アヴェ・マリア!
愛する兄弟姉妹の皆様、
天主様に感謝! 聖母の汚れなき御心に感謝! 12月の日本での聖伝のミサが行われ、ご報告を頂きましたのでご紹介します。日本に行かれたレネー神父様に感謝します。また、神父様のお説教を翻訳してくださった信徒会長さまたちに感謝します。
今月も引き続き台風の被害者のための献金をしてくださり、東京では JPY48,350 (approx. USD462)が集められました。感謝します。
フィリピンでは明日から「ミサ・デ・ガロ」と呼ばれる暁のミサが始まります。私たちの教会では早朝4時半からで、24日まで九日間続きます。
良き待降節をお過ごしください!
天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)
【大阪での聖伝のミサの報告】
アヴェ・マリア!
12月の大阪での御ミサの報告です。
12月13日金曜日には、11名の方が、
14日土曜日には17名の方が御ミサにあずかる御恵みをいただきました。
天主様に感謝!聖母マリア様に感謝!聖ヨゼフ様に感謝!レネー神父様に感謝いたします!
14日は、遠く福岡から求道者の方が初めて聖伝の御ミサ、公教要理にあずかられました。この方がお持ちになったロザリオや御像を御ミサ前にレネー神父様が丁寧に祝別してくださり、とても喜んでおられたようでした。
13,14日両日とも無原罪の御宿りついてお説教していただきました。翻訳してくだ さいました会長さま方に感謝します。
14日の公教要理では、お告げの祈りの「三つの謙遜」についてと「罪といけにえ」の意味を対比形式で詳しく説明していただきました。
お説教、公教要理については両信徒会長さまからのアップを期待いたします(^_-)-☆
では、良いクリスマスをお迎えくださいませ。
大変お忙しいと思いますが、どうぞお体に気を付けてお過ごしください!
【東京での聖伝のミサの報告】
レネ神父は今日のミサ中のお説教で、先週教会がお祝いした聖母マリアの無原
罪の御宿りについて詳しく説明してくださいました。無原罪の御宿りについて
は一見御托身に最も関連していると思われているが、実はイエズス・キリスト
のあがないの業にご自分を一致された聖母という点から見れば、実は共贖者と
なるために無原罪であったのある、という事実を教えていただきました。ま
た、私たちが苦しむ時、十字架上で改心した盗賊にならって、自分自身の罪を
つぐない、隣人の罪をつぐない、主と聖母の御苦難と十字架に一致することに
よって真に功徳を積んでお恵みを受けることができる、というお勧めをいただ
きました。
昼食後の霊的講話は、主が二度の来臨とその対比、アダムと新しいアダムであ
るキリストの対比、偽りの自由と真の自由の違い等についての解説、またヘブ
ライ人が紅海とヨルダン川を渡ったことが、実は私たちキリスト教徒が洗礼と
死という渡りをすることの前徴になっていること等を教えていただきました。
その後、待降節の晩課を歌って終了しました。
ミサの参列者数
男: 12人(内、子供0人)
女: 14人(内、子供0人)
計: 26人(内、子供0人)
霊的講話の参列者数
男: 7人
女: 4人
計: 11人
晩課の参加者数
男: 5人
女: 4人
計: 9人
【レネー神父様のお説教の日本語訳】
親愛なる兄弟のみなさん、
洗者ヨハネはなんの奇蹟もしなかった(ヨハネ10章41節)のですが、人々は洗者ヨハネの聖なる生き方の故に彼をメシアだと考えていました。なぜでしょうか?それは人々がアダムから引き継いだ罪の傷、すなわち原罪があること、そして、天主からの大変大きなお恵みなしにはそのように聖なる生き方をすることが不可能であることを知っていたからです。実際洗者ヨハネは大変立派な人であったので、私たちの主も洗者ヨハネについてこうおっしゃっています:「それなら、なにをしようとして行ったのか?預言者を見にか?そうだ、私はいう、預言者よりもすぐれた人である。“私は、あなたの前に、私のつかいをおくる。あなたの道をととのえさせるために”と書かれているのは、その人のことである。まことに、私はいう、女から生まれた人の中で、洗者ヨハネよりも偉大な人は出なかった。」(マテオ11章9-11節)と。
洗者ヨハネは預言者以上の人、天使のような人です。それでも無原罪ではありませんでした。洗者ヨハネも原罪を持っており、その原罪は、まだ母の胎内にいた時、聖母の御声によって洗い流されたのです:「なんとしたことでしょう、あなたのあいさつのお声が私の耳にはいると、私の子は胎内で喜びおどりました。」(ルカ1章44節)
かつて原罪から守られた人間はただ一人しかおらず、その人こそ童貞聖マリアです。その無原罪の御宿りを先週の主日にお祝いしました。これは大変大事な教理ですので、無原罪の御宿りについて少し説明したいと思います。
