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Channel: Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた
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主よ、私たちの心を目覚まして、御一人子の道を準備させるようにさせて下さい。

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アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

2016年12月4日(主日)に東京で聖伝のミサを捧げました。その時のお説教をご紹介いたします。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

2016年12月4日 待降節第2主日のミサ
小野田神父 説教

聖なる日本の殉教者巡回教会にようこそ。今日は2016年12月4日、待降節第2主日のミサをしております。今日のこのミサの後に、いつものように 14時30分から公教要理の続きがあって、今回は、聖書が、確かに 4人の福音史家、そして聖パウロが書いたものである、という事について話をしたいと思っています。

16時からは主日の第2晩課があります。明日は朝の7時から御ミサがあります。12月は東京では主日のミサが3回あって、今日と、次は2週間後の18日と、そして クリスマスの25日です。どうぞ皆さんいらして下さい。


“Excita, Domine,corda nostra ad praeparandas Unigeniti tui vias.”
「主よ、私たちの心を目覚まして、御一人子の道を準備させるようにさせて下さい。」

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

愛する兄弟の皆さん、「待降節のこの第2の主日を一言でまとめると、これは、『主がエルサレムにやって来る』とまとめられると言える」と、典礼学者たちは口を揃えて言います。ドン・ゲランジェに始まり、他の多くの典礼学者がそう言います。

そこで、何故この典礼はそんなにイエルサレムとかかわっているのか?エルサレムとは一体何なのか?

そして私たちは、そのエルサレムに来られる主を準備する為に一体どうしなければならないのか?典礼は何をしようと教えているのか?

それで最後に、私たちは遷善の決心を立てる事に致しましょう。

エルサレムというのは、単なる昔のユダヤの首都であった、平和のビジョンという意味の街だけではありません。イエズス様の選ばれた新しいエルサレム、つまりカトリック教会の事も、地上のキリストの教会の事も、そして天上のキリストの神秘体の事も表しています。そしてこれは王である、王の王であるイエズス・キリストの花嫁を表しています。

ちょうどこの典礼学者のエルサレムの話をこう読むと、パリにある素晴らしい、これは私の思うには、人類の作った最高傑作の1つである、サント・シャペル(Sainte Chapelle)の事をどうしても思い出さざるを得ません。これは典礼学者が言った事ではないのですけれども、ぜひ聞いて下さい。皆さんも是非パリに行ったら、ノートルダム寺院のすぐ近くにあるサント・シャペルという所に行って下さい。

サント・シャペルというのは、フランスの王ルイ9世が、聖なる王ルイ9世がコンスタンティノープルにあったイエズス様の茨の冠を購入して、その国家財産のほぼ全てを使って購入して、その茨の冠を入れる為の教会として建てたものなのです。私がそこのサント・シャペルに訪問した時に、フランス人のガイドの方は、その茨の冠がどれほど高かったかという事を示す為に、「その茨の冠のお金で、サント・シャペルが2個半造る事ができた」と言うのです。

サント・シャペルというのはかなり大きな教会で、人がもしかしたら700名とか1000名くらい入る事ができるかもしれません。2階になっているのです。1階はちょうどこの児童会館くらいの高さだと思いますが、壁があって小さな窓がありますが、非常に素朴な質素な、そしてきれいに飾られた普通の教会なのです。ところが2階に上がると、15mのガラスの壁が、壁がなくて全てステンドグラスで囲まれていて、柱だけで屋根を支えています。そのステンドグラスがあまりにも高くて、1000を超えるステンドグラスが付いています。光の教会のような感じで、まさに地上にいた教会から、天上に行くと光に輝く天国の教会をイメージして造られたのだそうです。旧約時代の天地創造から、聖ルイ王が茨の冠をどうやってコンスタンティノープルから持って来たこのパリに到着したか、というまでの模様がステンドグラスで物語られています。

その美しさはもう時を忘れて、ずっとこの光の加減が変わって、太陽が動く毎に変わって、床が色んな色に変わって、そのきれいな光の眩い様子を見てうっとりしているだけで、時間が経つのを忘れてしまうかのようです。本当に天国に、時間が止まっている天国にいるかのようです。おそらく王様はここでミサを、荘厳ミサをして、グレゴリオ聖歌をきれいに歌ったり、王室の聖歌隊がきれいなハーモニーでポリフォニーを歌ったり、或いはおそらくエルサレムかどこからの素晴らしい香が焚かれて、とても良い匂いがして、荘厳な儀式が捧げられたかと思います。まさにそこは天国だったかもしれません。



