2016年5月5日 秋田巡礼 シュテーリン神父様霊的講話6
「マリア様のご謙遜」
同時通訳:小野田圭志神父
私たちは先ほど、「謙遜によって、謙遜のおかげで、マリア様は全ての憐れみを受ける事ができた」という事が分かりました。
ミサの時に時々、カリスの方に目を向けて下さい。金メッキで時には金で出来た、純金で出来たカリスがあります。イエズス様の御血を入れる為には、カリスの中には何も入っていてはいけません。御血は何の混じり気もなく、その中、きれいなカリスの中にいなければなりません。
マリア様の汚れなき御心はまさに、この純金のカリスのようでした。聖母の連祷の中にはちょうど『霊妙なる器』とありますけれども、これはマリア様がちょうどこの純金のきれいなカリスであったかのようです。
天主様の憐れみを全て知り尽くしたいですか?マリア様のご謙遜を知って下さい。マリア様のご謙遜が、天主の愛を引き寄せたのです。
ここで2つをよく区別しなければなりません。「マリア様のご謙遜」と、「私たちの謙遜」とでは区別があります。
それは「動機」であって、私たちの謙遜の動機は、「もう私たちが罪人であって罪を犯した者であって、憐れみを受けるに値しない者」というのが動機です。素晴らしい、天主様から与えられた宮殿を汚して壊してしまって、その破壊の責任は私自身にあります。「この破壊された宮殿の原因は私にあって、私の罪である」という事が私の謙遜の動機となっています。
マリア様は罪を1つも犯しませんでした。マリア様のご謙遜はこの罪を犯したという事の惨めさによる動機ではありません。
マリア様のご謙遜は、「愛による謙遜」です。マリア様のご謙遜というのは、「無に等しい自分を友として扱って下さる、その天主に対するご謙遜」です。或いはもっと上手く言い換えると、「良き妻である謙遜」です。この妻は全く無であり、何も持っていません。しかし新郎の夫からの、無限の彼女に対する贈り物を知っています。この妻は新婦は、この素晴らしい贈り物にただただ感嘆するばかりなのです。天主様の美が自分の所にやって来るのを見て、それをただただ讃美します。天主様の全ての完徳が、全てマリア様の心に来るのを見て讃美します。光と御恵みがマリア様の所にもうとめどなくやって来るので息もできないほどです。
そういうのを知っているので自覚しているので、マリア様には1つの答えしかありません。「“マニフィカト” 我が霊魂は主を崇め奉る。何故ならば、力ある方が私に大いなる業をしたからです。その御名は聖なるかな。」
マリア様の御生活において御生涯に起こった事は、私たちの生涯の全く正反対でした。
もしも皆さんの中に何か良い所が見つかったら皆さん何をするでしょうか?その自分の中の才能、良い所があるという事があると、ますます罠にはまってしまいます。「それは自分のおかげだ。自分のものだ」と言って、そして自分に帰属させます。そして自分の事を自己賛美して、他の人たちの前に見せびらかして、他の人々からそのような賛美を受けようとします。
「神父様、すばらしい御説教をしますね。」「神父様、神父様の翻訳はとても素晴らしいですよ。」「あぁ奥さん、とても美しいですね。鼻がとても高いです。」
これが、ガボンで宣教師として働いていた時に起こった事でした。黒んぼの女の子がやって来て、私に大きな目をまん丸にしてやって来ました。その女の子が私に恋をしたのかなと思いました。そういう時に私は時々、野蛮なちょっときつい態度をします、「何が欲しいのか!?」私はきっとこの女の子が、「あぁ神父様、愛しています」と言うのかなと思っていました。何と答えたか知っていますか?「神父様、鼻が大きいですね!」(^^;)
これが私たちの人生の問題であって、いつも何か良い事があると自分に帰属させます。他の人々からの注目を浴びようとして、そして他の人から褒めてもらおうとする、これが問題です。
本当ならそれの反対でなければなりません。もしも誰か知性的でとても頭が良い方があったら、それはますます謙遜でなければなりません。しかし私たちがこの世の中で見るのは、非常に知性的な頭の良い人たちが、もう絶望的な傲慢に膨れ上がっている事です。
マリア様はご自分の霊魂の中にあった「天主様の宝」の事によく気が付いていました。
本当の謙遜というのはこういうのではありません、「私は本当に弱くて、本当に私はダメで、本当に何もなくて、良い事もできなくて、これもダメで、これもダメで…」が謙遜ではありません。
ある時、誰かがこう私に聞きました、「神父様、神父様はとても頭が良いですね。」私はこう言いました、「その通りだと知っていますよ!」「神父様、神父様とても傲慢ですね。」「それは時にもよります。」それは条件があります。「誰に自分の才能を帰属させるか」によります。
アヴィラの聖テレジアの賢い言葉を聞いて下さい、「謙遜というのは、天主様の贈り物を無視する事ではない」と。「それがどこから来るか、という事を学ぶ事に謙遜がある」と。
ですから、マリア様の御生涯に起こった出来事を深く研究する必要があります。
謙遜というのは1つの世界です。謙遜というのは、その時と場合によって色んな表現の仕方があります。私たちは秋田に、マリア様の中に深く入る為にやって来ました。だから重要です。私たちがどうやってマリア様に倣うか倣わないかによって、私たちが聖人になるかならないかは決まります。
マリア様の色んな御生涯における行動を見て、私たちと比べて比較して、こうやってマリア様に求めて下さい。もしもそれがなければ謙遜になるとは何か理解できないでしょう。
時々黙想会の後で、黙想会をした人が、「黙想会の決心、“もっと謙遜になる事。”」こんな事は全く意味がありません。マリア様の謙遜をよく見て下さい。
マリア様がまだ小さな女の子だった時に、エルサレムの神殿に送られて教育を受けます。教父たちによると多くの教父たちによると、「マリア様は無原罪の御宿りであったので、その瞬間、天主様から天来の知恵を与えられて、知識も与えられて、マリア様は多くの事を既に生まれつきに知っていて、そのような注入された知識をお持ちだった」とあります。
既に幼くしてマリア様は、天主様から知識を知恵を注入されていたので、聖書の事を誰よりも、この地上にその時生きていた誰よりも深く知っていたはずです。マリア様はこの文字通りの文字面だけではなく、その深い隠された意味さえも理解していたはずです。
ではこのマリア様、小さな女の子がエルサレムで何をしたでしょうか?
