦しを受けず、むしろこれまでの罪に汚聖の罪を加えることになるのです!
洗礼の恩寵に対して最もよくある障害は異端です。まことの信仰を、カトリック信仰を拒否することです。このことこそ、プロテスタントの洗礼が恩寵を与えない理由です。例外は赤ん坊だけで、それはもちろんそのような障害を置いていないからです。そのような障害は、使徒たちの信仰、すなわちカトリック信仰を受け入れることによって回心し、悔悛の秘蹟を受けることによって取り除かれます。
洗礼の秘蹟の通常の執行者は司祭です。司祭は、教会の美しい典礼のすべてを使って「荘厳な洗礼」を授けることができます。しかし、緊急の場合には、信者なら全員、さらには誰であっても、カトリック信者でない人でさえも、洗礼を授けることができます。なぜそうなのでしょうか? なぜなら、天主はすべての人の救いを望んでおられ、それゆえに人々が洗礼を受けるのを広く可能にされるからです。ですから、もしカトリック信者の母親が子どもを産むときに、出産に際して困難が起こるならば、母親は看護師に洗礼をお願いすることができるのです。その看護師がカトリック信者でない人であっても、子どもに洗礼を授けるようにお願いし、洗礼が適切に行われるかを確認します。すなわち、看護師が、「われ、聖父と聖子と聖霊との御名によりて汝を洗う」と言いながら子どもの肌の上に水を注ぐのを確認するのです。看護師が、母親が意向として持っていることを行うという意向を持っていれば、意向を正しくするには十分です。なぜなら、母親は教会が意向として持っていることを行うという意向を持っているからであり、すなわち有効な洗礼になるからです!
正しい意向、すなわち教会が行うことを行うという意向もまた必要です。なぜなら、言葉と儀式の意味そのものは、最終的には秘蹟の執行者の意向によって決定されるからです。一部のプロテスタントのように、教会の意向がはっきりと拒否されている場合、意向の欠如によって秘蹟は無効になります。教皇レオ十三世は、英国国教会の叙階の秘蹟について次のように説明しました。いけにえを捧げる司祭職ということを拒否することによって、彼らは正しい意向を持っていなかったため、彼らの叙階は無効であった、と。通常は、カトリックの儀式を行うことそのものが、意向が正しいことの保証なのです。
洗礼の儀式は美しく、更なる恩寵の源です。洗礼の儀式は、大変重要な問いと答えで始まります。司祭は問いかけます。「あなたは天主の教会に何を求めますか?」。求道者は答えます。「信仰を求めます!」。続いて司祭は問いかけます。「信仰はあなたに何を与えますか?」。求道者は答えます。「永遠の命を与えます!」。そして司祭はこう締めくくります。「あなたが永遠の命を求めるなら、掟を守りなさい」。これらの短い問いと答えは、洗礼の精神と目的のすべてを含んでいます。最終目標は天国での永遠の命です。キリスト教徒の全生涯を通じて、常に目の前にその目標を置いておかなければなりません。私たちは、ここ地上においては巡礼者であり、「この涙の谷でのちくたくの身」です。「あなたたちは聖徒たちと同市民、天主の家族である」(エフェゾ2章19節)。
天国へ行くために、人は信仰を必要とします。ですから、求道者はまことの教会からまことの信仰を求めます。「あなたは天主の教会に何を求めますか? 信仰を求めます!」。そして洗礼が与えるものはこれです。私が数週間前に説明したように、洗礼は注入された信仰の徳、希望の徳、愛の徳を成聖の恩寵と一緒に与えます。しかし、信仰だけでは十分ではなく、天国への道であり、それゆえに教会の勧告である掟に従う必要があるのです。「命を求めるなら、掟を守りなさい」。これは、主に「よき師よ、永遠の命を受けるために私はどんなよいことをすればよいのでしょうか?」(マテオ19章16節)と尋ねた若者に主ご自身が言われたことです。私たちの主は答えられました。「命に入りたいのなら掟を守れ」(マテオ19章17節)。
ノブス・オルドの典礼の洗礼では多くのものが削除されており、これら最初の問いと答えも任意とされました。まことの教会からまことの信仰を求めることがなくなり、天国を望むことがなくなり、いや少なくともこれが任意になってしまいました。
その後、司祭は、聖霊降臨のときの強い風のように、聖霊のくだる象徴として、子どもに息を吹きかけます。そしてこう言います。「汚れたる霊よ、この者よりいでよ。しかして聖霊に席を譲れ」。こうして、ある戦い、つまり霊魂を求める戦いが続いていることが分かります。天主はこの霊魂を救うことを望んでおられますが、悪魔は霊魂をだまして破滅に導こうと躍起になっています。原罪と自罪があるため、洗礼を受けていない者は一定程度、自分の餌食を失いたくない悪魔の支配下にあったのです。キリストは、その霊魂を悪魔の力から解放されます。これは悪魔祓いの儀式でさらにはっきりとします。
