アヴェ・マリア・インマクラータ!
愛する兄弟姉妹の皆様、
2016年11月20日(主日)に東京で聖伝のミサを捧げました。その時のお説教をご紹介いたします。
天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)
2016年11月20日 聖霊降臨後第27主日のミサ
小野田神父 説教
聖なる日本の殉教者巡回教会にようこそ。
今日は2016年11月20日、聖霊降臨後第27主日のミサをしております。
今日この御ミサの後の予定ですが、14時30分からいつものように公教要理があります。今日はカステラーニ神父様による黙示録の最後の第7のラッパについて話をしたいと思っています。
16時から主日の晩課があります。明日は朝の7時からミサがあります。
12月の予定は、12月も11月と同じように3回ミサがあります、主日が3回あります。
12月4日の第1主日と、18日の第3主日と、25日のクリスマスの主日です。
「天と地は過ぎ去るが、私の言葉は過ぎ去らない。」
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。
愛する兄弟の皆さん、今日は典礼暦の最後の主日で、今日公教会は毎年この主日には、最後の審判の事を、この世の終わりの事について黙想させてくれます。
この世は一体何の為に創られたのでしょうか?その創造の目的は一体何なのでしょうか?
霊魂の救いです。私たちが天国に行って、イエズス・キリストと三位一体と永遠に至福になる事です。その為にこの全宇宙が創られました、無から創造されました。
イエズス・キリストが、天主の御言葉が人となって、イエズス・キリストとなってお生まれになった、貧しい馬小屋にお生まれになった、人々から裁かれて十字架に付けられて亡くなった、この御託身の神秘と贖いの神秘、この目的は一体何だったのでしょうか?なぜ天主は人となって、これほど苦しむ為に生まれて来たのでしょうか?そして苦しまれたのでしょうか?
私たちを天国に連れて行く為でした。人類の全歴史は、この目的に到達するかしないかによって計られます。これが成功するか成功しないかによって、この創造の究極の目的が達成されるか達成されないかがかかっています。
イエズス様は最後の日に、人間としてそして天主として、生ける人と死せる人とを裁く為にまたもう一度やって来られます。イエズス・キリスト様はこの事を何度も仰いましたし、これはカトリック教会の信仰の玄義です。この説教の後にすぐに私たちはクレドでそう言います、「生ける人と死せる人とを裁かん為に来たり給う、主を信じ奉る。」教会はこの事を私たちに思い出させる為に福音で、イエズス様の最後の、この世の終わりについて何と仰ったか、その直々の御言葉を、その口から出たその言葉を私たちに聞かせて下さいました。
それと同時に、この典礼歴の最後には、イエズス・キリスト様の本当の思いを、「永遠の昔から、何を私たちの為に思ってきたか」という事をよくよくと聞かして、何度も何度も何度も何度も聞かせてくれました。
それは、「私の思いは平和の思いであって、罰の思いではない。私はこの世を救うが為にこの世を創造したのであって、罰する為ではない。私はこの世を救う為に人となったのであって、地獄に落とす為ではない。私はこの世を多くの霊魂たちを天国に救いたい。そしてその救う為に、最後の審判に来るのだ。しかし最後の審判の時にはもはや、その時は決定的な裁きとなって、もはやこの審判の判決は変える事ができない。ある者は残念ながら、永遠の裁きを受けなければならない、変える事のできない罰を受けなければならない。しかしその他の者は、その為にこの世が創られて、天国で準備されている永遠の福楽に入る為に、私は褒美を与える為に、報いを与える為に、慰めを与える為に、喜びと栄光を与える為にまたやって来る。私の考えは平和の考えだ」と教会は私たちに、このミサの初めから優しくそれを教えてくれます。
イエズス様の今日の御説教に御話しによれば、この世にはこの最後の審判の時には、2つのイベントがあります出来事があります。
1つは、「厭うべきものの恐るべきもの “abominationem desolationis” が、これが聖なる所に置かれる」 という事です。
「しかし最後には、イエズス・キリストがその栄光と力を持って戻って来る」 という事です。
そこで是非、この2つの事がどのような事なのかを黙想して、私たちは遷善の決心を立てる事にしましょう。
