アヴェ・マリア・インマクラータ!
愛する兄弟姉妹の皆様、
レネー神父様のお説教 「御変容について」(日本語訳)をご紹介いたします。
天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)
2017年3月12日 四旬節第2主日―大阪
「御変容について」
親愛なる兄弟の皆さん、
主の御変容は、使徒たちの大いなる喜びの源でした。それは、聖ペトロが次のように言ったほどです。「主よ、私たちがここにいるのはよいことです。お望みなら、私はここに三つの幕屋をつくります。一つはあなたのために、一つはモーゼのために、一つはエリアのために」(マテオ17章4節)。聖ペトロは非常に幸せだったため、そこに留まりたかったのです、永遠に! では、聖にして母なる教会が四旬節の間の本日、私たちの主イエズス・キリストの御変容について観想させるのはなぜなのでしょうか? 第一には、御変容が祈りの模範であるからであり、第二には、御受難についての最初の預言、つまり「イエズスは、自分がエルザレムに行って長老、司祭長、律法学士たちから多くの苦しみを受け、そして殺され、三日目によみがえることを教え始められた」(マテオ16章21節)の一節の直後に起こったからです。
この告知は、使徒たちにとって受け入れがたいものでした。それで、首位権の約束を受けたばかりの聖ペトロは、主に反論してこう言いました。「主よ、そんなことは起こりませんように。いやいや、そんなことが身の上に起こることはありません」(マテオ16章22節)。主は彼をつけあがらせないように、こう言われました。「サタン、引きさがれ。私の邪魔をするな。あなたが思っているのは天主の考えではなく人間の考えだ」(マテオ16章23節)。
その後、私たちの主イエズス・キリストは、十字架を愛する必要性を教えられます。「私に従おうと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を担って従え。命を救おうと思う者はそれを失い、私のために命を失う者はそれを受ける。よし全世界をもうけても、命を失えば何の役に立つだろう」(マテオ16章24-26節)。主とともに自分の十字架を担うことが、救いに必要なのです! そして、それをもっと明らかにするために、主は最後の審判について、はっきりとこう言われます。「人の子は父の光栄のうちに天使たちとともに来て、その日各自の行いによって報いを与える」(マテオ16章27節)。
さて、これは非常に難しいように思えます。いったい誰がそんなことをできるでしょうか? いったい誰が、十字架につけられた主の弟子になりたいと思うでしょうか? 「十字架につけられたキリストは[まことに]ユダヤ人にとってつまずきであり、異邦人にとって愚かである」(コリント前書1章23節)のです。信仰において弱さを持つ人々にとって、時には非常に忠実な信者にとってさえも、キリストとともに自分の十字架を担う必要があるということは失望へと至らせかねません。それゆえに、彼らを励ますため、主はこう言ってお話を終えられます。「まことに私は言う。ここにいる人のうちに、人の子がその王国とともに来るのを見るまでは死を味わわぬ者もいる」(マテオ16章28節)。六日ののち、主は三人の選ばれた使徒たち、ペトロ、ヤコボ、ヨハネに御変容をお見せになるのです。
これは非常に重要です。私たちの主イエズス・キリストは、主とともに自分の十字架を担うよう私たちに要求する権利をお持ちです。正確にいえば、その理由は、主が私たちに対して無限の価値を持つ報いをお与えになるからです。天国で主とともにいる永遠の至福、至聖三位一体と永遠に顔と顔を合わせて見つめることができるのです! ですから、私たちは聖ペトロとともに、まことにこう言うことができるのです。「主よ、私たちがここにいるのはよいことです!」(マテオ17章4節)。そして、私たちはそこに永遠に住みます。幕屋ではなく、天の御父の家に住むのです。
この世ののちには、私たちの主イエズス・キリストに従うことへの報いは無限の価値を持ちますが、それだけでなく、ここ地上においても、主は私たちを助け、祈りにおいて、観想において、私たちの心を喜ばせてくださいます。これがまことのキリスト教的生活の美しさ、聖人たちの生活の美しさなのです。これは天主との非常に深い友情関係の生活です。愛徳―「すべての心、すべての霊、すべての力、すべての知恵をあげて[すべてに超えて]主なる天主を愛」(ルカ10章27節)すること―そして、その愛から隣人への愛が流れ出るのです。さて、その天主への愛は第一に、観想において、祈りにおいてなされるのです。