教皇ピオ9世はこの教理を定める際、聖母は御托身のために、すなわち御托身される天主の御言葉にふさわしい器となるために無原罪であったとおっしゃいました。しかし、聖書の中で「無原罪」ないし「汚れなき」という言葉を探してみると、驚くべきことにこの言葉が最も普通に文字通りの意味で使われているのは…私たちの主についてではなく、聖母についてでもなく、貞潔の徳についてでもなく、御托身についてでもなく、むしろ贖罪に関して、犠牲の生け贄の条件として使われているのです。すなわち子羊は「汚れなきもの」でなくてはならず、また祭壇に供えられる他のすべての生け贄も「汚れなきもの」でなくてはならないという条件です。聖書の中でこの言葉が使われている箇所のうち64%は旧約の犠牲の生け贄の条件としてなのです。そして新約聖書では2度だけ、私たちの主イエズス・キリストについて使われていますが、これも汚れなき子羊としてです:聖ペトロは言っています:「あなたたちが、祖先からうけついだむなしい生活からあがなわれたのは、金銀などの朽ちるものによるのではなく、きずもなく汚点(しみ)もない(ラテン語では”immaculatum”)子羊のような、キリストの尊いおん血によるのであることを、あなたたちは知っている。」(ペトロ前1章18-19章)と。また、聖パウロは言っています:「ましてや永遠の聖霊によって、汚れのない(ラテン語では”immaculatum”)ご自分を神にささげられたキリストのおん血が、私たちの良心を死の業(わざ)からきよめて、生ける神に奉仕させ得ないことがあろうか。」(ヘブライ9章14節)と。まことに「神の子羊を見よ」(ヨハネ1章29節)、旧約で条件とされていた全ての「汚れなき子羊たち」によってあらかじめ示されていたその小羊、「世の罪をとりのぞく」(ヨハネ1章29節)ことのできる、またそのお恵みによって聖母が無原罪となされた唯一の小羊です。
これによって、無原罪の御宿りを大変特別な見方で見る事ができます。聖母は、生みの苦しみなしに、いえむしろ最大の慰めをもって生む天主の子であるイエズスをお生みになるためだけに無原罪であるのではありません。聖母はまた、十字架の下で生みの苦しみをもって私たちを生むために無原罪なのです。聖母は天主の御母となるためだけに無原罪であるのではありません。聖母はまた、共贖者として私たちの母となるために無原罪なのです。これはいったいどうなっているのでしょうか?天主がどうして罪のない人に受難をお命じになることができるのでしょうか?これは不正ではないのでしょうか?しかし、父なる天主は自らの子に苦しみ、死ぬという命令をお下しになりました:「父が、私を愛されるのは、私が命をふたたびとりもどすために、自分の命をあたえるからである。その命は、私からうばうものではなく、私がそれをあたえるのである。私にはそれをあたえる権利があり、またとりもどす権利もある。それは、私が私の父からうけた命令である。」(ヨハネ10章17-18節)どうしてこのようなことがあり得るのでしょうか?
実は、天主はまさに正義の方であるが故に、罪のない者が苦しむとき、天主は必ず溢れんばかりの報いを与えられるのです!私たちの主イエズス・キリストの御受難と死の報いはなんだったでしょうか?世界の救いです!私たちの主イエズス・キリストは御受難によってあがない主になられたのです:「死ぬまで、十字架上に死ぬまで、自分を卑しくして従われた。そこで、神はかれを称揚し、すべての名にまさる名をお与えになった。それは、イエズスのみ名のまえに、天にあるものも、地にあるものも、地の下にあるものもみな膝をかがめ、すべての舌が、父なる神の光栄をあがめ、『イエズス・キリストは主である』といいあらわすためである。」(フィリピ人2章8-11節)
そして聖母はまたー私たちの主イエズス・キリストの御恵みによってー無原罪でおられますから、聖母が十字架の下でお苦しみになったので、天主は溢れんばかりの報いをお与えになったのです:すなわち聖母は共贖者になられ、すべての(聖性の状態にある)生ける人の母となられ、慈しみの母となられたのです。聖母がこの力を得られたのは、私たちの主のあがないの効果を人々に分け与えるためなのです。
私たちの主イエズス・キリストも聖母も罪のない方でしたが、その故に苦しみから逃れようとされることがないどころか、その正反対でした。罪は高慢の為にこの世に入りましたから、罪の傷を癒すためには謙遜をもってすることが必要でした。罪深い人間(すなわちアダムとその子孫)は至聖なる三位一体に対して示すべき光栄、従順が足りませんでした。これを正すためには、至聖なる三位一体に対してより大いなる光栄、より大いなる従順を示さなくてはならず、それは聖なる人ヨブが言うように、まさに苦しみを受け入れる事にあるのです:「われわれは神から幸をうけるのだから、災(すなわち苦しみ)をも、うけるべきではないか。」(ヨブ2章10節)苦しみは罪の結果です。ですから罪のない者が苦しみを受け入れるとき、罪の償いをするのです。
