2016年5月5日 秋田巡礼 シュテーリン神父様霊的講話7
「本当の謙遜とは」
同時通訳:小野田圭志神父
天主の憐れみが私たちの心に注ぎ込まれる為の唯一の条件が、「謙遜」だという事を黙想しました。
マリア様の御生涯に於いて、色々な時に、色々な形で、そのご謙遜が現れたのを見ました。マリア様には必要がありませんが、私たちが謙遜になる為には、私たちには屈辱を受ける事、辱しめを受ける事が必要です。たとえマリア様はそれを受ける義務が必要がなかったにもかかわらず、私たちの良き母となる為に、また私たちに良き模範を示す為に、屈辱や辱しめを受けられました。
誰かを辱しめる、屈辱する、馬鹿にするというのは、その人を無視したり、それを無きものとするという事です。辱しめるという事は、その人が第2級市民であるかのように、下の地位に下の場所を与えるという事です。この私の持ってる価値を認める代わりに、それをゴミの中に捨ててしまう。
私たちの主イエズス・キリストとマリア様の御生涯は、まさにこの辱しめの連続でした。
天地の王であるイエズス・キリストをお生みになるその御母マリア様が、天地の元后であるマリア様が、「あなたの為には場所がありません」と聞いた時には、どれほどの辱しめを受けた、屈辱を受けたでしょうか。天主の御子、王の王を馬小屋で、臭い、汚い馬小屋で産まなければならなかったというのは、何という屈辱でしょうか。
王から極悪人であるかのように考えられ、そして諸国に留まる権利が無い者であるかのように逃げて、自分の国を逃げなければならなかったマリア様の屈辱はどれほど大きなものだったでしょうか。
追放されて逐謫の身になるという事の、自分の家から遠く離れて外国生活をするというのは、どれほどの苦しい事か分かりますか?
もしも誰かが、「あなたは外国人だ」「あなたは私たちに属していない、よそ者だ」という態度を取ると、どれほど私たちは屈辱を受ける事でしょうか。イエズス様とマリア様、ヨゼフ様が7年間エジプトで逃亡生活をされた時の思いがそれでした、屈辱でした。
皆さんは当然の権利として、自分の持っている自分の所有物である王宮に、きれいな宮殿の中に入る権利があります、自分のものですから。しかしそれに入るのを拒否されて、これを拒まれて否定されて、そして汚い、汚らしい豚小屋のような所に押し込められたとしたら、これは屈辱です。
この地上における最も高価な最も素晴らしい宮殿でさえも、天主の御子を受けるにはまだ足りないのです、相応しくありません。30年間イエズス様は、この天主の御子は、どこで過ごされたでしょうか?
ナザレトで。ナザレトのどこで?小さな家で。聖ヨゼフとマリア様の元で。そして聖ヨゼフが亡くなった後には、マリア様と共に小さな家で。
黙想してこの家を見て下さい、天使たちは奇跡的に、そこからロレットにイタリアに動かしました、家を。大きなカテドラルの中に小さなマリア様の家を見ます。「こんな小さなあばら家に、ほんの小さな所に、イエズス様は30年間住んだのですか?」
イエズス様の公生活が始まります。イエズス様の持っていた栄光の時はほんの僅かでした。いつも敵対と、そして屈辱とに囲まれていました。マリア様はご自分の御子に対してなされる敵対と憎しみの事をよく感じていました。ファリザイ人が噂話をしているのをちらりと聞く事もあったでしょう、「あぁあれが偽者、偽預言者のお母さんだ、母親だってよ。」
皆さんもしも、皆さんはこう立派な市民であって、立派なお母さん、婦人ですけれども、誰かが例えそれがもうふざけたものであったとしても、「あぁあれがあの極悪人の、人殺しの母親だってよ」という事を聞いたら、どれほど屈辱でしょうか。
私の両親は小さな村からやって来ました。私の父と母はレストランを経営していたので、ちょっとしたまぁ高貴な家族でした。でも私がこの呪われた聖伝を守っている神学校に入ったと聞いたら、私はまぁ神学校に居て、家から遠く離れているので別に苦しい事はありませんでした、でも私の故郷の村の人々は、父と母と話をするのをやめました、村八分が始まりました、「あぁこれがあの破門された離教の、ちょっと頭のおかしいグループの子供のお母さんだってよ。」
私の母は教会の小教区でとても重要な働きをしていて、そのたくさんの勤務をしていました。その私が神学校に入ったら、教区の小教区の司教様が主任司祭が、皆の前でお説教の時に、私の両親とは「決して話をしてはいけない」という話をしました。「何故ならば子供が、彼らは別の宗教に走ってしまったからだ。」
私が司祭に叙階されたら、本当なら私の生まれ故郷で初ミサがあるべきです。まずこの村の主任司祭は、私が初ミサを立てるのをその「教会でしてはいけない」と禁止して、そして市長は、この市民ホールを私の初ミサの為に使う事を、「お金を払っても禁止する」と言われました。そこで私は少し、その「屈辱」というのは何か体験して、何か分かったような気がします。