さて、御変容は祈りの素晴らしい模範、観想の模範です。私たちがまことに天主を愛するなら、私たちは天主のことを気に掛け、私たちの思いは常に天主に向きます。「私の目はつねに主を見つめる」(詩篇24章15節)。「いつも私は主のおそばにいた。主は私の右に立たれる、私はゆらがない」(詩篇15章8節)。私たちの精神に天主への燃えるような渇きを与えるその愛徳は、朝一番に祈りへと導きます。「天主よ、私の天主よ、私の魂は切にあなたを求め、あなたに渇く」(詩篇62章2節)。「私の魂は強き生ける天主を慕う。『いつ私は行って、天主のみ顔を仰げようか』」(詩篇41章3節)。
さて、祈りとは、自分の霊魂を天主へと高く上げることにあります。ちょうど御変容の山であるタボル山へ登るように。その高く上げることというのは、もちろん物質的な動きではなく、霊魂を低級なものごとから、被造物から引き離し、天主が住み給う被造物でない光を探し求めるようにさせることです。実際、天主は「近づけぬ光のうちに住まわれ、どんな人も見たことはなくまた見ることもできぬ、唯一の不滅の天主。天主に代々に誉れと権力があるように」(ティモテオ前書6章16節)。天主が天国で私たちに御自分を完全に与えてくださるおつもりがなかったならば、私たちは決して天主を見ることはできなかったでしょう。そんな約束を受けたのですから、私たちはそれを見るのを熱心に願うのです。「実に、あなたには命の泉があり、その光において、われらは光を見る」(詩篇35章10節)。ここ地上では、私たちは完全なビジョン[至福直観]を得ることができないにもかかわらず、私たちはまだ天主の光によって照らしを受けることが可能なのです。「主を見上げよ、そうすれば光り輝き、あなたたちの顔は恥辱を受けまい」(詩篇33章6節)。
御父を見いだす道は、私たちの主イエズス・キリストです。「私は道であり、真理であり、命である。私によらずには誰一人父のみもとには行けない」(ヨハネ14章6節)。キリストを拒否することによって、異邦人は天主を見いだすことができません。異邦人は「無であること―涅槃」を見いだすしかなく、天主の充満を見いだしはしません! しかし、私たちの主イエズス・キリストをその神秘において観想することで、主のみ言葉を聞いて黙想することで、私たちは自分の霊魂にキリストの光を受けるのです。「私たちはみな覆いを顔に垂れず、鏡に映すように主の光栄を映し、霊なる主によってますます光栄を増すその同じ姿に変わる」(コリント後書3章18節)のです。
祈りは一定の準備を必要とします。祈りには二つの準備があります。長い期間を必要とする準備と、すぐにできる準備です。長い期間を必要とする準備は、私たちの主イエズス・キリストの教理の勉強から成っています。それは、聖なる読書、福音を読むこと、カテキズムを読むこと、聖人たちや他の聖なる筆者が書いたものを読むことを通じてなされます。読むのに良いものは、それほど多くはありません。くだらないものは読むべきではありません。時間が十分にある訳ではなく、無益なものに時間を費やさないでください。ましてや、悪い書物に時間を費やすのは、もちろん問題外です。良いものであっても、最も高い価値のあるもの、聖人たちの書いたものを読むようにしてください。実際、聖人たちの書いたものには何か特別なものがあります。これらの聖なる男女は天主の霊で満たされていたため、彼らの行為には何か、天主についての知識と天主への愛が息づいているようです。このように、彼らの書いたものには、他の筆者にはほとんど見いだすことのできない霊的な味わいと高い価値があります。ですから私は、聖人たちの書いたものを読むよう強く推薦します。それは素晴らしい準備で、長い期間を必要とする準備です。なぜなら、良きかつ聖なる考えで精神を満たし、それが祈りの時間に簡単に頭に浮かぶまでにするからです。その反対に、自分の時間を(悪い映画などではなくても)テレビを見るのに費やす人々は、そんな無益な映像が祈りの時間になっても彼らの脳裏を離れず、祈ることをさらにひどく困難にしてしまうのです。