聖人の、特に罪のなかった(一生涯大罪を犯さなかった)幼きイエズスの聖テレジアのような聖人の生涯をみれば、聖人達がなぜそれほど苦しんだのか、と思います。しかし、私たちが苦しみの神秘を理解しなければ、聖人達のことを本当に理解することはできません。罪の償いのための苦しみを天主の御手からすすんで、よろこんで受け入れることによって、新しいアダムである救い主、そして「かれにふさわしい助け手」(創世記2章18節)であり、新しいエワである聖母マリア、またそれに続く聖人達が、十字架に付けられたイエズスと共に、汚れなき子羊という完全な生け贄を捧げることによって、世界全ての罪の償いが行なわれるのです。
聖母は私たちの主イエズス・キリストによる贖罪によるお恵みの最も美しい対象となられましたが、そればかりではなく、聖母はその贖罪のお恵みをだれよりも沢山受けられましたから、聖母をキリストの贖罪の傑作と呼んでもよいでしょう。しかし聖母はそれに対してお返しをされました。聖母は十字架の下のイエズスと共に、自分自身をお捧げになったのです。それゆえ、その見返りとして聖母には更なるお恵みが与えられました:聖母は共贖者となられたのです。天主のなされる業には一定のパターンがあることがわかります。天主はまず、その者が受けるに値しないようなお恵みをお与えになります:聖母には無原罪の御宿りを、もっと低いレベルでは私たちには洗礼のお恵みを、といった具合です。このような最初のお恵みは、私たちが全く受けるに値しない賜物です:お恵みを受ける前にはまったく功徳がないのです。そこで、天主からのお恵みを受けた私たちは、天主からの愛に、愛で応えなくてはなりません(例えば、自分の義務を果たすこと、善行、特に慈悲の業を行なうこと、自分を捨てること、苦行を行なうこと、などによって)、とりわけ私たちの主イエズス・キリストと共に自分自身を生け贄としてお捧げせねばなりません。これらの善行は、私たちが善いことを行なうのをキリストがお助けくださり、それによって私たちが功徳を積む、という「協力的なお恵み」の成果です。最後に、天主はこの功徳に対して、私たちに永遠の命をくださるばかりではなく、この世でも多くのお恵みを人々にお与えになるなど、溢れんばかりの報いを下さるのです。
罪に深く沈んだ現代の世界では、十字架上のイエズスと共に自分自身を罪なき生け贄としておささげする、私たちよりもしばしばずっと純粋な犠牲を行なう霊魂が必要なのです。これは宗教生活でも可能ですし、年齢に伴う、あるいは病気に伴う苦しみをすすんで受け入れる事などでも可能でしょう。
苦しみが始まったとき、私たちがまず覚えておかなくてはならないことは、私たちは罪のない者ではない、ということです。私たちの主イエズス・キリストの側で十字架に付けられていた改心した盗賊のように、私たちはまず自分の罪を償うため、自分自身の為に苦しまなくてはなりません。そして、改心した盗賊と共に、この世の終わりのキリストの再来まで煉獄に留まることを受け入れなくてはなりません:「イエズス、あなたが、王位をもってお帰りになるとき、私を思い出してください。」(ルカ23章42節)と。改心した盗賊はこれに至る前に、罪の痛悔をしていました:「もう一人の方は、かれを押し止めて、『あなたは同じ刑罰をうけながら、まだ神をおそれないのか。われわれは行なったことのむくいをうけたのだから当然だ。しかし、この人はなんの悪事もしなかった』。」(ルカ23章40-41節)と。しかし、私たちの主イエズス・キリストと共に自分自身をおささげすることの報いは大変大きいものです。主は彼におっしゃいました:あなたは一日も煉獄に留まることはない!「今日あなたは、私とともに天国にあるであろう。」(ルカ23章43節)と。
私たちは、私たち自身の罪のつぐないのために苦しんだ後、私たちの隣人の罪のつぐないのためにもっと苦しまなくてはなりません!幼きイエズスの聖テレジアは、あわれな罪人たちのために自分自身をイエズスの慈悲深い愛におささげするとき、これを理解していたのでした。
苦しみが始まったとき、「私がいないと、あなたたちにはなに一つできない。」(ヨハネ15章5節)ということがもっと良くわかります。私たちが善をなすためには、いつも私たちの主イエズス・キリストのお恵みを必要としていますが、これを忘れてしまいがちです。しかし苦しみのとき、私たちはすぐに自分の弱さ、そしてこのお恵みが今すぐ必要なことに気づき、力と忍耐をひたすら求めるのです。それでも、私たちの主イエズス・キリストのお恵みをもってすれば、「忍耐は、業(わざ)によって完成される。」(ヤコボ1章4節)、「あなたたちは、私の名のために、すべての人から憎まれる。しかし、終りまでたえしのぶ人は救われる。」(マテオ10章22節)、「私はぶどうの木で、あなたたちは枝である。私にとどまっていて、私もまたかれのうちにいるなら、その人は多くの実を結ぶ。」(ヨハネ15章5節)
