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「新しいミサと聖伝のミサの違いについて」:聖ピオ十世会司祭 レネー神父様

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アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、
レネー神父様のお説教 「新しいミサと聖伝のミサの違いについて」(日本語訳)をご紹介いたします。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

2016年12月11日 待降節第3主日―大阪 
お説教「新しいミサと聖伝のミサの違いについて」
親愛なる兄弟の皆さん、

洗者聖ヨハネは最も偉大な預言者でした。なぜなら、「これがあの方です!」とメシアを指し示す役割が彼に与えられたからです。聖ヨハネが使った言葉は非常に注目に値します。「天主の小羊を見よ、世の罪を取り除き給う御者を見よ」(ヨハネ1章29節)。この小羊はすなわち、犠牲のいけにえです。彼は自らの犠牲によって、一度限りの十字架の犠牲によって、世の罪を取り除きます。そしてこの犠牲が、ミサの犠牲によって私たちへ効力を及ぼすのです。

ミサの犠牲は十字架の犠牲を減らすことなく、十字架の犠牲を増やすこともありませんが、トレント公会議で定義されたように、一つ一つのミサはまことの犠牲です。この偉大なる神秘をほんの少しでも理解するのに最もよい方法は、私たちの主イエズス・キリストの現存というもうひとつの神秘を考察することです。主は御体を一つだけお持ちです。でも、聖別されたひとつひとつのホスチアは、まことにキリストの御体であり、増やすことはなく、減らすこともありません。すでに聖アンデレの殉教の報告の中の彼の言葉が思い起こされます。「私たちは一つの祭壇を持っている(ヘブライ13章10節参照)。そこで日ごとに私は、全能にして唯一のまことの天主に、牡牛の肉でもなく山羊の血でもなく、汚れなき小羊を、信じるすべての人々がその肉を食べたとき、すべての人の中に住みかつ生きるほふられた小羊を捧げている」(11月30日の聖務日課、第5朗読)。

最も初期の時代から、ミサは犠牲であると教会は教えてきました。聖アウグスティノはそれを「主の御体と御血の犠牲」(『詩編注解』33章5節)と呼びます。ですから、聖体拝領は普通の食事ではなく、聖パウロ自身が言うように、むしろ「主の御体にあずかること」であり、「キリストの御血にあずかること」(コリント前書10章16節)です。ですから司祭は、まさに洗者聖ヨハネの次の言葉で、聖体拝領の前に信者にキリストの御体を提示します。「Ecce agnus Dei-天主の小羊を見よ、世の罪を取り除き給う御者を見よ」(ヨハネ1章29節)。聖体拝領は、十字架の犠牲のいけにえ、天主の小羊、私たちの主イエズス・キリストの御体と御血そのものをいただくことです。

さて、プロテスタントの人々は、ご聖体におけるキリストの現存を信じていません。ですから、その結果として、彼らはまことのなだめの犠牲としてのミサを信じておらず、司祭の持つ聖別するという特別な力、すなわち全実体変化させる特別な力、つまりパンの実体をキリストの御体に変化させ、ぶどう酒の実体をキリストの御血に変化させる力を信じていません。ですから彼らの聖餐式では、彼らはパンを食べぶどう酒を飲み、最後の晩餐と十字架の犠牲を単に記念しているだけであり、彼らの食事は単に、正しく叙階さていない牧師が司式しているだけのものです。そういうわけで、次の三つが、ミサに関してプロテスタントの人々が信じていない最も重要な教義です。ご聖体における主の現存、まことの犠牲でありかつなだめの犠牲としてのミサ、正しく叙階された司祭が必要であること―です。

さて、近代主義者が一九六〇年代にミサを変更したとき、彼らはあらかじめ六人のプロテスタントの牧師に、新しいミサを準備する委員会のオブザーバーになるよう依頼していました。その委員会の作業の終わりに、彼らは教皇パウロ六世や委員会の他のメンバーとともに写真に納まりました。六人の牧師は教皇とともに第一列にいましたが、委員会のカトリックのメンバーは後方にいました。この写真は、一九七〇年五月三日発行のフランスの司教団の公式出版物である「ドキュマンタシオン・カトリック」の表紙を飾りました。彼らは最後の決定において投票はしませんでしたが、委員会の他のメンバーと自由に討議し、カトリックのミサの中で彼らが好ましく思わないものを他のメンバーに伝えました。その委員会のまさに書記だったブニーニはすでに一九六五年に、典礼改革の目的は「私たちの分かれた兄弟たちのつまずきの石となるものの片鱗さえも取り除くこと」であると言っていました。ですから、新しいミサにおいて、前に述べた三つの教義を明白に表明する多くの儀式が廃止されるか、あるいは大きく減らされているのは、驚くには当たりません。

