アヴェ・マリア・インマクラータ!
愛する兄弟姉妹の皆様、
2017年1月22日(主)、東京でのフルーガー神父様の「霊的講話」をご紹介いたします。
天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)
2017年1月22日(主日)フルーガー神父様霊的講話
同時通訳:小野田圭志神父
今日ここで皆さんと一緒にいて、この皆さんの所を訪問する事ができて大変嬉しく思います。私の記憶が正しければ、6年前にここに来て、その時から小野田神父は東京に修道院ができる夢をまだ持ち続けて、というのを覚えています。
今日のこの午後のお話ではいくつかの点を考察したいと思います。
1つは、私たちはこの時代にどうやって信仰生活を送っていかなければならないのか、私たちのキリスト教生活のこんにちの義務は何か、という事です。
先週本部のメンツィンゲンで、総長様と補佐が集まって重要な会議がありました。いつも毎月1回、2・3日かかって今この聖ピオ十世会で起こっている事を話し合うのですけれども、この前先週はアメリカの管区長のヴェネラー神父様がいらして色々な話を一緒にしました。アメリカでは世界で一番聖ピオ十世会の活動が発展している所で、何百名もの信徒が集まるチャペルがたくさんあったり、学校があったり、若い司祭がたくさん生まれていたりしていて、とても大きな管区です。それに引き換えアフリカやアジアでは状況はちょっと同じではありませんが、しかし同じ共通の問題があります。それは、私たちはこの今異教的な、そして特に不道徳的な社会において、どのように信仰生活を送らなければならないかという事です。
最も大切なポイントはこれです、「天主様が私たちのボスであって、その天主の御摂理がある」という事です。「どのような事も、どのような出来事も、天主の御摂理によって導かれていますし、すでに予言されている事である」という事です。「私たちは最高の聖父を持っている」という事です。
幼きイエズスの聖テレジアの霊性をうまく説明した神学者に、リアグル神父様がいますけれども、それによれば、「天主こそが私の聖父であって、どのような事もその聖父の知らない事はない。そして知っていて、それが起こる。そして全て、聖父は私の最高の善を知っていながら、それが起こるのを許している。天主の御旨こそが最善であって、たまたま起こる事がない。この事を確信する事だ」と。これが一番の点だと思います。
ともすると、今の現在起こっているスキャンダルとか、教皇様がこう言った、ああ言ったとか、アモリス・レティティアはこうだとか、終わりのないこのスキャンダルの連続を聞いてニュースで聞いて、それを見て、私たちはともすると憂鬱になってしまったり、落胆してしまったり、がっかりしてしまったり、「これからどうなってしまうのだろうか」と暗くなってしまのですけれども、私たちは、「地獄の門も教会に打ち勝つ事がない」というイエズス様の天主の約束を信じなければなりません。
何故かというと、その今見かけでは反対であるかのように思われても、最後に勝利を持つ方はイエズス・キリストだからです。ですから天主様の御摂理に信頼致しましょう。天主様がやはりボスであって、最後の勝利者であって、たとえその外的な出来事がどのようなものであったとしても、イエズス・キリストだけが私たちの唯一の救い主である、最終の勝利者だ、という私たちの信仰を確固たるものに致しましょう。
今教会はかつてない特別の危機の時代を迎えています。しかしこれは天主様の御摂理の許可を許しを得て今起こっている事です。天主、全能の天主がそれを起こる事を許されたのは、「この事から、それより更に大きな偉大な善を引き起こす為」です。ですからこの危機というのは実はチャンスであって、私たちにとってより大きな善を引き出す為のチャンスであって、機会であって、私たちの信仰の試練の時なのです。
ですから私たちは超自然の希望を持たなければなりません。今のこの危機の時代を、暗い、落胆した見方で見るよりは、超自然の良い機会として、善を出す機会として、その光で見て下さい。ちょうど聖パウロが、「希望のないところに希望して、“Spes contra spem”」と言ったように、信仰と、希望と、愛をますます強める良い機会です。
残念な事に、あるイギリスの司教様は「もう何も希望はない。もう何もする事はない。ただこの世の中が壊れてしまって、罰を受けてそのまま無くなってしまうのを待つだけだ」と言いましたが、それは良い態度ではありません。そうではなくて、明らかに希望がないように見えるところでも更に希望して、特に教会のカトリックの教会の有する「天主から作られた」というその天主の持つ性質に対する希望がなければなりません。天主御自身が作った教会ですから、天主がイエズス・キリスト御自身が教会を指導しています、導いています。
これはフランシスコ教皇様の教会でも、私の教会ではなくキリストの教会です。どのような混乱や難しい状況にあっても、火によって黄金が純金となるように試されるように、今教会が浄められる為にこのような試練があるのですから、超自然の見方をなさって下さい。