苦しみが始まったとき、私たちは反抗して、「なぜ?私が何をしたというのですか?」と言ってしまいがちです。私たちは汚れなき御心に心をむけねばなりません。聖母はそのような不平をおっしゃらず、主のお恵みによってご自分を天主の御旨に任せ、御受難の初めに「わたしの父よ、このさかずきを私がのまずにはすごせないものなら、何とぞ、み旨のままに!」(マテオ26章42節)とおっしゃった主の「fiat(われになれかし)」と共に、ご自分の「fiat(われになれかし)」を繰り返されました:「あなたのおことばのとおりになりますように!」(ルカ1章38節)と。
私たちが「(キリストの)御復活の栄えに達するを得」るのは「その御苦難と十字架とによりて」(御告げの祈)です。これこそが天国に至る十字架の王道です。これこそが私たちの主イエズス・キリストの道です。聖パウロは言っています:「私たちが神の子である…私たちが子であるのなら、世つぎでもある。キリストとともに光栄をうけるために、その苦しみをともに受けるなら、私たちは、神の世つぎであって、キリストとともに世つぎである。今の時の苦しみは、私たちにおいてあらわれるであろう光栄とは比較にならないと思う。」(ローマ8章16-18節)と。
ミサの目的の全ては私たちを子羊の犠牲と結びつけることです。ミサは私たちの苦しみ、悲しみを聖化し、無限のお恵みをもたらします。ですから、ミサは天国への扉です。また、無原罪の聖母は十字架の下にいらっしゃいましたから、全てのミサにもいらっしゃるのです。
「神は喜んで与える者を愛する。」(コリント後9章7節)聖人達の生涯を見ると、聖人達がいかに十字架を愛していたかがわかります。聖アンドレアが遠くから十字架を見たとき、こう叫びました:「おお大切な十字架よ、主の御体が善きものとした十字架よ、いかに長く望んでいたことか!いかに温かく愛してきたことか!いかに常々捜してきたことか!いまや十字架が私に来たのだから、いかに私の魂が十字架に引かれることか!十字架が人々の中から私を迎え、私を私たちの主に再び結びつけんことを。主は十字架によって私をあがなってくださったので、十字架によって主が私をご自分のもとに引き寄せてくださいますように。」と。聖人でさえこのような感情を持っているのですから、十字架の下にいらっしゃる無原罪の聖母はいかにもっと強い感情をお持ちでしょうか!聖母はあがないの神秘が行なわれていることを理解し、至高の母なる愛をもってご自分の子と全く一体となられました。私たちも、聖霊のお恵みによって、イエズスとともに一つの生け贄となれるよう熱望しなくてはなりません。これがミサのお恵みです。
愛徳をもってすれば全てのものが変わり、愛することができるようになります、十字架でさえも!聖人達についてこのように書かれています:「るつぼの中の金のように神は彼らをえり分け、焼き尽くすいけにえの捧げ物として受け入れられた。主の訪れのとき、彼らは輝き渡る。」(知恵3章6節)と。金はるつぼの中で清められ、輝いて出てきます。霊魂も十字架の木とともに燃える愛徳の火によって清められるのです。そしてこれが聖霊の賜物です。
願わくは、私たちが「十字架の友」となれるよう、そして多くの人がそうであるように「キリストの十字架の敵」(フィリッピ3章18節)とならぬよう、無原罪の聖母がキリストの十字架の愛を私たちに下さいますように。願わくは、私たちが天国で栄光を受けておられるイエズスに近づけるよう、無原罪の聖母が十字架に付けられたイエズスに私たちを引き寄せてくださいますように。アーメン。
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愛する兄弟姉妹の皆様、
天主様に感謝! 聖母の汚れなき御心に感謝! 12月の日本での聖伝のミサが行われ、ご報告を頂きましたのでご紹介します。日本に行かれたレネー神父様に感謝します。また、神父様のお説教を翻訳してくださった信徒会長さまたちに感謝します。
今月も引き続き台風の被害者のための献金をしてくださり、東京では JPY48,350 (approx. USD462)が集められました。感謝します。
フィリピンでは明日から「ミサ・デ・ガロ」と呼ばれる暁のミサが始まります。私たちの教会では早朝4時半からで、24日まで九日間続きます。
良き待降節をお過ごしください!
