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Channel: Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた
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マリア様に、一番心に適う事は何なのか?

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アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

2016年11月12日(土)に大阪で聖伝のミサを捧げました。その時のお説教をご紹介いたします。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

2016年11月12日(土)殉教者教皇聖マルティノ1世のミサ
小野田神父説教

聖母の汚れなき御心聖堂にようこそ。
今日は2016年 11月12日、教皇殉教者聖マルティノ1世のミサを捧げています。今日のこの御ミサの後に公教要理の時には、公教要理に代わってクリスマスの朝課の練習をできればしたいと思っています。



聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

愛する兄弟の皆さん、今日は聖マルティノ1世教皇殉教者の御ミサですから、私たちはその教皇様の生涯を垣間見て、私たちに一体何が教えられているのか、何が求められているのか、天主様は私たちに今日、この教皇様の姿を見せて何をお求めになっているか、という事を黙想して、遷善の決心を立てる事に致しましょう。

教皇聖マルティノ1世は、649年から655年まで教皇様でした。短い統治の間マルティノ1世教皇様は特に、過去ローマで多くの方々が殉教したその殉教を、異教徒の皇帝からローマ皇帝から受けた迫害を、実は洗礼を受けたローマ皇帝から迫害を受ける事になって、「使徒たちでもなかったそのような栄光を受ける事ができた。イエズス・キリストの為に苦しみを受ける事ができた」という事を喜んでおられました。

一体何故そのような事が起きたのでしょうか?

当時教皇様が教皇職に登位すると、コンスタンティノープルでは異端の説が流行っていました。特にコンスタンティノープルの大司教パウロは、総司教パウロは、「モノテリティズム」と言って、「イエズス様の中には天主の意思しかない。イエズス・キリストの中には意思は1つしかない」という説を立てました。

カトリックの教えによれば、「位格的結合の為に、イエズス・キリストの天主のペルソナにおいて、人間の本性と天主の本性が1つに合体しています。そこでイエズス様は完全な人間であり、完全な天主であります。完全な人間であるという事は イエズス様は完全な人間としての知性も、人間としての意志も持っています。それと同時にイエズス様は天主でもありますから、天主としての知性と、天主としての意志も持っています。イエズス様には『2つの本性がある』という事から、知性も意思も2つある」という事が結論付けられますけれども、この異端説は、「そうではない。イエズス・キリストは意志が1つしかない。全ては天主の意思によって動いている。」暗黙のうちに、「イエズス・キリストは不完全な人間だ」という事を意味していました。

そこで教皇様はすぐにその事を、多くの手紙を書いて、「そうではない。何故ならば、こうで、こうで、こうだ。」そして多くの使者を送って、異端説を唱えている司教たちを説得させて、「そうではない。」その説を捨てさせるようにしました。

その祈りと犠牲によって、その教皇職の義務を素晴らしく果たした聖マルティノ1世は、遂にコンスタンティノープルの総司教を異端説から正当なカトリックの方へと導く事に成功します。

ところが、コンスタンティノープルにいたローマ皇帝は実は異端説を信じていました。そしてその「異端説を捨ててカトリック信仰に戻った」という事を聞いて非常に怒ったコンスタンス2世は、このなんとか聖マルティノを亡き者にしようとしました。

聖マルティノは更にこの事をラテラノ公会議を開いて、この事を公会議でその事を信仰をはっきりとさせました、「イエズス・キリストは、天主の意思と人間の意思の2つがある」とはっきりさせました。

すると、教皇様は御自分の職務を立派に果たしただけだったのですけれども、その事はローマ皇帝の怒りを買いました、世俗の権力の怒りを買いました。そこでローマから派遣された使者たちは、色々な島々に追放されてしまいました。

そればかりではありません。ローマ教皇を亡き者にしようと使者、オリンピウスという男が送られて、「彼をミサの最中に暗殺するように」という命令を受けました。そしてオリンピウスという使者を送ってその教皇を亡き者にしようとするのですけれども、ミサの途中それは果たせませんでした。何故かというと、いきなりその黒幕は目をやられて盲目になってしまって、そして何もする事ができずに使命を果たす事ができませんでした。

それを知ったコンスタンス2世は更に使者を送ります。この使者は教皇を騙して、遂に コンスタンティノープルに誘拐しそして連れて来ます。コンスタンティノープルでは教皇マルティノ1世は床に付けられて、そして多くの人々の異端者の笑い者にされ、その後に約3ヶ月牢に閉められ、次に裁判を受けて、島流しに合い、そして全くの貧困と苦しさの内に、そこで殉教します。

教皇様は自分の使命を立派に果たした、それだけで、この殉教の苦しみを味わわなければなりませんでした。

一体、聖マルティノ1世教皇様は私たちに何を教えているのでしょうか?