すぐにできる準備は、自分で瞑想することです。私たちは、地上で気にかけていることを[これから登っていく]山のふもとで後回しにし、それらの荷を下ろし、「唯一の必要なもの」に、天主に集中しなければなりません。その準備には、あとで説明するように、私たちの道徳上の一定の清めが必要です。それから、この準備は黙想したいと思う福音の言葉あるいは場面をよく思い、その光を求める祈り、主の恩寵を求める祈りを思うべきです。優れた観想者だった聖人たちの助けを求めるのがよいでしょう。彼らは、聖ヨゼフ、アヴィラの聖テレジア、そしてとりわけ私たちの祝されし御母です。
その準備ののち、祈りの中心は、信仰の行い、信仰の目で神秘を見ることによる知性の訓練です。それについて、聖パウロはこう言います。「心の眼を照らし、あなたたちがどれほどの希望に召され、遺産として聖徒にどれほどの光栄の宝が準備されているか…を知らせるためである」(エフェゾ1章18節)。これらの信仰の行い、この知性の活動を、規則的な霊的読書の習慣が非常に助けます。皆さんが自分の精神を私たちの主イエズス・キリストの教えで養うことがないならば、いったいどのようにして祈りの時間にそれを黙想できると思っているのですか? しかし、皆さんが主の教理をよく知っているのなら、皆さんがカテキズムを、ミサ典書を、聖福音を十分に知っているのなら、祈りは簡単になり、これらの聖なる真理はすべて皆さんの精神に簡単に入っていくのです。
これらの信仰の行いは愛徳の行いに至らなければなりません。私たちの天主への愛を、私たちの主イエズス・キリストへの愛を、聖母や聖人たちへの愛を広げるのです。天主に対する愛徳の行いのうち、祈りの中で中心を占める重要なものが一つあります。それは、天主をお喜ばせすることです。詩篇作者はこう言います。「主を喜びとすれば、主はあなたの心の望みをかなえられる」(詩篇36章4節)。またイザヤはこう言います。「おまえは主において楽しみを見いだす。私は、おまえに地の高いところを踏ませ、父ヤコブの遺産を味わわせる」(イザヤ58章14節)。親友が幸せであるなら、私たちは親友の幸せを共有します。さて、天主は私たちの最高の友でいらっしゃり、最高の幸せを持っておられます。そのため、私たちが天主をまことに愛するならば、私たちは「主を喜びとす」べきであるというのが普通のことなのです。
その愛徳は効果的であるべきであり、私たちの生活に本当の改善を引き起こすべきです。その後、良き祈りは良き行為へと導き、私たちの主イエズス・キリストの聖性と相容れないものをすべて生活の中から一掃し、主に倣うために、私たちの生活、行いにおいて、主がまことに統治なさるために、すべての徳を促進させるべきです。良きかつ実践的な具体的決心を引き出して、その後、この良き決心に一日中忠実である恩寵を願うのはよいことです。
私たちの主イエズス・キリストの砂漠での四十日間を黙想すれば、祈りと苦行の実を見ることができます。主は四十日間断食なさっており、これは主の公の役務(えきむ)のための準備であるこの聖なる時間についての否定的な面[自己否定の面]です。とりわけ、主は四十日間祈られており、これはこの聖なる時間の肯定的な面です。その後、祈りと苦行によって強められて、主は悪魔の誘惑に打ち勝つ用意を整えられたのです。私たちもまた、主の模範に倣い、祈りと断食によって受けた主の恩寵によって強さを与えられて、誘惑に抵抗し罪に対する勝利を得るよう強められるでしょう。実際、祈りがなければその勝利を得ることは不可能です。祈りは誘惑に打ち勝つために必要な手段です。それゆえに、聖アルフォンソ・リグオリは、祈りは救いに必要であると言っています。
祈りが苦行と一緒に行われたときには、非常に特別な強さと力があることに気を付けてください。苦行をせずに祈りたいと言う人々もいますが、それでは十分ではありません。私たちの主イエズス・キリスト御自身が、砂漠で私たちに模範を示してくださいました。主ははっきりとこう教えられました。「この種のもの[悪魔]は祈りと断食によらずには追い出せぬ」(マルコ9章28節)。ルルドの聖母は、私たちにこう思い出させてくださいます。「祈って償いをしなさい!」。