私たちの主の例をとってみましょう。私たちの主がどのように生活なさったのか、どのような生き方をされたのかをよく研究しましょう。その為には毎日ロザリオを唱えるのが良いです。これはマリア様が色々な御出現で、ロザリオを唱える事を言った通りです。何故かというと、ロザリオを唱える事によって私たちは、主のどのような生き方をしたのか、ということを黙想する考察するからです。どうやってイエズス様は生活されたのか、どのような生き方をされたのか。
ところで私たちは普通の事として、「天主様が赤ちゃんになって、十字架の上で亡くなった」と信じていますけれども、実はこれはユダヤ人にとっては難しい事でした。使徒たちでさえもこれを信じる事は不可能な事でした。何故かというとユダヤ人たちは、普通に王様が来る事を、秩序を回復して下さる、奇跡を行なって下さるような方を待っていたのです、力強い誰かを待っていました。ですから最初、「イエズス様が奇跡を行なって病人を癒やした、それからどれどれの奇跡をした」と言ったら、それは簡単に信じる事ができました。弟子たちはすぐにこのような方を王様として祭り上げよう、王冠を捧げよう、王としようして行動しようとしましたが、でもそれはイエズス様の御旨ではありませんでした。
そうしてイエズス様の死が来ます、十字架の上での死が来ます。あまりにもその差が激しかったので、期待と現実の差が激しかったので、トマスは、使徒であったトマスは信じる事ができませんでした、信じる事を拒否しました。しかもイエズス様が何度も現れて、「確かにそうだ」という事をした後にでも、御昇天の時にはある弟子たちは、「あぁ主よ、あなたが御国を作るのは今ですか?この地上で楽園を作るのは今ですか?」と、「この地上を楽しくするのは今ですか?」と聞きました。するとイエズス様は答えて、「そうではない。その時は聖父のみが知っている。お前たちの知るところではない。お前たちの事ではない」と言いました。
イエズス様の御降誕、クリスマスから御復活、そして聖霊降臨まで、イエズス様が本当に何を私たちの為になさろうとしたのかを感じ取って、嗅いで匂いを嗅いで、そして見て下さい。それは全く新しい事であって、今まで見た事も想像した事もなかったような事を、イエズス様は当時教えて下さり、それを実践されたのです。これは私たちにとって最高の教えを与えています。
では1世紀の初代のキリスト教信者を見てみましょう。その初代は非常に信仰が急速にひろまっていましたけれども、それと同時に迫害も始まりました。たとえばローマ帝国の皇帝デチウスやディオクレティアヌスは非常に厳しい迫害をして、多くのキリスト教徒を殉教させていきました。しかしその当時多くの人々は、まさかこの皇帝の大迫害の20年後には教会が全く自由になると誰が想像した事でしょうか。
デチウスやディオクレティアヌスがいた時には、キリスト教徒は生き残る事で精いっぱいでした。兵士も皇帝の前に出る事が難しかったし、「キリスト教だ」という事を宣言する事も難しかったし、しかもその周囲は社会は異教の社会であって、不道徳があって、犯罪が平気で行われていました。その中でカトリック信者は信仰を守り続ける為に、生き残る為に努力をしていました。ところでその迫害が終わり、ミラノの勅令が出て教会が自由になった、もうキリスト教を信じても構わないとなったとしても、更に世界が良くなったというよりは、その自由になったと同時に、多くの何千もの信徒の方は砂漠に行って、より良い主との一致の為に隠遁生活さえも始めました。つまりどの時代でも苦しみがあったという事です。
例えば永井博士の生涯についての伝記を私は今読んでいます。本当に素晴らしい先祖を皆さんはお持ちだと思います。16世紀に伝えられたカトリックの信仰は、「外国の勢力からの手先だ」と誤解されて迫害されて、250年間司祭を持ちませんでした。しかし19世紀になると、長崎においてパリの宣教師によってカトリック信者がいた、という事が発見されます。しかしその発見の後にも大きな迫害があり、どの時代も難しい状況を生きのびなければなりませんでした。決して簡単なものではありませんでした。
もちろんカトリック国家があって、そして理想的な国があって、そして何の難しい事がない社会ができれば、それは多くの人にとってより簡単に救霊を全うする事ができますけれども、しかしそれを私たちが今この場でそのようなものを持つ事ができません。そこで私たちにとっては信仰を、イエズス・キリストを信じるという事こそが本質的なものとなります。特に迫害されていたり、或いはこのようにカトリックの信徒の数が少ないところでは、どれほど私たちの信仰が誠実で、純粋で、愛が純粋であるかというところにかかっています。
願わくは天主が皆さんをあなたたちを慰めますように。あなたたちを悲しませているのは、他の人々が教会を暴力を以て占拠してしまって、そしてこの同時にあなたたちは教会の外に追い出されてしまっている事です。しかし彼らは建物は持っていますけれども、あなたたちは使徒からの信仰を持っています。彼らは私たちの教会を占拠していますけれども、しかし彼らこそ真理の信仰からの外にあります。あなたたちは礼拝の場所の外にはいますけれども、しかし信仰はあなたたちの中に留まっています。
ですからこの事を考えましょう。一体何が最も大切なのでしょうか?場所でしょうか?信仰なのでしょうか?
真の信仰です。もちろん。
この戦いにおいて、誰が負けて、誰が勝ったのでしょうか?一体誰が、場所を守った人が勝ったのでしょうか?それとも信仰を守った人が勝ったのでしょうか?