私たちに、「私たち自身の義務を、私たちの為すべく務めをよく果たせ。そしてそれこそが私たちの聖徳の道である。もしかしたらそれが、世俗の人々の笑いを買うかもしれない、或いは怒りを買うかもしれない、受け入れてもらえないかもしれない。しかし私たちの日常の、天主から与えられた義務を良心的に、誠実に果たす事が私たちの最高の聖徳の道だ」という事を教えています。

もしも私たちがファッションに従わずに、慎みのない服を着ないとしたら、世間の人たちは私たちの事を嘲笑うかもしれません、「時代遅れだ。おばちゃんのようだ。」或いは「何?このような事もやらないの?」と笑われるかもしれません。

しかし、仕事の帰りに、「さぁ、」一緒に行ってはいけない「店に行こう。」或いは行ってはいけない所に「行こう」と言われて、「 私は行けません」と。「何だお前は、世間付き合いが悪い。」しかし時には、私たちはそれを捧げなければならない時があります。

幼きファチマの幼きフランシスコとジャシンタも、自分の務めを果たし、そしてそれを犠牲として捧げていました。ルチアは大きくなって、「マリア様に一番心に適う事は何なのか?」と聞かれたら、すぐにこう答えました、「それは、私たちが日常の務めを犠牲として捧げる事です。」

まさに天使が最初に教えてくれた事、そしてマリア様が最初の御出現の時に言ってくれた事、「あなたは天主様があなた達に送る事を、罪の償いとして、罪人の回心の祈りとしてそれを捧げますか?」「はい、私たちは捧げます。」それこそが一番の天主の聖心に適う事であると教えています。

あるときルチアは聞かれて、「ではロザリオは、ロザリオの祈りよりも犠牲の方が大切なのか?」と。するとルチアは、「そうだ」と言って、「でもロザリオの祈りは、このお祈りをする事によって私たちの犠牲を良く務める事ができるように助けてくれるので、とても大切だ。だからロザリオをする事によって、私たちはもっと犠牲をする為に自分の務めを果たす事ができる、だからロザリオを忘れてはいけない」と言っていました。そして「ロザリオを唱え、自分の犠牲を罪の償いとして罪人の回心の為に捧げる事ができる為に、スカプラリオをいつも身に付けるべきだ。何故ならこれを身につける事によって、私たちの義務をはっきりと分からせてくれるから。祈り、償いをしなければ、犠牲をしなければならない事を思い出させてくれるから」と言っていました。

まさに11月1日、諸聖人の祝日で私たちが祝ったのもこれでした。多くの本当に名も知れないような、私たちから見たら或いはこの世から見たら何の、もしかしたらこの世から見れば、「一体どれほどの歴史的な事を残したのか?」と分からないような、多くのジャシンタやフランシスコたち、多くの一介のカトリックの信徒たちのその大群。日々の犠牲を捧げて、或いは貧しさを捧げて、或いは仕事を捧げて、或いは屈辱を捧げて、或いは小さな犠牲を捧げて、或いは自分の義務をコツコツと果たす事によって、自分の与えられた使命を果たす事によって、お父さんとして、お母さんとして、或いは子供として、或いは公務員として、或いは今日の聖マルティノ1世のように教皇様として、或いは皇帝として例えばカール皇帝のように、或いはルフェーブル大司教様のように司教様として、多くの義務を果たした事によって一生を聖化させて、教会に多くの栄光と、天主に讃美と、霊魂の救いと、罪の償いを果たした無数の人々がいます。

聖マルティノ教皇様は殉教者はまさにそれの一人でした。私たちにもその道を辿るように招いています。

もしもこういう事を言う事が許されれば、教皇様はつい最近、「フランシスコ教皇様はスウェーデンに行ってルター派と同じ共同宣言をした」とか、或いは「ルターの像をバチカンに入れた」と報道がなされ、私たちはそれを見ると非常に悲しみと心配で心が襲われます。願わくは、教皇様が御自分の務めを果たせますように。

しかし私たちにとって、教皇様の為にお祈りをする、「教皇様がその務めを果たす事ができますように」とお祈りをして助けるという事は私たちの務めである事ですけれども、「教皇様が教皇様であるかないか」というのを知るのは私たちの務めではありません。それを知ったから私たちが聖人になるのでもないし、天国に行くのでもありません。

教皇様の為に、私たちはお祈りを致しましょう。教皇様がロシアをマリア様のお望みの通りに、全ての司教様たちと一致して、汚れなき御心に奉献なさいますように。

またどうぞ愛する兄弟の皆さん、私の為にもお祈り下さい。私が良く司祭職を、その責務を全うする事ができますように。私の義務は、「同じ、昔からの同じ教えを、何も変えずに忠実に伝えて、そしてそれを説明して、それを繰り返し、また繰り返し、繰り返し繰り返し、同じ事を何度も何度も何度も何度も、皆さんに言う事」です。その務めが果たせる事ができますように。

もしかしたら、「小野田神父は同じ事ばかり何度も言っている、面白くない。ブログを読んでもいつも同じ事ばっかりだ。新しみがない。何かもっと別の事も話したら良いのではないか」と非難されるかもしれませんが、願わくはそのような方が、カトリックの司祭の義務が実は、「同じ事を繰り返す事にあるのだ」と気が付いてくれますように。そして全ての司祭たちが、その義務をよく果たす事ができますように。聖マルティノ1世教皇様に倣う事ができますように。そして私たちもその日常の全ての義務を犠牲としてお捧げして、そして祈りと共に多くの霊魂の救いの為に、教会の為に、教会の発展の為に、私たちの人生を捧げる事ができますように。

そうする事によって遂には諸聖人と共に、聖マルティノ1世や多くのジャシンタやフランシスコ、ルチア、多くの義務を果たした、祈りを果たした聖人たちと共に、天国での凱旋を楽しむ事ができますように、お祈りを致しましょう。聖母マリア様に特に御取次ぎを乞い求めましょう。

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。



聖ピオ十世会日本のお説教・講話がここに掲載されています。

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