しかし、「イエズス様が十字架の上に付けられて、亡くなられた、死去された」という事と比べれば、私の屈辱は何でもありません。マリア様はそれほどその屈辱を受ける事を覚悟していました。これに反抗しようとも一つも思いませんでした。不平も一つもありません。これは極めて、最後の最後までの謙遜です。
そして最後に、十字架の上に付けられたイエズス様がマリア様に話した言葉は、何という屈辱だったでしょうか。イエズス様はマリア様に何を求めたでしょうか。「私の代わりに、私たちを子供として受け取るように。」
マリア様は交換をしなければなりませんでした。汚れのない聖なる天主の御子、王の王イエズス・キリストの代わりに、極悪のろくでもない、罪人の汚らしい子供を、自分の子供と交換に受け取らなければならない。最も清い聖なる方の代わりに、最も極悪の罪人を子供として受けなければならない。良き息子の非常にデリケートな愛を受ける代わりに、その代わりに、冷たい、冷淡で、無関心で、悪い態度を受けなければならない。
もしも皆さんお母さんが自分の息子を心からもう愛したとします。その代わりに天主様がやって来て、「あぁ、交換しなさい。このお前の愛する子供の代わりに、この子供を殺したその殺人犯を、子供として受けなさい。」
ただ「許せ」と言ったのだけではありません。「あなたがこの自分の子供を、自分自身の子供を愛したその同じ愛をもって、この殺人の、あなたの子供を殺した殺人のこの子を、自分の子供として愛しなさい。」
それはもうあまりにもたくさんの事を要求されると、もうとてもやり切れません。でもマリア様はそれを受け入れます。不平不満もなしに。
キリスト教生活における偉大な愛について、皆さん理解できたでしょうか。
最も悲惨で最も下の所には、もっとも高みに上がる事ができます。霊的な世界では、最も高いものは最も低くなります。この原理が分かれば、天主様が何かが分かります。イエズス様が理解できます。イエズス様の全ての救いの業が分かります。その時にマリア様の事が理解できます。
では、マリア様の「最も高み」と「最も低み」はどこでしょうか?
天主の最も高き御稜威いとも高き天主の御稜威が、それが最も下に降りて来ます。他方、マリア様という最も小さな被造物の無があります。この2つの存在は1つのチャンスしかありません。天主の方を向いて、これをお互いに受け取るという事です、「主よ、来て下さい。私は御身が必要です。」
この2つの両極端にはもう超える事のできないようなギャップがあるかのように思われます。私たちは天主の方に向いて、「あぁ、主よ来て下さい。御身が必要です」と言わなければなりません。
しかしだからといって、天主様が私の方に来るようにとさせる事はできません。私の方から橋を造って天主へと渡る事はできません。もしも私がそれをやろうとしたとしたら、それは全くの無謀な事で、無駄な事です。これが異教の宗教の本質です。異教の人々は、自分たちが無であるという事を知っています。しかしそれにもかかわらず、最もいとも高き存在である天主に橋をかけようとします、と主張しています。しかしそれは全く無理な事ですから、結局は自分の元にガシャリと落ちてしまいます。
イスラム教の人が何をやっているかを見て下さい。このカトリックでさえも今では讃美しているイスラム教の人々。イスラム教によれば、「私たちは橋を天主の前にかける事ができる、自分でできる」と言います。「規律を守れば良い」と。「こう5回こうやってお祈りして、1年に1回1ヶ月ラマダンの断食をして、もしもあなたができるならば聖なる戦いジハードをして、そうすれば天国に行ける。」
でも、それは無理です。本当は、真理はこうです。
本当の天主だけが憐れみ深く、そして私たちが謙遜であれば謙遜であるほど、私たちが無であるという事を自覚すればするほど、天主様が自ら進んで私たちの方に身を投げかけて、私たちの方にやって来られるのです。
ですから本当の道がどうであるか分かります。この最も高き所と最も低き所の真ん中に身を置く事です。つまり「私たちは無であり、無であり、何でもない」と心から、頭から、精神を込めて、「私は全く無で、天主に全く依存している」という事を、繰り返しそれを申し上げる事です。「私は無であるから何の権利もない、生きる権利もない、どのような才能を持つ権利もない、自分からは何ら期待する事はできない、他の被造物から何らの期待もできない。私に下さる事ができるのは、しかもたくさん豊かに下さる事ができるのは、天主のみである」と。
もしもそのような態度で天主に向かうならば、天主様はそのような信仰告白を喜ぶ事でしょう。