確かに、もしも使徒からの信仰があるのであれば、その場所は良いものとなります。そして全てが聖なるやり方においてある時に、その場所も聖なるものとなります。あなたたちこそが幸せな者です。何故ならばあなたたちこそが、あなたたちの信仰によって教会の中に留まっているからです。あなたたちは信仰の基礎を強く保持しているからです。この信仰の基礎こそが使徒たちの聖伝によってあなたたちの方を見て伝えられました。
もしもものすごい嫉妬によってそれを誰かが揺るがせにしようとするならば、色々な方法でそうするならば、それは成功しないでしょう。彼らこそが現在の危機においてその信仰から離れ去って行ってしまった者です。あなたたちの信仰に反対して誰も勝つ事ができません。
愛する兄弟たちよ、私たちは天主があなたたちにいつか私たちの教会を戻してくれると信じています。
この今、聖アタナシウスの状況は今の私たちと全く同じ状況だと言う事ができます。ですから皆さん心配しないで下さい。教皇様が何を仰った、何をなさった、という事で私たちの生活を麻痺させないで下さい。私たちがスキャンダル、或いは色んな事を聞いたとしても、それでそれを、それにあまり心を砕かないで下さい。中には教皇様がこんな事を言った、こうだ、こうだ、こうだ、という事を何度も何度も何度も何度も言う人がいますけれども、それは聖アタナシウスが言った事ではありません。聖アタナシウスは、「あなたたちの幸せは、あなたたちの信仰だ」と言いました。「信仰を守れ」と言いました。
ここで、聖アタナシウスの教えと、セデヴァカンティズム教皇座空位主義者やレジスタンスとは態度が違っています。そのような人たちは、「あぁ、こんな教皇様はあまりにも悪いからもう教皇様ではない」とか、「教会には2つがあって、本当の教会と近代主義の教会だ」とか言っていますけれども、でも本当のカトリックは、教皇様が何を言った、ああだ、こうだという事にあまりそれに心を砕いて、日常生活を破壊するほどのような態度をとりません。そのような事をやったのは16世紀のプロテスタントでした。
何故かというと、教会の頭はイエズス・キリストだからです。教会の霊魂は聖霊だからです。教会の母と教会の心臓はマリア様です。
教皇様というのは単なるキリストの目に見える代理者にすぎません。聖ペトロは3回も主を否みました。しかも「あぁ、主よ私はあなたの為に命を捧げます」と言ったその直後に。
教会の歴史は最大2年から3年間の間、教皇様の無い時代が何回かありました。例えば 4世紀には2回、2年間教皇様が無い時代がありました、例えば304年から306年の間、或いは309年から311年の間は、大きな迫害があったので教皇様を選出する事ができずに、教皇様はその間選ばれる事ができませんでした。教会は教皇様を必要としていたにもかかわらず、持つ事ができませんでした。
それにもかかわらず、聖アントニオとか聖アタナシウスという偉大な聖人たちを生み出しました。教皇様がいないから聖人が出ないというわけではないのです。13世紀にも同じ状況がありました。1268年から71年まで、また1292年から94年まで教皇様が選出されませんでした。この教皇様がいなかった時代に偉大な聖人たちが出ました。大聖アルベルト、ルイ9世、聖トマス・アクィナス、聖レイモンド・ペニャフォート等々偉大な聖人たちが出て、彼らは教皇様がすぐに選出されなかったという事について特別に不平を持った事はありませんでした。
過去の聖人たちはもちろん問題がありました、教皇様は誰が選ばれるか、その教皇が選ばれる為には過去の候補者の言ったこの言葉は何だ、どうのこうのという研究をしなければなりませんが、聖人たちにはそんな事を調べる時間はありませんでした。それと同じです、「フェレー司教様は、ローマに行くか、あぁ行かないか、」「あぁフェレー司教様が、あぁあの、どこの枢機卿様と会うか、会わないか」これは私たちの義務ではありません。
聖人たちは、自分に与えられた日々の仕事、義務を果たして、そして祈りをして聖人になりました。信仰を守り、罪人を回心し、天主様との親しい一致の生活をし、黙想生活をし、そして天主の御摂理に委ねていました。
天主が勝利するのはもちろん分かっています。しかしどうやって、一体いつ、それは私たちの知るところではありませんし、それを知る、或いはその責任は持っていません。何故かというと、教会が勝利するというのは私たちはそれは知っていますけれども、天主様のイエズス様の教会であって、イエズス様が御存知で、イエズス様がなさる事だからです。私たちはそれを知らないから、「だからじゃあもうこの戦いをやめよう、信仰を守るのはやめよう」とか、「将来が心配でたまらない」等という理由にはなりません。
私たちは、私たちがやらなければならない事をやる。それが最高の奉仕であって、それが成聖の元です。
カナでの婚宴を見て下さい。マリア様の介入によって、イエズス様は奇蹟を行いました。マリア様は、「彼が、この方が仰る事は何でもやりなさい」と言われて、召し使いたちはその通りにやって、水がワインになりました。
ちょうどイエズス様が子供の頃、エルサレムの神殿でイエズス様が迷子になった事があります。3日間マリア様とヨゼフ様はお探しになって、エルサレムで見つけると、「あぁ我が子よ、一体あなたは何でこんな事をしたのですか。お父さんも私もこんなに心配して探していたのですよ。」「女よ、私が聖父の仕事をしなければならないという事を知らなかったのですか。」