主は祈る義務のことを強く言われます。「うまずたゆまず祈れ」(ルカ18章1節)。主は私たちにお命じになります。「求めよ、そうすれば与えられる。探せ、そうすれば見いだす。たたけ、そうすれば開かれる」(マテオ7章7節)。三度にわたって主は私たちにお命じになります。求めるよう、探すよう、たたくようにと。そして主は、再び三度にわたって祈りの報いを約束なさいました。与えられる、見いだす、開かれると。また繰り返し、主は御自分の約束を確認なさいます。「求める人は受け、探す人は見いだし、たたく人は開かれる」(マテオ7章8節)。ですから、私たちは確信をもって祈るのです。
すべての祈りの模範は「天にまします(主祷文)」です。この祈りは私たちに、求めるべきことを美しく教えてくれます。私たちはまず第一に、霊的なことを、天主を敬うことを求めます。これは、天主の御名がすべての人によって敬われ、聖なるものの中の聖なるものとして保たれることです。私たちは、天主の御顔を見て天国で永遠に天主の栄光を歌う恩寵を求めます。これが完全な天主の国です。私たちはこの国が地上で拡大していくことを求め、地上のすべての人が、天国で行われるように天主の御意志を行うことを求めます。その後、地上で私たちは「日用の糧」(マテオ6章11節)を求めますが、これは、私たちの霊魂のための最高の食べ物であり御托身になった天主のみ言葉そのものである御聖体のことです。「人はパンだけで生きるのではない。天主の口から出るすべての言葉によって生きる」(マテオ4章4節)。その後、私たちは、どんな犠牲を払ってでも避けるべき罪に対する赦しを求めます。私たちは誘惑に対する勝利と、他のあらゆる悪から解放されることを求めます。
タボル山は、私たちをカルワリオの山へと導きます。四旬節全体が聖金曜日と復活祭に向けられています。キリストの啓示の最高のものは、タボル山においてではなく、むしろカルワリオの山においてなされます。そこにおいてまことに、洗者聖ヨハネの言葉が、その完全な意味を示します。「見よ、天主の小羊を、見よ、世の罪を取り除く御者を」(ヨハネ1章29節)。そこにおいて、私たちは御父の栄光を発見します。御父の誉れは、その完全な犠牲によって回復するのです。私たちは、天主の御子の血によって贖われることを必要とする[意図的な]悪意の罪を理解します。そこにおいて、私たちは、自分の罪と世の罪を償うために、キリストとともに自分を犠牲として捧げることを学びます。四旬節の間に、私たちは主の御受難をもっと黙想すべきです。断食と苦行の実践によって、私たちは御受難にあずかり、復活祭に栄光を受けたイエズスと一つになるために、苦しみを受けたイエズスと一つになるよう努めるのです。聖パウロは実際、こう言います。「私たちは天主の子である。私たちが子であるなら世継ぎでもある。キリストとともに光栄を受けるために、その苦しみをともに受けるなら、私たちは天主の世継ぎであって、キリストとともに世継ぎである」(ローマ8章16-17節)。
そして、このキリストの御受難においてキリストと一致することは、まさにミサの核心です。それゆえに、四旬節において、私たちは、もっと頻繁にミサにあずかることが奨励されています。皆さんにとって、それが難しいことを私は知っています。司祭がいつもここにいる訳ではありませんから。しかし、皆さんは家庭で毎日、ミサについて読んだり黙想したりできるでしょう。実際、四旬節は毎日、その日のための特別なミサがあり、これらのミサの朗読や祈りを黙想することは非常に有益です。それらのミサは、罪の償い、善業の実践、祈り、主の御受難にあずかることなど、教会の精神全体を具体的に表現しているのですから。
祈るための、また主の御受難に入っていくための最も良い方法は、聖母に従うことです。聖母の全生涯は祈りの生活でした。どれほどの祈りだったでしょうか! 聖母の汚れなき御心の祈りがどれほどのものだったか、私たちに想像できるでしょうか? マグニフィカトは非常に崇高な祈りです。十字架の下での聖母の思いはどのようなものだったでしょうか? ナザレトでの聖母の全生涯は祈りの生活でしたし、その後は主に従って、主の公生活の間、聖なる婦人たちの一団を率いておられました。主は説教をなさっており、聖母は祈っておられました! ですからその後聖母は、聖なる婦人たちを十字架の下まで導かれます。再び、主は御自分を捧げておられ、聖母は主ととともに、新しいアダムに「彼に似合った助け手」(創世記2章18節)として与えられた新しいエバとして、御自分を捧げておられました。おお、マリアよ、私たちに祈る方法を教え給え!