天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)
【大阪での聖伝のミサの報告】
アヴェ・マリア!
12月の大阪での御ミサの報告です。
12月13日金曜日には、11名の方が、
14日土曜日には17名の方が御ミサにあずかる御恵みをいただきました。
天主様に感謝!聖母マリア様に感謝!聖ヨゼフ様に感謝!レネー神父様に感謝いたします!
14日は、遠く福岡から求道者の方が初めて聖伝の御ミサ、公教要理にあずかられました。この方がお持ちになったロザリオや御像を御ミサ前にレネー神父様が丁寧に祝別してくださり、とても喜んでおられたようでした。
13,14日両日とも無原罪の御宿りついてお説教していただきました。翻訳してくだ さいました会長さま方に感謝します。
14日の公教要理では、お告げの祈りの「三つの謙遜」についてと「罪といけにえ」の意味を対比形式で詳しく説明していただきました。
お説教、公教要理については両信徒会長さまからのアップを期待いたします(^_-)-☆
では、良いクリスマスをお迎えくださいませ。
大変お忙しいと思いますが、どうぞお体に気を付けてお過ごしください!
【東京での聖伝のミサの報告】
レネ神父は今日のミサ中のお説教で、先週教会がお祝いした聖母マリアの無原
罪の御宿りについて詳しく説明してくださいました。無原罪の御宿りについて
は一見御托身に最も関連していると思われているが、実はイエズス・キリスト
のあがないの業にご自分を一致された聖母という点から見れば、実は共贖者と
なるために無原罪であったのある、という事実を教えていただきました。ま
た、私たちが苦しむ時、十字架上で改心した盗賊にならって、自分自身の罪を
つぐない、隣人の罪をつぐない、主と聖母の御苦難と十字架に一致することに
よって真に功徳を積んでお恵みを受けることができる、というお勧めをいただ
きました。
昼食後の霊的講話は、主が二度の来臨とその対比、アダムと新しいアダムであ
るキリストの対比、偽りの自由と真の自由の違い等についての解説、またヘブ
ライ人が紅海とヨルダン川を渡ったことが、実は私たちキリスト教徒が洗礼と
死という渡りをすることの前徴になっていること等を教えていただきました。
その後、待降節の晩課を歌って終了しました。
ミサの参列者数
男: 12人(内、子供0人)
女: 14人(内、子供0人)
計: 26人(内、子供0人)
霊的講話の参列者数
男: 7人
女: 4人
計: 11人
晩課の参加者数
男: 5人
女: 4人
計: 9人
【レネー神父様のお説教の日本語訳】
親愛なる兄弟のみなさん、
洗者ヨハネはなんの奇蹟もしなかった(ヨハネ10章41節)のですが、人々は洗者ヨハネの聖なる生き方の故に彼をメシアだと考えていました。なぜでしょうか?それは人々がアダムから引き継いだ罪の傷、すなわち原罪があること、そして、天主からの大変大きなお恵みなしにはそのように聖なる生き方をすることが不可能であることを知っていたからです。実際洗者ヨハネは大変立派な人であったので、私たちの主も洗者ヨハネについてこうおっしゃっています:「それなら、なにをしようとして行ったのか?預言者を見にか?そうだ、私はいう、預言者よりもすぐれた人である。“私は、あなたの前に、私のつかいをおくる。あなたの道をととのえさせるために”と書かれているのは、その人のことである。まことに、私はいう、女から生まれた人の中で、洗者ヨハネよりも偉大な人は出なかった。」(マテオ11章9-11節)と。
洗者ヨハネは預言者以上の人、天使のような人です。それでも無原罪ではありませんでした。洗者ヨハネも原罪を持っており、その原罪は、まだ母の胎内にいた時、聖母の御声によって洗い流されたのです:「なんとしたことでしょう、あなたのあいさつのお声が私の耳にはいると、私の子は胎内で喜びおどりました。」(ルカ1章44節)
かつて原罪から守られた人間はただ一人しかおらず、その人こそ童貞聖マリアです。その無原罪の御宿りを先週の主日にお祝いしました。これは大変大事な教理ですので、無原罪の御宿りについて少し説明したいと思います。