しかしマリア様は、この知識を全ての人々に隠しておられました。神殿の責任者当局、司祭たちに従順に従って、その教えるままを勉強していました。エルサレムの神殿の司祭が、色々な昔のやり方によるユダヤ教のゴチゴチとした教えをグダグダと述べている時に、マリア様はそれを一生懸命、忍耐深く聞いていました。律法学士の教えをマリア様はよく聞いていました。そしてその律法学士の教えは、後にイエズス様が、「文字通りのその律法の精神を殺している」と告発したその悪い教えでした。
例を挙げます。ではこのユダヤの律法学士によると、「一体何時に朝の祈りしなければならないか?」律法学士によると、「朝の祈りの朝というのは、朝日が夜の闇を追い出し始めた、その日が昇りかけたその時から始まる。この黒い真っ黒の夜空が白みかけていて、光が少し出たところ。」
「ではその白みかけたというのは、この山の影が白みかけたのか?それとももうちょっと上が白みかけたのか?そのもうちょっと天が白みかけたのでしょうか?」「或いはこの光が弱々しい時でもう既に朝なのか?それとももうちょっと強くなったら朝なのか?それとももっと光り輝いたら朝なのでしょうか?」
生徒は、この色んな学派の解釈を覚えなければなりませんでした。「ガマリエル学派によると、これこれで。そして別の学派によると、これこれで。また別の学派によるとこれこれで」と、その学説を全て暗記しなければなりませんでした。
もしもそのような学説を聞いていてそれを聞いて、「もう退屈だなぁ」と思わなければならない方はマリア様でした。他の子供たちと一緒に聞いていて、マリア様はそれをずっと忍耐深く聞いていました。何故かというと、たとえ90%その中には下らない話だと思われていても、10%は何か良い話しがあるかもしれないと聞いていたからです。そしてその10%の為に聞いていました。
この謙遜は、「従順」と言われます。
私たちにはそれと全く正反対の事が起こります。皆さん何年か小教区にいますよね。神父様からまた同じ御説教を聞きます。「ふわぁ~(あくび)。この御説教またかよ、よく知ってるよこれ。」時々は、「私の方がもっとよく知っているよ」という事を見せつけようとします。誰か黙想会の後で、黙想会をした人が私の所に感謝に来ました、「神父様、この黙想会の事を本当に心から感謝します。私はこの事をもう何度も何度も何度も聞かされていて、もう覚えてしまっているほどです。耳にタコができています。もしも私があなただったら、もっとこうやって、こうやって、これとこれをもっとよく、もっとうまく説明した事でしょう。」
そのような場合には、私たちは利益を受ける事はありません。何故かというと、「天主の教えを何度も繰り返し聞く」という事は同じではないからです。皆さん、聖書などを読んで、イエズス様の御言葉を同じ事を何千回も何万回も読んで下さい。その度ごとにその実りが違います。
私はこの次のような、今から言う事を何度も何度も経験した事があります。私は、この他の神父様も同じようですが、私には特別のタレントというか才能があって、私はこの説教をとても退屈にさせるという才能があります。(^^;)そして説教をすると皆さんを眠らせるという技術もあります。(^^;)でもそのようなお説教を聞いた霊魂のうちに時々、私の所に来て、「神父様、私は今日特別の御恵みを受けました。」その私が言ったほんの一言二言がこの霊魂に染み通って、それに深い印象を与えて、何十年もこう神学の勉強をしたよりも更に深い理解を与えた、という事があります。これが謙遜な霊魂を天主様が報いて下さる例です。
もしも皆さんの中に、「神父様、知っています知っています。分かってる分かってる分かってる」という考えがあったら、どうぞそのような考えを捨てて下さい。これは傲慢にしかすぎません。
ところでエルサレムの神殿に話を戻しますと、神殿では「童貞性」という事に対してとても否定的な考えがありました。「もしも夫人に子供がいないという事は、天主様からの呪いだ」と考えられていました。ですから、「普通の良い女性というのは、結婚して子供を持たなければならない」と考えられていました。まだインドではこうなのですけれども、その当時は、誰と結婚するかというのは、自分で決めるのではなくて、両親或いは司祭が決めました。もしも女の子が神殿で奉仕の為に送られたならば、両親の親権を行使するのは司祭たちであって、この子供たちの女の子たちの責任は司祭たちにあって、誰が誰と結婚するというのは司祭が決めました。その当時では女の子は、「一体結婚するのかしないのか」或いは「誰と結婚するのか」という事は聞く事もできませんでした。
マリア様も同じでした。マリア様の為にはダヴィドの家のヨゼフという男を選びました。マリア様は神殿において、ご自分の貞潔の誓願を立てます。それはマリア様にとってとても大切な事でした。しかしユダヤ当局の司祭たちは、マリア様の心の中で一番大切なものを一つも理解できませんでした。しかし、その為にそのような司祭たちに反抗せずにそのまま従うには、マリア様にご謙遜が必要でした。もしもマリア様が、「自分のその意向をヨゼフという男に打ち明けたら、どんな反応が起こるだろうか。」恐れに打ち勝つ必要もありましたし、それに信頼しなければならないという事がありました。
皆さん、皆さんの人生の中で最も大切な事を、誰か別の人が決定しなければならない。しかもその決定は、皆さんの思っていたものと正反対だったとします。人間的に言えば、皆さんの持っている燃えるような望みは、実現する事は不可能だ、という状況に置かれたとします。
私たちは普通その時に、不平を言います、ブツブツ言います、「一体何でそんな事が私の身に起こったのか。」「あぁ、私が一体何の悪い事をしたのか。」「あぁ何故こんな事が起こるのか。」「僕はこの女の子と結婚したかったのに、もうあっちの世界に行くんだ。」
でもマリア様は謙遜に信頼しました。
第2の謙遜の表現があります。「天主の御摂理に信頼する」という事です。
問題に対する解決が見つからない時には、そして全てが失敗に終わって大失敗に終わろうとする時に、万事休すであって、もう全てこれでもう事が終わってしまうという時、全くもう救いの手助けもなくて、もうこれからもうどうしようもないという行き止まりだという時に、その時に何の混乱もなく、反乱も反抗もなく、天主の御旨に全て委ねて、忍耐強く待つ。これが謙遜です。私たちはこれからどれほど遠くにいる事でしょうか。
謙遜で、自分が無であるという事をよく自覚している人は、天主の御旨を果たす為に全てをします。そしてもしもその制限、限界を体験すると、ただ天主の御摂理に信頼するだけです。
3つの言葉があります。『天主は全てを知っている』『天主は全能だ』『天主は私を愛している』
第3の謙遜の表れは、「御告げ」です。
天主様が人間となるその瞬間は、無限の御謙遜の瞬間でした。喜びの第1玄義は謙遜の徳を乞い願います。小さな子供は、お母さんの事をよく見てお母さんの真似をします。マリア様のご謙遜をよく見て下さい。そしてその徳を真似て謙遜になりましょう。
御告げの時に、全ては謙遜でした。
大天使聖ガブリエル。この「ガブリエル」という名前の意味は、「天主の力」という意味です。天主の最も偉大な天使たちの内のその一位である大天使聖ガブリエルが、天主から特別大使として送られて、15歳のか弱い女の子の前に頭を深く下げて挨拶します。謙遜です。
これからマリア様のご謙遜を見ます。
そしてそのマリア様のご謙遜よりもはるかに素晴らしいのは天主のご謙遜で、天主はその天のいと高き所から、小さな胎児となる、小さな小さな胎児となる為に地上に降りて来られます。
この大切な時にマリア様には何が起こったでしょうか?