例えば、聖伝のミサの典文の中には、二十五回の十字架のしるしがあります。新しいミサの中には一つしかありません。つまり、十字架のしるしの九五%が取り除かれたのです! なぜ、それほどたくさんあったのでしょうか。なぜなら、十字架のしるしは十字架のいけにえを指し示していたからです。ですから、司祭が「われら…は、この清く、聖く、汚れなきいけにえ…を捧げ奉る」と言っているとき、司祭は犠牲の質料の上で三つの十字架のしるしをし、そのいけにえを指し示していたのです。これらのしるしはすべて、(新しいミサの)第一奉献文においてさえも削除されました。

教会はご聖体におけるキリストの現存を信じていますから、司祭は主を礼拝し、ホスチアを持つ前後に毎回ひざまずきによってこの礼拝を示します。ですから、聖伝のミサには十回のひざまずきがあるのです。新しいミサでは、まだひざまずきが行われているとしたら、残っているのは三つだけです。つまり、七〇%が削除されているのです!

さらに深刻なことには、奉献文がその本質を変えられてしまっています。聖伝のミサにおいて、司祭は私たちの主イエズス・キリストの御体と御血になることを予期しながら奉献します。新しいミサにおいては、司祭は単にパンとぶどう酒を奉献するだけです。これは大変な違いです!

聖伝においては、司祭はパテナを奉献しつつこう言います。「聖なる父、全能永遠の天主よ、不肖の下僕である私が、活けるまことの天主に捧げるこの汚れなきいけにえ-それは単なるパンではなく、間違いなく私たちの主イエズス・キリストを意味しています-を受け入れ給え。私の数知れぬ罪と侮辱と怠りのため、また、ここに列席する人のため、そして、生きる者、死んだ者-犠牲は煉獄の霊魂に捧げられます-、すべてのキリスト者のために、これを御身に捧げ奉る。願わくは、これを、私と彼らの永遠のたすかりに役立つものとならせ給え。アーメン」。

その後、カリスを捧げながら司祭はこう言います。「主よ、われらは、たすかりのカリスを御身に捧げ、御慈悲に願い奉る。願わくは、これが、甘美な香りを放ちつつ、われらと全世界の救いのために、主の天主なる御稜威の御前に立ち上らんことを。アーメン」。その瞬間は、まだパテナの上にはパンしか、カリスの中にはぶどう酒しかありませんが、教会は、パンとぶどう酒がまもなくキリストの御体と御血に変化することを予期しながら奉献していることは明らかです。

教理に満ちたこれらの美しい祈りは、削除されてしまっています。それらの祈りは今では、「大地の実り、人の手のわざであるパンを捧げ【日本語では、[ここに供えるパンはあなたからいただいたもの、大地の恵み、労働の実り、わたしたちのいのちの糧となるものです]】」、「大地の実り、人の手のわざであるパン/ぶどう酒を捧げ【日本語では、[ここに供えるぶどう酒はあなたからいただいたもの、大地の恵み、労働の実り、わたしたちのいのちの糧となるものです]】」という二つの祈りで置き換えられました。はっきり言いましょう。もしミサが単なるパンとぶどう酒を捧げるものだったとしたら、それには価値がありません! 今では当てはまらなくなっている旧約以上のものにはなりません。その反対に、聖トマス・アクィナスはこう言います。「なぜなら、ヘブライ書10章1節『実に律法は実在の姿ではなく、将来の恵みの時の影である』によれば、旧約の律法による犠牲は、キリストの御受難によるまことの犠牲を、形だけ内包したものであった。それゆえに、キリストによって制定された新約の律法による犠牲は[新約の律法を完成させるために]、さらに大いなるものを持つべき必要がある、すなわち、十字架につけられたキリストご自身を、しるしや形においてだけでなく、真理そのものにおいて内包すべき必要がある」。そのため犠牲の対象物-私たちが捧げるもの-は、旧約におけるパンとぶどう酒のような単なるしるしではなく、むしろ私たちの主イエズス・キリストの御体と御血そのものなのです。「人の手のわざ」という表現は、聖書の中で八回、いずれも、なんと偶像を示すのに使われていることを記しておくことは価値があります!(詩編113章12節、134章15節、列王下19章18節、歴代下32章19節、知恵13章10節、イザヤ37章19節、バルク6章50節、6章51節)例えばこう書かれています。「異邦人の偶像は金銀で、人の手のわざ」(詩篇113章12節)。奉献の対象物として、聖書で偶像を示す表現を使うことは不釣り合いと言わざるを得ません。