アーメン。
愛する兄弟姉妹の皆様、
レネー神父様のお説教 「御変容について」(日本語訳)をご紹介いたします。
天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)
2017年3月12日 四旬節第2主日―大阪
「御変容について」
親愛なる兄弟の皆さん、
主の御変容は、使徒たちの大いなる喜びの源でした。それは、聖ペトロが次のように言ったほどです。「主よ、私たちがここにいるのはよいことです。お望みなら、私はここに三つの幕屋をつくります。一つはあなたのために、一つはモーゼのために、一つはエリアのために」(マテオ17章4節)。聖ペトロは非常に幸せだったため、そこに留まりたかったのです、永遠に! では、聖にして母なる教会が四旬節の間の本日、私たちの主イエズス・キリストの御変容について観想させるのはなぜなのでしょうか? 第一には、御変容が祈りの模範であるからであり、第二には、御受難についての最初の預言、つまり「イエズスは、自分がエルザレムに行って長老、司祭長、律法学士たちから多くの苦しみを受け、そして殺され、三日目によみがえることを教え始められた」(マテオ16章21節)の一節の直後に起こったからです。
この告知は、使徒たちにとって受け入れがたいものでした。それで、首位権の約束を受けたばかりの聖ペトロは、主に反論してこう言いました。「主よ、そんなことは起こりませんように。いやいや、そんなことが身の上に起こることはありません」(マテオ16章22節)。主は彼をつけあがらせないように、こう言われました。「サタン、引きさがれ。私の邪魔をするな。あなたが思っているのは天主の考えではなく人間の考えだ」(マテオ16章23節)。
その後、私たちの主イエズス・キリストは、十字架を愛する必要性を教えられます。「私に従おうと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を担って従え。命を救おうと思う者はそれを失い、私のために命を失う者はそれを受ける。よし全世界をもうけても、命を失えば何の役に立つだろう」(マテオ16章24-26節)。主とともに自分の十字架を担うことが、救いに必要なのです! そして、それをもっと明らかにするために、主は最後の審判について、はっきりとこう言われます。「人の子は父の光栄のうちに天使たちとともに来て、その日各自の行いによって報いを与える」(マテオ16章27節)。
さて、これは非常に難しいように思えます。いったい誰がそんなことをできるでしょうか? いったい誰が、十字架につけられた主の弟子になりたいと思うでしょうか? 「十字架につけられたキリストは[まことに]ユダヤ人にとってつまずきであり、異邦人にとって愚かである」(コリント前書1章23節)のです。信仰において弱さを持つ人々にとって、時には非常に忠実な信者にとってさえも、キリストとともに自分の十字架を担う必要があるということは失望へと至らせかねません。それゆえに、彼らを励ますため、主はこう言ってお話を終えられます。「まことに私は言う。ここにいる人のうちに、人の子がその王国とともに来るのを見るまでは死を味わわぬ者もいる」(マテオ16章28節)。六日ののち、主は三人の選ばれた使徒たち、ペトロ、ヤコボ、ヨハネに御変容をお見せになるのです。
これは非常に重要です。私たちの主イエズス・キリストは、主とともに自分の十字架を担うよう私たちに要求する権利をお持ちです。正確にいえば、その理由は、主が私たちに対して無限の価値を持つ報いをお与えになるからです。天国で主とともにいる永遠の至福、至聖三位一体と永遠に顔と顔を合わせて見つめることができるのです! ですから、私たちは聖ペトロとともに、まことにこう言うことができるのです。「主よ、私たちがここにいるのはよいことです!」(マテオ17章4節)。そして、私たちはそこに永遠に住みます。幕屋ではなく、天の御父の家に住むのです。
この世ののちには、私たちの主イエズス・キリストに従うことへの報いは無限の価値を持ちますが、それだけでなく、ここ地上においても、主は私たちを助け、祈りにおいて、観想において、私たちの心を喜ばせてくださいます。これがまことのキリスト教的生活の美しさ、聖人たちの生活の美しさなのです。これは天主との非常に深い友情関係の生活です。愛徳―「すべての心、すべての霊、すべての力、すべての知恵をあげて[すべてに超えて]主なる天主を愛」(ルカ10章27節)すること―そして、その愛から隣人への愛が流れ出るのです。さて、その天主への愛は第一に、観想において、祈りにおいてなされるのです。
