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Channel: Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた
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映画「サイレンス--沈黙--」に描かれなかった”真実” 

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アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

私たちは、まぐさおけに平和に眠る天主なる王(Rex pacificus)イエズス・キリスト、ナザレトで30年間を過ごす隠れた王(Rex absconditus)を、つい最近、黙想したばかりでした。

この世の創造主でありながら、人間となって童貞女聖マリアから幼子としてお生まれになったイエズス・キリストは、ご自分の模範によって、私たちにこの世の短い生活は、永遠のためにある、と教えてくれます。

聖アウグスティヌスが言ったように、私たちは、天主を享受する(frui)ために、この世の被造物を使用します(uti)。天主が目的であって、全ての被造物はそれへの手段です。
聖イグナチオもそのことをはっきりと『霊操』で教えてくれます。「人間は、天主を知り、奉仕し、愛し、それによって霊魂を救うために創造された。全ての被造物は、天主へと到達するための手段である。」

私たちは、天主を得て、天主の永遠の命を楽しむために、この世の被造物を使うのであって、この地上のことを愛し享受するために、天主を手段とするのではありません。この地上で楽園を建設し、人間の尊厳を尊ぶために、その手段として宗教があるのではありません。

映画「サイレンス --沈黙--」

そのようなイエズス・キリストから教えられた真理を黙想しているところに「サイレンス --沈黙--」という映画が、今年の1月12日にヨーロッパやアメリカで、そして日本(1月21日)でも公開上演さました。これは遠藤周作(1923-1996)の同名の小説(1966)をアメリカの監督マルティン・スコセッシが映画化したものです。この映画は日本で公開されましたが、私はそれを見る機会がありませんので高校生の時に読んだ小説をもとに内容をご紹介いたします。

この作品の設定は、17世紀の、反キリスト教のまっただ中の日本です。同じイエズス会の管区長であり、しかし背教したフェレイラを探して日本に潜入する二名のイエズス会司祭が主人公です。彼らは、殉教者になるつもりで死を決して日本に到着します。そのうちの一人セバスチアン・ロドリゴ神父は、キリスト教信者らが迫害から逃れるように奇跡を祈りますが、何も起こりません。天主があたかも不在であるかのように、「沈黙」を守ったままのように。殉教という極限の時代に、何故信仰を保たなければならないか?
【たまたま飛行機の中で読んだ朝日新聞の天声人語(2017年1月24日)によると、「信者や神父に対するむごい拷問の場面に思わず呼吸が乱れた」とあります。】

ついに、信徒の一人である弱いキチジローの密告によって、ロドリゴ神父は捉えられます。奉行所では棄教したフェレイラと会い、迫害下の日本人にとってキリスト教は意味があるのか、と問われます。

殉教を待ちつつ牢にいたロドリゴは、奇妙ないびきのような音を聞きつつ最初は何の音か理解できませんでした。しかし、フェレイラは、拷問を受けていた信徒らの苦しむうめき声であり、彼らは既に信仰を捨てると言っているが、ロドリゴが棄教しないならば彼らの命は救われない、と教えます。ロドリゴは、彼らの命を救うために、踏絵を踏むことに同意します。

翌日、ロドリゴは奉行所で踏絵を踏みます。踏絵に描かれていたキリストがロドリゴに次のようにと語るのを聞くように思います。「踏むがよい。お前のその足の痛みを、私がいちばんよく知っている。その痛みを分かつために私はこの世に生まれ、十字架を背負ったのだから」と。
背教したロドリゴの元に、裏切ったキチジローが赦して欲しいと近づきます。ロドリゴのキリストは、キチジローを通して次のように語るのをロドリゴは聞いたと感じます。
「私は沈黙していたのではない。お前たちと共に苦しんでいたのだ」と。
ロドリゴは、踏絵を踏み、初めてキリスト教の意味を理解したと思い、自分こそが、日本に残るキリシタン司祭であると自覚します。