「私はあまりにも無であるから、自分の事を考える価値さえもない。あまりにも無であるので、自分の事だけをぐるぐるぐるぐるとこう考える事は全く意味がない。自分の事は全く忘れてしまって、私の気に入っている事のみならず、私の罪さえも、私は全くもうどうしようもない罪人で、過去天主を罪によって侮辱した、という事を知るだけで十分です。」
どうぞ、自分の過去の罪だけをいつも思ってぐるぐるぐるぐると、過去の事ばかりをこうやってぐるぐるぐるぐる考えないで下さい、「主よ、私はこれほど悪かったのです。5年前はこの罪を犯しました。2年前はこの罪を犯しました。15年前はこれをした!あぁ!これをしました!」
多くの人は、過去の罪の事をぐるぐるぐると何度も何度も思っています。自分の過去の事を許す事ができない人がいます。
聖マキシミリアノ・コルベは、このような人々を一言でこうコメントします、強い言葉です、「これは鼻につく傲慢だ」と。
「私は罪人であるから、御身天主のみだけに期待する事ができて、自分の事さえ考える事さえも意味がない。御身のみが私にそれを全てを下さる事ができて、あぁ、マリア様、御身のみが私を助けてくれる事ができるので、私は御身にのみ目を向けます。」私の無の為に、天主の計り知れない無限の憐れみに目を注ぐのです。これが謙遜です。
天主が皆さんの中に謙遜を見い出せば見い出すほど、ますます憐れみを皆さんに見せて下さいます。もっと多くの賜物を下さいます。ますます皆さんの謙遜が深くなれば深くなるほど、天主様はますます寛大にたくさんの事を与えて下さいます。低くなればなるほど、ますます高くなります。謙遜の極致があるところに、憐れみの極致があります。謙遜の一番の下があれば、天主の憐れみの一番の上があります。
これが天主様に対する真の態度であって、これを学ばなければなりません。自分がありのままの事でいて下さい。何も不満を言わないで下さい。そしてしかし同時に、自分の持っている才能や能力に自惚れないで下さい。自分はどれほど素晴らしいのかと考え続けないで下さい。また同時に、どれほど自分が悪いのかとも考え続けないで下さい。鏡をじっと見つめて或いはどれほど自分が美しいのかと自惚れたり、或いはどれほど自分が醜いのかと言って絶望したり、その両極端でないで下さい。
自分の健康、自分の歳、自分の問題などについて、自分の事を考えないで下さい。あたかも他人の事であるかのようには考えるようにしても、それほど真剣に何かその事だけを考えないで下さい。これは長い時間のかかる仕事ですけれども、私は無であるという事をますます深く確認して確信して下さい。何か「あぁ、私は無だ、あぁ、」というのではなくて、「私は無だ!」と、どうぞその自分が何でもないという事を喜んで下さい。
聖女マグダレナ・マリアのように、或いはザケオのように、「主よ、私の罪を全てあなたに差し出します」という事でそれを喜んで下さい。私の事についてたった一つの事しか思い出しません。憐れ、そして無価値、そして無。この自分が何もない無であるという事を確信して下さい。
皆さんこれはこの事を言うのですけれども、いつ言うか知っていますか?御聖体拝領の前にそう仰っています、3回仰います、「主よ、我不肖にして、私はあなたを受けるに相応しくない者です。」
「あぁ、」時々こういう事を聞きます、「神父様、私は司祭になるには相応しくありません。」「私はイエズス様の花嫁となるにはとても相応しくありません。」「私は御聖体拝領するにはあまりにも相応しくありません。」
では誰か相応しい人がいると思っているのですか?この世に?この地上にあなたよりも誰か相応しい人がいると思っていますか?天主様にとって、相応しくないというのは問題ではないのです。「私は相応しくない、アーメン」と言ってそのままん死んでしまうのはキリスト教ではありません。何故かというと、これは真理の一面ですから。真理のかけらですが、全てではありません。全ての真理を言わなければ、本当の謙遜にはなりません。
もしも友人の皆さん、もしもこんな事をいつも言っていたとしたら、それはもうやめて下さい。いつもいつもいつも自分の事だけを考えて、自分の事だけを考えて、というのはもうそれはする価値はありません。自分の事ではなく、もう天主様の方に向いてこう言って下さい、「ただ一言宣い給え。もしも一言さえ宣い給えば、我が霊魂は癒されん」と。
自分の無価値という事は一つの事ですけれども、それだけでは足りません。それから天主様の方に目をやって、もっと関心のある、もっと面白い、もっと興味のある、天主様の方に目を向けなければなりません。天主様の方がもっと黙想するに価値があり、もっとその為に生きるに価値があるものです。この天主の中に、偉大な愛と、偉大な光と、偉大な命を見出す事ができます。もはや天主様の方から目を離す事ができなくなるほどです、「あぁ主よ、御身はそれほど偉大であり、それほど優しく、それほど憐れみ深い方です。」「自分の事に関わるのは全く無価値だ、意味がない。だから天主様の事だけを考えよう。天主様の憐れみだけを考えよう」とすればするほど、天主は私たちに多くの恵みをますます下さるのです。