色々な聖画を見ると、マリア様の御告げのご様子がありますけれども、マリア様はお祈りに専念しておられました。突然大天使が現れます。マリア様はとても感動します。そして天使の挨拶の言葉を聞きます。誰もそのような言葉を聞いた事がありません。私たちが理解するよりもはるかに深く、その意味するところを理解しました。「聖寵に充ち満ちた御方、天主御身と共に在す。」その意味を深く理解していました。
聖書によると、「それを聞いて心を騒がせた」とあります。何故かというと、そのような素晴らしい名誉の動機が分からなかったからです。何故なら、自分の事は「全く最も端けらで、全く小さなものだ」と考えていたからです。「なぜ自分がこのような偉大な贈り物を、賜物を受けなければならないのか」と。
聖伝によると、マリア様は「救い主が生まれるべき時が来た」という事を知っていました。そこで、「是非そのような救い主の御母の女奴隷となって、召し使いとなってその方に奉仕したい」という事を望んでいました。
この瞬間お告げの瞬間、マリア様こそがこの救い主の母となる事と選ばれたと理解しました。この時に、「天主の偉大な御恵みが被造物に与えられる」という事を理解しました。最高の名誉と最高の贈り物が与えられる、このマリア様に与えられたという事が理解できました。
その答えは何でしょうか?
最初にマリア様が仰った言葉はこれです。マリア様は、「一体これはどうやって起こるのでしょうか?何故なら私は男を知りません」と。
マリア様は、この名誉とか、特別な待遇という事にあまり興味を持ちませんでした。マリア様にその将来何が起こるか、という事はあまり関心がありませんでした。「天主の御旨とは何か、一体何か。」これが一番の関心でした。
マリア様が1つ理解していたのは、天主様は聖母がいつも童貞のままに残るという事をお望みだ、という事です。天主様に聖別された童貞として残る、それが天主様の御旨なのだけれども一体どういう事か。
聖ヨゼフを配偶者として与える事によって、マリア様の童貞性を守る事ができるという事は、天主によって確認されました。司祭たちが、神殿の司祭たちが聖ヨゼフを選びましたけれども、この聖ヨゼフの考えた事は司祭たちはよく知りませんでした。
実は、全世界において、ただ聖ヨゼフだけが、「童貞性の貴重さ」という事を、イスラエルの律法学士たちの意見や学説に反して信じていたのです。それのみならず、聖ヨゼフは全世界でただ一人、「その理想に向かって生きよう」という決心を立てていた男でした。
天主様は全知です。そして全能です。そのようなものを全て1つにまとめる事ができます。もしも私たちが謙遜であるならば、天主様は私たちにとって最高の事を全て準備お膳立てして下さいます。
ですからマリア様は、「終生童貞であるという事が天主の御旨である」という事をよく理解しました。
ところが天使は、「あなたは母となる」と言うのです。「母となる」という事と「童貞を守る」という事は2つは矛盾します。天主様はマリア様が童貞である事をお望みだと理解して、そして同時に母となるという事を理解しますが、「一体どうやって起こるのだろうか?」
そこでマリア様には、その「一体これがどうやって起こるのか」という事を聞く権利と義務がありました。
そこで天使はマリア様に、そのどうやって起こるかを説明します。700年前のイザヤの預言を引用して、「童貞女が子供を生むだろう、母となるだろう」という事を説明します。その天使の言った言葉の結論は、「天主様には不可能な事がありません。」
マリア様は、「なれかし」と言ってその同意を与えます。
もしかしたら普通の人で、どのように聖なる人でも、そのような天使がこうやって、「救い主の母となるだろう」と告げに来たとしたら、もしかしたらちょっとした満足を覚えるかもしれません。「あぁ、このような名誉を受けるとは何と素晴らしい事だろうか」と思ったかもしれません。「他の人にどれほど良い事をする事ができるでしょうか。」「あぁ、私をそうやって名誉を与えて下さるのは、何と天主様は優しい方でしょうか。」ほんのちょっとだけでも、満足や喜び、その名誉を感じるのは、これを避けるのは難しい事かもしれません。
でもマリア様は、マリア様は全ての女性の中で選ばれた特別の女性であって、全ての被造物の中で特別の存在となります。マリア様はご自分の中にある全ての善徳と、全ての美しいものと、その童貞性の美を見ます。それと同時にマリア様は、「全ては天主様から頂いた贈り物である、賜物である」という事を理解しています。「私は全く無なのですけれども、天主様の憐れみによってのみ、ひたすら憐れみによってこれを頂いた」と。「全ての美しいものは天主によって与えられた」と。
マリア様はこの「2つの無限」を考えます。まずマリア様の前に、「無限の天主の御稜威」をご覧になります。そして「無限の自分の空しさ、無」を見ます。
その論理的な結論は、「おぉ天主様、御身は全てであり、私は何でもありません。私はあなたが全て。御旨のままに御言葉の通り我になりますように。ここに御身の女奴隷がおります。」
この謙遜なマリア様の答えが、天主様の心を非常に感動させました。天主様ご自身がそこで、この世を救う為に人となられました。
御復活節が終わると、お告げの祈りを1日3回唱えます。「主の御使いの告げありければ、」これをどうぞ忘れないで下さい。
何で1日に3回もお告げの祈りを唱えるのでしょうか?この「3」というのは、それが「満ちておられる」という事と、それが「完璧である」という事と、その「継続性」を意味します。朝と昼と夜、マリア様のご謙遜を黙想しなければなりません。そして真似しなければなりません。教会はですから、「御告げがこの救霊の業にどれほど重要な役割を示したか」という事を強調するのみならず、この「マリア様の謙遜の中に深く入る事ができる」という事を教えています。「我は主の婢女なり。仰せの如く我になれかし」というのを3回1日に唱える、そしてその中に入るという事は謙遜の行為です。
御告げの後に、別のご謙遜の表れがあります。マリア様は急いで聖ザカリアと聖エリザベトの家に行きます。天と地の元后、天主の御母が、最も謙遜で最も卑しい仕事を、奉仕をする為に急ぎます。これは何を意味するのでしょうか?