教皇ピオ9世はこの教理を定める際、聖母は御托身のために、すなわち御托身される天主の御言葉にふさわしい器となるために無原罪であったとおっしゃいました。しかし、聖書の中で「無原罪」ないし「汚れなき」という言葉を探してみると、驚くべきことにこの言葉が最も普通に文字通りの意味で使われているのは…私たちの主についてではなく、聖母についてでもなく、貞潔の徳についてでもなく、御托身についてでもなく、むしろ贖罪に関して、犠牲の生け贄の条件として使われているのです。すなわち子羊は「汚れなきもの」でなくてはならず、また祭壇に供えられる他のすべての生け贄も「汚れなきもの」でなくてはならないという条件です。聖書の中でこの言葉が使われている箇所のうち64%は旧約の犠牲の生け贄の条件としてなのです。そして新約聖書では2度だけ、私たちの主イエズス・キリストについて使われていますが、これも汚れなき子羊としてです:聖ペトロは言っています:「あなたたちが、祖先からうけついだむなしい生活からあがなわれたのは、金銀などの朽ちるものによるのではなく、きずもなく汚点(しみ)もない(ラテン語では”immaculatum”)子羊のような、キリストの尊いおん血によるのであることを、あなたたちは知っている。」(ペトロ前1章18-19章)と。また、聖パウロは言っています:「ましてや永遠の聖霊によって、汚れのない(ラテン語では”immaculatum”)ご自分を神にささげられたキリストのおん血が、私たちの良心を死の業(わざ)からきよめて、生ける神に奉仕させ得ないことがあろうか。」(ヘブライ9章14節)と。まことに「神の子羊を見よ」(ヨハネ1章29節)、旧約で条件とされていた全ての「汚れなき子羊たち」によってあらかじめ示されていたその小羊、「世の罪をとりのぞく」(ヨハネ1章29節)ことのできる、またそのお恵みによって聖母が無原罪となされた唯一の小羊です。
これによって、無原罪の御宿りを大変特別な見方で見る事ができます。聖母は、生みの苦しみなしに、いえむしろ最大の慰めをもって生む天主の子であるイエズスをお生みになるためだけに無原罪であるのではありません。聖母はまた、十字架の下で生みの苦しみをもって私たちを生むために無原罪なのです。聖母は天主の御母となるためだけに無原罪であるのではありません。聖母はまた、共贖者として私たちの母となるために無原罪なのです。これはいったいどうなっているのでしょうか?天主がどうして罪のない人に受難をお命じになることができるのでしょうか?これは不正ではないのでしょうか?しかし、父なる天主は自らの子に苦しみ、死ぬという命令をお下しになりました:「父が、私を愛されるのは、私が命をふたたびとりもどすために、自分の命をあたえるからである。その命は、私からうばうものではなく、私がそれをあたえるのである。私にはそれをあたえる権利があり、またとりもどす権利もある。それは、私が私の父からうけた命令である。」(ヨハネ10章17-18節)どうしてこのようなことがあり得るのでしょうか?
実は、天主はまさに正義の方であるが故に、罪のない者が苦しむとき、天主は必ず溢れんばかりの報いを与えられるのです!私たちの主イエズス・キリストの御受難と死の報いはなんだったでしょうか?世界の救いです!私たちの主イエズス・キリストは御受難によってあがない主になられたのです:「死ぬまで、十字架上に死ぬまで、自分を卑しくして従われた。そこで、神はかれを称揚し、すべての名にまさる名をお与えになった。それは、イエズスのみ名のまえに、天にあるものも、地にあるものも、地の下にあるものもみな膝をかがめ、すべての舌が、父なる神の光栄をあがめ、『イエズス・キリストは主である』といいあらわすためである。」(フィリピ人2章8-11節)
そして聖母はまたー私たちの主イエズス・キリストの御恵みによってー無原罪でおられますから、聖母が十字架の下でお苦しみになったので、天主は溢れんばかりの報いをお与えになったのです:すなわち聖母は共贖者になられ、すべての(聖性の状態にある)生ける人の母となられ、慈しみの母となられたのです。聖母がこの力を得られたのは、私たちの主のあがないの効果を人々に分け与えるためなのです。
私たちの主イエズス・キリストも聖母も罪のない方でしたが、その故に苦しみから逃れようとされることがないどころか、その正反対でした。罪は高慢の為にこの世に入りましたから、罪の傷を癒すためには謙遜をもってすることが必要でした。罪深い人間(すなわちアダムとその子孫)は至聖なる三位一体に対して示すべき光栄、従順が足りませんでした。これを正すためには、至聖なる三位一体に対してより大いなる光栄、より大いなる従順を示さなくてはならず、それは聖なる人ヨブが言うように、まさに苦しみを受け入れる事にあるのです:「われわれは神から幸をうけるのだから、災(すなわち苦しみ)をも、うけるべきではないか。」(ヨブ2章10節)苦しみは罪の結果です。ですから罪のない者が苦しみを受け入れるとき、罪の償いをするのです。