もしも信仰の真理が皆さんにとって退屈なものだとしたら、もしも天主の深い神秘の事を5分聞いた後にはこうコクリコクリとなってしまったとしたら、もしもこの全ての霊的な御言葉があまり面白くないと思われるならば、もしもそうだとしたら、皆さんは自分の事で頭がいっぱいだという証拠です。
ここで皆さん、何が謙遜で、何が傲慢かをよく理解されたはずです。傲慢というのは、「私の『無』というのは、『何か』だ」と思い込んでしまう事です。聖女カタリナに天主はこう言われました、「我は存りて存る者である。お前は無きて無き者である。」
傲慢とは何でしょうか?「私は小野田神父で、私は存る者だ。私の願いは私の望みはこうある。私の要求は存在する。私が本物だ。私が現実だ。日本、それは私だ。」そんな事を考えると、天主というのは現実ではなくなってしまいます。「天主、おお天主、御身は少し何か在るかのようです、でも無に等しい。 」
では皆さんこれで、謙遜の為に傲慢とどうやって戦ってよいか分かりましたね。私たちは天主の憐れみについて話をしています。
マリア様はその憐れみの全てのトップ、頂上、頂点を頂きましたが、それはマリア様が極めてご謙遜だったからです。聖マキシミリアノ・コルベはこう言っています、「もしあなたが全ての善徳と全ての徳を持っていたとしても、謙遜が無かったらそれは無に等しい。しかしあなたがたとえどんな徳の1つも持っていなかったとしても、謙遜であればあなたは正しい道を歩いている。」
この信仰の新鮮さを見て下さい。私たちは特に現代、よく自分の弱さを感じます。特に若い人たちは、この現代世界が彼らをこう圧迫して、物質主義或いは肉体快楽主義でいつも押し付けられているように感じています。そのような攻撃を色々な所から受けて、一体どうやって自分の霊魂を救ったら良いのだろうかと思っています。良いカトリック信者の最も大きな困難と障害は何でしょうか?
これは、落胆してしまう、がっかりしてしまう、「とってもできない、もう罪が多すぎる。とても抵抗できない。」
天主様はよく知っています。天主様はこんな事は言いません、「誰それはこの罪を犯した、さぁこの罪を犯した、この罪を犯したから、合計総計でこの罪、さぁこの支払いを払え!」とは言いません。
天主様はそうではなくて、「今日お前は、私と共に楽園にいるだろう。」これは十字架に付けられた極悪人に言った言葉です。超ヤクザの超マフィアのザケオにこう言いました、「今日私はお前の家に行く」と。「彼女の罪は許された。何故なら、彼女は多くを愛したから。」
気を付けて下さい。「天主は憐れみ深いから罪は関係ない。天主が憐れ深いのでホモでも何でもいいから罪でも犯しなさい、離婚でもしなさい。離婚して何でもやって良いよ。」これは正しい憐れみではありません。
答えは、「絶望するな」という事です。答えは、「謙遜であれ」という事です。私の憐れを良く認識して、私のこの汚物を、汚ならしさを認識して、それを「嫌だ!」と思う事です。「私はこの廃虚を好きではない!」と。「こんな廃虚は嫌だ!これから自由になりたい、でも私は弱い。」
ですからそのこれから解放される為には、1つのチャンスしかありません。自分の事ではなく、自分から天主に、イエズス様に目を向ける事です。この天主様の憐れみがたった1人の方に充満に現れています。マリア様は極めて謙遜の極限まで行かれた方なので、憐れみの極限を受けました。
マリア様はまずご自分の為にその憐れみを受けます。この謙遜の為に、マリア様は最も偉大な聖人になりました。全ての天使大天使の上に立つ天と地の元后になられました。しかし天主は、もしもマリア様にその憐れみの宝庫を与えたとしたら、それはマリア様の為だけではありません。もしもそれだけだったとしたら、「あぁ素晴らしい方だ」と感嘆する対象でしかありません。
マリア様がその憐れみの頂点のその極みを与えられたのは、「憐れみの母」となる為です。無であったマリア様がその憐れみの全てを受け取ったのは、自分の子供たちにその憐れみを全て与える為でした。天主様は憐れみの、その天主の王国の憐れみの次元を、憐れみの王国を全て、マリア様に委ねたのです。マリア様はこの世における、天主の憐れみの生ける体現した方です。
これからは天主が私たちにこう言うのです、「あなたは私の無限の憐れみが何か知りたいですか?」と。「もしも聖人になりたいですか?」「あなたの無を私の憐れみで満たしたいですか?」「私の元に来たいですか?」「聖人になりたいですか?」「母を見て下さい。」
マリア様には、「御身の子、ここにあり」と。
これが憐れみの御母であるマリア様です。この憐れみの母であるマリア様について、明日ますます考えていきましょう。