「マリア様は、謙遜な者と居るのを望む」という事です。辱しめられた、卑しめられた、屈辱を受けた者と居るという事を望むのです。マリア様は、謙遜で屈辱を受けた人たちと共に居るという事です。
もしも皆さんが他の人から馬鹿にされて、そして卑しめられたとしたら、マリア様は皆さんの所に行くと、自分の家に来たかのように感じられるでしょう。
その当時イスラエルには、謙遜な人はそんなに多くはいませんでした。ファリザイ人やサドカイ人などは非常に傲慢な人たちでした。しかしこの謙遜な人たちの間に属していたのが、ザカリアとかエリザベトでした。聖書によると、「彼らは憐れみの天主の救いを待ち望んでいた」とあります。
この2人は辱しめられていた人でもあります。何故かというと、子供がいなかったからです。そしてこの子供がないという事のみならず、ザカリアは唖になるという辱しめをも受けました。しかも天主様の聖なる仕事をしている最中に、その何か罰を受けたかのようにいきなり唖になって帰って来た。「何と悪い奴だろうか。」多くの人々は、この子供がないとか、唖になったというのは、隠れた罪の為による罰であると考えていました。共同体は皆この二人の事を軽蔑して、馬鹿にしていました。マリア様はそのようなこの二人のもとに走って行くのです。
また次の謙遜の表れが来ます。
私たちは皆、無に等しいものですが、天主様はこのような事を自覚する無の霊魂たちを愛します。いつも類は類を呼ぶと言うのでしょうか、いつも似たような人たちには似たような人たちが集まります。私たちは知っています、この世で謙遜になるのは、辱しめを受け、屈辱を受けなければならないという事を。そこで何か本能的に、もしも私たちが屈辱を受けた時には、そのように辱しめられた卑しめられた人の方に向かいます。
また謙遜の特徴の1つは、「一番大切なものは何か」という事を覚えている事です。それを覚えて感謝する事です。天主の憐れみの御業を覚えて感謝する事です。私たちの無を満たして下さる天主のその聖心を覚えて感謝する事です。
これがマリア様の歌「マニフィカト」です。
聖書の中で、全ての聖書を探すとマリア様の言葉が7回出てきます。ほんの小さい言葉です。一番長いのがマリア様の祈りです。マリア様が一番長く話したのが、このマニフィカトのお祈りです。
もしもご謙遜になりたいですか?天主様の憐れみをよくこう考えて下さい。私たちがそれを受けるに全く相応しくないという事を考えて下さい、思い出して下さい。天主様の憐れみの業1つ1つを深く感謝して下さい。
以上のように、色々な憐れみの表れのやり方があります。
もっと難しい謙遜の表れは、「苦しみ」においてやって来ます。
もしも謙遜な霊魂であるならば、その結果、苦しむ霊魂と共に苦しむという態度が生まれるからです。謙遜な霊魂は、天主の深い神秘の意味を理解します。謙遜な霊魂は、天主イエズス様の愛がどれほど大きいかを理解します。御聖体を拝領する時に、どれほどえも言われない、信じらないほどの偉大な御恵みが私たちに来ているのか、という事を謙遜な霊魂はますます深く理解します。罪がどれほど恐ろしいかを理解します。するとその理解した事を友達にぜひ話したくなります。
私たちが天主様の近くに行けば行くほど、多くの場合友人を失ってしまいます。何故かというと、皆さんは別の言語を話し始めるからです。今までのお友達は、皆さんが何を言っているか理解できなくなります。一番近しいお友達だった人も、一体何の話しをしているのか理解できなくなります。この女の子の友達が「さぁ、ショッピングに行きましょう。一緒にご飯食べよう。」「すみません、時間がないのです、もっと別のする事があるから。」皆さんのお友達は、「大阪のおいしい店みんな知ってるよ。昔よく行ったじゃないあの喫茶店。どうしたの?」「昔は365日別の違うきれいな服を着てたじゃない。今何それ、何か学校の制服のように。」
皆さんこういう事を体験された事でしょう。皆さんが持っているその宝、憐れみの宝を他の人に与えたいのですけれども、彼らはそれを理解できないのです、それをブロックされています。何か彼らは昔のお友達は、今自分からどんどん離れて行くかのようです。もう互いに理解し合う事ができないかのようです。昔は面白かった、昔は関心があった事はつまらなくて、何か時間の無駄で、そして昔のお友達はもう目から消えてしまのです。この苦しみも私たちは受け入れなければなりません。
この例を挙げます。聖ヨゼフは最も幸せな男の1人でした。何故かというと、これほどすばらしい妻と結婚できたという事です。ところで聖ヨゼフ様は、マリア様がザカリアとエリザベトの家から帰って来ると、何かお腹が膨らんでいるのを見ます。聖ヨゼフは自分の目を信じる事ができませんでした。「なぜ妊娠しているのか!?」でもその証拠が目の前に突き付けられているから、もう議論をする余地もありません。マリア様からは何の説明もありません。「一体何が起っているのだろう、一体何なんだ!?」でもその結論を出す事ができません。「このマリア様は全く純粋で、きれいな清い御方で、これほどの清い方はいない。それは知っていた。しかし誰か別の男と私通をしたのか、もしもそのような事であれば最も悪い最悪の罪であって、本来ならば石殺しにされなければならない。」
聖ヨゼフはもう眠る事ができませんでした。解決の道がありませんでした。もしもこの子供が生まれたら役所に行って、この子供について出生について聞かれます。「これはあなたの子供ですか?」もしも、「そうです」と言えば嘘になる。もしも、「いいえ」というと、マリア様は石殺しにされる。「どうしたら良いのか。」唯一残された道は、このまま姿を消してしまう事、跡を残さずに姿を蒸発してしまう事。マリア様はきっとこう聞かれたら、「これはあなたの子供ですか?」「はい。」
そしてマリア様と離れて、別の所に行こうと決心した時、マリア様の命を守る為にそうしようとした時、でもこれは一体ヨゼフにとって何を意味したか分かりますか?この「生活の喜び」というのは全て失われるのです。最愛の妻、最も愛する妻を今離れて、もう決して見る事もない、会う事もない、話す事もない。
マリア様はそしたらより少なく苦しむと思いますか。マリア様はヨゼフ様の苦しみをよく理解していました。マリア様はヨゼフ様にちゃんと説明したかったのです、本当なら。そうすればこの2つの清い霊魂が互いに苦しみ合い、互いの喜びを分かち合う事ができたはずです。
でもこの2人は謙遜のままに留まりました。マリア様もヨゼフ様も、反乱とか反抗とかを起こす事はありませんでした。最も悪いものを、最悪のものを受け取る準備ができていました。何故なら、「私は何でもない」からです。「無」だからです。「天主が望む事だけを為すように。」
天主様は謙遜の全ての行為を祝福して下さいます。もしも必要ならば奇跡さえも起こします。