教会は、司祭たちに聖職者に聖務日課を唱えるように命令していますけれども、その聖務日課によると聖ヒエロニモの解釈によると、「この 『厭うべきものの憎むべきものが至聖所に置かれる』 というのは何かというと、『厭うべきものの』というのは “abominationem” というのは、それは 『偶像』 の事である。 『憎むべきもの』 というのは、それは 『崩壊した至聖所に置かれる厭うべきもの、本当ならば聖なるものが置かれなければならない所が、厭うべきものが置かれているので、そこが憎むべきものになっている』 という状態を表している」 と言います。
これは、イエズス様がちょうどこの福音の中で言うように、「その時、太陽は暗み、月は光を放たなくなり、天の星は動き」 と言うように、「今までの聖なる教えが暗んでしまって、よく分からなくなってしまった。」 或いは、「月が、本当ならそのイエズス・キリストの教えを、正確に輝き映しだされなければならないものが、それが光を出さなくなってしまっている。私たちを導くべき天の星である教会の指導者たちが、動いてしまっている。」
つまり聖ヒエロニモによれば、「これは、『教会のその聖なる教えが歪曲されてしまっている』 という事を意味している」 と言います。「イエズス様は、その時にどうしたら良いかと言うと、『その時には、私たちはすぐに高い山に登れ。』 つまり、『永遠の変わる事のない、天主の山に登れ』 と教えている」 と解説しています。
「この世が偶像崇拝するというのは確かに、ローマ皇帝の像を偶像として崇拝するとか、或いは仏陀の像を崇拝するとか、色々な偶像崇拝があるかもしれません。しかしもっと、もっと大きな偶像崇拝は、天主が居るべき所に人間がズカズカと入ってしまって、天主の代わりに人間を、あたかもその代わりに礼拝させる、という事ではないか」 と教父たちは解釈します。
「人間の手の業である技術、高度な技術を崇拝したり、或いは偽りの人間の作った栄光を信じてしまったり、その前に膝をかがめてしまったり、或いはもっと悪いのは、肉の快楽の前にその事だけしか考えずに、その事だけを追求して生活してしまったり、そして食べる事、飲む事、そしてその他卑猥な事だけを考えて生活してしまっている。ちょうどソドマの時に、天から火が降ってくるという事を人々は考えてもいなかったように、或いはノアの時代には洪水が水が降ってきて、洪水によって今までのものが全て消されてしまうという事が分からなかったように、人々は肉の事、自分の事、そして自分のやりたい放題にやる事だけを考えている、これこそが来たるべき偶像崇拝ではないか」 と指摘しています。
まさに現代の世界を見ると、ますますその傾向を、そうではないかと疑われます。携帯のスマートフォンを見て下さい。多くの人はそれをどのように使っているのでしょうか?Youtubeの宣伝を見て下さい。或いはその他のテレビで、或いは雑誌で、人々が何を話しているか聞いて下さい。食べる事と、飲む事と、そして下品な事です。
反キリストは、キリストに反対するものがこの世を支配する時には、どうやって支配するでしょうか?おそらく人々に石を、人々の為に石をパンに変えて、「さぁ、これがお前たちの食べるパンだ。さぁこれを食べろ」として、人々を誘惑するかもしれません。或いはマスコミやその他の力を使って、ジャーナリズムを使って、「高い所から飛び降りて、それでも平気だった。」そして全ての人々の称賛を得る為に力を使うかもしれません。或いはこのもしかしたら、サタンを礼拝する事によって、この世の地上の全ての富を自分のものにするかもしれません。
つまり言ってみると、イエズス様が 「No!」 と言った3つの誘惑を全て使って、この世を支配するようになるかもしれません。すると人々は、ますます自分の思い通りに面白おかしく、自分の欲望のままに、ゲラゲラと生活できるので、それをますます受け入れていくかもしれません。
しかしそのような時に突然、イエズス様は私たちの主イエズス・キリスト様が、例えこのマスコミが何と言っても、皆に 「その結果はどうなるだろうか?」 とアンケートを取ってみても、「いやぁ、キリストはもうダメだ」 などと言ったとしても、それを裏切ったようにイエズス様が空に雲に乗って、大きな栄光を以って、私たちを裁く為に、善人に、最後まで耐え忍んだ者に冠を与える為にやって来られます。
イエズス様は私たちに言うでしょう。このイエズス様こそが最後のトランプのカードで、いくらマスコミが何と言っても最後に勝つ方であって、私たちにイエズス・キリストを第一としたか、しないか、イエズス・キリストが私たちの全てであったかどうか、という事で私たちを裁かれるでしょう。イエズス様をどのように愛したか愛さないかによって、私たちを裁かれるでしょう。そしてイエズス様をいつも愛した者には報いが与えられます。
ですから私たちは今日、どのような遷善の決心を取らなければならないでしょうか?