「聖父の仕事をする。」これこそが私たちへのメッセージです。
つまり最初はカナの婚宴でマリア様が、「あぁ、あの人たちにワインがありません」とイエズス様に言うと、「え?女よ、それがあなたと私に一体何の関わりがあるのか。私の時はまだ来ていない」と一見拒否したかのように思われます。「私たちの主はそんな事はしないよ」と言ったかのようです。何故拒否したのでしょうか?もしかしたら、もしもその奇跡を起こしたとしたら、それを見ていた人たちが感嘆して、「あぁ素晴らしい、これこそがメシアだ、これこそが王だ」と讃美と称讃を勝ち取っていたかもしれません。その外的な讃美とセンセーションを与えたかもしれませんけれども、それは天主の御旨でもイエズス様の御計画でもなかった、それはイエズス様の仕事ではなかったのでそれを拒否したのかもしれません。
しかしマリア様が、「あの方が仰る事は全てしなさい」と言うと、イエズス様は、「ではお前の仕事は、この石がめに水を汲む事だから、お前これに水を汲みなさい。」「え?水を汲む?」そこで、「はい、分かりました」と言って、自分の仕事である石がめに水をいっぱいまで汲んだのです。そして自分の仕事を果たすと、その水が最高のぶどう酒になりました。
これが私たちのしなければならない事です。私たちがしなければならない日常の義務を果たす事によって、最高の効果が出ます。水がワインになりますし、教会の危機も特別の仕方によって何かの力になります。
私たちは教会の信仰の、その完璧さと美しさを誇りに思わなければなりません。信仰というのはただリュックサックのようにバックパックのようにただこう背負っているだけではなくて、信仰というのは私たちの心と体に染み通っていなければなりません。血と肉になっていなければなりません。そして天主様がこの世を見る見方と同じ様な見方でこの世を見なければなりません。
御聖体、イエズス様が真に在し給う、パンのように見える御聖体。天主三位一体、聖父と聖子と聖霊が私たちに宿られておられる。天主の成聖の命に、愛に、私たちが参与している。考えてもみて下さい、この現実が一体どういう事か、実際私たちに今身に起っている、という事をよく黙想して下さい。イエズス様は言いました、「天主の御国はお前たち中にある」と。
この信仰に誇りを持って下さい。この信仰の証しとなって下さい。この異教徒の真っ只中に一人で生活して信仰を守る皆さんは、あたかも殉教者のようです。証し人となって下さい。私たちは信じなければなりません。ただ復活祭の時に、「はい、私は悪魔とサタンとその業を捨てます、その栄華を捨てます」と口先だけ言うのではなくて、それを本当に生きなければなりません。それがこそ毎日の日常の糧となって、その通りにしなければなりません。
「教皇様がああ言った、司教様がこんな事をした、」と言ったとしても、私たちには本当のカトリック信仰を知っています。この知っている信仰を生きて下さい。その通りに実践して下さい。その信仰の美しさ、典礼の美しさをよく黙想して下さい。ミサ典書を手に取って、毎日一人で天主様と共に10分間それを黙想して下さい。ミサの祈りを祈って下さい。霊的聖体拝領をして下さい。あたかも本当に御聖体を拝領したかのように、イエズス様と一致して下さい。霊的に一致して、その現存に生きて下さい。キリスト教の信仰を生きて下さい。キリスト教信者として生きて下さい。
この他の未信者や信じない人々との生活と、皆さんの生活は違っていなければなりません。確かにこの同じ世界の中で同じ買い物をして、同じデパートに行っているかもしれませんけれども、皆さんは「イエズス・キリストを信じている」というところで違いがあります。教会の典礼の信仰の美しさに誇りを持って下さい。教会の聖性、聖である事、また隠れた霊魂たちの力強さ、いけにえの霊魂たちのその美しさに誇りを持って下さい。
カトリックのお母さん方お父さん方、そしてカトリックの家族子供たち、彼らがキリスト教信者として生きている、この時代に過ごして生きているという事は何と美しい事でしょうか。皆さん誇りを持って下さい。この時代に信仰を保つという事は本当に美しい事です。誰もこの私たちをして、この美しい宝、典礼、いけにえの霊魂、私たちの間に生きているこれらのものから離れさす事ができるものはありません。
天主は真理であって、最も大切で最も重要なものであって、私たちはこれをこれに忠実を守らなければなりません。その他の事はどうでも良いのです、その他の事は天主の御摂理に任せて下さい。私たちがもしもこのように天主の真理に生きるならば、そしてその他の事は天主の御摂理に委ねるならば、私たちの生活が変わった事に気付きます。そして私たちには深い平和がやって来ます。一番大切なのは、「天主の観点によってものを見る」という事です。その時に私たちは、最も偉大な成功を収めます。
私たちにとって大切なのは、場所とか、この世でどんな成功を収めたというのではなくて、カトリックとして生き、カトリックとして死ぬという事です。そしてこのカトリックとして生き、死ぬ事によって初めて私たちは成長し、霊魂たちを救う事が勝ち取る事ができる最高の手段となる事ができます。ピオ12世教皇様は、「私たちの祈りといけにえによって、多くの霊魂を救う事ができる」と教えています。
どうもご清聴をありがとうございました。私の印象では、私がちょっと話すと、小野田神父がお説教をしたと(笑)。