さて、御変容は祈りの素晴らしい模範、観想の模範です。私たちがまことに天主を愛するなら、私たちは天主のことを気に掛け、私たちの思いは常に天主に向きます。「私の目はつねに主を見つめる」(詩篇24章15節)。「いつも私は主のおそばにいた。主は私の右に立たれる、私はゆらがない」(詩篇15章8節)。私たちの精神に天主への燃えるような渇きを与えるその愛徳は、朝一番に祈りへと導きます。「天主よ、私の天主よ、私の魂は切にあなたを求め、あなたに渇く」(詩篇62章2節)。「私の魂は強き生ける天主を慕う。『いつ私は行って、天主のみ顔を仰げようか』」(詩篇41章3節)。
さて、祈りとは、自分の霊魂を天主へと高く上げることにあります。ちょうど御変容の山であるタボル山へ登るように。その高く上げることというのは、もちろん物質的な動きではなく、霊魂を低級なものごとから、被造物から引き離し、天主が住み給う被造物でない光を探し求めるようにさせることです。実際、天主は「近づけぬ光のうちに住まわれ、どんな人も見たことはなくまた見ることもできぬ、唯一の不滅の天主。天主に代々に誉れと権力があるように」(ティモテオ前書6章16節)。天主が天国で私たちに御自分を完全に与えてくださるおつもりがなかったならば、私たちは決して天主を見ることはできなかったでしょう。そんな約束を受けたのですから、私たちはそれを見るのを熱心に願うのです。「実に、あなたには命の泉があり、その光において、われらは光を見る」(詩篇35章10節)。ここ地上では、私たちは完全なビジョン[至福直観]を得ることができないにもかかわらず、私たちはまだ天主の光によって照らしを受けることが可能なのです。「主を見上げよ、そうすれば光り輝き、あなたたちの顔は恥辱を受けまい」(詩篇33章6節)。
御父を見いだす道は、私たちの主イエズス・キリストです。「私は道であり、真理であり、命である。私によらずには誰一人父のみもとには行けない」(ヨハネ14章6節)。キリストを拒否することによって、異邦人は天主を見いだすことができません。異邦人は「無であること―涅槃」を見いだすしかなく、天主の充満を見いだしはしません! しかし、私たちの主イエズス・キリストをその神秘において観想することで、主のみ言葉を聞いて黙想することで、私たちは自分の霊魂にキリストの光を受けるのです。「私たちはみな覆いを顔に垂れず、鏡に映すように主の光栄を映し、霊なる主によってますます光栄を増すその同じ姿に変わる」(コリント後書3章18節)のです。
祈りは一定の準備を必要とします。祈りには二つの準備があります。長い期間を必要とする準備と、すぐにできる準備です。長い期間を必要とする準備は、私たちの主イエズス・キリストの教理の勉強から成っています。それは、聖なる読書、福音を読むこと、カテキズムを読むこと、聖人たちや他の聖なる筆者が書いたものを読むことを通じてなされます。読むのに良いものは、それほど多くはありません。くだらないものは読むべきではありません。時間が十分にある訳ではなく、無益なものに時間を費やさないでください。ましてや、悪い書物に時間を費やすのは、もちろん問題外です。良いものであっても、最も高い価値のあるもの、聖人たちの書いたものを読むようにしてください。実際、聖人たちの書いたものには何か特別なものがあります。これらの聖なる男女は天主の霊で満たされていたため、彼らの行為には何か、天主についての知識と天主への愛が息づいているようです。このように、彼らの書いたものには、他の筆者にはほとんど見いだすことのできない霊的な味わいと高い価値があります。ですから私は、聖人たちの書いたものを読むよう強く推薦します。それは素晴らしい準備で、長い期間を必要とする準備です。なぜなら、良きかつ聖なる考えで精神を満たし、それが祈りの時間に簡単に頭に浮かぶまでにするからです。その反対に、自分の時間を(悪い映画などではなくても)テレビを見るのに費やす人々は、そんな無益な映像が祈りの時間になっても彼らの脳裏を離れず、祈ることをさらにひどく困難にしてしまうのです。