悪魔祓いは、私たちを悪魔から解放するための天主への単なる祈りではありません。悪魔祓いとは、主にその権能を与えられたキリストの役務者により、私たちの主イエズス・キリストの御名によって悪魔に対して与えられる、実際の指図であり、命令です。悪魔はそんな悪魔祓いの前でおののき、求道者の霊魂に対する力を失います。ノブス・オルドの典礼の洗礼は、これらの悪魔祓いのすべてを廃止してしまい、悪魔に対抗する祈りがたった一つだけしか残っていません。悪魔に対して離れるようにとの命令はもはやまったくありません。
その後、司祭は、「汝のひたいにも心にも十字架のしるしを受けよ。天の教えの信仰を受け、天主の神殿となるにふさわしい行いをせよ」と言いながら、求道者のひたいと胸に十字架のしるしをします。他にも何回か十字架のしるしが求道者になされます。秘蹟の前には、求道者の胸と両肩に”求道者の油”でなされ、これによって十字架を愛し、十字架を担う勇気を持つよう励まされます。洗礼のあとには、頭の上に聖香油で十字架のしるしがなされ、子どもが聖霊の神殿になったことが表されます。これらの十字架のしるしが明らかにしているのは、十字架につけられた私たちの主イエズス・キリストの弟子になること、すべての恩寵は十字架から来ること、そして「自分を捨て、日々自分の十字架を背負って(十字架の)キリストに従わ」(ルカ9章23節)なければならないことです。またもや、新典礼では、これらの十字架のしるしの多くは廃止されてしまっているのです。
求道者は、腐敗しない象徴、霊的な良き味の象徴として、祝別された塩を受けます。これはまた、「最初の食べ物」であり、ご聖体である「いのちのパン」(マテオ6章11節)を求道者に渇望させます。
その後、求道者は司祭のストラに導かれて教会の中に入ります。これは唯一のまことの教会、カトリック教会に入り、教会の聖職階級に服従することを象徴しています。求道者が教会の中で行う最初のことは、洗礼の準備で習った使徒信経を告白することです。子どもの場合には、子どもの代わりに代父母が子どもの名によってカトリック信仰を告白し、子どもに信仰を教える約束をします。実際、まことの信仰は、カトリック教会の一致をつなぐ、最初にして最も基礎的なものです。この信仰こそ、求道者が全生涯にわたって保持し、実行しなければならない信仰です。次に、求道者はすべての祈りの手本である「天にまします」を唱えます。なぜなら、カトリック的生活は、本質的に、天主の子としての祈りと天主との友情の生活であるからです。この祈りは毎日しなければなりません。
その後、三回の悪魔の放棄、三回の信仰告白があります。これは最も重要なことです。私たちは、特に誘惑に遭うとき、かつて、きっぱりと、これら悪魔の誘惑をすべて放棄したことを思い起こさなければなりません。つまり、私たちは、罪に対して固い決意をもって「いいえ」と言ったのです。私たちは、悪魔が私たちを誘惑するとき、この決意を新たにしなければなりません。「私は悪魔を捨てます。その業を捨てます。その欺きを捨てます」と。私は悪魔を捨てます。なぜなら、私は固い決意をもって天主を選んだのですから。天主に対して「はい」、悪魔に対して「いいえ」と!
他にも多くの美しい祈りがありますが、長くなり過ぎてしまうため、詳しくは説明できません。ただ、付け加えさせていただければ、洗礼のあと、私たちは私たちの霊魂の清さの象徴として白い衣を与えられ、そしてキリストの法廷まで、すなわち審判を受ける生涯の終わりまで、それを汚れなく保つよう忠告を受けます。幼きイエズスの聖テレジアのように、自分の霊魂を洗礼による無垢の状態に保つ人々は幸いなるかな! それを失った人々は悔悛の秘蹟を受け、それを回復させるようまことの悔悛をしなければなりません。しかし、それを失わない方がさらに良いことであり、さらに天主をお喜ばせするのです! この白い衣は、王が自分の子の婚礼の宴席に来るのを許した人々が着てくることを期待している「礼服」のことを表しているのです(マテオ22章11-12節)。
最後に、受洗者は、火のついたろうそくを与えられますが、これは受洗者の霊魂に灯されたばかりの信仰の光および愛徳の火の象徴です。「この燃えるろうそくを受けよ。汝の洗礼を非の打ちどころのない状態に保て。天主の掟を守れ。主が婚礼の祝宴に来られるとき、汝が天国の王宮ですべての聖人たちとともに主の御前にいて、永遠にそこに住むことが許されるように」。こうして、天国をその目的として始まった洗礼の儀式は、天国をその最終的な報いとして終わるのです。
洗礼によって、私たちは天主の子、キリストの肢体となり、それゆえにマリア様の子となります。聖母は洗礼を受けた人すべてをご自分の子として養子になさり、私たち一人一人を非常に特別に心にかけてくださいます。マリア様の御子である私たちの主イエズス・キリストをお喜ばせするために、私たちはマリア様の子として生きましょう。
私たちの洗礼を常に思い起こしましょう。私は洗礼を受けており、異教徒として生きることはできません! 私が、自分の洗礼に恥じぬよう、私たちのかしらであるキリストに栄光を帰すことによって、キリストの肢体としてふさわしく生き、主の徳に倣い、「主によって、主とともに、主のうちに」生きることによって、永遠に聖霊との一致のうちに御父の栄光の中に入ることができますように。アーメン。
聖ピオ十世会日本のお説教・講話がここに掲載されています。