プロテスタントはパンとぶどう酒を捧げます。私たちカトリックは「主の御体と御血の犠牲」を捧げます。プロテスタントは十字架の犠牲の記念をするだけです。カトリックは実際にキリストの犠牲を捧げます。主はこれを、聖アウグスティノが美しく言うように、教会が主とともに自分を捧げることを学ぶよう、教会にお与えになったのです(「神の国」10巻20章参照)。

同様に、ミサの終わりにある「placeat」の祈りも削除されています。その祈りはこう言いました。「聖なる三位一体よ、下僕なる私の聖役を嘉し給え。不肖の私が、あえて御稜威の御前に捧げ奉ったこのいけにえを喜び給い、御慈悲によって、私と、私がこれを捧げたすべての人々のために喜納せられるものとならせ給わんことを。われらの主キリストによりて。アーメン」。その祈りを削除することもまた、犠牲という真理を沈黙させることなのです。

もう一つの重要な変更は、手による聖体拝領です。理論上は例外的な許可であるにすぎないにもかかわらず、実際にはあらゆるところへ広がってしまっており、時には強制されています。手による聖体拝領は決して聖伝にはありません。たとえ最も初期の教会の時に行われていたとしても、教会が私たちに伝えてきたものではありません。なぜでしょうか? なぜなら、聖体拝領は主の現存を信じる非常に強い信仰をもって行われたのであり、そのことが教会を御聖体の礼拝に至らしめたからです。教会が私たちに伝えてきたのは、ひざまずいて舌の上にご聖体を受けるという礼拝によって明白に表明した初期の教会の信仰なのです。彼らは信じたからこそ、礼拝したのです。そして初期の教会が私たちに伝えたのは、ひざまずいてご聖体を受けるという礼拝とともに、主の現存への信仰なのです。聖アウグスティノはこう言います。「私は[ご聖体にまします主を]礼拝するならば罪を犯さないだけでなく、礼拝しないならば罪を犯すのである」。ですから、礼拝は任意のものではなく、義務だったのです。

のちになって礼拝ぬきの手による聖体拝領を再導入したのは異端者たちでした。それは彼らの不信仰のせいでした。ですから、人が本当に不思議に思うのは、近代主義者たちがなぜ、六人の異端者に新しいミサの準備に参加するよう依頼したのかです! この手による聖体拝領を導入したことは、数えきれない霊魂を信仰の喪失に至らせました。一般信者の間でだけでなく、おそらく司祭の間ではもっとだったでしょう。こんにちの多くの司祭たちは、もはや主の現存を信じていません。なぜでしょうか? なぜなら、彼らは主を礼拝しなかったからです。彼らがご聖体にまします主に示す敬意がまったくないからです。手による聖体拝領は信仰の喪失に至らせるのですから、それゆえに絶対に避けなければなりません。私はこれまで決してご聖体を手に授けませんでしたし、これからも決してそうするつもりはありません。私はこれまで決してご聖体を手で受けませんでしたし、これからも決してそうするつもりはありません。

こんにち一般化した乱用の一つは、平信徒がご聖体を配ることです。男性だけでなく女性でさえも配っています。聖トマスは、この秘蹟を聖別するのとそれを配るのは同じ人物が行うべきであると言っています。これが、叙階式の典礼の一部として、司祭の両手に特別に聖なる油が塗られる理由です。司祭の両手が塗油されていることは全き真実ですから、司祭が重い病気になった場合、司祭の両手の内側はすでに塗油されているため、平信徒のように手の内側ではなく、手の外側に病者の塗油を受けるのです。さらに、司祭の親指と人差し指の二本の指は、ご聖体に触れる指であるため、特別に塗油されているのです。