「本当の謙遜とは」
同時通訳:小野田圭志神父
天主の憐れみが私たちの心に注ぎ込まれる為の唯一の条件が、「謙遜」だという事を黙想しました。
マリア様の御生涯に於いて、色々な時に、色々な形で、そのご謙遜が現れたのを見ました。マリア様には必要がありませんが、私たちが謙遜になる為には、私たちには屈辱を受ける事、辱しめを受ける事が必要です。たとえマリア様はそれを受ける義務が必要がなかったにもかかわらず、私たちの良き母となる為に、また私たちに良き模範を示す為に、屈辱や辱しめを受けられました。
誰かを辱しめる、屈辱する、馬鹿にするというのは、その人を無視したり、それを無きものとするという事です。辱しめるという事は、その人が第2級市民であるかのように、下の地位に下の場所を与えるという事です。この私の持ってる価値を認める代わりに、それをゴミの中に捨ててしまう。
私たちの主イエズス・キリストとマリア様の御生涯は、まさにこの辱しめの連続でした。
天地の王であるイエズス・キリストをお生みになるその御母マリア様が、天地の元后であるマリア様が、「あなたの為には場所がありません」と聞いた時には、どれほどの辱しめを受けた、屈辱を受けたでしょうか。天主の御子、王の王を馬小屋で、臭い、汚い馬小屋で産まなければならなかったというのは、何という屈辱でしょうか。
王から極悪人であるかのように考えられ、そして諸国に留まる権利が無い者であるかのように逃げて、自分の国を逃げなければならなかったマリア様の屈辱はどれほど大きなものだったでしょうか。
追放されて逐謫の身になるという事の、自分の家から遠く離れて外国生活をするというのは、どれほどの苦しい事か分かりますか?
もしも誰かが、「あなたは外国人だ」「あなたは私たちに属していない、よそ者だ」という態度を取ると、どれほど私たちは屈辱を受ける事でしょうか。イエズス様とマリア様、ヨゼフ様が7年間エジプトで逃亡生活をされた時の思いがそれでした、屈辱でした。
皆さんは当然の権利として、自分の持っている自分の所有物である王宮に、きれいな宮殿の中に入る権利があります、自分のものですから。しかしそれに入るのを拒否されて、これを拒まれて否定されて、そして汚い、汚らしい豚小屋のような所に押し込められたとしたら、これは屈辱です。
この地上における最も高価な最も素晴らしい宮殿でさえも、天主の御子を受けるにはまだ足りないのです、相応しくありません。30年間イエズス様は、この天主の御子は、どこで過ごされたでしょうか?
ナザレトで。ナザレトのどこで?小さな家で。聖ヨゼフとマリア様の元で。そして聖ヨゼフが亡くなった後には、マリア様と共に小さな家で。
黙想してこの家を見て下さい、天使たちは奇跡的に、そこからロレットにイタリアに動かしました、家を。大きなカテドラルの中に小さなマリア様の家を見ます。「こんな小さなあばら家に、ほんの小さな所に、イエズス様は30年間住んだのですか?」
イエズス様の公生活が始まります。イエズス様の持っていた栄光の時はほんの僅かでした。いつも敵対と、そして屈辱とに囲まれていました。マリア様はご自分の御子に対してなされる敵対と憎しみの事をよく感じていました。ファリザイ人が噂話をしているのをちらりと聞く事もあったでしょう、「あぁあれが偽者、偽預言者のお母さんだ、母親だってよ。」
皆さんもしも、皆さんはこう立派な市民であって、立派なお母さん、婦人ですけれども、誰かが例えそれがもうふざけたものであったとしても、「あぁあれがあの極悪人の、人殺しの母親だってよ」という事を聞いたら、どれほど屈辱でしょうか。
私の両親は小さな村からやって来ました。私の父と母はレストランを経営していたので、ちょっとしたまぁ高貴な家族でした。でも私がこの呪われた聖伝を守っている神学校に入ったと聞いたら、私はまぁ神学校に居て、家から遠く離れているので別に苦しい事はありませんでした、でも私の故郷の村の人々は、父と母と話をするのをやめました、村八分が始まりました、「あぁこれがあの破門された離教の、ちょっと頭のおかしいグループの子供のお母さんだってよ。」
私の母は教会の小教区でとても重要な働きをしていて、そのたくさんの勤務をしていました。その私が神学校に入ったら、教区の小教区の司教様が主任司祭が、皆の前でお説教の時に、私の両親とは「決して話をしてはいけない」という話をしました。「何故ならば子供が、彼らは別の宗教に走ってしまったからだ。」
私が司祭に叙階されたら、本当なら私の生まれ故郷で初ミサがあるべきです。まずこの村の主任司祭は、私が初ミサを立てるのをその「教会でしてはいけない」と禁止して、そして市長は、この市民ホールを私の初ミサの為に使う事を、「お金を払っても禁止する」と言われました。そこで私は少し、その「屈辱」というのは何か体験して、何か分かったような気がします。