どうもご清聴をありがとうございます。皆さんのご家族と赤ちゃんを天主様が祝福して下さいますように。皆さんの熱心とこの忠実なこの態度を見るのは本当に美しい事です。
愛する兄弟姉妹の皆様、
2017年1月22日(主)、東京でのフルーガー神父様の「霊的講話」をご紹介いたします。
天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)
2017年1月22日(主日)フルーガー神父様霊的講話
同時通訳:小野田圭志神父
今日ここで皆さんと一緒にいて、この皆さんの所を訪問する事ができて大変嬉しく思います。私の記憶が正しければ、6年前にここに来て、その時から小野田神父は東京に修道院ができる夢をまだ持ち続けて、というのを覚えています。
今日のこの午後のお話ではいくつかの点を考察したいと思います。
1つは、私たちはこの時代にどうやって信仰生活を送っていかなければならないのか、私たちのキリスト教生活のこんにちの義務は何か、という事です。
先週本部のメンツィンゲンで、総長様と補佐が集まって重要な会議がありました。いつも毎月1回、2・3日かかって今この聖ピオ十世会で起こっている事を話し合うのですけれども、この前先週はアメリカの管区長のヴェネラー神父様がいらして色々な話を一緒にしました。アメリカでは世界で一番聖ピオ十世会の活動が発展している所で、何百名もの信徒が集まるチャペルがたくさんあったり、学校があったり、若い司祭がたくさん生まれていたりしていて、とても大きな管区です。それに引き換えアフリカやアジアでは状況はちょっと同じではありませんが、しかし同じ共通の問題があります。それは、私たちはこの今異教的な、そして特に不道徳的な社会において、どのように信仰生活を送らなければならないかという事です。
最も大切なポイントはこれです、「天主様が私たちのボスであって、その天主の御摂理がある」という事です。「どのような事も、どのような出来事も、天主の御摂理によって導かれていますし、すでに予言されている事である」という事です。「私たちは最高の聖父を持っている」という事です。
幼きイエズスの聖テレジアの霊性をうまく説明した神学者に、リアグル神父様がいますけれども、それによれば、「天主こそが私の聖父であって、どのような事もその聖父の知らない事はない。そして知っていて、それが起こる。そして全て、聖父は私の最高の善を知っていながら、それが起こるのを許している。天主の御旨こそが最善であって、たまたま起こる事がない。この事を確信する事だ」と。これが一番の点だと思います。
ともすると、今の現在起こっているスキャンダルとか、教皇様がこう言った、ああ言ったとか、アモリス・レティティアはこうだとか、終わりのないこのスキャンダルの連続を聞いてニュースで聞いて、それを見て、私たちはともすると憂鬱になってしまったり、落胆してしまったり、がっかりしてしまったり、「これからどうなってしまうのだろうか」と暗くなってしまのですけれども、私たちは、「地獄の門も教会に打ち勝つ事がない」というイエズス様の天主の約束を信じなければなりません。
何故かというと、その今見かけでは反対であるかのように思われても、最後に勝利を持つ方はイエズス・キリストだからです。ですから天主様の御摂理に信頼致しましょう。天主様がやはりボスであって、最後の勝利者であって、たとえその外的な出来事がどのようなものであったとしても、イエズス・キリストだけが私たちの唯一の救い主である、最終の勝利者だ、という私たちの信仰を確固たるものに致しましょう。
今教会はかつてない特別の危機の時代を迎えています。しかしこれは天主様の御摂理の許可を許しを得て今起こっている事です。天主、全能の天主がそれを起こる事を許されたのは、「この事から、それより更に大きな偉大な善を引き起こす為」です。ですからこの危機というのは実はチャンスであって、私たちにとってより大きな善を引き出す為のチャンスであって、機会であって、私たちの信仰の試練の時なのです。
ですから私たちは超自然の希望を持たなければなりません。今のこの危機の時代を、暗い、落胆した見方で見るよりは、超自然の良い機会として、善を出す機会として、その光で見て下さい。ちょうど聖パウロが、「希望のないところに希望して、“Spes contra spem”」と言ったように、信仰と、希望と、愛をますます強める良い機会です。
残念な事に、あるイギリスの司教様は「もう何も希望はない。もう何もする事はない。ただこの世の中が壊れてしまって、罰を受けてそのまま無くなってしまうのを待つだけだ」と言いましたが、それは良い態度ではありません。そうではなくて、明らかに希望がないように見えるところでも更に希望して、特に教会のカトリックの教会の有する「天主から作られた」というその天主の持つ性質に対する希望がなければなりません。天主御自身が作った教会ですから、天主がイエズス・キリスト御自身が教会を指導しています、導いています。
これはフランシスコ教皇様の教会でも、私の教会ではなくキリストの教会です。どのような混乱や難しい状況にあっても、火によって黄金が純金となるように試されるように、今教会が浄められる為にこのような試練があるのですから、超自然の見方をなさって下さい。