「沈黙」の背景にあった史実。
【これについて大変詳しい研究がイエズス会司祭故チースリク神父様によってなされています。以下は、それに基づいてフェレイラ神父の生涯を垣間見てみます。詳しくは、 "The Case of Christovao Ferreira" written by Fr. Cieslik, S.J. をご覧下さい。】

1633年にクリストヴァン・フェレイラが背教したというニュースが伝わったとき、カトリック世界には激震が走りました。多くの祈りと犠牲とが捧げられました。いろいろな管区から多くのイエズス会司祭たちが、自分もこの背教の償いとして殉教する覚悟で、フェレイラを探しに日本に行くことを志願しました。

クリストヴァン・フェレイラは、1580年頃ポルトガルのリスボン大司教区にあるトレス・ヴェドラスという村に生まれました。彼の父はドミンゴス・フェレイラ、母親はマリア・ロウレンソでした。クリストヴァンは1596年イエズス会に入会します。2年の修練期を過ごした後に、1598年12月25日にコインブラで初誓願を立てます。

1600年4月4日、ペドロ・デ・アルメイダ神父の指導の下で20名のイエズス会士たちがリスボンを出航しますが、フェレイラはそのうちの一人でした。彼らの中には将来日本に行って殉教する福者ディオゴ・カルヴァリョ(Diogo Carvalho)も同行していました。彼らはインドのゴアに到着し、そこから1601年5月1日、中国と日本に行く者たちはマカオへと向かいました。
【福者ディオゴ・カルヴァリョは、1609年に日本に到着し、1624年2月22日にその他の41名と仙台・秋田で殉教した。1867年5月7日にピオ九世によって列福された日本205福者の一人。】

東アジア貿易のポルトガル植民地の最遠端にあった拠点であり、そこにイエズス会は、アレッサンドロ・ヴァリニャーノが創立した中国と日本とで宣教する者たちを訓練する神学校「天主の御母(Madre de Deus)コレジオ」がありました。フェレイラはマカオのここで勉学を続け、1608年司祭に叙階されます。

フェレイラは1609年5月16日に日本行きの船に乗り、同年6月29日に長崎に到着します。そこから九州島原半島にあった有馬の神学校に送られ日本語を学びます。彼は素早く言葉を学習し、記録によると既に1614年には日本語を良く理解し、日本語での説教もかなり良かったとあります。彼は、有馬の神学校で教授をしていたイエズス会司祭マテウス・デ・コウロス神父と親しくなります。

1612年、キリシタン大名であった有馬晴信が、有馬の領地から追放されると、有馬の神学校とそこにいた宣教師たちは同年の6月に有馬を離れて長崎に避難します。同じ頃フェレイラは長崎から京都に送られていますが、はやり1612年4月か5月頃に京都でも抑圧があり、イエズス会士らは上京区にあった修道院を去ります。

1613年のクリスマスは、教会は京都において御降誕の典礼を平和に執り行うことが出来、当時3万から4万名の信徒たちが信仰生活を送っていました。しかし、クリスマスの直後、突然キリスト教だけに対する「教勢調査」の命令が出され、教会は将来の危険を感じ取ると同時に40時間連続御聖体礼拝、祈りと断食、その他の苦行に励みました。

翌年2月12日、京都の奉行は神父、修道士、カテキスタなどに対して長崎に移動しそこで指示を待つようにとの命令を受けます。しかし中には、選ばれて密かに京都に残った司祭らもありました。バルタザール・トレス神父は大阪に、ベント・フェルナンデス神父とクリストヴァン・フェレイラ神父とは京都にとどまるように選ばれました。

【福者バルタザール・トレス神父 (1563-1626) は、スペイン人のイエズス会司祭、1626年6月20日に長崎で、イエズス会管区長フランシスコ・パチェコ神父ら12名と共に殉教した。ピオ九世によって列福された205殉教者の一人。】

この命令によって、京都にあった一つの教会と二つの墓地の小聖堂が取り壊されます。4月3日には、京都と大阪にいたキリスト教徒の大名の家族らは70名ほど津軽に追放され、京都にいた修道女たちは長崎に送られ、その後そこから宣教師たちと共に国外追放になります。