こんにち一般化した乱用のもう一つは、女性の侍者です。これは、以前は決して絶対に行われていませんでしたし、一九九七年までは禁じられていました。ところがこの年にヨハネ・パウロ二世が近代主義者の圧力で譲歩したのです。これは、司祭と平信徒の区別をぼかしてしまいます。男性の侍者は祭壇の下で侍祭の役割を果たしますが、この侍祭は下級聖職の一つ、すなわち司祭職へ上げられる段階の一つなのです。さて、天主の御制定によって、司祭職は男性に留保されています。私たちの主イエズス・キリストは十二使徒に男性だけをお選びになりました。それは、十字架の犠牲は、キリストとキリストの教会との神秘的結婚でもあるからです。十字架上の主は教会の花婿でいらっしゃり、教会は新しいエバとして、新しいアダムの開かれた脇腹から生まれるのです。聖母は、新しいエバとして、全教会を代表して十字架の下にお立ちになり、聖母に対して主は、愛された使徒を聖母の子どもとしてお与えになり、この神秘的結婚が(子どもを得るという)実りが豊かであることを表明します。全歴史を通じて愛された弟子たちはみな、キリストとキリストの教会のこのいとも神秘的な結合、豊かな実りから永遠の命へと至る結合から生まれるのです!

他にも、聖伝のミサから新しいミサの間で変更されてしまった非常に多くの点があります。そしてこれらの変更はすべて、同じ方向性を持っています。それは、次の三つの教義におけるカトリック教会の信仰を明白に表明する多くの祈りや動きを廃止するということです。1)ご聖体におけるキリストの現存、2)ミサがまことのかつなだめの犠牲であり、主の御体と御血の犠牲であるという事実、3)その犠牲を捧げるためのまことに叙階された司祭が必要であるという事実-です。他の変更点を挙げるとすれば、祭壇石が任意のものとなってしまったこと、多くの場合に平信徒が、女性でさえもご聖体を配るということ、ご聖体が今やしばしば中央祭壇から移動させられて隅や他の部屋にまで追いやられているという深刻な事実、悔悛や地獄、苦行、この世のことを軽んじるなど、世が好ましく思わないことについての祈りが削除されたことなどです。

聖トマスは、信仰には二つの行いがある、と説明しています。啓示された真理に従う内的な行いと、その信仰を告白する外的な行いです。聖パウロが言うように、「人は心で信じて義とせられ、言葉で宣言して救いを受ける」(ローマ10章10節)。さて、信仰の告白を組織的に減らすと、生ぬるさや弱さの状態に至ります(「神学大全」第二部の第一部、第53問、第3項参照)。そのような状態では、人はつまずきがあったとしても、それに対抗する準備ができていません。そのあとに、本当にそのようなつまずきが起これば、多くの人が堕落し、実際に信仰を失います。なぜなら、その人たちは信仰を告白しなかったからです。ミサにおいて、ご聖体への敬意がないことは、多くの人をその弱さに至らせ、そのあと彼らがもっと大きなつまずきを目撃すると、「たいしたことではない、それは単なるパンにすぎないから」と言いがちになってしまいます。もしそう言うとすれば、その人は信仰を失ってしまったのです! このようにして、どれほど多くの人が実際に信仰を失ったでしょうか?

いいえ、新しいミサは聖伝のミサと決して同じものではありません。とてつもなく大きな違いがあります! オッタヴィアーニ、バッチ両枢機卿は教皇パウロ六世に対して、こう手紙で書きました。「(ミサの)新しい式次第は、全体としても部分においても、トレント公会議の第二十二総会において決議されたミサに関するカトリック神学から驚くほど逸脱しています。その時、最終的に定められたこの典礼の『典文』は、(ミサの)神秘の完全性に対して向けられたあらゆる異端に対しても乗り越えられない防壁をつくったのです」。

私たちが全時代の信仰を守りたいと思うなら、私たちはまた、全時代の典礼、とりわけ全時代のミサにおける信仰の荘厳な表現も守らなければなりません。カトリック教会の聖伝の信仰に忠実であること、聖人たちの道徳である教会の聖伝の道徳に忠実であること、聖伝のミサに忠実であることは、互いに深くつながっています。私たちはこの三つを切り離さず守らなければなりません。

十字架の下に立ち給う忠実な童貞(信実なる童貞)が、教会の最も偉大なる宝である聖伝の典礼によるミサの聖なる犠牲に忠実であり続けるよう、私たち全員を助けてくださいますように。その結果、いつか私たちが天国で永遠にその実りを楽しむにふさわしい者となりますように! アーメン。



聖ピオ十世会日本のお説教・講話がここに掲載されています。

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