アヴェ・マリア・インマクラータ!
愛する兄弟姉妹の皆様、
2017年1月20日(金)に大阪で聖伝のミサを捧げました。その時のお説教をご紹介いたします。
天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)
2017年1月20日(金)殉教者教皇聖ファビアノと殉教者聖セバスチアノのミサ
小野田神父 説教
聖母の汚れなき御心聖堂にようこそ。
今日は2017年1月20日、教皇殉教者聖ファビアノそれから殉教者聖セバスチアノの祝日を祝っています。
今日この御ミサが終わりましたら、いつも1月にはミサの後にやっております恒例の、踏み絵に対する敬意を表して接吻の儀式がありますので是非行なって下さい。その後で「終課」というグレゴリオ聖歌での一日最後のお祈りもありますので、もしも時間がありましたら一緒にいらして下さい。
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。
愛する兄弟の皆さん、イエズス様は今日の福音で、「もしもこの世がお前たちの事を憎み、お前たちを除外し、そしてお前たちの名前を『悪だ』と『忌むべきものだ』として捨て去るなら、その時は大いに喜べ。何故ならお前たちの報いは天国では大きいからだ」と仰っています。
今日は聖ファビアノと聖セバスチアノの殉教者を黙想しながら、私たちに今日一体何を教えているのか、教会は私たちに何を教えているのか、そして私たちが今日どのような決心を取らなければならないかを黙想する事に致しましょう。
私はある時、誰から質問されたかは申し上げませんが、「神父様、"使う"という事 "使用する"という事と、"楽しむ" "享受する"という事の違いは何ですか?」と聞かれました。大変鋭い質問です。コンピュータを使う、コンピュータを楽しむ、お酒を使う、お酒を楽しむ、一見同じようですが、何とかを「使う、使用する」という事と、「楽しむ」というのは意味が違います。
レネー神父様はそれにこう答えました、「聖アウグスチヌスはこう言っています、『私たちは、私たちが享受して楽しむべき(frui)ものは、聖父と聖子と聖霊三位一体の天主であって、その聖父と聖子と聖霊を永遠に楽しむ為に、この世を使わ(uti)なければならない。』」これです、まさにドンピシャです。
私たちは、永遠の天主から主を知り、主を愛し、主に奉仕して、そうする事によって永遠に天主を楽しむ為に創られました。この世に地上にあるものは全て、永遠の生命の為にのみあって、その手段としてのみあって目的ではありません。これがカトリックの教えであってカトリックの信仰です。この世のあまりにも儚い短さ、短いのは単なる試練の時であって、これを使って使用して、永遠を楽しむ為に私たちは生きている。
これがカトリックの教えで、イエズス様の教えです。今日のミサでまさに聖ファビアノと聖セバスチアノを通して、私たちにそれと同じ信仰を教えています。
聖ファビアノ教皇様は250年1月20日今日に殉教しました。ローマ皇帝デチウスという皇帝のもとで迫害を受けて殉教した最初の人でした。そしてカリストのカタコンベに葬られて、つい最近ではその教皇様のお墓の石も発見され、それがカリストのカタコンベにありました。
教皇ファビアノはその生前中に特に、少しの間平和な時代があったのでその時に、7人の助祭に、「貧しい人の世話をよくするように」とその分担を決めたり、或いは7人の副助祭には、「殉教者の聖遺物を集めるように」などの事を命じて、愛徳の、愛徳で有名な教皇様でした。ですから今日の福音の中でもその愛徳の話しが出てきます。まず「イエズス様が苦しむ人を癒やした」というのも愛徳の表れです。
聖セバスチアノについては、もう去年の9月にティシエ・ド・マルレ司教様が来られた時にお話しを聞きました、剛毅の徳を説明する為に聞きました。聖セバスチアノもやはり同じ1月20日ですが、亡くなったのはおよそファビアノ教皇様よりも30年位後の、280年頃亡くなったと考えられています。ローマの兵士です。
ローマ皇帝からいけにえを捧げるように言われたのですけれども、それを断ります、「私はカトリックだからできません。」そして矢を受けたり殉教するのですけれども、死んだと思われていたにもかかわらず、実は敬虔な婦人たちが近寄ってその遺体を埋葬しようと見ると、まだ息がある。そして傷が手当てを受けて治った。で、治って、そのままもしも隠れたり逃げれば命は助かったのですけれども、治ったらすぐに皇帝のもとに行って、「あなたのやっている事は間違っている。キリスト教徒を迫害するのは間違っている」と言って、今度は叩かれて息を引き取った、という有名なローマの兵士の殉教者です。