私たちの主の例をとってみましょう。私たちの主がどのように生活なさったのか、どのような生き方をされたのかをよく研究しましょう。その為には毎日ロザリオを唱えるのが良いです。これはマリア様が色々な御出現で、ロザリオを唱える事を言った通りです。何故かというと、ロザリオを唱える事によって私たちは、主のどのような生き方をしたのか、ということを黙想する考察するからです。どうやってイエズス様は生活されたのか、どのような生き方をされたのか。
ところで私たちは普通の事として、「天主様が赤ちゃんになって、十字架の上で亡くなった」と信じていますけれども、実はこれはユダヤ人にとっては難しい事でした。使徒たちでさえもこれを信じる事は不可能な事でした。何故かというとユダヤ人たちは、普通に王様が来る事を、秩序を回復して下さる、奇跡を行なって下さるような方を待っていたのです、力強い誰かを待っていました。ですから最初、「イエズス様が奇跡を行なって病人を癒やした、それからどれどれの奇跡をした」と言ったら、それは簡単に信じる事ができました。弟子たちはすぐにこのような方を王様として祭り上げよう、王冠を捧げよう、王としようして行動しようとしましたが、でもそれはイエズス様の御旨ではありませんでした。
そうしてイエズス様の死が来ます、十字架の上での死が来ます。あまりにもその差が激しかったので、期待と現実の差が激しかったので、トマスは、使徒であったトマスは信じる事ができませんでした、信じる事を拒否しました。しかもイエズス様が何度も現れて、「確かにそうだ」という事をした後にでも、御昇天の時にはある弟子たちは、「あぁ主よ、あなたが御国を作るのは今ですか?この地上で楽園を作るのは今ですか?」と、「この地上を楽しくするのは今ですか?」と聞きました。するとイエズス様は答えて、「そうではない。その時は聖父のみが知っている。お前たちの知るところではない。お前たちの事ではない」と言いました。
イエズス様の御降誕、クリスマスから御復活、そして聖霊降臨まで、イエズス様が本当に何を私たちの為になさろうとしたのかを感じ取って、嗅いで匂いを嗅いで、そして見て下さい。それは全く新しい事であって、今まで見た事も想像した事もなかったような事を、イエズス様は当時教えて下さり、それを実践されたのです。これは私たちにとって最高の教えを与えています。
では1世紀の初代のキリスト教信者を見てみましょう。その初代は非常に信仰が急速にひろまっていましたけれども、それと同時に迫害も始まりました。たとえばローマ帝国の皇帝デチウスやディオクレティアヌスは非常に厳しい迫害をして、多くのキリスト教徒を殉教させていきました。しかしその当時多くの人々は、まさかこの皇帝の大迫害の20年後には教会が全く自由になると誰が想像した事でしょうか。
デチウスやディオクレティアヌスがいた時には、キリスト教徒は生き残る事で精いっぱいでした。兵士も皇帝の前に出る事が難しかったし、「キリスト教だ」という事を宣言する事も難しかったし、しかもその周囲は社会は異教の社会であって、不道徳があって、犯罪が平気で行われていました。その中でカトリック信者は信仰を守り続ける為に、生き残る為に努力をしていました。ところでその迫害が終わり、ミラノの勅令が出て教会が自由になった、もうキリスト教を信じても構わないとなったとしても、更に世界が良くなったというよりは、その自由になったと同時に、多くの何千もの信徒の方は砂漠に行って、より良い主との一致の為に隠遁生活さえも始めました。つまりどの時代でも苦しみがあったという事です。
例えば永井博士の生涯についての伝記を私は今読んでいます。本当に素晴らしい先祖を皆さんはお持ちだと思います。16世紀に伝えられたカトリックの信仰は、「外国の勢力からの手先だ」と誤解されて迫害されて、250年間司祭を持ちませんでした。しかし19世紀になると、長崎においてパリの宣教師によってカトリック信者がいた、という事が発見されます。しかしその発見の後にも大きな迫害があり、どの時代も難しい状況を生きのびなければなりませんでした。決して簡単なものではありませんでした。
もちろんカトリック国家があって、そして理想的な国があって、そして何の難しい事がない社会ができれば、それは多くの人にとってより簡単に救霊を全うする事ができますけれども、しかしそれを私たちが今この場でそのようなものを持つ事ができません。そこで私たちにとっては信仰を、イエズス・キリストを信じるという事こそが本質的なものとなります。特に迫害されていたり、或いはこのようにカトリックの信徒の数が少ないところでは、どれほど私たちの信仰が誠実で、純粋で、愛が純粋であるかというところにかかっています。
願わくは天主が皆さんをあなたたちを慰めますように。あなたたちを悲しませているのは、他の人々が教会を暴力を以て占拠してしまって、そしてこの同時にあなたたちは教会の外に追い出されてしまっている事です。しかし彼らは建物は持っていますけれども、あなたたちは使徒からの信仰を持っています。彼らは私たちの教会を占拠していますけれども、しかし彼らこそ真理の信仰からの外にあります。あなたたちは礼拝の場所の外にはいますけれども、しかし信仰はあなたたちの中に留まっています。
ですからこの事を考えましょう。一体何が最も大切なのでしょうか?場所でしょうか?信仰なのでしょうか?
真の信仰です。もちろん。
この戦いにおいて、誰が負けて、誰が勝ったのでしょうか?一体誰が、場所を守った人が勝ったのでしょうか?それとも信仰を守った人が勝ったのでしょうか?