典礼暦に終わりがあるように、例えマスメディアが何と言おうとも、使徒信経に私たちがそう唱えるように、昔から教えられた通りに、伝えられた通りに、この世には終わりがあります。イエズス・キリストは必ず私たちを裁く為に、善人に報いを与える為に、正義を全うする為に来られます。
その時に、いつも 「御名の尊まれんことを、御国の来たらんことを、御旨の天に行なわるる如く、地にも行なわれんことを」 と祈っていた人は何と幸いな事でしょうか。「イエズス・キリストこそ第一だ。イエズス・キリストが私たちの全てだ」 と言った人は何と幸いでしょうか。その時には大きな栄冠を受けます。その時には全ての天使たちと聖人たち、そして全ての殉教者、イエズス様の為にこの世地上で苦しみを受けて、それを捧げてきた人々と共に、私たちは永遠に喜ぶ事になります。
この世は過ぎ去りますが、イエズス様の言葉は決して過ぎ去りません。真理はそのまま残ります。マリア様にお祈り致しましょう。私たちもマリア様と共に、この栄光に達する事ができますように、お祈り致しましょう。
「天と地は過ぎ去るが、私の言葉は過ぎ去らない。」
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。
聖ピオ十世会日本のお説教・講話がここに掲載されています。
愛する兄弟姉妹の皆様、
2016年11月20日(主日)に東京で聖伝のミサを捧げました。その時のお説教をご紹介いたします。
天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)
2016年11月20日 聖霊降臨後第27主日のミサ
小野田神父 説教
聖なる日本の殉教者巡回教会にようこそ。
今日は2016年11月20日、聖霊降臨後第27主日のミサをしております。
今日この御ミサの後の予定ですが、14時30分からいつものように公教要理があります。今日はカステラーニ神父様による黙示録の最後の第7のラッパについて話をしたいと思っています。
16時から主日の晩課があります。明日は朝の7時からミサがあります。
12月の予定は、12月も11月と同じように3回ミサがあります、主日が3回あります。
12月4日の第1主日と、18日の第3主日と、25日のクリスマスの主日です。
「天と地は過ぎ去るが、私の言葉は過ぎ去らない。」
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。
愛する兄弟の皆さん、今日は典礼暦の最後の主日で、今日公教会は毎年この主日には、最後の審判の事を、この世の終わりの事について黙想させてくれます。
この世は一体何の為に創られたのでしょうか?その創造の目的は一体何なのでしょうか?
霊魂の救いです。私たちが天国に行って、イエズス・キリストと三位一体と永遠に至福になる事です。その為にこの全宇宙が創られました、無から創造されました。
イエズス・キリストが、天主の御言葉が人となって、イエズス・キリストとなってお生まれになった、貧しい馬小屋にお生まれになった、人々から裁かれて十字架に付けられて亡くなった、この御託身の神秘と贖いの神秘、この目的は一体何だったのでしょうか?なぜ天主は人となって、これほど苦しむ為に生まれて来たのでしょうか?そして苦しまれたのでしょうか?
