アヴェ・マリア・インマクラータ!
愛する兄弟姉妹の皆様、
2016年12月2日(初金)に大阪で聖伝のミサを捧げました。その時のお説教をご紹介いたします。
天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)
2016年12月2日 初金曜日 至聖なるイエズスの聖心の随意ミサ
小野田神父説教
聖母の汚れなき御心聖堂にようこそ。今日は2016年12月2日、聖ビビアナ童貞殉教者の祝日で、初金曜日です。イエズス様の初金の信心のミサを行っています。
ファチマ100周年を準備する為に、ファチマのマリア様の巡礼の御像を日本にお持ちする事になりました。このファチマの御像はフィリピンでは、色んな所でマリア様が回っています。つい最近ではダバオで、このマリア様をダバオの副市長がこの職員の前で、私たち司祭とティム神父様と一緒に、ダバオ市をマリア様の汚れなき御心に奉献しました。或いは軍隊もその部隊も、マリア様の汚れなき御心に奉献しています。ダバオだけではなく、色々な市町村などがマリア様の御像を迎えて、奉献しています。
フィリピンのマニラの学校では、このマリア様の御像が教室を回って、そして職員室も回って、そしてとても多くのお恵みを頂いています。先生たちも見違えるようになりました。校長先生のフォルティン神父様は、「もう説明できない事だ」と、もう私に言っています。そこでその最初のマリア様の御訪問を最初にした時から私は招かれて、「理事長も来るように」、それでそのマリア様がどれほど多くのお恵みを私たちにもたらしているかというのを見ているので、是非このお恵みを皆さん受けて頂きたいと思って、是非このファチマのマリア様に来て頂きたいと思って、皆さんのお宅をマリア様が祝福して訪問して下さるように、という意向でマリア様の御像をお持ちしました。
フィリピンの学校で使っている、「マリア様をお迎えする時のお祈り」と「さようならのお祈り」を、学校で使っているそのままなのですけれども、ですから「class room」とか書いてありますけれども、それは例えば「私たちの家」とかですね、「私たちの家族」「私たちの部屋に」などと変えて、どうぞこのマリア様を受け入れるようになさって下さい。マリア様は多くのお恵みを皆さんのご家族と皆さんに必ず下さります。私はそれをもう見て、もうそれを疑う事ができない事実を見ています。ですからもしもマリア様を、「ぜひ私たちの家に来てほしい」という方がいらしたら是非仰って下さい。明日からマリア様は皆さんを訪問されます。
“Cogitationes in generatione et generationem”
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。
愛する兄弟の皆さん、今日は初金で、イエズス様の永遠のお考えについて入祭誦で私たちは歌いました。イエズス様の聖心の考えは、「代々限りなく、彼らの霊魂を死から救い、そして彼らを飢えから癒やす為に、それが私の考えである。」
私たちはこの今待降節に入りました。待降節に入った私たちは、イエズス様の聖心の思いをますます深く黙想致しましょう。イエズス様の聖心の思いは、愛の思いです。私たちのもとにやって来たい、という思いです。
3つの思いがあります。イエズス様は永遠の天主、永遠の御言葉です。それが私たちのもとにやって来たい、というその熱烈な思いが3つの御来臨によって、3つの到来によって表わされています。
今日私たちの御聖堂は拡張工事が終わって、より多くの方を御聖堂に招く事ができるようになって大変嬉しく思います。このステンドグラスで飾られた、4階の、上にある天に上げられた教会は、まさに天のエルサレムように思われます。何か天国のようにも思われます。この綺麗なステンドグラスで囲まれた教会を見ると、ちょうどパリに聖ルイ9世が、聖なる王が造ったサント・シャペルという綺麗な御聖堂、教会の事をどうしても思わざるを得ません。
サント・シャペルは2階建ての教会なのです。1階は普通の教会で、壁ががっしりとしていて窓もあって、普通の教会ですけれども、でも天井はそんなに高くありません。でも2階に行くと天井が非常に高くて、そして壁が無いのです。壁に代わりにあるのは窓ガラスで、一面が窓ガラスになっています。全てがステンドグラスで囲まれていて、柱があるだけで、そしてこの光に囲まれた教会になっています。技術的にそれは12世紀に聖ルイ9世が造った時には、その壁の無いガラスだけのステンドグラスだけの教会を、そんなに高い物を造るというのは非常に難しい事でした。しかしそれをやってのけたのです。