すぐにできる準備は、自分で瞑想することです。私たちは、地上で気にかけていることを[これから登っていく]山のふもとで後回しにし、それらの荷を下ろし、「唯一の必要なもの」に、天主に集中しなければなりません。その準備には、あとで説明するように、私たちの道徳上の一定の清めが必要です。それから、この準備は黙想したいと思う福音の言葉あるいは場面をよく思い、その光を求める祈り、主の恩寵を求める祈りを思うべきです。優れた観想者だった聖人たちの助けを求めるのがよいでしょう。彼らは、聖ヨゼフ、アヴィラの聖テレジア、そしてとりわけ私たちの祝されし御母です。
その準備ののち、祈りの中心は、信仰の行い、信仰の目で神秘を見ることによる知性の訓練です。それについて、聖パウロはこう言います。「心の眼を照らし、あなたたちがどれほどの希望に召され、遺産として聖徒にどれほどの光栄の宝が準備されているか…を知らせるためである」(エフェゾ1章18節)。これらの信仰の行い、この知性の活動を、規則的な霊的読書の習慣が非常に助けます。皆さんが自分の精神を私たちの主イエズス・キリストの教えで養うことがないならば、いったいどのようにして祈りの時間にそれを黙想できると思っているのですか? しかし、皆さんが主の教理をよく知っているのなら、皆さんがカテキズムを、ミサ典書を、聖福音を十分に知っているのなら、祈りは簡単になり、これらの聖なる真理はすべて皆さんの精神に簡単に入っていくのです。
これらの信仰の行いは愛徳の行いに至らなければなりません。私たちの天主への愛を、私たちの主イエズス・キリストへの愛を、聖母や聖人たちへの愛を広げるのです。天主に対する愛徳の行いのうち、祈りの中で中心を占める重要なものが一つあります。それは、天主をお喜ばせすることです。詩篇作者はこう言います。「主を喜びとすれば、主はあなたの心の望みをかなえられる」(詩篇36章4節)。またイザヤはこう言います。「おまえは主において楽しみを見いだす。私は、おまえに地の高いところを踏ませ、父ヤコブの遺産を味わわせる」(イザヤ58章14節)。親友が幸せであるなら、私たちは親友の幸せを共有します。さて、天主は私たちの最高の友でいらっしゃり、最高の幸せを持っておられます。そのため、私たちが天主をまことに愛するならば、私たちは「主を喜びとす」べきであるというのが普通のことなのです。
その愛徳は効果的であるべきであり、私たちの生活に本当の改善を引き起こすべきです。その後、良き祈りは良き行為へと導き、私たちの主イエズス・キリストの聖性と相容れないものをすべて生活の中から一掃し、主に倣うために、私たちの生活、行いにおいて、主がまことに統治なさるために、すべての徳を促進させるべきです。良きかつ実践的な具体的決心を引き出して、その後、この良き決心に一日中忠実である恩寵を願うのはよいことです。
私たちの主イエズス・キリストの砂漠での四十日間を黙想すれば、祈りと苦行の実を見ることができます。主は四十日間断食なさっており、これは主の公の役務(えきむ)のための準備であるこの聖なる時間についての否定的な面[自己否定の面]です。とりわけ、主は四十日間祈られており、これはこの聖なる時間の肯定的な面です。その後、祈りと苦行によって強められて、主は悪魔の誘惑に打ち勝つ用意を整えられたのです。私たちもまた、主の模範に倣い、祈りと断食によって受けた主の恩寵によって強さを与えられて、誘惑に抵抗し罪に対する勝利を得るよう強められるでしょう。実際、祈りがなければその勝利を得ることは不可能です。祈りは誘惑に打ち勝つために必要な手段です。それゆえに、聖アルフォンソ・リグオリは、祈りは救いに必要であると言っています。
祈りが苦行と一緒に行われたときには、非常に特別な強さと力があることに気を付けてください。苦行をせずに祈りたいと言う人々もいますが、それでは十分ではありません。私たちの主イエズス・キリスト御自身が、砂漠で私たちに模範を示してくださいました。主ははっきりとこう教えられました。「この種のもの[悪魔]は祈りと断食によらずには追い出せぬ」(マルコ9章28節)。ルルドの聖母は、私たちにこう思い出させてくださいます。「祈って償いをしなさい!」。