天主の御前で謙遜になる霊魂は、喜びのみならず、苦しみにおいても天主に信頼します。私たちの場合には、謙遜はいつも辱しめ、辱しめを受ける苦しみと一緒に来ます。マリア様は私たちと別の境遇には置かれていましたけれども、マリア様は罪から守られていましたけれども、マリア様は進んで、自ら進んで喜んで、屈辱と辱しめを受ける事を望みます。そうしてマリア様は、全ての観点において私たちの為の謙遜の模範となる事ができました。
今晩、イエズス様が御誕生された時に、マリア様はどれほど屈辱、辱しめられたか、という事を黙想しましょう。
今日午後、ご謙遜な単純な木像のマリア様の前に行った時に、どうぞ謙遜の徳を乞い求めて下さい。
聖ピオ十世会日本のお説教・講話がここに掲載されています。
「マリア様のご謙遜」
同時通訳:小野田圭志神父
私たちは先ほど、「謙遜によって、謙遜のおかげで、マリア様は全ての憐れみを受ける事ができた」という事が分かりました。
ミサの時に時々、カリスの方に目を向けて下さい。金メッキで時には金で出来た、純金で出来たカリスがあります。イエズス様の御血を入れる為には、カリスの中には何も入っていてはいけません。御血は何の混じり気もなく、その中、きれいなカリスの中にいなければなりません。
マリア様の汚れなき御心はまさに、この純金のカリスのようでした。聖母の連祷の中にはちょうど『霊妙なる器』とありますけれども、これはマリア様がちょうどこの純金のきれいなカリスであったかのようです。
天主様の憐れみを全て知り尽くしたいですか?マリア様のご謙遜を知って下さい。マリア様のご謙遜が、天主の愛を引き寄せたのです。
ここで2つをよく区別しなければなりません。「マリア様のご謙遜」と、「私たちの謙遜」とでは区別があります。
それは「動機」であって、私たちの謙遜の動機は、「もう私たちが罪人であって罪を犯した者であって、憐れみを受けるに値しない者」というのが動機です。素晴らしい、天主様から与えられた宮殿を汚して壊してしまって、その破壊の責任は私自身にあります。「この破壊された宮殿の原因は私にあって、私の罪である」という事が私の謙遜の動機となっています。
マリア様は罪を1つも犯しませんでした。マリア様のご謙遜はこの罪を犯したという事の惨めさによる動機ではありません。
マリア様のご謙遜は、「愛による謙遜」です。マリア様のご謙遜というのは、「無に等しい自分を友として扱って下さる、その天主に対するご謙遜」です。或いはもっと上手く言い換えると、「良き妻である謙遜」です。この妻は全く無であり、何も持っていません。しかし新郎の夫からの、無限の彼女に対する贈り物を知っています。この妻は新婦は、この素晴らしい贈り物にただただ感嘆するばかりなのです。天主様の美が自分の所にやって来るのを見て、それをただただ讃美します。天主様の全ての完徳が、全てマリア様の心に来るのを見て讃美します。光と御恵みがマリア様の所にもうとめどなくやって来るので息もできないほどです。
そういうのを知っているので自覚しているので、マリア様には1つの答えしかありません。「“マニフィカト” 我が霊魂は主を崇め奉る。何故ならば、力ある方が私に大いなる業をしたからです。その御名は聖なるかな。」
マリア様の御生活において御生涯に起こった事は、私たちの生涯の全く正反対でした。
もしも皆さんの中に何か良い所が見つかったら皆さん何をするでしょうか?その自分の中の才能、良い所があるという事があると、ますます罠にはまってしまいます。「それは自分のおかげだ。自分のものだ」と言って、そして自分に帰属させます。そして自分の事を自己賛美して、他の人たちの前に見せびらかして、他の人々からそのような賛美を受けようとします。
「神父様、すばらしい御説教をしますね。」「神父様、神父様の翻訳はとても素晴らしいですよ。」「あぁ奥さん、とても美しいですね。鼻がとても高いです。」
これが、ガボンで宣教師として働いていた時に起こった事でした。黒んぼの女の子がやって来て、私に大きな目をまん丸にしてやって来ました。その女の子が私に恋をしたのかなと思いました。そういう時に私は時々、野蛮なちょっときつい態度をします、「何が欲しいのか!?」私はきっとこの女の子が、「あぁ神父様、愛しています」と言うのかなと思っていました。何と答えたか知っていますか?「神父様、鼻が大きいですね!」(^^;)
これが私たちの人生の問題であって、いつも何か良い事があると自分に帰属させます。他の人々からの注目を浴びようとして、そして他の人から褒めてもらおうとする、これが問題です。
本当ならそれの反対でなければなりません。もしも誰か知性的でとても頭が良い方があったら、それはますます謙遜でなければなりません。しかし私たちがこの世の中で見るのは、非常に知性的な頭の良い人たちが、もう絶望的な傲慢に膨れ上がっている事です。
マリア様はご自分の霊魂の中にあった「天主様の宝」の事によく気が付いていました。
本当の謙遜というのはこういうのではありません、「私は本当に弱くて、本当に私はダメで、本当に何もなくて、良い事もできなくて、これもダメで、これもダメで…」が謙遜ではありません。
ある時、誰かがこう私に聞きました、「神父様、神父様はとても頭が良いですね。」私はこう言いました、「その通りだと知っていますよ!」「神父様、神父様とても傲慢ですね。」「それは時にもよります。」それは条件があります。「誰に自分の才能を帰属させるか」によります。
アヴィラの聖テレジアの賢い言葉を聞いて下さい、「謙遜というのは、天主様の贈り物を無視する事ではない」と。「それがどこから来るか、という事を学ぶ事に謙遜がある」と。
ですから、マリア様の御生涯に起こった出来事を深く研究する必要があります。
謙遜というのは1つの世界です。謙遜というのは、その時と場合によって色んな表現の仕方があります。私たちは秋田に、マリア様の中に深く入る為にやって来ました。だから重要です。私たちがどうやってマリア様に倣うか倣わないかによって、私たちが聖人になるかならないかは決まります。
マリア様の色んな御生涯における行動を見て、私たちと比べて比較して、こうやってマリア様に求めて下さい。もしもそれがなければ謙遜になるとは何か理解できないでしょう。
時々黙想会の後で、黙想会をした人が、「黙想会の決心、“もっと謙遜になる事。”」こんな事は全く意味がありません。マリア様の謙遜をよく見て下さい。
マリア様がまだ小さな女の子だった時に、エルサレムの神殿に送られて教育を受けます。教父たちによると多くの教父たちによると、「マリア様は無原罪の御宿りであったので、その瞬間、天主様から天来の知恵を与えられて、知識も与えられて、マリア様は多くの事を既に生まれつきに知っていて、そのような注入された知識をお持ちだった」とあります。
既に幼くしてマリア様は、天主様から知識を知恵を注入されていたので、聖書の事を誰よりも、この地上にその時生きていた誰よりも深く知っていたはずです。マリア様はこの文字通りの文字面だけではなく、その深い隠された意味さえも理解していたはずです。
ではこのマリア様、小さな女の子がエルサレムで何をしたでしょうか?