何故それを造ったかというと、国家財産のほとんど全てを使って、当時コンスタンティノープルにあった茨の冠をそれを購入したのです。そして購入するその茨の冠を収める特別の場所として、そのチャペルを造りました。その茨の冠がどれほど高かったかというと、この茨の冠を買ったお金でサント・シャペルが2個半建てる事ができたそうです。
このサント・シャペルの光に囲まれた御聖堂を私もパリに行った時に行って、本当に素晴らしくて、ステンドグラスの細かい色で飾られた、天地の創造から聖ルイがその茨の冠をパリに持って来る時までの話が全てステンドグラスで、旧約の時代からその時までの流れが全てステンドグラスで描かれています。
もちろんこれは天国の淡い儚いイメージでしたけれども、しかし聖なる王様はできるだけ素晴らしい御聖堂を造って、天国での栄光がどのようなものかという事を示そうとしたのです。
この御聖堂の美しいステンドグラスを見ると、その事を思い出されます。
その光に囲まれた栄光の天主の御言葉、聖ルイはその茨の冠の宝庫を、特別の宝物の箱の所に祭壇の上の所に置いておいて、それの鍵は7つ付いていました。その7つの鍵をいつも身に付けていて、寝る時もそれを肌身離さずその7つの鍵を付けていつもいました。聖ルイ王にとって最高の宝でした。
ちょうどそのように、もうこれ以上守られて、これ以上幸福で、これ以上もう不足するものがない、という天の王の王、全能の永遠の天主が、私たちを「是非この光の国に、永遠の命に、この喜びの中に導きたい」と思って、1階に降りて来て下に降りて来て、そして私たちの霊魂を探そう、とやって来られます。それがクリスマスであって、それが御降誕でした。
待降節は、その私たちの救い主、創造主であり王の王であるイエズス・キリスト様が、主の御言葉が人となったその愛の、無限の愛の神秘を準備するその期間です。
イエズス様の聖心の愛はただそれだけではありません。イエズス様の愛は、イエズス様を愛してこの人生を、短い人生を送った全ての人に、「最高の報いで、最高の幸せで報いてあげよう」と思っているその愛です。「お前たちは私の為にこれほど尽くしてくれた。さぁ今度は私の番だ。私がお前の、これからお前の望みを叶えてあげよう。お前の思い通りにしてあげよう、お前をもうこれ以上ないほど幸せにしてあげよう。お前は生きている間私を本当に幸せにしてくれた、喜ばせてくれた。今度は私がお前を喜ばせてあげよう。」「主よ、もうこれ以上まだあるのですか」というほどの報いを私たちに与えようと思われる時です。それが最後の審判のイエズス様の御姿です。
最後の審判で、私たちの行為を全て、隠された思い、密かな思い、全ての言葉、行いを全世界に公布して、私たちがどれほどイエズス・キリストを愛したのか、イエズス・キリスト様の為に生きてきたのか、どんな小さな行為でさえも決して報われないものはない、涙は全て取られて、喜びに満たされる。そして全ての辱しめは取られて、喜びと栄光に変わる。それを私たちに下さろうと、正義を全うさせようとやって来られます。
その時に、私たちがイエズス様になした小さな犠牲、辛い事を我慢した事、イエズス様の為に捧げた寛大な行為、イエズス様の為に捧げたあの時間、イエズス様の為にしたあの愛徳、イエズス様に捧げたあの小さな奉献、或いはイエズス様の為に捧げたあの物質的なこの事が、私たちが思ってもみなかったものすごい報いとなって、「さぁ、これをお礼として受けてもらいたい。さぁ、これがあなたへの感謝の気持ちだ」とイエズス様が報いて下さるその時です。
その時にはもちろん、悪人にとっては恐るべき時です。何故かというと、あれほど隠していた邪悪な考えや、あれほど嘘で固めた偽善がバレバレに分かってしまって、あれほどの恥ずかしい隠した恥が皆に、悪意が、悪さが、皆の前に発表されて、そしてその時に、悪人たちがイエズス様に対してなした冷たい態度、悪意、悪態、忘恩、冒瀆は全て、その彼らの辱しめと、屈辱と、そしてこれ以上ない悲しみの原因となるでしょう。
どんなに小さな秘密も明らかになります。私たちがその時にイエズス様に祈った憐れみを求める祈りは、憐れみを受けるものとして返ってきます。イエズス様に対してなした傲慢な態度は、やはりそれにふさわしい辱しめとなって返ってきます。イエズス様を愛する者たちに、特に愛と正義を持って、私たちに憐れみを持って、それを「お返ししよう」と帰って来るその最後の審判の時、イエズス様は愛に満ちて、憐れみに満ちて、また戻って来られます。
その時、私たちは顔を上げて、「あぁイエズス様、救い主、早くとく来たり給え。さぁ早く来て下さい」と、どれほど熱烈に望む事でしょうか。