主は祈る義務のことを強く言われます。「うまずたゆまず祈れ」(ルカ18章1節)。主は私たちにお命じになります。「求めよ、そうすれば与えられる。探せ、そうすれば見いだす。たたけ、そうすれば開かれる」(マテオ7章7節)。三度にわたって主は私たちにお命じになります。求めるよう、探すよう、たたくようにと。そして主は、再び三度にわたって祈りの報いを約束なさいました。与えられる、見いだす、開かれると。また繰り返し、主は御自分の約束を確認なさいます。「求める人は受け、探す人は見いだし、たたく人は開かれる」(マテオ7章8節)。ですから、私たちは確信をもって祈るのです。
すべての祈りの模範は「天にまします(主祷文)」です。この祈りは私たちに、求めるべきことを美しく教えてくれます。私たちはまず第一に、霊的なことを、天主を敬うことを求めます。これは、天主の御名がすべての人によって敬われ、聖なるものの中の聖なるものとして保たれることです。私たちは、天主の御顔を見て天国で永遠に天主の栄光を歌う恩寵を求めます。これが完全な天主の国です。私たちはこの国が地上で拡大していくことを求め、地上のすべての人が、天国で行われるように天主の御意志を行うことを求めます。その後、地上で私たちは「日用の糧」(マテオ6章11節)を求めますが、これは、私たちの霊魂のための最高の食べ物であり御托身になった天主のみ言葉そのものである御聖体のことです。「人はパンだけで生きるのではない。天主の口から出るすべての言葉によって生きる」(マテオ4章4節)。その後、私たちは、どんな犠牲を払ってでも避けるべき罪に対する赦しを求めます。私たちは誘惑に対する勝利と、他のあらゆる悪から解放されることを求めます。
タボル山は、私たちをカルワリオの山へと導きます。四旬節全体が聖金曜日と復活祭に向けられています。キリストの啓示の最高のものは、タボル山においてではなく、むしろカルワリオの山においてなされます。そこにおいてまことに、洗者聖ヨハネの言葉が、その完全な意味を示します。「見よ、天主の小羊を、見よ、世の罪を取り除く御者を」(ヨハネ1章29節)。そこにおいて、私たちは御父の栄光を発見します。御父の誉れは、その完全な犠牲によって回復するのです。私たちは、天主の御子の血によって贖われることを必要とする[意図的な]悪意の罪を理解します。そこにおいて、私たちは、自分の罪と世の罪を償うために、キリストとともに自分を犠牲として捧げることを学びます。四旬節の間に、私たちは主の御受難をもっと黙想すべきです。断食と苦行の実践によって、私たちは御受難にあずかり、復活祭に栄光を受けたイエズスと一つになるために、苦しみを受けたイエズスと一つになるよう努めるのです。聖パウロは実際、こう言います。「私たちは天主の子である。私たちが子であるなら世継ぎでもある。キリストとともに光栄を受けるために、その苦しみをともに受けるなら、私たちは天主の世継ぎであって、キリストとともに世継ぎである」(ローマ8章16-17節)。
そして、このキリストの御受難においてキリストと一致することは、まさにミサの核心です。それゆえに、四旬節において、私たちは、もっと頻繁にミサにあずかることが奨励されています。皆さんにとって、それが難しいことを私は知っています。司祭がいつもここにいる訳ではありませんから。しかし、皆さんは家庭で毎日、ミサについて読んだり黙想したりできるでしょう。実際、四旬節は毎日、その日のための特別なミサがあり、これらのミサの朗読や祈りを黙想することは非常に有益です。それらのミサは、罪の償い、善業の実践、祈り、主の御受難にあずかることなど、教会の精神全体を具体的に表現しているのですから。
祈るための、また主の御受難に入っていくための最も良い方法は、聖母に従うことです。聖母の全生涯は祈りの生活でした。どれほどの祈りだったでしょうか! 聖母の汚れなき御心の祈りがどれほどのものだったか、私たちに想像できるでしょうか? マグニフィカトは非常に崇高な祈りです。十字架の下での聖母の思いはどのようなものだったでしょうか? ナザレトでの聖母の全生涯は祈りの生活でしたし、その後は主に従って、主の公生活の間、聖なる婦人たちの一団を率いておられました。主は説教をなさっており、聖母は祈っておられました! ですからその後聖母は、聖なる婦人たちを十字架の下まで導かれます。再び、主は御自分を捧げておられ、聖母は主ととともに、新しいアダムに「彼に似合った助け手」(創世記2章18節)として与えられた新しいエバとして、御自分を捧げておられました。おお、マリアよ、私たちに祈る方法を教え給え!
アーメン。