この聖セバスチアノは特に癒やしの、病を癒やす、或いは傷を癒やす聖人として尊敬されて崇敬されていて、聖福音でもやはり「イエズス様が癒やされた」というお話しがエピソードが取られています。「聖セバスチアノが癒やされたように、イエズス様が私たちをも御聖体拝領によって癒やされるように」と、このミサでは聖体拝領の時に聖セバスチアノの奇跡的な治癒とかけて、聖福音のものが引用されています。
この2人の殉教者を見ると、やはり時代は年は違って立場は違ったとしても、しかし1つの事を思っていました、「イエズス・キリストの信仰に忠実でありたい。イエズス・キリストが真の天主であるという事を証して、その為に全てを命を懸けても厭わない」という事でした。「イエズス・キリストが真の救い主であり、天主であるという事を否むよりはむしろ、この短い命を失った方が良い」という信仰でした。「この世の命を、永遠の命を享受する為に使うのだ」という態度でした。
イエズス様も同じ事を言います、「もしも人々の前で『私の味方だ』と宣言する者は、私も御父の前で彼の事を『味方だ』と言おう。しかしもしも私を皆の前で否む者があったら、私も御父の前で彼を否もう」と言っています。
またイエズス様は、「もしも私の弟子になりたいのならば、自分の十字架をとって私について来い」と言います。そしてイエズス様も自分も苦しみを受けて、そして殉教して、しかし「殉教するけれども、復活するだろう」と予言されます。
「イエズス様が苦しむ」という事を聞いた時にペトロは言いました、「あぁ主よ、そんな事がありませんように!」でもイエズス様は、「サタン、退け!おまえの考えている事は聖父の考えではない。どこかへ行ってしまえ!」愛するペトロでさえも、「それは私の考えではない。サタンの考えだ!」イエズス様の望みは、私たちがこの地上のものを、私たちが受ける十字架を、私たちの苦しみを、イエズス様と共に担って、そして天国に行く事です。
そこで時には、壮大な、聖ファビアノや或いは聖セバスチアノような大殉教者のように、そのような大殉教さえをも天主は私たちに送る事があります。また、そうではなくても、天主の送られる試練によって、私たちは日々、実は殉教しなければなりません。日々踏み絵を踏むようにそそのかされる時があります。
例えば皆さんのもとにある男の子がやって来て、「あぁ、俺と一緒にどこか悪い所に行こう、罪を犯そう。そうしたらお前は私の事を愛している事になるから、そうすれば愛をほどこす事になる。キリストの教えは愛ではないか。だからキリストは人を愛する為にそして否まれてもいいんだ」と言ったら、それではキリスト教の全ての掟も、徳も、全く無くなってしまいます。
「私はキリスト教、カトリックだからできません。そのような罪は犯しません」と言うと、「キリストは十字架を担ぐ為に踏まれる為に生まれて来たんだから、否まれる為に生まれて来たんだから、罪を犯しなさい。キリストを否みなさい。だから俺と一緒に罪を犯そう。そうすればお前は俺を愛する事になって、隣人愛になる。」
それはカトリックの教えではありません、それはキリストのイエズス様の教えでは、本当のイエズス様の教えではありません。
考えてもみて下さい。日本の自衛隊が例えばイスラム国に行って、イスラム国に捕まってしまった日本人を「救出しよう」とした時に、「イスラム国で殺されかかっている。」自衛隊の人が助けようとするのですけれども、あいにくその作戦部隊のエリートが捕まってしまった。「日本の国からの忠誠をやめて、これからISになったら、お前たちの命も助かるし、この日本人の命も助けてやる。そうしないと首を切ってYouTubeに流すよ。お前たちもそうだ、日本人だろうが何だろうが、」その時に、もしも超自然な話しではなかったとしても、「いや、私たちは日本人として日本軍として来たんだ」と言ってそして忠誠をした時には、何と日本の人々はこの彼の忠実を忠誠を讃えるでしょうか。もしもそれを裏切ってしまったら、「赤穂浪士の子孫が、ルバング島の小野田少尉を生んだ国が一体何だ」という事になってしまいます。忠誠、忠実というのは、自然的な徳においても異教の日本人においてもとても重要な徳であるにもかかわらず、もしもそれが否まれてしまったとしたら、否む事がもしもそれがキリスト教の教えだとしたら、そのような教えを日本人は受けようと決してしない事でしょう。
イエズス様の教えに私たちは忠実でなければなりません。
話しが逸れてしまいましたが、では私たちはどのような踏み絵を踏むように言われているのでしょうか?