確かに、もしも使徒からの信仰があるのであれば、その場所は良いものとなります。そして全てが聖なるやり方においてある時に、その場所も聖なるものとなります。あなたたちこそが幸せな者です。何故ならばあなたたちこそが、あなたたちの信仰によって教会の中に留まっているからです。あなたたちは信仰の基礎を強く保持しているからです。この信仰の基礎こそが使徒たちの聖伝によってあなたたちの方を見て伝えられました。
もしもものすごい嫉妬によってそれを誰かが揺るがせにしようとするならば、色々な方法でそうするならば、それは成功しないでしょう。彼らこそが現在の危機においてその信仰から離れ去って行ってしまった者です。あなたたちの信仰に反対して誰も勝つ事ができません。
愛する兄弟たちよ、私たちは天主があなたたちにいつか私たちの教会を戻してくれると信じています。
この今、聖アタナシウスの状況は今の私たちと全く同じ状況だと言う事ができます。ですから皆さん心配しないで下さい。教皇様が何を仰った、何をなさった、という事で私たちの生活を麻痺させないで下さい。私たちがスキャンダル、或いは色んな事を聞いたとしても、それでそれを、それにあまり心を砕かないで下さい。中には教皇様がこんな事を言った、こうだ、こうだ、こうだ、という事を何度も何度も何度も何度も言う人がいますけれども、それは聖アタナシウスが言った事ではありません。聖アタナシウスは、「あなたたちの幸せは、あなたたちの信仰だ」と言いました。「信仰を守れ」と言いました。
ここで、聖アタナシウスの教えと、セデヴァカンティズム教皇座空位主義者やレジスタンスとは態度が違っています。そのような人たちは、「あぁ、こんな教皇様はあまりにも悪いからもう教皇様ではない」とか、「教会には2つがあって、本当の教会と近代主義の教会だ」とか言っていますけれども、でも本当のカトリックは、教皇様が何を言った、ああだ、こうだという事にあまりそれに心を砕いて、日常生活を破壊するほどのような態度をとりません。そのような事をやったのは16世紀のプロテスタントでした。
何故かというと、教会の頭はイエズス・キリストだからです。教会の霊魂は聖霊だからです。教会の母と教会の心臓はマリア様です。
教皇様というのは単なるキリストの目に見える代理者にすぎません。聖ペトロは3回も主を否みました。しかも「あぁ、主よ私はあなたの為に命を捧げます」と言ったその直後に。
教会の歴史は最大2年から3年間の間、教皇様の無い時代が何回かありました。例えば 4世紀には2回、2年間教皇様が無い時代がありました、例えば304年から306年の間、或いは309年から311年の間は、大きな迫害があったので教皇様を選出する事ができずに、教皇様はその間選ばれる事ができませんでした。教会は教皇様を必要としていたにもかかわらず、持つ事ができませんでした。
それにもかかわらず、聖アントニオとか聖アタナシウスという偉大な聖人たちを生み出しました。教皇様がいないから聖人が出ないというわけではないのです。13世紀にも同じ状況がありました。1268年から71年まで、また1292年から94年まで教皇様が選出されませんでした。この教皇様がいなかった時代に偉大な聖人たちが出ました。大聖アルベルト、ルイ9世、聖トマス・アクィナス、聖レイモンド・ペニャフォート等々偉大な聖人たちが出て、彼らは教皇様がすぐに選出されなかったという事について特別に不平を持った事はありませんでした。
過去の聖人たちはもちろん問題がありました、教皇様は誰が選ばれるか、その教皇が選ばれる為には過去の候補者の言ったこの言葉は何だ、どうのこうのという研究をしなければなりませんが、聖人たちにはそんな事を調べる時間はありませんでした。それと同じです、「フェレー司教様は、ローマに行くか、あぁ行かないか、」「あぁフェレー司教様が、あぁあの、どこの枢機卿様と会うか、会わないか」これは私たちの義務ではありません。
聖人たちは、自分に与えられた日々の仕事、義務を果たして、そして祈りをして聖人になりました。信仰を守り、罪人を回心し、天主様との親しい一致の生活をし、黙想生活をし、そして天主の御摂理に委ねていました。
天主が勝利するのはもちろん分かっています。しかしどうやって、一体いつ、それは私たちの知るところではありませんし、それを知る、或いはその責任は持っていません。何故かというと、教会が勝利するというのは私たちはそれは知っていますけれども、天主様のイエズス様の教会であって、イエズス様が御存知で、イエズス様がなさる事だからです。私たちはそれを知らないから、「だからじゃあもうこの戦いをやめよう、信仰を守るのはやめよう」とか、「将来が心配でたまらない」等という理由にはなりません。
私たちは、私たちがやらなければならない事をやる。それが最高の奉仕であって、それが成聖の元です。
カナでの婚宴を見て下さい。マリア様の介入によって、イエズス様は奇蹟を行いました。マリア様は、「彼が、この方が仰る事は何でもやりなさい」と言われて、召し使いたちはその通りにやって、水がワインになりました。
ちょうどイエズス様が子供の頃、エルサレムの神殿でイエズス様が迷子になった事があります。3日間マリア様とヨゼフ様はお探しになって、エルサレムで見つけると、「あぁ我が子よ、一体あなたは何でこんな事をしたのですか。お父さんも私もこんなに心配して探していたのですよ。」「女よ、私が聖父の仕事をしなければならないという事を知らなかったのですか。」
「聖父の仕事をする。」これこそが私たちへのメッセージです。