しかし、「イエズス様が十字架の上に付けられて、亡くなられた、死去された」という事と比べれば、私の屈辱は何でもありません。マリア様はそれほどその屈辱を受ける事を覚悟していました。これに反抗しようとも一つも思いませんでした。不平も一つもありません。これは極めて、最後の最後までの謙遜です。
そして最後に、十字架の上に付けられたイエズス様がマリア様に話した言葉は、何という屈辱だったでしょうか。イエズス様はマリア様に何を求めたでしょうか。「私の代わりに、私たちを子供として受け取るように。」
マリア様は交換をしなければなりませんでした。汚れのない聖なる天主の御子、王の王イエズス・キリストの代わりに、極悪のろくでもない、罪人の汚らしい子供を、自分の子供と交換に受け取らなければならない。最も清い聖なる方の代わりに、最も極悪の罪人を子供として受けなければならない。良き息子の非常にデリケートな愛を受ける代わりに、その代わりに、冷たい、冷淡で、無関心で、悪い態度を受けなければならない。
もしも皆さんお母さんが自分の息子を心からもう愛したとします。その代わりに天主様がやって来て、「あぁ、交換しなさい。このお前の愛する子供の代わりに、この子供を殺したその殺人犯を、子供として受けなさい。」
ただ「許せ」と言ったのだけではありません。「あなたがこの自分の子供を、自分自身の子供を愛したその同じ愛をもって、この殺人の、あなたの子供を殺した殺人のこの子を、自分の子供として愛しなさい。」
それはもうあまりにもたくさんの事を要求されると、もうとてもやり切れません。でもマリア様はそれを受け入れます。不平不満もなしに。
キリスト教生活における偉大な愛について、皆さん理解できたでしょうか。
最も悲惨で最も下の所には、もっとも高みに上がる事ができます。霊的な世界では、最も高いものは最も低くなります。この原理が分かれば、天主様が何かが分かります。イエズス様が理解できます。イエズス様の全ての救いの業が分かります。その時にマリア様の事が理解できます。
では、マリア様の「最も高み」と「最も低み」はどこでしょうか?
天主の最も高き御稜威いとも高き天主の御稜威が、それが最も下に降りて来ます。他方、マリア様という最も小さな被造物の無があります。この2つの存在は1つのチャンスしかありません。天主の方を向いて、これをお互いに受け取るという事です、「主よ、来て下さい。私は御身が必要です。」
この2つの両極端にはもう超える事のできないようなギャップがあるかのように思われます。私たちは天主の方に向いて、「あぁ、主よ来て下さい。御身が必要です」と言わなければなりません。
しかしだからといって、天主様が私の方に来るようにとさせる事はできません。私の方から橋を造って天主へと渡る事はできません。もしも私がそれをやろうとしたとしたら、それは全くの無謀な事で、無駄な事です。これが異教の宗教の本質です。異教の人々は、自分たちが無であるという事を知っています。しかしそれにもかかわらず、最もいとも高き存在である天主に橋をかけようとします、と主張しています。しかしそれは全く無理な事ですから、結局は自分の元にガシャリと落ちてしまいます。
イスラム教の人が何をやっているかを見て下さい。このカトリックでさえも今では讃美しているイスラム教の人々。イスラム教によれば、「私たちは橋を天主の前にかける事ができる、自分でできる」と言います。「規律を守れば良い」と。「こう5回こうやってお祈りして、1年に1回1ヶ月ラマダンの断食をして、もしもあなたができるならば聖なる戦いジハードをして、そうすれば天国に行ける。」
でも、それは無理です。本当は、真理はこうです。
本当の天主だけが憐れみ深く、そして私たちが謙遜であれば謙遜であるほど、私たちが無であるという事を自覚すればするほど、天主様が自ら進んで私たちの方に身を投げかけて、私たちの方にやって来られるのです。
ですから本当の道がどうであるか分かります。この最も高き所と最も低き所の真ん中に身を置く事です。つまり「私たちは無であり、無であり、何でもない」と心から、頭から、精神を込めて、「私は全く無で、天主に全く依存している」という事を、繰り返しそれを申し上げる事です。「私は無であるから何の権利もない、生きる権利もない、どのような才能を持つ権利もない、自分からは何ら期待する事はできない、他の被造物から何らの期待もできない。私に下さる事ができるのは、しかもたくさん豊かに下さる事ができるのは、天主のみである」と。
もしもそのような態度で天主に向かうならば、天主様はそのような信仰告白を喜ぶ事でしょう。