しかしマリア様は、この知識を全ての人々に隠しておられました。神殿の責任者当局、司祭たちに従順に従って、その教えるままを勉強していました。エルサレムの神殿の司祭が、色々な昔のやり方によるユダヤ教のゴチゴチとした教えをグダグダと述べている時に、マリア様はそれを一生懸命、忍耐深く聞いていました。律法学士の教えをマリア様はよく聞いていました。そしてその律法学士の教えは、後にイエズス様が、「文字通りのその律法の精神を殺している」と告発したその悪い教えでした。
例を挙げます。ではこのユダヤの律法学士によると、「一体何時に朝の祈りしなければならないか?」律法学士によると、「朝の祈りの朝というのは、朝日が夜の闇を追い出し始めた、その日が昇りかけたその時から始まる。この黒い真っ黒の夜空が白みかけていて、光が少し出たところ。」
「ではその白みかけたというのは、この山の影が白みかけたのか?それとももうちょっと上が白みかけたのか?そのもうちょっと天が白みかけたのでしょうか?」「或いはこの光が弱々しい時でもう既に朝なのか?それとももうちょっと強くなったら朝なのか?それとももっと光り輝いたら朝なのでしょうか?」
生徒は、この色んな学派の解釈を覚えなければなりませんでした。「ガマリエル学派によると、これこれで。そして別の学派によると、これこれで。また別の学派によるとこれこれで」と、その学説を全て暗記しなければなりませんでした。
もしもそのような学説を聞いていてそれを聞いて、「もう退屈だなぁ」と思わなければならない方はマリア様でした。他の子供たちと一緒に聞いていて、マリア様はそれをずっと忍耐深く聞いていました。何故かというと、たとえ90%その中には下らない話だと思われていても、10%は何か良い話しがあるかもしれないと聞いていたからです。そしてその10%の為に聞いていました。
この謙遜は、「従順」と言われます。
私たちにはそれと全く正反対の事が起こります。皆さん何年か小教区にいますよね。神父様からまた同じ御説教を聞きます。「ふわぁ~(あくび)。この御説教またかよ、よく知ってるよこれ。」時々は、「私の方がもっとよく知っているよ」という事を見せつけようとします。誰か黙想会の後で、黙想会をした人が私の所に感謝に来ました、「神父様、この黙想会の事を本当に心から感謝します。私はこの事をもう何度も何度も何度も聞かされていて、もう覚えてしまっているほどです。耳にタコができています。もしも私があなただったら、もっとこうやって、こうやって、これとこれをもっとよく、もっとうまく説明した事でしょう。」
そのような場合には、私たちは利益を受ける事はありません。何故かというと、「天主の教えを何度も繰り返し聞く」という事は同じではないからです。皆さん、聖書などを読んで、イエズス様の御言葉を同じ事を何千回も何万回も読んで下さい。その度ごとにその実りが違います。
私はこの次のような、今から言う事を何度も何度も経験した事があります。私は、この他の神父様も同じようですが、私には特別のタレントというか才能があって、私はこの説教をとても退屈にさせるという才能があります。(^^;)そして説教をすると皆さんを眠らせるという技術もあります。(^^;)でもそのようなお説教を聞いた霊魂のうちに時々、私の所に来て、「神父様、私は今日特別の御恵みを受けました。」その私が言ったほんの一言二言がこの霊魂に染み通って、それに深い印象を与えて、何十年もこう神学の勉強をしたよりも更に深い理解を与えた、という事があります。これが謙遜な霊魂を天主様が報いて下さる例です。
もしも皆さんの中に、「神父様、知っています知っています。分かってる分かってる分かってる」という考えがあったら、どうぞそのような考えを捨てて下さい。これは傲慢にしかすぎません。
ところでエルサレムの神殿に話を戻しますと、神殿では「童貞性」という事に対してとても否定的な考えがありました。「もしも夫人に子供がいないという事は、天主様からの呪いだ」と考えられていました。ですから、「普通の良い女性というのは、結婚して子供を持たなければならない」と考えられていました。まだインドではこうなのですけれども、その当時は、誰と結婚するかというのは、自分で決めるのではなくて、両親或いは司祭が決めました。もしも女の子が神殿で奉仕の為に送られたならば、両親の親権を行使するのは司祭たちであって、この子供たちの女の子たちの責任は司祭たちにあって、誰が誰と結婚するというのは司祭が決めました。その当時では女の子は、「一体結婚するのかしないのか」或いは「誰と結婚するのか」という事は聞く事もできませんでした。
マリア様も同じでした。マリア様の為にはダヴィドの家のヨゼフという男を選びました。マリア様は神殿において、ご自分の貞潔の誓願を立てます。それはマリア様にとってとても大切な事でした。しかしユダヤ当局の司祭たちは、マリア様の心の中で一番大切なものを一つも理解できませんでした。しかし、その為にそのような司祭たちに反抗せずにそのまま従うには、マリア様にご謙遜が必要でした。もしもマリア様が、「自分のその意向をヨゼフという男に打ち明けたら、どんな反応が起こるだろうか。」恐れに打ち勝つ必要もありましたし、それに信頼しなければならないという事がありました。
皆さん、皆さんの人生の中で最も大切な事を、誰か別の人が決定しなければならない。しかもその決定は、皆さんの思っていたものと正反対だったとします。人間的に言えば、皆さんの持っている燃えるような望みは、実現する事は不可能だ、という状況に置かれたとします。
私たちは普通その時に、不平を言います、ブツブツ言います、「一体何でそんな事が私の身に起こったのか。」「あぁ、私が一体何の悪い事をしたのか。」「あぁ何故こんな事が起こるのか。」「僕はこの女の子と結婚したかったのに、もうあっちの世界に行くんだ。」
でもマリア様は謙遜に信頼しました。
第2の謙遜の表現があります。「天主の御摂理に信頼する」という事です。
問題に対する解決が見つからない時には、そして全てが失敗に終わって大失敗に終わろうとする時に、万事休すであって、もう全てこれでもう事が終わってしまうという時、全くもう救いの手助けもなくて、もうこれからもうどうしようもないという行き止まりだという時に、その時に何の混乱もなく、反乱も反抗もなく、天主の御旨に全て委ねて、忍耐強く待つ。これが謙遜です。私たちはこれからどれほど遠くにいる事でしょうか。
謙遜で、自分が無であるという事をよく自覚している人は、天主の御旨を果たす為に全てをします。そしてもしもその制限、限界を体験すると、ただ天主の御摂理に信頼するだけです。
3つの言葉があります。『天主は全てを知っている』『天主は全能だ』『天主は私を愛している』
第3の謙遜の表れは、「御告げ」です。
天主様が人間となるその瞬間は、無限の御謙遜の瞬間でした。喜びの第1玄義は謙遜の徳を乞い願います。小さな子供は、お母さんの事をよく見てお母さんの真似をします。マリア様のご謙遜をよく見て下さい。そしてその徳を真似て謙遜になりましょう。
御告げの時に、全ては謙遜でした。
大天使聖ガブリエル。この「ガブリエル」という名前の意味は、「天主の力」という意味です。天主の最も偉大な天使たちの内のその一位である大天使聖ガブリエルが、天主から特別大使として送られて、15歳のか弱い女の子の前に頭を深く下げて挨拶します。謙遜です。
これからマリア様のご謙遜を見ます。
そしてそのマリア様のご謙遜よりもはるかに素晴らしいのは天主のご謙遜で、天主はその天のいと高き所から、小さな胎児となる、小さな小さな胎児となる為に地上に降りて来られます。
この大切な時にマリア様には何が起こったでしょうか?
