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Channel: Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた
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“Ecce nunc dies salutis.” 「見よ、今が救いの日だ。」

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アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

2017年3月5日(主日)に東京で聖伝のミサを捧げました。その時のお説教をご紹介いたします。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

2017年3月5日(主日) 四旬節第1主日のミサ
小野田神父 説教

聖なる日本の殉教者巡回教会にようこそ。

今日は2017年3月5日、四旬節第1主日です。今日のミサの終わりにいつものように感謝の祈りを致しましょう。

その後に灰の水曜日、この前の水曜日に灰の式を受ける事ができなかった方の為に、灰の式を行いたいと思います、毎年のようにやりたいと思っていますので、どうぞ聖体拝領のように並んで、そしてどうぞ公教会の精神に従って灰を受けて、改悛の念を奮い起こし、特別の祝福を受けて、聖なる四旬節を送るようになさって下さい。

今日は14時30分から公教要理がいつものようにあります。今日は聖書の続きで、福音書を書いた4人の福音史家が一体どのような人で、一体いつ、どこで、誰がどうやって書いたのか、何で福音書はこのように似ているのだけれども違いがあって、どこがどういう風に違って、どんな特徴があるのだろうか、何故だろうか、という事を皆さんにお話したいと思っています、どうぞいらして下さい。

16時からは晩課があります。明日も朝の7時からミサがあります。

次のミサは3月19日です。

残念ながら公教会の新しい典礼では無くなってしまいましたが、今週の水・金・土は四季の斎日です。四旬節の四季の斎日で伝統的には大小斎を行っていました。日本では小斎だけになっていましたが、また四旬節中の全ての金曜日は、伝統的にはピオ12世教皇様の時代には大斎を守っていました。聖ピオ十世会でも会員はこれを守るようにしています。

これは厳密な意味では義務ではありませんが、皆さんを四旬節の精神の中の1つとして、できれば大小斎を捧げて下さるようにお招き申し上げます。



“Ecce nunc dies salutis.”
「見よ、今が救いの日だ。」

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

愛する兄弟の皆さん、遂にやって来ました。私たちの待ちに待った、特別の公教会のボーナスセールスの日がやって来ました。教会は既に夜明けに来ました。太陽が高く、お昼になるまで高く上がるのが聖霊降臨だとすると、日がちょうど水平線から上がるのが復活祭、その復活祭をすでに予測させる、空が白んで来た暁、もう朝だ、という救いの日が今から昇ろうとしている、その日の訪れが今日やって来ました。なんと嬉しい事でしょうか。

今日は、教会は四旬節の第1主日に、一体何を私たちに招いているのでしょうか?私たちをどこに招待しているのでしょうか?

その次に第2点に、この四旬節には一体、誰の後を付いて、どんな模範に従って、どのように過ごさなければならないのでしょうか?それを黙想する事を提案します。

第1のポイントは、今日は救いの日の始まりの予告の日です。そこで教会は「指定巡礼教会」という特別の教会を特別の日に定めています。今日は教会は私たちを霊的に、「救世主大聖堂」つまり「ラテラノ大聖堂」に私たちを招いています。その中に、「救世主大聖堂の中に霊的に入るように」と招いています。一体何故でしょうか?

何故かというと、ラテラノ大聖堂は同時に、「救い主」という名前があると同時に「洗礼者聖ヨハネ聖堂」とも言われているからです。何故かというと、その横に大きな洗礼盤があって洗礼を受ける所があって、「洗者聖ヨハネと救い主イエズス・キリストがいつも一緒になっている」という事を示しているからです。つまり今日教会が私たちをここに招くのは、「救い主の中に入れ」という事と、それと同時に「救い主と共に、私たちも祈りと犠牲の砂漠に行くように、その中に入るように」と招いています。と同時に、洗者聖ヨハネもここで出てきます。洗者聖ヨハネも砂漠に居て、祈りと断食と犠牲を捧げた人でした。

40日後、復活の徹夜祭に教会はもう一度、私たちをラテラノ大聖堂に呼び寄せます。今度は復活の時です、勝利の時の為に呼び寄せます。

この40日間、私たちは主の中に入るという事を招かれていますけれども、一体何の為でしょうか?断食をする為だけなのでしょうか?そうではありません。もちろん断食も大切ですけれども、更に私たちの霊魂を浄める為に、罪から浄める為に、そして私たちの自己愛や自分勝手や、或いはあってはならないような欲望を浄めて、むしろ主のお望みに、主の掟に従ってより清い生活をする為です。私たちの生活を、この地上での生活を聖化する為です。