ちょうどそのように典礼学者は、「エルサレムにも色々な層があって、最初はユダヤのエルサレムだけれども、これはもう時代遅れになって、これはもう賞味期限が切れてしまった。もうそこで、もうそれは過去のものとなってしまった。しかしこの土台の上に、ちょうど過去考古学者がいろんな発掘をすると、昔の都市の上に、都市が戦争か何かで負けて敵によって破壊されて、その上に新しい土地が作られてという風に、その古いエルサレムの上に新しいキリスト教徒のエルサレムが作られた。

イエズス様がこの御降誕の時に私たちのもとにやって来る、このエルサレムというのはこのキリスト教のエルサレムの事だ。このサント・シャペルのいわば1階にある、地上に住んでいる私たちキリスト教徒のもとにイエズス様はやって来る。しかしこれは同時に、最後の審判の時にキリスト教徒に、『あぁ、よくやった。お前たちの全ての過去の苦しい思い、犠牲、祈りは、私に快いものだった。さぁ、報いを受けなさい。さぁ、天国の称讃を受けなさい、栄光を受けなさい、光を受けなさい、永遠の休みを受けなさい』と言われる、天の光に輝くエルサレムをも、地上のエルサレムキリスト教のエルサレムの上に更に置かれた、天上のエルサレムの事も意味している」と言います。

この天上のエルサレムを私たちに与える為にも、世の終わりに最後の日に審判の日に、主はもう一度来たり給うのです。

そればかりでありません。典礼学者によると、「第4層がある」と言うのです。「その第4層は、最も最高のエルサレムであって、それは私たちの霊魂の事だ」と言います。ちょうどこれは私が思うのですけれども、サント・シャペルには祭壇の一番大切な所に、特別の宝物を置く所があります。それはコンスタンティノープルから運ばれてきた茨の冠を収めてあった特別の所ですけれども、その祭壇の上にあります。それは最も大切な所で、もう聖ルイの、王様の最高の宝でした。

ですから聖ルイ王をはじめ、その後の王様たちは皆、寝る時も首に7つの鍵を首にかけてそして寝ていて、その7つの鍵がなければその茨の冠のドアは開かなかったのだそうです。サント・シャペルの最も大切なものはこの茨の冠もそうでした。

ちょうどそれと同じように、典礼学者も、「エルサレムの最も崇高な、エルサレムの最も大切で王の王であるイエズス様が、花嫁を、きれいに着飾った花嫁のその中に入りたい、そしてその最高の行くべき場所は、私たちの霊魂の中だ。その霊魂の中にこそ入りたい、深く入りたい」と説明しています。

だからこそ今日この集祷文で、「主よ、私たちの心を目覚めさせて、主の御一人子の道を私たちに準備させて下さい。」「これは、私たちの心が浄められて、主を受け入れる事ができるようにする為です」と説明しています。

私たちの主を受け入れる事が準備できるのはどんなに幸せでしょうか。

ですからアレルヤ誦も、「『さぁ、主の家に行こう』と言われて私たちは喜んだ。さぁ、一緒に行こう」と言われていますけれども、「これは天のエルサレムの事であって、イエズス様が私たちの心の中に入って来られる事である」と説明しています。

第2のポイントは、このではその準備の為にどうやったら良いのでしょうか?

「これは福音が説明している」と言います。「福音は、聖ヨハネはイエズス様の先駆者として、主の道を準備する為に遣わされた者である。イザヤの聖書によって遣わされた者であるから、その聖ヨハネのように準備をしなければならない」と言います。

もちろんこのイエズス様は、ヨハネから送られた弟子たちに、「さぁ、今何が起こっているか見なさい。旧約聖書に預言されているように、目が見えない人は見え、耳が聞こえない人は聞こえ、歩けなかった人は歩くようになり、死人は生き返っているじゃないか。旧約聖書に預言されている通りだ。」イエズス様は、「俺がそうだ」とは言わずに、「さぁ、事実を見なさい。そして頭を使って結論を出しなさい」と非常に謙遜に仰っているのですけれども、それと同じように教会は、イエズス様のその御来臨の業が霊的であるという事を教えようとしています。つまり私たちの主が来られる為に、主は私たちによっていつも霊的に、毎日のようにでも奇跡を行って下さっている、癒やしの奇跡を行って下さっている。