色々な聖画を見ると、マリア様の御告げのご様子がありますけれども、マリア様はお祈りに専念しておられました。突然大天使が現れます。マリア様はとても感動します。そして天使の挨拶の言葉を聞きます。誰もそのような言葉を聞いた事がありません。私たちが理解するよりもはるかに深く、その意味するところを理解しました。「聖寵に充ち満ちた御方、天主御身と共に在す。」その意味を深く理解していました。
聖書によると、「それを聞いて心を騒がせた」とあります。何故かというと、そのような素晴らしい名誉の動機が分からなかったからです。何故なら、自分の事は「全く最も端けらで、全く小さなものだ」と考えていたからです。「なぜ自分がこのような偉大な贈り物を、賜物を受けなければならないのか」と。
聖伝によると、マリア様は「救い主が生まれるべき時が来た」という事を知っていました。そこで、「是非そのような救い主の御母の女奴隷となって、召し使いとなってその方に奉仕したい」という事を望んでいました。
この瞬間お告げの瞬間、マリア様こそがこの救い主の母となる事と選ばれたと理解しました。この時に、「天主の偉大な御恵みが被造物に与えられる」という事を理解しました。最高の名誉と最高の贈り物が与えられる、このマリア様に与えられたという事が理解できました。
その答えは何でしょうか?
最初にマリア様が仰った言葉はこれです。マリア様は、「一体これはどうやって起こるのでしょうか?何故なら私は男を知りません」と。
マリア様は、この名誉とか、特別な待遇という事にあまり興味を持ちませんでした。マリア様にその将来何が起こるか、という事はあまり関心がありませんでした。「天主の御旨とは何か、一体何か。」これが一番の関心でした。
マリア様が1つ理解していたのは、天主様は聖母がいつも童貞のままに残るという事をお望みだ、という事です。天主様に聖別された童貞として残る、それが天主様の御旨なのだけれども一体どういう事か。
聖ヨゼフを配偶者として与える事によって、マリア様の童貞性を守る事ができるという事は、天主によって確認されました。司祭たちが、神殿の司祭たちが聖ヨゼフを選びましたけれども、この聖ヨゼフの考えた事は司祭たちはよく知りませんでした。
実は、全世界において、ただ聖ヨゼフだけが、「童貞性の貴重さ」という事を、イスラエルの律法学士たちの意見や学説に反して信じていたのです。それのみならず、聖ヨゼフは全世界でただ一人、「その理想に向かって生きよう」という決心を立てていた男でした。
天主様は全知です。そして全能です。そのようなものを全て1つにまとめる事ができます。もしも私たちが謙遜であるならば、天主様は私たちにとって最高の事を全て準備お膳立てして下さいます。
ですからマリア様は、「終生童貞であるという事が天主の御旨である」という事をよく理解しました。
ところが天使は、「あなたは母となる」と言うのです。「母となる」という事と「童貞を守る」という事は2つは矛盾します。天主様はマリア様が童貞である事をお望みだと理解して、そして同時に母となるという事を理解しますが、「一体どうやって起こるのだろうか?」
そこでマリア様には、その「一体これがどうやって起こるのか」という事を聞く権利と義務がありました。
そこで天使はマリア様に、そのどうやって起こるかを説明します。700年前のイザヤの預言を引用して、「童貞女が子供を生むだろう、母となるだろう」という事を説明します。その天使の言った言葉の結論は、「天主様には不可能な事がありません。」
マリア様は、「なれかし」と言ってその同意を与えます。
もしかしたら普通の人で、どのように聖なる人でも、そのような天使がこうやって、「救い主の母となるだろう」と告げに来たとしたら、もしかしたらちょっとした満足を覚えるかもしれません。「あぁ、このような名誉を受けるとは何と素晴らしい事だろうか」と思ったかもしれません。「他の人にどれほど良い事をする事ができるでしょうか。」「あぁ、私をそうやって名誉を与えて下さるのは、何と天主様は優しい方でしょうか。」ほんのちょっとだけでも、満足や喜び、その名誉を感じるのは、これを避けるのは難しい事かもしれません。
でもマリア様は、マリア様は全ての女性の中で選ばれた特別の女性であって、全ての被造物の中で特別の存在となります。マリア様はご自分の中にある全ての善徳と、全ての美しいものと、その童貞性の美を見ます。それと同時にマリア様は、「全ては天主様から頂いた贈り物である、賜物である」という事を理解しています。「私は全く無なのですけれども、天主様の憐れみによってのみ、ひたすら憐れみによってこれを頂いた」と。「全ての美しいものは天主によって与えられた」と。
マリア様はこの「2つの無限」を考えます。まずマリア様の前に、「無限の天主の御稜威」をご覧になります。そして「無限の自分の空しさ、無」を見ます。
その論理的な結論は、「おぉ天主様、御身は全てであり、私は何でもありません。私はあなたが全て。御旨のままに御言葉の通り我になりますように。ここに御身の女奴隷がおります。」
この謙遜なマリア様の答えが、天主様の心を非常に感動させました。天主様ご自身がそこで、この世を救う為に人となられました。
御復活節が終わると、お告げの祈りを1日3回唱えます。「主の御使いの告げありければ、」これをどうぞ忘れないで下さい。
何で1日に3回もお告げの祈りを唱えるのでしょうか?この「3」というのは、それが「満ちておられる」という事と、それが「完璧である」という事と、その「継続性」を意味します。朝と昼と夜、マリア様のご謙遜を黙想しなければなりません。そして真似しなければなりません。教会はですから、「御告げがこの救霊の業にどれほど重要な役割を示したか」という事を強調するのみならず、この「マリア様の謙遜の中に深く入る事ができる」という事を教えています。「我は主の婢女なり。仰せの如く我になれかし」というのを3回1日に唱える、そしてその中に入るという事は謙遜の行為です。
御告げの後に、別のご謙遜の表れがあります。マリア様は急いで聖ザカリアと聖エリザベトの家に行きます。天と地の元后、天主の御母が、最も謙遜で最も卑しい仕事を、奉仕をする為に急ぎます。これは何を意味するのでしょうか?