聖人の、特に罪のなかった(一生涯大罪を犯さなかった)幼きイエズスの聖テレジアのような聖人の生涯をみれば、聖人達がなぜそれほど苦しんだのか、と思います。しかし、私たちが苦しみの神秘を理解しなければ、聖人達のことを本当に理解することはできません。罪の償いのための苦しみを天主の御手からすすんで、よろこんで受け入れることによって、新しいアダムである救い主、そして「かれにふさわしい助け手」(創世記2章18節)であり、新しいエワである聖母マリア、またそれに続く聖人達が、十字架に付けられたイエズスと共に、汚れなき子羊という完全な生け贄を捧げることによって、世界全ての罪の償いが行なわれるのです。
聖母は私たちの主イエズス・キリストによる贖罪によるお恵みの最も美しい対象となられましたが、そればかりではなく、聖母はその贖罪のお恵みをだれよりも沢山受けられましたから、聖母をキリストの贖罪の傑作と呼んでもよいでしょう。しかし聖母はそれに対してお返しをされました。聖母は十字架の下のイエズスと共に、自分自身をお捧げになったのです。それゆえ、その見返りとして聖母には更なるお恵みが与えられました:聖母は共贖者となられたのです。天主のなされる業には一定のパターンがあることがわかります。天主はまず、その者が受けるに値しないようなお恵みをお与えになります:聖母には無原罪の御宿りを、もっと低いレベルでは私たちには洗礼のお恵みを、といった具合です。このような最初のお恵みは、私たちが全く受けるに値しない賜物です:お恵みを受ける前にはまったく功徳がないのです。そこで、天主からのお恵みを受けた私たちは、天主からの愛に、愛で応えなくてはなりません(例えば、自分の義務を果たすこと、善行、特に慈悲の業を行なうこと、自分を捨てること、苦行を行なうこと、などによって)、とりわけ私たちの主イエズス・キリストと共に自分自身を生け贄としてお捧げせねばなりません。これらの善行は、私たちが善いことを行なうのをキリストがお助けくださり、それによって私たちが功徳を積む、という「協力的なお恵み」の成果です。最後に、天主はこの功徳に対して、私たちに永遠の命をくださるばかりではなく、この世でも多くのお恵みを人々にお与えになるなど、溢れんばかりの報いを下さるのです。
罪に深く沈んだ現代の世界では、十字架上のイエズスと共に自分自身を罪なき生け贄としておささげする、私たちよりもしばしばずっと純粋な犠牲を行なう霊魂が必要なのです。これは宗教生活でも可能ですし、年齢に伴う、あるいは病気に伴う苦しみをすすんで受け入れる事などでも可能でしょう。
苦しみが始まったとき、私たちがまず覚えておかなくてはならないことは、私たちは罪のない者ではない、ということです。私たちの主イエズス・キリストの側で十字架に付けられていた改心した盗賊のように、私たちはまず自分の罪を償うため、自分自身の為に苦しまなくてはなりません。そして、改心した盗賊と共に、この世の終わりのキリストの再来まで煉獄に留まることを受け入れなくてはなりません:「イエズス、あなたが、王位をもってお帰りになるとき、私を思い出してください。」(ルカ23章42節)と。改心した盗賊はこれに至る前に、罪の痛悔をしていました:「もう一人の方は、かれを押し止めて、『あなたは同じ刑罰をうけながら、まだ神をおそれないのか。われわれは行なったことのむくいをうけたのだから当然だ。しかし、この人はなんの悪事もしなかった』。」(ルカ23章40-41節)と。しかし、私たちの主イエズス・キリストと共に自分自身をおささげすることの報いは大変大きいものです。主は彼におっしゃいました:あなたは一日も煉獄に留まることはない!「今日あなたは、私とともに天国にあるであろう。」(ルカ23章43節)と。
私たちは、私たち自身の罪のつぐないのために苦しんだ後、私たちの隣人の罪のつぐないのためにもっと苦しまなくてはなりません!幼きイエズスの聖テレジアは、あわれな罪人たちのために自分自身をイエズスの慈悲深い愛におささげするとき、これを理解していたのでした。