「私はあまりにも無であるから、自分の事を考える価値さえもない。あまりにも無であるので、自分の事だけをぐるぐるぐるぐるとこう考える事は全く意味がない。自分の事は全く忘れてしまって、私の気に入っている事のみならず、私の罪さえも、私は全くもうどうしようもない罪人で、過去天主を罪によって侮辱した、という事を知るだけで十分です。」
どうぞ、自分の過去の罪だけをいつも思ってぐるぐるぐるぐると、過去の事ばかりをこうやってぐるぐるぐるぐる考えないで下さい、「主よ、私はこれほど悪かったのです。5年前はこの罪を犯しました。2年前はこの罪を犯しました。15年前はこれをした!あぁ!これをしました!」
多くの人は、過去の罪の事をぐるぐるぐると何度も何度も思っています。自分の過去の事を許す事ができない人がいます。
聖マキシミリアノ・コルベは、このような人々を一言でこうコメントします、強い言葉です、「これは鼻につく傲慢だ」と。
「私は罪人であるから、御身天主のみだけに期待する事ができて、自分の事さえ考える事さえも意味がない。御身のみが私にそれを全てを下さる事ができて、あぁ、マリア様、御身のみが私を助けてくれる事ができるので、私は御身にのみ目を向けます。」私の無の為に、天主の計り知れない無限の憐れみに目を注ぐのです。これが謙遜です。
天主が皆さんの中に謙遜を見い出せば見い出すほど、ますます憐れみを皆さんに見せて下さいます。もっと多くの賜物を下さいます。ますます皆さんの謙遜が深くなれば深くなるほど、天主様はますます寛大にたくさんの事を与えて下さいます。低くなればなるほど、ますます高くなります。謙遜の極致があるところに、憐れみの極致があります。謙遜の一番の下があれば、天主の憐れみの一番の上があります。
これが天主様に対する真の態度であって、これを学ばなければなりません。自分がありのままの事でいて下さい。何も不満を言わないで下さい。そしてしかし同時に、自分の持っている才能や能力に自惚れないで下さい。自分はどれほど素晴らしいのかと考え続けないで下さい。また同時に、どれほど自分が悪いのかとも考え続けないで下さい。鏡をじっと見つめて或いはどれほど自分が美しいのかと自惚れたり、或いはどれほど自分が醜いのかと言って絶望したり、その両極端でないで下さい。
自分の健康、自分の歳、自分の問題などについて、自分の事を考えないで下さい。あたかも他人の事であるかのようには考えるようにしても、それほど真剣に何かその事だけを考えないで下さい。これは長い時間のかかる仕事ですけれども、私は無であるという事をますます深く確認して確信して下さい。何か「あぁ、私は無だ、あぁ、」というのではなくて、「私は無だ!」と、どうぞその自分が何でもないという事を喜んで下さい。
聖女マグダレナ・マリアのように、或いはザケオのように、「主よ、私の罪を全てあなたに差し出します」という事でそれを喜んで下さい。私の事についてたった一つの事しか思い出しません。憐れ、そして無価値、そして無。この自分が何もない無であるという事を確信して下さい。
皆さんこれはこの事を言うのですけれども、いつ言うか知っていますか?御聖体拝領の前にそう仰っています、3回仰います、「主よ、我不肖にして、私はあなたを受けるに相応しくない者です。」
「あぁ、」時々こういう事を聞きます、「神父様、私は司祭になるには相応しくありません。」「私はイエズス様の花嫁となるにはとても相応しくありません。」「私は御聖体拝領するにはあまりにも相応しくありません。」
では誰か相応しい人がいると思っているのですか?この世に?この地上にあなたよりも誰か相応しい人がいると思っていますか?天主様にとって、相応しくないというのは問題ではないのです。「私は相応しくない、アーメン」と言ってそのままん死んでしまうのはキリスト教ではありません。何故かというと、これは真理の一面ですから。真理のかけらですが、全てではありません。全ての真理を言わなければ、本当の謙遜にはなりません。
もしも友人の皆さん、もしもこんな事をいつも言っていたとしたら、それはもうやめて下さい。いつもいつもいつも自分の事だけを考えて、自分の事だけを考えて、というのはもうそれはする価値はありません。自分の事ではなく、もう天主様の方に向いてこう言って下さい、「ただ一言宣い給え。もしも一言さえ宣い給えば、我が霊魂は癒されん」と。
自分の無価値という事は一つの事ですけれども、それだけでは足りません。それから天主様の方に目をやって、もっと関心のある、もっと面白い、もっと興味のある、天主様の方に目を向けなければなりません。天主様の方がもっと黙想するに価値があり、もっとその為に生きるに価値があるものです。この天主の中に、偉大な愛と、偉大な光と、偉大な命を見出す事ができます。もはや天主様の方から目を離す事ができなくなるほどです、「あぁ主よ、御身はそれほど偉大であり、それほど優しく、それほど憐れみ深い方です。」「自分の事に関わるのは全く無価値だ、意味がない。だから天主様の事だけを考えよう。天主様の憐れみだけを考えよう」とすればするほど、天主は私たちに多くの恵みをますます下さるのです。