「マリア様は、謙遜な者と居るのを望む」という事です。辱しめられた、卑しめられた、屈辱を受けた者と居るという事を望むのです。マリア様は、謙遜で屈辱を受けた人たちと共に居るという事です。
もしも皆さんが他の人から馬鹿にされて、そして卑しめられたとしたら、マリア様は皆さんの所に行くと、自分の家に来たかのように感じられるでしょう。
その当時イスラエルには、謙遜な人はそんなに多くはいませんでした。ファリザイ人やサドカイ人などは非常に傲慢な人たちでした。しかしこの謙遜な人たちの間に属していたのが、ザカリアとかエリザベトでした。聖書によると、「彼らは憐れみの天主の救いを待ち望んでいた」とあります。
この2人は辱しめられていた人でもあります。何故かというと、子供がいなかったからです。そしてこの子供がないという事のみならず、ザカリアは唖になるという辱しめをも受けました。しかも天主様の聖なる仕事をしている最中に、その何か罰を受けたかのようにいきなり唖になって帰って来た。「何と悪い奴だろうか。」多くの人々は、この子供がないとか、唖になったというのは、隠れた罪の為による罰であると考えていました。共同体は皆この二人の事を軽蔑して、馬鹿にしていました。マリア様はそのようなこの二人のもとに走って行くのです。
また次の謙遜の表れが来ます。
私たちは皆、無に等しいものですが、天主様はこのような事を自覚する無の霊魂たちを愛します。いつも類は類を呼ぶと言うのでしょうか、いつも似たような人たちには似たような人たちが集まります。私たちは知っています、この世で謙遜になるのは、辱しめを受け、屈辱を受けなければならないという事を。そこで何か本能的に、もしも私たちが屈辱を受けた時には、そのように辱しめられた卑しめられた人の方に向かいます。
また謙遜の特徴の1つは、「一番大切なものは何か」という事を覚えている事です。それを覚えて感謝する事です。天主の憐れみの御業を覚えて感謝する事です。私たちの無を満たして下さる天主のその聖心を覚えて感謝する事です。
これがマリア様の歌「マニフィカト」です。
聖書の中で、全ての聖書を探すとマリア様の言葉が7回出てきます。ほんの小さい言葉です。一番長いのがマリア様の祈りです。マリア様が一番長く話したのが、このマニフィカトのお祈りです。
もしもご謙遜になりたいですか?天主様の憐れみをよくこう考えて下さい。私たちがそれを受けるに全く相応しくないという事を考えて下さい、思い出して下さい。天主様の憐れみの業1つ1つを深く感謝して下さい。
以上のように、色々な憐れみの表れのやり方があります。
もっと難しい謙遜の表れは、「苦しみ」においてやって来ます。
もしも謙遜な霊魂であるならば、その結果、苦しむ霊魂と共に苦しむという態度が生まれるからです。謙遜な霊魂は、天主の深い神秘の意味を理解します。謙遜な霊魂は、天主イエズス様の愛がどれほど大きいかを理解します。御聖体を拝領する時に、どれほどえも言われない、信じらないほどの偉大な御恵みが私たちに来ているのか、という事を謙遜な霊魂はますます深く理解します。罪がどれほど恐ろしいかを理解します。するとその理解した事を友達にぜひ話したくなります。
私たちが天主様の近くに行けば行くほど、多くの場合友人を失ってしまいます。何故かというと、皆さんは別の言語を話し始めるからです。今までのお友達は、皆さんが何を言っているか理解できなくなります。一番近しいお友達だった人も、一体何の話しをしているのか理解できなくなります。この女の子の友達が「さぁ、ショッピングに行きましょう。一緒にご飯食べよう。」「すみません、時間がないのです、もっと別のする事があるから。」皆さんのお友達は、「大阪のおいしい店みんな知ってるよ。昔よく行ったじゃないあの喫茶店。どうしたの?」「昔は365日別の違うきれいな服を着てたじゃない。今何それ、何か学校の制服のように。」
皆さんこういう事を体験された事でしょう。皆さんが持っているその宝、憐れみの宝を他の人に与えたいのですけれども、彼らはそれを理解できないのです、それをブロックされています。何か彼らは昔のお友達は、今自分からどんどん離れて行くかのようです。もう互いに理解し合う事ができないかのようです。昔は面白かった、昔は関心があった事はつまらなくて、何か時間の無駄で、そして昔のお友達はもう目から消えてしまのです。この苦しみも私たちは受け入れなければなりません。
この例を挙げます。聖ヨゼフは最も幸せな男の1人でした。何故かというと、これほどすばらしい妻と結婚できたという事です。ところで聖ヨゼフ様は、マリア様がザカリアとエリザベトの家から帰って来ると、何かお腹が膨らんでいるのを見ます。聖ヨゼフは自分の目を信じる事ができませんでした。「なぜ妊娠しているのか!?」でもその証拠が目の前に突き付けられているから、もう議論をする余地もありません。マリア様からは何の説明もありません。「一体何が起っているのだろう、一体何なんだ!?」でもその結論を出す事ができません。「このマリア様は全く純粋で、きれいな清い御方で、これほどの清い方はいない。それは知っていた。しかし誰か別の男と私通をしたのか、もしもそのような事であれば最も悪い最悪の罪であって、本来ならば石殺しにされなければならない。」
聖ヨゼフはもう眠る事ができませんでした。解決の道がありませんでした。もしもこの子供が生まれたら役所に行って、この子供について出生について聞かれます。「これはあなたの子供ですか?」もしも、「そうです」と言えば嘘になる。もしも、「いいえ」というと、マリア様は石殺しにされる。「どうしたら良いのか。」唯一残された道は、このまま姿を消してしまう事、跡を残さずに姿を蒸発してしまう事。マリア様はきっとこう聞かれたら、「これはあなたの子供ですか?」「はい。」
そしてマリア様と離れて、別の所に行こうと決心した時、マリア様の命を守る為にそうしようとした時、でもこれは一体ヨゼフにとって何を意味したか分かりますか?この「生活の喜び」というのは全て失われるのです。最愛の妻、最も愛する妻を今離れて、もう決して見る事もない、会う事もない、話す事もない。
マリア様はそしたらより少なく苦しむと思いますか。マリア様はヨゼフ様の苦しみをよく理解していました。マリア様はヨゼフ様にちゃんと説明したかったのです、本当なら。そうすればこの2つの清い霊魂が互いに苦しみ合い、互いの喜びを分かち合う事ができたはずです。
でもこの2人は謙遜のままに留まりました。マリア様もヨゼフ様も、反乱とか反抗とかを起こす事はありませんでした。最も悪いものを、最悪のものを受け取る準備ができていました。何故なら、「私は何でもない」からです。「無」だからです。「天主が望む事だけを為すように。」
天主様は謙遜の全ての行為を祝福して下さいます。もしも必要ならば奇跡さえも起こします。
天主の御前で謙遜になる霊魂は、喜びのみならず、苦しみにおいても天主に信頼します。私たちの場合には、謙遜はいつも辱しめ、辱しめを受ける苦しみと一緒に来ます。マリア様は私たちと別の境遇には置かれていましたけれども、マリア様は罪から守られていましたけれども、マリア様は進んで、自ら進んで喜んで、屈辱と辱しめを受ける事を望みます。そうしてマリア様は、全ての観点において私たちの為の謙遜の模範となる事ができました。
今晩、イエズス様が御誕生された時に、マリア様はどれほど屈辱、辱しめられたか、という事を黙想しましょう。
今日午後、ご謙遜な単純な木像のマリア様の前に行った時に、どうぞ謙遜の徳を乞い求めて下さい。
聖ピオ十世会日本のお説教・講話がここに掲載されています。