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Channel: Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた
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映画「サイレンス--沈黙--」に描かれなかった”真実” (その3)

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アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

映画「サイレンス--沈黙--」に描かれなかった "真実" と 映画「サイレンス--沈黙--」に描かれなかった "真実"のその2 につづいて、その3をご紹介いたします

天主様の祝福が豊かにありますように!

トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

(続き)

フェレイラが背教から立ち戻るために、彼にコンタクトを取って説得しようとする試みが少なくとも3回ありました。

今回は、第2弾を紹介します。

第二の試み:
その次は、日本人イエズス会司祭であった福者ペトロ岐部がします。ペトロ岐部は江戸で彼と会い、痛悔するように雄弁に勧告したという記録が残っています。
福者ペトロ岐部は、長崎のセミナリオで勉強していましたがキリシタン国外追放でマカオに渡り、司祭になるために他の2名の神学生(マンショ小西とミゲル・ミノエス)とマカオからローマまで巡礼に行きます。マカオからインドのゴアまでは船で行きましたが、ゴアからローマまではペトロ岐部だけは(おそらく船に乗る資金が無く)歩いて行きます。ペトロ岐部はイスラエルに行った最初の日本人となります。ローマではコレジオ・ロマーノで同級生の聖ヨハネ・ベルクマンスが帰天し(1621年8月13日)、同じ聖アンドレア修道院にいた聖ロベルト・ベラルミーノ枢機卿も帰天(1621年9月17日)しています。1622年3月12日、福者ペトロ岐部は、ローマで聖イグナチオと聖フランシスコ・ザベリオとの列聖式に日本人として参列しています。
福者ペトロ岐部は、祖国愛に燃え、同胞の永遠の救いと幸福とのために全てを捧げ、殉教を覚悟でどうしても日本に戻ろうとしました。
長上の許可を得て、福者ペトロ岐部は日本に戻って宣教するために、1623年3月25日リスボンを出航します。日本に到着したときは既に43歳。最初は長崎で、次に京都、東北に入り、イエズス会の式見神父やポロ神父と協力して仙台領で司牧していました。

1639年には、一緒に働いていたイエズス会司祭3名とフランシスコ会士2名は捉えられ江戸に送られます。取り調べを受けることになったのですが、取り調べ人の一人がフェレイラでした。岐部はフェレイラに信仰に立ち戻るように頼むと、フェレイラは部屋から出て行き再び姿を見せることはありませんでした。
福者ペトロ岐部は、評定所に引き出され、老中と奉行と大目付の前で、将軍徳川家光の前で、キリストを証し、そのために命を捧げます。
二人のフランシスコ会士らは品川で火やぶりにされました。三人のイエズス会士らは穴吊りの責めにかけられます。

ポロ神父と式見神父は転びました。しかし岐部は転びませんでした。
ペトロ岐部について、奉行所の公式記録に井上筑後守がこう書いています。
「キベ ヘイトロは転び申さず候。吊るし殺され候。」
福者ペトロは、転ばないどころか、一緒に拷問を受けていた二人の同宿を励まし続けてさえいました。340年後、井上筑後守の言葉はペトロ岐部を褒め称える歌劇の題とさえなりました。

(続く)

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