つまり最初はカナの婚宴でマリア様が、「あぁ、あの人たちにワインがありません」とイエズス様に言うと、「え?女よ、それがあなたと私に一体何の関わりがあるのか。私の時はまだ来ていない」と一見拒否したかのように思われます。「私たちの主はそんな事はしないよ」と言ったかのようです。何故拒否したのでしょうか?もしかしたら、もしもその奇跡を起こしたとしたら、それを見ていた人たちが感嘆して、「あぁ素晴らしい、これこそがメシアだ、これこそが王だ」と讃美と称讃を勝ち取っていたかもしれません。その外的な讃美とセンセーションを与えたかもしれませんけれども、それは天主の御旨でもイエズス様の御計画でもなかった、それはイエズス様の仕事ではなかったのでそれを拒否したのかもしれません。
しかしマリア様が、「あの方が仰る事は全てしなさい」と言うと、イエズス様は、「ではお前の仕事は、この石がめに水を汲む事だから、お前これに水を汲みなさい。」「え?水を汲む?」そこで、「はい、分かりました」と言って、自分の仕事である石がめに水をいっぱいまで汲んだのです。そして自分の仕事を果たすと、その水が最高のぶどう酒になりました。
これが私たちのしなければならない事です。私たちがしなければならない日常の義務を果たす事によって、最高の効果が出ます。水がワインになりますし、教会の危機も特別の仕方によって何かの力になります。
私たちは教会の信仰の、その完璧さと美しさを誇りに思わなければなりません。信仰というのはただリュックサックのようにバックパックのようにただこう背負っているだけではなくて、信仰というのは私たちの心と体に染み通っていなければなりません。血と肉になっていなければなりません。そして天主様がこの世を見る見方と同じ様な見方でこの世を見なければなりません。
御聖体、イエズス様が真に在し給う、パンのように見える御聖体。天主三位一体、聖父と聖子と聖霊が私たちに宿られておられる。天主の成聖の命に、愛に、私たちが参与している。考えてもみて下さい、この現実が一体どういう事か、実際私たちに今身に起っている、という事をよく黙想して下さい。イエズス様は言いました、「天主の御国はお前たち中にある」と。
この信仰に誇りを持って下さい。この信仰の証しとなって下さい。この異教徒の真っ只中に一人で生活して信仰を守る皆さんは、あたかも殉教者のようです。証し人となって下さい。私たちは信じなければなりません。ただ復活祭の時に、「はい、私は悪魔とサタンとその業を捨てます、その栄華を捨てます」と口先だけ言うのではなくて、それを本当に生きなければなりません。それがこそ毎日の日常の糧となって、その通りにしなければなりません。
「教皇様がああ言った、司教様がこんな事をした、」と言ったとしても、私たちには本当のカトリック信仰を知っています。この知っている信仰を生きて下さい。その通りに実践して下さい。その信仰の美しさ、典礼の美しさをよく黙想して下さい。ミサ典書を手に取って、毎日一人で天主様と共に10分間それを黙想して下さい。ミサの祈りを祈って下さい。霊的聖体拝領をして下さい。あたかも本当に御聖体を拝領したかのように、イエズス様と一致して下さい。霊的に一致して、その現存に生きて下さい。キリスト教の信仰を生きて下さい。キリスト教信者として生きて下さい。
この他の未信者や信じない人々との生活と、皆さんの生活は違っていなければなりません。確かにこの同じ世界の中で同じ買い物をして、同じデパートに行っているかもしれませんけれども、皆さんは「イエズス・キリストを信じている」というところで違いがあります。教会の典礼の信仰の美しさに誇りを持って下さい。教会の聖性、聖である事、また隠れた霊魂たちの力強さ、いけにえの霊魂たちのその美しさに誇りを持って下さい。
カトリックのお母さん方お父さん方、そしてカトリックの家族子供たち、彼らがキリスト教信者として生きている、この時代に過ごして生きているという事は何と美しい事でしょうか。皆さん誇りを持って下さい。この時代に信仰を保つという事は本当に美しい事です。誰もこの私たちをして、この美しい宝、典礼、いけにえの霊魂、私たちの間に生きているこれらのものから離れさす事ができるものはありません。
天主は真理であって、最も大切で最も重要なものであって、私たちはこれをこれに忠実を守らなければなりません。その他の事はどうでも良いのです、その他の事は天主の御摂理に任せて下さい。私たちがもしもこのように天主の真理に生きるならば、そしてその他の事は天主の御摂理に委ねるならば、私たちの生活が変わった事に気付きます。そして私たちには深い平和がやって来ます。一番大切なのは、「天主の観点によってものを見る」という事です。その時に私たちは、最も偉大な成功を収めます。
私たちにとって大切なのは、場所とか、この世でどんな成功を収めたというのではなくて、カトリックとして生き、カトリックとして死ぬという事です。そしてこのカトリックとして生き、死ぬ事によって初めて私たちは成長し、霊魂たちを救う事が勝ち取る事ができる最高の手段となる事ができます。ピオ12世教皇様は、「私たちの祈りといけにえによって、多くの霊魂を救う事ができる」と教えています。
どうもご清聴をありがとうございました。私の印象では、私がちょっと話すと、小野田神父がお説教をしたと(笑)。
どうもご清聴をありがとうございます。皆さんのご家族と赤ちゃんを天主様が祝福して下さいますように。皆さんの熱心とこの忠実なこの態度を見るのは本当に美しい事です。