例えば、今まで超自然な真理が、天国の事がよく分からなかった人が、「あぁ、天国はある。天主様は在します。永遠の命がある」というのが分かるようになった、「あぁ、罪を犯してはいけない」と思うようになったとか、死人がよみがえるというのは、今まで罪に染まっていた人たちがそれを捨てて、聖なる道に戻るという事でなくて何でしょうか。或いは足のなえた人が、それでも天国の方に向かって道を進める事ができるとか、霊的な、「私たちの中に行われる霊的な超自然の癒やしと御恵みの事を話している」と言います。「だからそのイエズス様を受け入れよう」と。「ベトレヘムの人々のようにイエズス様に、『来てはいけない、あっちに行け、しっしっ』と追い払ってはいけない。」

「さぁイエズス様、私たちの心に来て下さい。私たちは心をきれいに準備して、あなたを受け入れたいと思っています。『お恵みを持って来たい』というイエズス様を受け入れたいと思うのです」と仰って下さい。癩病を受けた人が浄められるというのも、まさにこれです。罪を浄められて、イエズス様を受け入れるという事です。

では、この罪の浄めというのはどのようになるのでしょうか?

「それはちょうど、昇階誦が言っている」と言います。昇階誦は、「主は、聖人たちを自分のいけにえの周りに集める。いけにえの周りに秩序付けられたその聖人たちを集める」と言います。

或いは、「聖体拝領後の祈りにある」と言います。聖体拝領後の祈りは、「主よ、私たちにこの地上のものを軽蔑して、天上のものを愛さしめ給え。この儚い地上のものではなく、永遠のものを望まさせて下さい。」「つまり、この地上のものを捧げていけにえとして、天の黄金、天の変わる事のないものを望まさせて下さいと祈らさせている、これも準備だ。」

そして「密誦もそうだ」と言います。密誦では、「私たちが全く、私たちのみじめさ、私たちは全くに無に等しい、私たちがやる事は例えどんな事でも、主の目から見れば欠点だらけで、ほとんど価値がないように思われる。だから私たちは主の憐れみと主の御恵みをひたすらに乞い求める」という祈りです。これも地上の私たちの技術とか能力とかではなく、天上の御恵みをひたすらに求める、という事の表れです。

洗者聖ヨハネも私たちにこの事を教えています。「霊的に主の来たる道を真っ直ぐにせよ。罪を去って、この地上のものから天国に心を上げよ」と教えています。

では第3に、私たちは一体遷善の決心をどう立てたら良いでしょうか?

クリスマスの時まで主の御降誕まで、私たちも今日の典礼の精神の中に深く入り、「私たちの心も天のエルサレムだ」という事を自覚致しましょう。そして天国のエルサレムに行くには十字架が必要だ、いけにえが必要だという事を自覚致しましょう。

だからこそ典礼学者によると、指定巡礼教会といって、教皇様がこの典礼の重要な日にはこの教会でミサをするというのがありますけれども、今日の指定巡礼教会は、エルサレムの聖十字架教会。「エルサレムの聖十字架教会、これはつまり、私たちがエルサレムに行く為には十字架を担わなければならない、十字架を通して、天のエルサレムに行く事ができるという事を教えている」と言います。

ではどうしたら良いでしょうか?

私たちも、天に心を上げる為にたくさんのお祈りを唱えましょう、ロザリオを捧げて下さい。第2には十字架を愛して、私たちの日々の務めや、苦しい事や、辛い事や、悲しい事、嫌なことも十字架として捧げて下さい。イエズス様は最初にお生まれになった時から十字架の生活を始められました。ベトレヘムで十字架だらけの殉教の生活を始められました。これで私たちが一体どんな生活を送らなければならないかを教えて下さっています。

例えば私たちにはどのような十字架があるでしょうか?

「あぁ、」朝起きたらまず十字架を切る、お祈りをする。もしかしたら私たちは誘惑を受けて、「あぁ、」朝起きたらすぐにiphoneを持って携帯で、「あぁ、朴槿恵はどうなったかな」とか、「あぁ、北方領土はどうなったかな」とか、「あぁ、トランプは」とか、「東京オリンピックは」などともしかしたら、「あぁ、最新のニュース」とか、「最新の受けたメッセージ」とか、「あぁ、Emailは受けたかな?」と思うかもしれませんが、「あっ、どっこい。」天上にまず心を向けて、お祈りから1日を始めるのはどうでしょうか。

最後にマリア様に心を向けましょう。12月8日はマリア様の無原罪の御宿りの祝日です。マリア様はこれを以て、全く地上の罪から離れた清い模範を見せて下さっています。私たちもマリア様の無原罪の御宿りの取次ぎによって、天上にいつも心を向けている事ができますように、主の道を準備する事ができるようにお祈り致しましょう。

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。



聖ピオ十世会日本のお説教・講話がここに掲載されています。

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