もちろん、男の子が毎日私たちの所にやって来て「罪を犯そう」と言うわけではありません。そうではなくて、毎日「あぁ、このインターネットのこれを、この悪い広告をクリックするか、しないか」とか、或いは「ここで今、朝起きる時間だけれども、起きるか、起きないか」或いは「ここで、他の人がいるけれども、十字架のしるしをしてご飯を食べるか、食べないか」或いは何か日常のほんの小さな、「ここで、イエズス様の弟子としてカトリック信者として、この善を行うか、行わないか」という事で、あたかも私たちは踏絵を踏むか、踏まないかの試練を毎日送られているかのようです。
例えそれを残念ながら、私たちが必ずしもイエズス様にいつも忠実だったとは限りませんでした。私たちは何とイエズス様に悲しい思いを過去させてきた事でしょうか。本当なら私はこうしなければならない事を、つまらない事の為に、イエズス様の代わりに世間体を取ったり、或いは他の自分の楽しみを取ったりしてしまいました。
殉教は更に、他人から受けた屈辱や、他人から受けた疑いのまなざしとか、或いは嫌がらせ、或いは悪口なども、讒言嘘の悪口も、寛大に許すように、それこそが私たちにとって殉教の毎日の生活となります。
上司から評価されなかった、上司が私に悪口を言った、陰で変な事を言っている、或いは悪意を持って嫌がらせをされた、などなど。私たちはどれほど他人を殉教の心で許さなければならないのでしょうか。
聖ファビアノと聖セバスチアノは私たちにその事も教えています、「日々、いつもイエズス様を取るように。イエズス様を選ぶように」と招いています。今日はこのミサを捧げて、2人の殉教者にお祈り致しましょう。願わくはこの2人の聖人の剛毅と、また治癒のお恵みによって私たちの弱さが癒やされて、いつもイエズス様を取り続ける事ができますように。
マリア様にもお祈り致しましょう。マリア様が私たちをいつも助けて、イエズス様を選ぶように、もしもイエズス様の聖心を悲しませてしまうような事があったとしたら、それに対して償いをする事ができるお恵みをできますようにとお祈り致しましょう。
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。
愛する兄弟姉妹の皆様、
2017年1月20日(金)に大阪で聖伝のミサを捧げました。その時のお説教をご紹介いたします。
天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)
2017年1月20日(金)殉教者教皇聖ファビアノと殉教者聖セバスチアノのミサ
小野田神父 説教
聖母の汚れなき御心聖堂にようこそ。
今日は2017年1月20日、教皇殉教者聖ファビアノそれから殉教者聖セバスチアノの祝日を祝っています。
今日この御ミサが終わりましたら、いつも1月にはミサの後にやっております恒例の、踏み絵に対する敬意を表して接吻の儀式がありますので是非行なって下さい。その後で「終課」というグレゴリオ聖歌での一日最後のお祈りもありますので、もしも時間がありましたら一緒にいらして下さい。
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。
愛する兄弟の皆さん、イエズス様は今日の福音で、「もしもこの世がお前たちの事を憎み、お前たちを除外し、そしてお前たちの名前を『悪だ』と『忌むべきものだ』として捨て去るなら、その時は大いに喜べ。何故ならお前たちの報いは天国では大きいからだ」と仰っています。
今日は聖ファビアノと聖セバスチアノの殉教者を黙想しながら、私たちに今日一体何を教えているのか、教会は私たちに何を教えているのか、そして私たちが今日どのような決心を取らなければならないかを黙想する事に致しましょう。
私はある時、誰から質問されたかは申し上げませんが、「神父様、"使う"という事 "使用する"という事と、"楽しむ" "享受する"という事の違いは何ですか?」と聞かれました。大変鋭い質問です。コンピュータを使う、コンピュータを楽しむ、お酒を使う、お酒を楽しむ、一見同じようですが、何とかを「使う、使用する」という事と、「楽しむ」というのは意味が違います。
レネー神父様はそれにこう答えました、「聖アウグスチヌスはこう言っています、『私たちは、私たちが享受して楽しむべき(frui)ものは、聖父と聖子と聖霊三位一体の天主であって、その聖父と聖子と聖霊を永遠に楽しむ為に、この世を使わ(uti)なければならない。』」これです、まさにドンピシャです。