そればかりではありません。イエズス様が来たのは2000年前の歴史的な、単なるその関係無いベトレヘムだけで、或いは何年かいつか分からない未来の事だけではありません。イエズス様は私たちを愛して、愛して、愛に焦がれて、私たちの霊魂のもとに入って来ようと思っています。
イエズス様にとって私たちの価値、私たちの霊魂がどれほど大切かというと、それは聖ルイ9世が持っていたその茨の冠よりももっと大切です。聖ルイは7つの鍵を首にいつもかけて寝ていましたけれども、イエズス様は私たちをその聖心の中に深く入れて、愛に焦がれて、私たちと1つになりたい、私たちの霊魂の深くに入りたい。私たちをもっとイエズス様の聖心の深くに入れたい、天のエルサレムの、その光に輝いたこのサント・シャペルのそのもっともっと一番宝の宝庫の中に入れたいと思っています。その鍵で聖心の鍵を開いて、その中に深く私たちを入れたいと思っています。ですから私たちに御聖体を与えて下さいます。
ですから今日私たちに聖心を開いて、「私の考えは、彼らの霊魂を死から救い、霊魂を飢えから癒やす事だ」と仰って下さっています。「さぁ、苦労する者よ、私のもとにやって来なさい。私のくびきは軽い。私は柔和謙遜である者であるから、私に倣え、私について来い。」
イエズス様は私たちに愛の招きをしています。イエズス様は私たちのもとに来たい、私たちの心にやって来たい、と熱烈な思いでいらっしゃいます。
待降節は、私たちがその思いに応える時期です、「イエズス様、来て下さい。早く来て下さい。イエズス様、私たちは今まであまりにも冷淡でした、無関心でした。そして冷たい心を持っていましたけれども、イエズス様、この待降節中いつもイエズス様を迎える準備ができますように、ますます準備ができるように愛に燃え立たせて下さい。マリア様、どうぞ私たちの心に来て下さい。そしてイエズス様を迎える事ができるように助けて下さい」と準備を致しましょう。
今日はミサが終わったら聖時間があります。イエズス様に是非、素晴らしい待降節を迎える事ができるようにお祈り致しましょう。
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。
聖ピオ十世会日本のお説教・講話がここに掲載されています。
愛する兄弟姉妹の皆様、
2016年12月2日(初金)に大阪で聖伝のミサを捧げました。その時のお説教をご紹介いたします。
天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)
2016年12月2日 初金曜日 至聖なるイエズスの聖心の随意ミサ
小野田神父説教
聖母の汚れなき御心聖堂にようこそ。今日は2016年12月2日、聖ビビアナ童貞殉教者の祝日で、初金曜日です。イエズス様の初金の信心のミサを行っています。
ファチマ100周年を準備する為に、ファチマのマリア様の巡礼の御像を日本にお持ちする事になりました。このファチマの御像はフィリピンでは、色んな所でマリア様が回っています。つい最近ではダバオで、このマリア様をダバオの副市長がこの職員の前で、私たち司祭とティム神父様と一緒に、ダバオ市をマリア様の汚れなき御心に奉献しました。或いは軍隊もその部隊も、マリア様の汚れなき御心に奉献しています。ダバオだけではなく、色々な市町村などがマリア様の御像を迎えて、奉献しています。
フィリピンのマニラの学校では、このマリア様の御像が教室を回って、そして職員室も回って、そしてとても多くのお恵みを頂いています。先生たちも見違えるようになりました。校長先生のフォルティン神父様は、「もう説明できない事だ」と、もう私に言っています。そこでその最初のマリア様の御訪問を最初にした時から私は招かれて、「理事長も来るように」、それでそのマリア様がどれほど多くのお恵みを私たちにもたらしているかというのを見ているので、是非このお恵みを皆さん受けて頂きたいと思って、是非このファチマのマリア様に来て頂きたいと思って、皆さんのお宅をマリア様が祝福して訪問して下さるように、という意向でマリア様の御像をお持ちしました。
フィリピンの学校で使っている、「マリア様をお迎えする時のお祈り」と「さようならのお祈り」を、学校で使っているそのままなのですけれども、ですから「class room」とか書いてありますけれども、それは例えば「私たちの家」とかですね、「私たちの家族」「私たちの部屋に」などと変えて、どうぞこのマリア様を受け入れるようになさって下さい。マリア様は多くのお恵みを皆さんのご家族と皆さんに必ず下さります。私はそれをもう見て、もうそれを疑う事ができない事実を見ています。ですからもしもマリア様を、「ぜひ私たちの家に来てほしい」という方がいらしたら是非仰って下さい。明日からマリア様は皆さんを訪問されます。