そこで聖パウロも、特別の招き、招待の叫びを、今日は私たちの耳に響かせています、「見よ、今日は救いの日だ!その日が始まる」と。「私たちはその御恵みを無駄に受けたのではなかった!」

聖パウロは特にこの書簡の終わりの方でこの2つの事を対比させます、「外見は貧しく見えるけれども、内的には豊かだ。外的には私たちはこんなに苦しんでいる、しかし内ではこんなに富んでいる。外的には私たちはあたかも死んだかのようだ、しかし私を見よ、私たちは生きている。外的には辱しめられている、しかし内的には栄光と喜びに満ちている。」

まさに私たちにも、このますます外的なものには犠牲と償いによって、地上のものからの愛着を取り除き、地上のものから離脱し、或いは四旬節の捧げ物でその誰かを助けたり、愛徳の為に誰かに与えたり、或いは奉仕をしたりすると同時に、祈りを以て私たちを内的に豊かにする、と招いています。

では、至聖救世主大聖堂の中に深く入って行きましょう。私たちの一体モデルは誰でしょうか? 私たちは一体誰の模範に従ってこの40日を過ごせば良いのでしょうか?

福音は私たちにイエズス様の姿を見せます、「イエズス様が40日40夜断食をされた。何も口にされなかった。そして祈りを捧げていた」という事を私たちに見せます。そればかりではありません。このイエズス様が空腹を感じられた時に、しかも「悪魔から誘惑を受けた。しかし、その誘惑から勝利者として出てきた。誘惑に打ち勝った」という事が語られます。これこそ私たちが従うべきモデルです。

愛する兄弟の皆さん、もしかしたら私たちは今まで、主に犠牲を捧げる償いを捧げるという時に一人でやろうと頑張っていたかもしれません。しかし教会は、特にこの四旬節の時には、「イエズス様と共に四旬節を過ごすように」と招いています、イエズス様と共に断食をするように、大小斎をするように招いています。

昔の、聖ぺトロのそのすぐ後の教皇様に聖クレメンテがいます。この聖クレメンテは既に教会法の中で、「司教であれ、司祭であれ、助祭であれ誰であれ、侍者であれ誰であれ、40日間のこの四旬節の時に断食をしない者はその司祭職から、それから聖職から除かれる」と書かれていました。「もしも平信徒であれば、もしも断食をしなければ罰せられる」などと書いてありました。聖アウグスティヌスを始め、古代の教父たちは皆口を揃えて、「この四旬節というのは、40日間主に真似て断食をするというのは、主と共に主を真似て断食するというのは、教会の初代のこの習慣であって、使徒が定めたものだ」と断定しています。

私たちはそのような断食をする事ができませんけれども、しかし私たちは罪に関する断食、罪の機会から身を遠ざける事、或いはちょっとしたおやつや、ちょっとした快楽、ちょっとした楽しみを放棄する事ならできます。これを教会は、「イエズス様と共にするように」と招いています。「イエズス様の断食に私たちも参与するように。イエズス様と一致して断食するように」と。何故でしょうか?

何故かというと、そうする事によって初めて、私たちもイエズス様と共に勝利者となる事ができるからです。私たちはこの四旬節の間、色々誘惑を受ける事でしょう。自分の欲望を満足させたい。罪の誘惑、或いは天主の掟よりも自分のやりたい事をやりたい。自分の義務を果たすよりは、自分の面白おかしい事をして遊んでその義務をサボりたい。或いは嘘をつきたい、そうすれば何か自分が困った事から逃げられるから。或いは屈辱を受けた。或いは日常の小さな十字架、辛さ、悲しさ。或いは自分の思い通りにいかなかった。或いは事故になった、怪我をした、病気になった、或いはその他何か私たちにとってうまくいかない事があります。

そのような事も教会は、イエズス様と共にそれを捧げるように招いています。何故かというと、そうする事によって初めて、イエズス・キリストと共に勝利者となるからです。

私たちは一人ではありません。カトリック教会という、とても勝利を約束された、たとえ死んでいるかのように見えたとしても生きている、たとえこの貧しいかのように見えても豊かな、天の王国の一員として天の王国の一部として戦っているからです、罪と戦っているからです。もしも私たちが罪を犯してしまうと、それは教会全体に泥を塗る事になってしまいます。しかし私たちが小さな犠牲を捧げる時に、私たちが祈りを捧げる時に、私たちが誘惑に打ち勝つ時に、善徳の聖徳の生活を送ると、それは教会全体を捧げる勝利の飾りとなります。