私たちを天国に連れて行く為でした。人類の全歴史は、この目的に到達するかしないかによって計られます。これが成功するか成功しないかによって、この創造の究極の目的が達成されるか達成されないかがかかっています。
イエズス様は最後の日に、人間としてそして天主として、生ける人と死せる人とを裁く為にまたもう一度やって来られます。イエズス・キリスト様はこの事を何度も仰いましたし、これはカトリック教会の信仰の玄義です。この説教の後にすぐに私たちはクレドでそう言います、「生ける人と死せる人とを裁かん為に来たり給う、主を信じ奉る。」教会はこの事を私たちに思い出させる為に福音で、イエズス様の最後の、この世の終わりについて何と仰ったか、その直々の御言葉を、その口から出たその言葉を私たちに聞かせて下さいました。
それと同時に、この典礼歴の最後には、イエズス・キリスト様の本当の思いを、「永遠の昔から、何を私たちの為に思ってきたか」という事をよくよくと聞かして、何度も何度も何度も何度も聞かせてくれました。
それは、「私の思いは平和の思いであって、罰の思いではない。私はこの世を救うが為にこの世を創造したのであって、罰する為ではない。私はこの世を救う為に人となったのであって、地獄に落とす為ではない。私はこの世を多くの霊魂たちを天国に救いたい。そしてその救う為に、最後の審判に来るのだ。しかし最後の審判の時にはもはや、その時は決定的な裁きとなって、もはやこの審判の判決は変える事ができない。ある者は残念ながら、永遠の裁きを受けなければならない、変える事のできない罰を受けなければならない。しかしその他の者は、その為にこの世が創られて、天国で準備されている永遠の福楽に入る為に、私は褒美を与える為に、報いを与える為に、慰めを与える為に、喜びと栄光を与える為にまたやって来る。私の考えは平和の考えだ」と教会は私たちに、このミサの初めから優しくそれを教えてくれます。
イエズス様の今日の御説教に御話しによれば、この世にはこの最後の審判の時には、2つのイベントがあります出来事があります。
1つは、「厭うべきものの恐るべきもの “abominationem desolationis” が、これが聖なる所に置かれる」 という事です。
「しかし最後には、イエズス・キリストがその栄光と力を持って戻って来る」 という事です。
そこで是非、この2つの事がどのような事なのかを黙想して、私たちは遷善の決心を立てる事にしましょう。
教会は、司祭たちに聖職者に聖務日課を唱えるように命令していますけれども、その聖務日課によると聖ヒエロニモの解釈によると、「この 『厭うべきものの憎むべきものが至聖所に置かれる』 というのは何かというと、『厭うべきものの』というのは “abominationem” というのは、それは 『偶像』 の事である。 『憎むべきもの』 というのは、それは 『崩壊した至聖所に置かれる厭うべきもの、本当ならば聖なるものが置かれなければならない所が、厭うべきものが置かれているので、そこが憎むべきものになっている』 という状態を表している」 と言います。
これは、イエズス様がちょうどこの福音の中で言うように、「その時、太陽は暗み、月は光を放たなくなり、天の星は動き」 と言うように、「今までの聖なる教えが暗んでしまって、よく分からなくなってしまった。」 或いは、「月が、本当ならそのイエズス・キリストの教えを、正確に輝き映しだされなければならないものが、それが光を出さなくなってしまっている。私たちを導くべき天の星である教会の指導者たちが、動いてしまっている。」
つまり聖ヒエロニモによれば、「これは、『教会のその聖なる教えが歪曲されてしまっている』 という事を意味している」 と言います。「イエズス様は、その時にどうしたら良いかと言うと、『その時には、私たちはすぐに高い山に登れ。』 つまり、『永遠の変わる事のない、天主の山に登れ』 と教えている」 と解説しています。
「この世が偶像崇拝するというのは確かに、ローマ皇帝の像を偶像として崇拝するとか、或いは仏陀の像を崇拝するとか、色々な偶像崇拝があるかもしれません。しかしもっと、もっと大きな偶像崇拝は、天主が居るべき所に人間がズカズカと入ってしまって、天主の代わりに人間を、あたかもその代わりに礼拝させる、という事ではないか」 と教父たちは解釈します。