もしも信仰の真理が皆さんにとって退屈なものだとしたら、もしも天主の深い神秘の事を5分聞いた後にはこうコクリコクリとなってしまったとしたら、もしもこの全ての霊的な御言葉があまり面白くないと思われるならば、もしもそうだとしたら、皆さんは自分の事で頭がいっぱいだという証拠です。
ここで皆さん、何が謙遜で、何が傲慢かをよく理解されたはずです。傲慢というのは、「私の『無』というのは、『何か』だ」と思い込んでしまう事です。聖女カタリナに天主はこう言われました、「我は存りて存る者である。お前は無きて無き者である。」
傲慢とは何でしょうか?「私は小野田神父で、私は存る者だ。私の願いは私の望みはこうある。私の要求は存在する。私が本物だ。私が現実だ。日本、それは私だ。」そんな事を考えると、天主というのは現実ではなくなってしまいます。「天主、おお天主、御身は少し何か在るかのようです、でも無に等しい。 」
では皆さんこれで、謙遜の為に傲慢とどうやって戦ってよいか分かりましたね。私たちは天主の憐れみについて話をしています。
マリア様はその憐れみの全てのトップ、頂上、頂点を頂きましたが、それはマリア様が極めてご謙遜だったからです。聖マキシミリアノ・コルベはこう言っています、「もしあなたが全ての善徳と全ての徳を持っていたとしても、謙遜が無かったらそれは無に等しい。しかしあなたがたとえどんな徳の1つも持っていなかったとしても、謙遜であればあなたは正しい道を歩いている。」
この信仰の新鮮さを見て下さい。私たちは特に現代、よく自分の弱さを感じます。特に若い人たちは、この現代世界が彼らをこう圧迫して、物質主義或いは肉体快楽主義でいつも押し付けられているように感じています。そのような攻撃を色々な所から受けて、一体どうやって自分の霊魂を救ったら良いのだろうかと思っています。良いカトリック信者の最も大きな困難と障害は何でしょうか?
これは、落胆してしまう、がっかりしてしまう、「とってもできない、もう罪が多すぎる。とても抵抗できない。」
天主様はよく知っています。天主様はこんな事は言いません、「誰それはこの罪を犯した、さぁこの罪を犯した、この罪を犯したから、合計総計でこの罪、さぁこの支払いを払え!」とは言いません。
天主様はそうではなくて、「今日お前は、私と共に楽園にいるだろう。」これは十字架に付けられた極悪人に言った言葉です。超ヤクザの超マフィアのザケオにこう言いました、「今日私はお前の家に行く」と。「彼女の罪は許された。何故なら、彼女は多くを愛したから。」
気を付けて下さい。「天主は憐れみ深いから罪は関係ない。天主が憐れ深いのでホモでも何でもいいから罪でも犯しなさい、離婚でもしなさい。離婚して何でもやって良いよ。」これは正しい憐れみではありません。
答えは、「絶望するな」という事です。答えは、「謙遜であれ」という事です。私の憐れを良く認識して、私のこの汚物を、汚ならしさを認識して、それを「嫌だ!」と思う事です。「私はこの廃虚を好きではない!」と。「こんな廃虚は嫌だ!これから自由になりたい、でも私は弱い。」
ですからそのこれから解放される為には、1つのチャンスしかありません。自分の事ではなく、自分から天主に、イエズス様に目を向ける事です。この天主様の憐れみがたった1人の方に充満に現れています。マリア様は極めて謙遜の極限まで行かれた方なので、憐れみの極限を受けました。
マリア様はまずご自分の為にその憐れみを受けます。この謙遜の為に、マリア様は最も偉大な聖人になりました。全ての天使大天使の上に立つ天と地の元后になられました。しかし天主は、もしもマリア様にその憐れみの宝庫を与えたとしたら、それはマリア様の為だけではありません。もしもそれだけだったとしたら、「あぁ素晴らしい方だ」と感嘆する対象でしかありません。
マリア様がその憐れみの頂点のその極みを与えられたのは、「憐れみの母」となる為です。無であったマリア様がその憐れみの全てを受け取ったのは、自分の子供たちにその憐れみを全て与える為でした。天主様は憐れみの、その天主の王国の憐れみの次元を、憐れみの王国を全て、マリア様に委ねたのです。マリア様はこの世における、天主の憐れみの生ける体現した方です。
これからは天主が私たちにこう言うのです、「あなたは私の無限の憐れみが何か知りたいですか?」と。「もしも聖人になりたいですか?」「あなたの無を私の憐れみで満たしたいですか?」「私の元に来たいですか?」「聖人になりたいですか?」「母を見て下さい。」
マリア様には、「御身の子、ここにあり」と。
これが憐れみの御母であるマリア様です。この憐れみの母であるマリア様について、明日ますます考えていきましょう。