苦しみが始まったとき、「私がいないと、あなたたちにはなに一つできない。」(ヨハネ15章5節)ということがもっと良くわかります。私たちが善をなすためには、いつも私たちの主イエズス・キリストのお恵みを必要としていますが、これを忘れてしまいがちです。しかし苦しみのとき、私たちはすぐに自分の弱さ、そしてこのお恵みが今すぐ必要なことに気づき、力と忍耐をひたすら求めるのです。それでも、私たちの主イエズス・キリストのお恵みをもってすれば、「忍耐は、業(わざ)によって完成される。」(ヤコボ1章4節)、「あなたたちは、私の名のために、すべての人から憎まれる。しかし、終りまでたえしのぶ人は救われる。」(マテオ10章22節)、「私はぶどうの木で、あなたたちは枝である。私にとどまっていて、私もまたかれのうちにいるなら、その人は多くの実を結ぶ。」(ヨハネ15章5節)
苦しみが始まったとき、私たちは反抗して、「なぜ?私が何をしたというのですか?」と言ってしまいがちです。私たちは汚れなき御心に心をむけねばなりません。聖母はそのような不平をおっしゃらず、主のお恵みによってご自分を天主の御旨に任せ、御受難の初めに「わたしの父よ、このさかずきを私がのまずにはすごせないものなら、何とぞ、み旨のままに!」(マテオ26章42節)とおっしゃった主の「fiat(われになれかし)」と共に、ご自分の「fiat(われになれかし)」を繰り返されました:「あなたのおことばのとおりになりますように!」(ルカ1章38節)と。
私たちが「(キリストの)御復活の栄えに達するを得」るのは「その御苦難と十字架とによりて」(御告げの祈)です。これこそが天国に至る十字架の王道です。これこそが私たちの主イエズス・キリストの道です。聖パウロは言っています:「私たちが神の子である…私たちが子であるのなら、世つぎでもある。キリストとともに光栄をうけるために、その苦しみをともに受けるなら、私たちは、神の世つぎであって、キリストとともに世つぎである。今の時の苦しみは、私たちにおいてあらわれるであろう光栄とは比較にならないと思う。」(ローマ8章16-18節)と。
ミサの目的の全ては私たちを子羊の犠牲と結びつけることです。ミサは私たちの苦しみ、悲しみを聖化し、無限のお恵みをもたらします。ですから、ミサは天国への扉です。また、無原罪の聖母は十字架の下にいらっしゃいましたから、全てのミサにもいらっしゃるのです。
「神は喜んで与える者を愛する。」(コリント後9章7節)聖人達の生涯を見ると、聖人達がいかに十字架を愛していたかがわかります。聖アンドレアが遠くから十字架を見たとき、こう叫びました:「おお大切な十字架よ、主の御体が善きものとした十字架よ、いかに長く望んでいたことか!いかに温かく愛してきたことか!いかに常々捜してきたことか!いまや十字架が私に来たのだから、いかに私の魂が十字架に引かれることか!十字架が人々の中から私を迎え、私を私たちの主に再び結びつけんことを。主は十字架によって私をあがなってくださったので、十字架によって主が私をご自分のもとに引き寄せてくださいますように。」と。聖人でさえこのような感情を持っているのですから、十字架の下にいらっしゃる無原罪の聖母はいかにもっと強い感情をお持ちでしょうか!聖母はあがないの神秘が行なわれていることを理解し、至高の母なる愛をもってご自分の子と全く一体となられました。私たちも、聖霊のお恵みによって、イエズスとともに一つの生け贄となれるよう熱望しなくてはなりません。これがミサのお恵みです。
愛徳をもってすれば全てのものが変わり、愛することができるようになります、十字架でさえも!聖人達についてこのように書かれています:「るつぼの中の金のように神は彼らをえり分け、焼き尽くすいけにえの捧げ物として受け入れられた。主の訪れのとき、彼らは輝き渡る。」(知恵3章6節)と。金はるつぼの中で清められ、輝いて出てきます。霊魂も十字架の木とともに燃える愛徳の火によって清められるのです。そしてこれが聖霊の賜物です。
願わくは、私たちが「十字架の友」となれるよう、そして多くの人がそうであるように「キリストの十字架の敵」(フィリッピ3章18節)とならぬよう、無原罪の聖母がキリストの十字架の愛を私たちに下さいますように。願わくは、私たちが天国で栄光を受けておられるイエズスに近づけるよう、無原罪の聖母が十字架に付けられたイエズスに私たちを引き寄せてくださいますように。アーメン。
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