「人間の手の業である技術、高度な技術を崇拝したり、或いは偽りの人間の作った栄光を信じてしまったり、その前に膝をかがめてしまったり、或いはもっと悪いのは、肉の快楽の前にその事だけしか考えずに、その事だけを追求して生活してしまったり、そして食べる事、飲む事、そしてその他卑猥な事だけを考えて生活してしまっている。ちょうどソドマの時に、天から火が降ってくるという事を人々は考えてもいなかったように、或いはノアの時代には洪水が水が降ってきて、洪水によって今までのものが全て消されてしまうという事が分からなかったように、人々は肉の事、自分の事、そして自分のやりたい放題にやる事だけを考えている、これこそが来たるべき偶像崇拝ではないか」 と指摘しています。
まさに現代の世界を見ると、ますますその傾向を、そうではないかと疑われます。携帯のスマートフォンを見て下さい。多くの人はそれをどのように使っているのでしょうか?Youtubeの宣伝を見て下さい。或いはその他のテレビで、或いは雑誌で、人々が何を話しているか聞いて下さい。食べる事と、飲む事と、そして下品な事です。
反キリストは、キリストに反対するものがこの世を支配する時には、どうやって支配するでしょうか?おそらく人々に石を、人々の為に石をパンに変えて、「さぁ、これがお前たちの食べるパンだ。さぁこれを食べろ」として、人々を誘惑するかもしれません。或いはマスコミやその他の力を使って、ジャーナリズムを使って、「高い所から飛び降りて、それでも平気だった。」そして全ての人々の称賛を得る為に力を使うかもしれません。或いはこのもしかしたら、サタンを礼拝する事によって、この世の地上の全ての富を自分のものにするかもしれません。
つまり言ってみると、イエズス様が 「No!」 と言った3つの誘惑を全て使って、この世を支配するようになるかもしれません。すると人々は、ますます自分の思い通りに面白おかしく、自分の欲望のままに、ゲラゲラと生活できるので、それをますます受け入れていくかもしれません。
しかしそのような時に突然、イエズス様は私たちの主イエズス・キリスト様が、例えこのマスコミが何と言っても、皆に 「その結果はどうなるだろうか?」 とアンケートを取ってみても、「いやぁ、キリストはもうダメだ」 などと言ったとしても、それを裏切ったようにイエズス様が空に雲に乗って、大きな栄光を以って、私たちを裁く為に、善人に、最後まで耐え忍んだ者に冠を与える為にやって来られます。
イエズス様は私たちに言うでしょう。このイエズス様こそが最後のトランプのカードで、いくらマスコミが何と言っても最後に勝つ方であって、私たちにイエズス・キリストを第一としたか、しないか、イエズス・キリストが私たちの全てであったかどうか、という事で私たちを裁かれるでしょう。イエズス様をどのように愛したか愛さないかによって、私たちを裁かれるでしょう。そしてイエズス様をいつも愛した者には報いが与えられます。
ですから私たちは今日、どのような遷善の決心を取らなければならないでしょうか?
典礼暦に終わりがあるように、例えマスメディアが何と言おうとも、使徒信経に私たちがそう唱えるように、昔から教えられた通りに、伝えられた通りに、この世には終わりがあります。イエズス・キリストは必ず私たちを裁く為に、善人に報いを与える為に、正義を全うする為に来られます。
その時に、いつも 「御名の尊まれんことを、御国の来たらんことを、御旨の天に行なわるる如く、地にも行なわれんことを」 と祈っていた人は何と幸いな事でしょうか。「イエズス・キリストこそ第一だ。イエズス・キリストが私たちの全てだ」 と言った人は何と幸いでしょうか。その時には大きな栄冠を受けます。その時には全ての天使たちと聖人たち、そして全ての殉教者、イエズス様の為にこの世地上で苦しみを受けて、それを捧げてきた人々と共に、私たちは永遠に喜ぶ事になります。
この世は過ぎ去りますが、イエズス様の言葉は決して過ぎ去りません。真理はそのまま残ります。マリア様にお祈り致しましょう。私たちもマリア様と共に、この栄光に達する事ができますように、お祈り致しましょう。
「天と地は過ぎ去るが、私の言葉は過ぎ去らない。」
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。
聖ピオ十世会日本のお説教・講話がここに掲載されています。