1617年10月、マテウス・デ・コウロス神父は管区長として任命されると、新管区長はフェレイラ神父を秘書として選び、彼を長崎に呼び返します。デ・コロウス神父は病気で時として体を全く動かせなかったので管区長の仕事の多くはフェレイラに委ねられました。1618年12月、会計を担当していた福者スピノラ神父が逮捕され、フェレイラは会計の役も担わされました。

1621年、宣教師たちはポルトガルの大使から将軍がキリスト教を迫害する理由を知らされます。フェレイラはローマへの報告書に次のようなことを書いています。将軍は、カトリック宣教師たちが福音を宣教することによって権力を奪い取ろうとしていると想像し、カトリックに対立しているプロテスタントのオランダがその通りだと主張し、元イエズス会修道士で修道生活を捨てた日本人ファビアンがキリスト教に反対する本を書いて同じことを言っている、と。

同じ1621年、ローマからフランシスコ・パチェコを管区長に任命する手紙が届きます。フェレイラは、パチェコ神父のやっていたミッションを引き継ぎ関西方面に行きます。しかし1625年2月18日パチェコ神父は逮捕され、1626年6月20日に8名の別のイエズス会士らと長崎でバルタザール・トレス神父らと共に火やぶりにされました。デ・コウロス神父が再び管区長の責務を取り、フェレイラを秘書として長崎に呼びます。デ・コウロス神父が1632年に死ぬまでフェレイラは秘書を務めます。

【福者フランシスコ・パチェコ神父 (1565-1626) は、ポルトガル人のイエズス会宣教師、205福者殉教者の一人。】

管区長の秘書として1627年から1632年まで、フェレイラは多くのキリスト者の殉教の記録を残しています。高来(たかく)地方の人々の殉教、雲仙地獄での燃えたぎる硫黄責め、などなどです。

フェレイラの残してくれた記録により、私たちに次の事実が伝わっています。
1627年、島原半島で宣教師たちを家にかくまっていたキリシタンのリーダー的存在であったパウロ内堀は、息子たちの殉教を別の舟の上から立ち合い、両手の指三本ずつを切り落とされ、額に「切支丹」と焼き印をおされました。キリシタンたちは、女も子供も着物をはぎ取られ、一人ずつ雲仙地獄の硫黄の煮えたぎる湯つぼに投げ込まれ沈んでいきました。最後に残ったパウロ内堀は、二度投げ込まれては引き上げられ、引き上げられるたびに全身焼けただれながら「いと聖き御聖体は讃美せられ給え」と唱えて、三度目に投げ込まれて殉教しました。

二か月半後の5月17日にはヨアキム峰を中心に三人の子供と二人の婦人を含む十人の島原のキリシタンが雲仙地獄に送られました。ヨアキム峰が詠んだ「今までパライソは遠いところにあると思っていたが、今、これほど近くにそれを見て私の心は喜び躍る」と辞世の句も、フェレイラによってポルトガル語で伝わりました。役人たちは、苦痛を長びかせるために座らせるか、寝かせるかして体に熱湯をかけ痙攣けいれんすると水をかけ、口には祈らせないように縄でさるぐつわをしました。侍のジョアン松竹は、体が刀で傷つけられる度に、「主イエズスよ、わたしを見捨てないでください」と祈っていました。
この拷問の他にも、水攻め、日干し、などがあり、殉教者は硫黄の熱湯を何度もかけられ何回も気を失ってもそのたびに蘇生させられ、同じ責め苦を続けるのです。例えば、1631年12月 アントニオ石田神父はバルトロメオ・グチェレス神父、フランシスコ・デ・イエズス神父、ヴィンセンシオ・カルワリオ神父、ガブリエル修道士、ベアトリスという貴婦人とその娘マリアとともに雲仙地獄に送られました。「信仰を捨てたら許してやる」と言いながらの拷問は33日間に及び、小さな穴をあけた柄杓に熱湯を入れ、少しずつ体中至るところに垂らす雲仙地獄責めに良家育ちのマリアは一度で気を失いますが、アントニオ石田神父は6回もこれを続けて受けました。剣でつきさすような痛さをしのび、体中傷だらけになった。それでも信仰を捨てない寒さ厳しい小屋に入れて一杯の飯と一尾のイワシを日に一度だけ与えて延命させています。その中の一人カルワリオ神父は半死半生で小屋に転がっていると役人が踏絵を持ってきて踏めと脅します。熱湯攻めのためにはれあがり、血まみれになった足を指しながら神父は言います。「それを踏むくらいなら、この足を切って捨てましょう!」と。七人のうち一人も棄教することなく、その後西坂に送られ、アントニオ石田神父と他4人の殉教者は、1632年9月3日、長崎で火刑により殉教しました。