私たちは、永遠の天主から主を知り、主を愛し、主に奉仕して、そうする事によって永遠に天主を楽しむ為に創られました。この世に地上にあるものは全て、永遠の生命の為にのみあって、その手段としてのみあって目的ではありません。これがカトリックの教えであってカトリックの信仰です。この世のあまりにも儚い短さ、短いのは単なる試練の時であって、これを使って使用して、永遠を楽しむ為に私たちは生きている。
これがカトリックの教えで、イエズス様の教えです。今日のミサでまさに聖ファビアノと聖セバスチアノを通して、私たちにそれと同じ信仰を教えています。
聖ファビアノ教皇様は250年1月20日今日に殉教しました。ローマ皇帝デチウスという皇帝のもとで迫害を受けて殉教した最初の人でした。そしてカリストのカタコンベに葬られて、つい最近ではその教皇様のお墓の石も発見され、それがカリストのカタコンベにありました。
教皇ファビアノはその生前中に特に、少しの間平和な時代があったのでその時に、7人の助祭に、「貧しい人の世話をよくするように」とその分担を決めたり、或いは7人の副助祭には、「殉教者の聖遺物を集めるように」などの事を命じて、愛徳の、愛徳で有名な教皇様でした。ですから今日の福音の中でもその愛徳の話しが出てきます。まず「イエズス様が苦しむ人を癒やした」というのも愛徳の表れです。
聖セバスチアノについては、もう去年の9月にティシエ・ド・マルレ司教様が来られた時にお話しを聞きました、剛毅の徳を説明する為に聞きました。聖セバスチアノもやはり同じ1月20日ですが、亡くなったのはおよそファビアノ教皇様よりも30年位後の、280年頃亡くなったと考えられています。ローマの兵士です。
ローマ皇帝からいけにえを捧げるように言われたのですけれども、それを断ります、「私はカトリックだからできません。」そして矢を受けたり殉教するのですけれども、死んだと思われていたにもかかわらず、実は敬虔な婦人たちが近寄ってその遺体を埋葬しようと見ると、まだ息がある。そして傷が手当てを受けて治った。で、治って、そのままもしも隠れたり逃げれば命は助かったのですけれども、治ったらすぐに皇帝のもとに行って、「あなたのやっている事は間違っている。キリスト教徒を迫害するのは間違っている」と言って、今度は叩かれて息を引き取った、という有名なローマの兵士の殉教者です。
この聖セバスチアノは特に癒やしの、病を癒やす、或いは傷を癒やす聖人として尊敬されて崇敬されていて、聖福音でもやはり「イエズス様が癒やされた」というお話しがエピソードが取られています。「聖セバスチアノが癒やされたように、イエズス様が私たちをも御聖体拝領によって癒やされるように」と、このミサでは聖体拝領の時に聖セバスチアノの奇跡的な治癒とかけて、聖福音のものが引用されています。
この2人の殉教者を見ると、やはり時代は年は違って立場は違ったとしても、しかし1つの事を思っていました、「イエズス・キリストの信仰に忠実でありたい。イエズス・キリストが真の天主であるという事を証して、その為に全てを命を懸けても厭わない」という事でした。「イエズス・キリストが真の救い主であり、天主であるという事を否むよりはむしろ、この短い命を失った方が良い」という信仰でした。「この世の命を、永遠の命を享受する為に使うのだ」という態度でした。
イエズス様も同じ事を言います、「もしも人々の前で『私の味方だ』と宣言する者は、私も御父の前で彼の事を『味方だ』と言おう。しかしもしも私を皆の前で否む者があったら、私も御父の前で彼を否もう」と言っています。
またイエズス様は、「もしも私の弟子になりたいのならば、自分の十字架をとって私について来い」と言います。そしてイエズス様も自分も苦しみを受けて、そして殉教して、しかし「殉教するけれども、復活するだろう」と予言されます。
「イエズス様が苦しむ」という事を聞いた時にペトロは言いました、「あぁ主よ、そんな事がありませんように!」でもイエズス様は、「サタン、退け!おまえの考えている事は聖父の考えではない。どこかへ行ってしまえ!」愛するペトロでさえも、「それは私の考えではない。サタンの考えだ!」イエズス様の望みは、私たちがこの地上のものを、私たちが受ける十字架を、私たちの苦しみを、イエズス様と共に担って、そして天国に行く事です。
そこで時には、壮大な、聖ファビアノや或いは聖セバスチアノような大殉教者のように、そのような大殉教さえをも天主は私たちに送る事があります。また、そうではなくても、天主の送られる試練によって、私たちは日々、実は殉教しなければなりません。日々踏み絵を踏むようにそそのかされる時があります。