“Cogitationes in generatione et generationem”
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。
愛する兄弟の皆さん、今日は初金で、イエズス様の永遠のお考えについて入祭誦で私たちは歌いました。イエズス様の聖心の考えは、「代々限りなく、彼らの霊魂を死から救い、そして彼らを飢えから癒やす為に、それが私の考えである。」
私たちはこの今待降節に入りました。待降節に入った私たちは、イエズス様の聖心の思いをますます深く黙想致しましょう。イエズス様の聖心の思いは、愛の思いです。私たちのもとにやって来たい、という思いです。
3つの思いがあります。イエズス様は永遠の天主、永遠の御言葉です。それが私たちのもとにやって来たい、というその熱烈な思いが3つの御来臨によって、3つの到来によって表わされています。
今日私たちの御聖堂は拡張工事が終わって、より多くの方を御聖堂に招く事ができるようになって大変嬉しく思います。このステンドグラスで飾られた、4階の、上にある天に上げられた教会は、まさに天のエルサレムように思われます。何か天国のようにも思われます。この綺麗なステンドグラスで囲まれた教会を見ると、ちょうどパリに聖ルイ9世が、聖なる王が造ったサント・シャペルという綺麗な御聖堂、教会の事をどうしても思わざるを得ません。
サント・シャペルは2階建ての教会なのです。1階は普通の教会で、壁ががっしりとしていて窓もあって、普通の教会ですけれども、でも天井はそんなに高くありません。でも2階に行くと天井が非常に高くて、そして壁が無いのです。壁に代わりにあるのは窓ガラスで、一面が窓ガラスになっています。全てがステンドグラスで囲まれていて、柱があるだけで、そしてこの光に囲まれた教会になっています。技術的にそれは12世紀に聖ルイ9世が造った時には、その壁の無いガラスだけのステンドグラスだけの教会を、そんなに高い物を造るというのは非常に難しい事でした。しかしそれをやってのけたのです。
何故それを造ったかというと、国家財産のほとんど全てを使って、当時コンスタンティノープルにあった茨の冠をそれを購入したのです。そして購入するその茨の冠を収める特別の場所として、そのチャペルを造りました。その茨の冠がどれほど高かったかというと、この茨の冠を買ったお金でサント・シャペルが2個半建てる事ができたそうです。
このサント・シャペルの光に囲まれた御聖堂を私もパリに行った時に行って、本当に素晴らしくて、ステンドグラスの細かい色で飾られた、天地の創造から聖ルイがその茨の冠をパリに持って来る時までの話が全てステンドグラスで、旧約の時代からその時までの流れが全てステンドグラスで描かれています。
もちろんこれは天国の淡い儚いイメージでしたけれども、しかし聖なる王様はできるだけ素晴らしい御聖堂を造って、天国での栄光がどのようなものかという事を示そうとしたのです。
この御聖堂の美しいステンドグラスを見ると、その事を思い出されます。
その光に囲まれた栄光の天主の御言葉、聖ルイはその茨の冠の宝庫を、特別の宝物の箱の所に祭壇の上の所に置いておいて、それの鍵は7つ付いていました。その7つの鍵をいつも身に付けていて、寝る時もそれを肌身離さずその7つの鍵を付けていつもいました。聖ルイ王にとって最高の宝でした。
ちょうどそのように、もうこれ以上守られて、これ以上幸福で、これ以上もう不足するものがない、という天の王の王、全能の永遠の天主が、私たちを「是非この光の国に、永遠の命に、この喜びの中に導きたい」と思って、1階に降りて来て下に降りて来て、そして私たちの霊魂を探そう、とやって来られます。それがクリスマスであって、それが御降誕でした。
待降節は、その私たちの救い主、創造主であり王の王であるイエズス・キリスト様が、主の御言葉が人となったその愛の、無限の愛の神秘を準備するその期間です。
イエズス様の聖心の愛はただそれだけではありません。イエズス様の愛は、イエズス様を愛してこの人生を、短い人生を送った全ての人に、「最高の報いで、最高の幸せで報いてあげよう」と思っているその愛です。「お前たちは私の為にこれほど尽くしてくれた。さぁ今度は私の番だ。私がお前の、これからお前の望みを叶えてあげよう。お前の思い通りにしてあげよう、お前をもうこれ以上ないほど幸せにしてあげよう。お前は生きている間私を本当に幸せにしてくれた、喜ばせてくれた。今度は私がお前を喜ばせてあげよう。」「主よ、もうこれ以上まだあるのですか」というほどの報いを私たちに与えようと思われる時です。それが最後の審判のイエズス様の御姿です。