【福者アントニオ石田神父を含む205名の殉教者は、 1867年7月7日にローマで列福され、205福者に列せられている。】

非道で非人間的な虐待を受けたにもかかわらず屈せずに信仰を守り通したこの殉教の報告をローマに送った後、これが最後の報告となり、一年後、フェレイラ自身が今度は悲劇的な行為をしてしまうとは、一体誰が考えたことでしょうか!

1632年、デ・コウロス神父の死後に神父の後継者の任命状が無かったために、セバスチアン・ヴィエイラが日本におけるイエズス会の最年長者だったので、自動的に管区長の代役を務めます。これも1633年にヴィエイラ神父が捕まると、管区長の任命までフェレイラが最年長者として自動的に代役を務めることになります。

ちょうどその時、長崎では1633年3月から1634年8月まで、長崎で二奉行制が始まり、将軍家光の指示で徹底した弾圧を加えられ、最も残酷なキリスト教迫害の時期を迎えていました。組織的な司祭や信者の捜索・発見、「穴吊るし」という新しい拷問の発明がなされました。

穴つるしというのは、穴を掘ってその上に人を足から逆さに吊すための枠を作り、頭に血がすぐに上ってしまわないように体を縄できつく縛り付けます。手は後ろに縛られ、頭を下に穴の中に吊されます。へそや膝ぐらいまで下に下ろされ、ふたが閉められます。光は穴の中に入らないので真っ暗になり、食べ物も飲み物も与えられず、どうなるのか不安のまま生と死との間をさまようことになります。血は少しずつ頭に上り、意識はもうろうとし、疲労と空腹とで体力は限界にまで落とされます。孤独と不安と痛みとでもしも生き延びた場合信仰を捨ててしまうように計画された拷問の装置でした。この拷問はキリスト教信者にのみ続けて使われ、普通の犯罪人には使われませんでした。

心理学的な観点から見ると、この拷問は明晰な思考や自由な意志決定を非常に短い期間のうちに不可能にさせてしまいます。キリシタンたちに最大の心理学的な影響を与えて転ばせるのが目的でした。特に背教した司祭ら、いわゆる転びバテレンを使って、キリスト教攻撃宣伝の材料としました。肉体的な苦痛のみならず、特に女性に対しては心理的・精神的な圧力を加えられました。彼女たちを辱め、大切にしていた貞操を損なわせ、自尊心を打ち砕き、自暴自棄にさせ、精神的に打ちのめそうとしました。同じ理由で背教司祭には、死刑犯罪人の寡婦と同棲するように強制されました。

穴吊るしで殉教していった司祭や修道者らの名前は、長い目を見張るようなリストを作ることが出来ます。

穴吊るしの最初の犠牲者は、イエズス会士で日本人の修道士ニコラオ・ケイアン福永でした。彼は三日間の拷問を堪え忍んだ後、1633年7月31日イエズス会創立者であるロヨラの聖イグナチオの祝日に殉教しました。最後に聞こえたのは、聖母の連祷を唱える彼の声でした。