例えば皆さんのもとにある男の子がやって来て、「あぁ、俺と一緒にどこか悪い所に行こう、罪を犯そう。そうしたらお前は私の事を愛している事になるから、そうすれば愛をほどこす事になる。キリストの教えは愛ではないか。だからキリストは人を愛する為にそして否まれてもいいんだ」と言ったら、それではキリスト教の全ての掟も、徳も、全く無くなってしまいます。
「私はキリスト教、カトリックだからできません。そのような罪は犯しません」と言うと、「キリストは十字架を担ぐ為に踏まれる為に生まれて来たんだから、否まれる為に生まれて来たんだから、罪を犯しなさい。キリストを否みなさい。だから俺と一緒に罪を犯そう。そうすればお前は俺を愛する事になって、隣人愛になる。」
それはカトリックの教えではありません、それはキリストのイエズス様の教えでは、本当のイエズス様の教えではありません。
考えてもみて下さい。日本の自衛隊が例えばイスラム国に行って、イスラム国に捕まってしまった日本人を「救出しよう」とした時に、「イスラム国で殺されかかっている。」自衛隊の人が助けようとするのですけれども、あいにくその作戦部隊のエリートが捕まってしまった。「日本の国からの忠誠をやめて、これからISになったら、お前たちの命も助かるし、この日本人の命も助けてやる。そうしないと首を切ってYouTubeに流すよ。お前たちもそうだ、日本人だろうが何だろうが、」その時に、もしも超自然な話しではなかったとしても、「いや、私たちは日本人として日本軍として来たんだ」と言ってそして忠誠をした時には、何と日本の人々はこの彼の忠実を忠誠を讃えるでしょうか。もしもそれを裏切ってしまったら、「赤穂浪士の子孫が、ルバング島の小野田少尉を生んだ国が一体何だ」という事になってしまいます。忠誠、忠実というのは、自然的な徳においても異教の日本人においてもとても重要な徳であるにもかかわらず、もしもそれが否まれてしまったとしたら、否む事がもしもそれがキリスト教の教えだとしたら、そのような教えを日本人は受けようと決してしない事でしょう。
イエズス様の教えに私たちは忠実でなければなりません。
話しが逸れてしまいましたが、では私たちはどのような踏み絵を踏むように言われているのでしょうか?
もちろん、男の子が毎日私たちの所にやって来て「罪を犯そう」と言うわけではありません。そうではなくて、毎日「あぁ、このインターネットのこれを、この悪い広告をクリックするか、しないか」とか、或いは「ここで今、朝起きる時間だけれども、起きるか、起きないか」或いは「ここで、他の人がいるけれども、十字架のしるしをしてご飯を食べるか、食べないか」或いは何か日常のほんの小さな、「ここで、イエズス様の弟子としてカトリック信者として、この善を行うか、行わないか」という事で、あたかも私たちは踏絵を踏むか、踏まないかの試練を毎日送られているかのようです。
例えそれを残念ながら、私たちが必ずしもイエズス様にいつも忠実だったとは限りませんでした。私たちは何とイエズス様に悲しい思いを過去させてきた事でしょうか。本当なら私はこうしなければならない事を、つまらない事の為に、イエズス様の代わりに世間体を取ったり、或いは他の自分の楽しみを取ったりしてしまいました。
殉教は更に、他人から受けた屈辱や、他人から受けた疑いのまなざしとか、或いは嫌がらせ、或いは悪口なども、讒言嘘の悪口も、寛大に許すように、それこそが私たちにとって殉教の毎日の生活となります。
上司から評価されなかった、上司が私に悪口を言った、陰で変な事を言っている、或いは悪意を持って嫌がらせをされた、などなど。私たちはどれほど他人を殉教の心で許さなければならないのでしょうか。
聖ファビアノと聖セバスチアノは私たちにその事も教えています、「日々、いつもイエズス様を取るように。イエズス様を選ぶように」と招いています。今日はこのミサを捧げて、2人の殉教者にお祈り致しましょう。願わくはこの2人の聖人の剛毅と、また治癒のお恵みによって私たちの弱さが癒やされて、いつもイエズス様を取り続ける事ができますように。
マリア様にもお祈り致しましょう。マリア様が私たちをいつも助けて、イエズス様を選ぶように、もしもイエズス様の聖心を悲しませてしまうような事があったとしたら、それに対して償いをする事ができるお恵みをできますようにとお祈り致しましょう。
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。