最後の審判で、私たちの行為を全て、隠された思い、密かな思い、全ての言葉、行いを全世界に公布して、私たちがどれほどイエズス・キリストを愛したのか、イエズス・キリスト様の為に生きてきたのか、どんな小さな行為でさえも決して報われないものはない、涙は全て取られて、喜びに満たされる。そして全ての辱しめは取られて、喜びと栄光に変わる。それを私たちに下さろうと、正義を全うさせようとやって来られます。
その時に、私たちがイエズス様になした小さな犠牲、辛い事を我慢した事、イエズス様の為に捧げた寛大な行為、イエズス様の為に捧げたあの時間、イエズス様の為にしたあの愛徳、イエズス様に捧げたあの小さな奉献、或いはイエズス様の為に捧げたあの物質的なこの事が、私たちが思ってもみなかったものすごい報いとなって、「さぁ、これをお礼として受けてもらいたい。さぁ、これがあなたへの感謝の気持ちだ」とイエズス様が報いて下さるその時です。
その時にはもちろん、悪人にとっては恐るべき時です。何故かというと、あれほど隠していた邪悪な考えや、あれほど嘘で固めた偽善がバレバレに分かってしまって、あれほどの恥ずかしい隠した恥が皆に、悪意が、悪さが、皆の前に発表されて、そしてその時に、悪人たちがイエズス様に対してなした冷たい態度、悪意、悪態、忘恩、冒瀆は全て、その彼らの辱しめと、屈辱と、そしてこれ以上ない悲しみの原因となるでしょう。
どんなに小さな秘密も明らかになります。私たちがその時にイエズス様に祈った憐れみを求める祈りは、憐れみを受けるものとして返ってきます。イエズス様に対してなした傲慢な態度は、やはりそれにふさわしい辱しめとなって返ってきます。イエズス様を愛する者たちに、特に愛と正義を持って、私たちに憐れみを持って、それを「お返ししよう」と帰って来るその最後の審判の時、イエズス様は愛に満ちて、憐れみに満ちて、また戻って来られます。
その時、私たちは顔を上げて、「あぁイエズス様、救い主、早くとく来たり給え。さぁ早く来て下さい」と、どれほど熱烈に望む事でしょうか。
そればかりではありません。イエズス様が来たのは2000年前の歴史的な、単なるその関係無いベトレヘムだけで、或いは何年かいつか分からない未来の事だけではありません。イエズス様は私たちを愛して、愛して、愛に焦がれて、私たちの霊魂のもとに入って来ようと思っています。
イエズス様にとって私たちの価値、私たちの霊魂がどれほど大切かというと、それは聖ルイ9世が持っていたその茨の冠よりももっと大切です。聖ルイは7つの鍵を首にいつもかけて寝ていましたけれども、イエズス様は私たちをその聖心の中に深く入れて、愛に焦がれて、私たちと1つになりたい、私たちの霊魂の深くに入りたい。私たちをもっとイエズス様の聖心の深くに入れたい、天のエルサレムの、その光に輝いたこのサント・シャペルのそのもっともっと一番宝の宝庫の中に入れたいと思っています。その鍵で聖心の鍵を開いて、その中に深く私たちを入れたいと思っています。ですから私たちに御聖体を与えて下さいます。
ですから今日私たちに聖心を開いて、「私の考えは、彼らの霊魂を死から救い、霊魂を飢えから癒やす事だ」と仰って下さっています。「さぁ、苦労する者よ、私のもとにやって来なさい。私のくびきは軽い。私は柔和謙遜である者であるから、私に倣え、私について来い。」
イエズス様は私たちに愛の招きをしています。イエズス様は私たちのもとに来たい、私たちの心にやって来たい、と熱烈な思いでいらっしゃいます。
待降節は、私たちがその思いに応える時期です、「イエズス様、来て下さい。早く来て下さい。イエズス様、私たちは今まであまりにも冷淡でした、無関心でした。そして冷たい心を持っていましたけれども、イエズス様、この待降節中いつもイエズス様を迎える準備ができますように、ますます準備ができるように愛に燃え立たせて下さい。マリア様、どうぞ私たちの心に来て下さい。そしてイエズス様を迎える事ができるように助けて下さい」と準備を致しましょう。
今日はミサが終わったら聖時間があります。イエズス様に是非、素晴らしい待降節を迎える事ができるようにお祈り致しましょう。
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。
聖ピオ十世会日本のお説教・講話がここに掲載されています。