同じ年の8月13日から16日には、マヌエル・ボルゲス、イエズス会修道士二人、三名のカテキスタが同じく穴吊るしで殉教しています。
8月15日は、日本人フランシスコ会士が殉教、数日後にアウグスティノ会士フランシスコ・デ・ガルシア、ドミニコ会ディエゴ・デ・サンタ・マリア朝永とその伴侶4名が同様に殉教。
8月28日ー29日には、島原でも同じくイエズス会士アントニオ・ジアンネとジョアン木寺が殉教。その直後、ドミニコ会司祭ドミンゴ・デ・エルキシアとフランシスコがその他の八名と共に長崎で吊されました。

【聖ディエゴ・デ・サンタマリア(Jacobo Kyushei Gorobioye Tomonaga de Santa María)や聖ドミンゴ・デ・エルキシア(Domingo Ibáñez de Erquicia)、聖フランシスコ庄右衛門ら16名の殉教者たちは、1981年2月18日に列福され、1987年10月18日に列聖されました。】

同年の9月或いは10月にイエズス会のジョアン山は江戸で殉教し、9月29日から10月2日ベント・フェルナンデス神父とパウロ齊藤は長崎の穴吊るしで命を捧げました。
10月4日から10日、更に長崎でイエズス会のジョアン・ダ・コスタ、シクスト・トクウン、ダミアン深江らが、フランシスコ会ジョアン宮崎とその伴侶4名が殉教しています。


1633年10月18日、ドミニコ会員のルカス・アロソノ神父とイルマン・マテオ、イエズス会のアタミ、ソウサ、フェレイラ神父、イルマンのペドロとマテオ、そして中浦神父は、手を縛られ、西坂の刑場へと向かいます。36年前に二十六聖人が殉教した同じ長崎の西坂の丘です。これら8人は穴吊しの拷問を受けます。しかし、5時間の逆さの穴吊りの拷問を受け、イエズス会の管区長であったクリストヴァン・フェレイラ(Christovão Ferreira)は、棄教の合図を出しました。彼は当時53歳、イエズス会士として37年を過ごしていました。

その他7名のイエズス会とドミニコ会士たちは皆殉教します。彼らは、イエズス会管区長が背教したという知らせを受けても信仰を放棄しませんでした。そのうちの一人ドミニコ会聖ルカス・アロンソ神父は、列聖されています。

ジュリアン中浦は、天正遣欧少年使節として1582年に14歳の時に長崎を出航し、ローマ教皇「グレゴリオ十三世に謁見しました。22歳となったジュリアンは1590年にローマから帰国していました。1632年、小倉で捕らえられて、長崎の「クルス町牢屋」に送られます。奉行所に呼ばれて厳しい取り調べを受け、棄教と引き換えに領地を供与する条件が出されても、拷問にかけるという脅しを受けてもジュリアンは同意しませんでした。すでに64歳、イエズス会士として42年間、迫害下で潜伏司祭として19年間力を尽くして忠実に働いていたジュリアン神父が穴吊りで縛り付けられているとき、ポルトガル人の一人が彼の最後の言葉を聞いています。「この大きな苦しみを天主への愛のために」と。四日間の極限の苦痛に耐え抜き10月21日に息を引き取ります。遺体は焼かれ、灰は長崎の港の海に撒かれました。2008年11月24日、188名の殉教者たちの一人として列福されました。

【聖ルカ・スピリト・サント・アロンソ:司祭。スペイン・サモーラ県出身。1623年来日。1633年10月19日39歳で殉教。】

 フェレイラが転んだという不幸な知らせがマカオに到着します。視察師であったパルメイロやその他のイエズス会士たちは、背教した兄弟の改心のために特別の祈りと犠牲と償いを捧げます。特にパルメイロ神父は、フェレイラの転びの知らせを受けた後に倍増させた断食やむち打ちなどの苦行と心痛によって、1635年4月14日に亡くなりました。マカオにいたほとんどのイエズス会士たちは、フェレイラのために命を捨てる覚悟で日本に行き、彼を探し出して改心を訴え、自分も一緒に殉教しようと志願しました。1636年11月2日、フェレイラはイエズス会から除名処分を受けています。

(続く)


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