イエズス・キリストは頭として戦って私たちの戦いをリードしておられるので、私たちはその後を従って行かなければなりません。今はちょうどその暁で雲が白やんでいるだけで、私たちはその戦いに招かれているだけかもしれませんが、復活祭の時にはその勝利が与えられます。

そこでちょうど今日教会は、詩編の90番を何度も私たちに聞かせました。入祭誦や或いは昇階誦、そして詠誦、そして聖体拝領誦でも言います、「私たちは戦う、しかし戦う道に行くとあまりにも攻撃がひどいので、右には1000人倒れ、左には1万人倒れ、私たちは悪魔の上をその踏み潰して歩いて行く。敵からの攻撃はあるけれども、私たちは誰も恐れない。何故かというと主が、天主よ、あなたこそが私たちの避難所であるからだ。天主の翼が私たちを陰で隠し、その翼の陰は私たちを隠して、天主が私たちを守ってくれるから。主こそ私たちの救いの楯だ。」

教会は私たちにますます、「至聖救世主の中に入るように、イエズス様の後を従うように、イエズス様と共に四旬節を過ごすように、イエズス様と共に祈りと犠牲を捧げるように」と招いています。そしてその時に、「イエズス様と共に勝利を受けるように」と。

では今日どのような決心を立てたら良いでしょうか?2つ提案致します。

1つは、まず今日四旬節の良い遷善の決心を立てて下さい。四旬節、私たちはイエズス様に何を捧げる事ができるでしょうか?私たちはこの一体、この主の戦いのどの部門で戦おうとしたら良いでしょうか?

私たちの祈りの生活はどうでしょうか?朝と夕の祈りや、ロザリオの祈りはちゃんとどうやったらできるでしょうか?ロザリオの祈りも、しかもちゃんと黙想してできるでしょうか?或いは1日に何分か黙想の時間を取る事ができないでしょうか?或いは霊的な読書をする事ができないでしょうか?例えば今年はファチマの年の時ですから、ファチマについて本を読む事ができるのではないでしょうか?

或いは私たちはどんな犠牲ができるでしょうか?日常の生活の義務を犠牲としてどうやって捧げたら良いでしょうか?シスタールチアは言っています、「子供の頃から私はいつも、マリア様の汚れなき御心の為でなければ何もしなかった。全てはマリア様の汚れなき御心を愛する為にしてきた」と。私たちもそれを真似て、「マリア様の汚れなき御心の為に、或いはイエズス・キリスト様の聖心を慰める為に、この四旬節の全ての時間を使いたい、日常の全ての事をそれに捧げたい、その為にその意向で捧げたい」と決心するのはいかがでしょうか?

どうぞ良い遷善の決心を立てて下さい。そしてその遷善の決心を、ちゃんと四旬節の決心を守る事ができたかできなかったか、吟味なさって下さい。もしもできなかったら、ますますできるようにマリア様にお願いなさって下さい。何故かというと、犠牲を捧げるというのは口で言うのは簡単ですけれども、実際にそうだというのは決心がないとなかなかできないからです。

第2は、私たちは時々苦しい、或いはちょっと誘惑に負けてしまいそうだという時があるかもしれません。その時には是非、イエズス様とマリア様を思って下さい。何故かというと、イエズス・キリスト様とマリア様と共でであれば、私たちは誘惑などへのかっぱであるからです。この詩編の言われたように、「主こそ私たちの、あなたこそ私たちの避難所である。」マリア様は言われました、「私の汚れなき御心はあなたの避難所であり、天国へと導く道であります」と。そして天国に行って既に勝利されているイエズス様とマリア様をいつも思って下さい。復活は間近に待っています。必ず大勝利の日が来ます。

そこで飛行機の中で来る時に、ちょうど新聞にあったアメリカの大統領の話をするのを許して下さい。アメリカの大統領が、初めて大統領としてアメリカの議会でおこなった演説を読みました。

きっとそれと同じような事が最後の日に行われるだろうかなという事を、その将来私たちの為に準備されている事から見れば、この数日前にあったアメリカの議会であったのは、全くその儚い影であるかもしれません。

イエメンで戦った、特別の作戦部隊のチーフのウィリアム・ライアン・オーウェンズ上等兵が、この作戦中死亡するのです、戦闘中に。それが大統領としての最初の犠牲者であって、そして大統領はその未亡人を議会に呼びました。その未亡人を自分の一番の愛娘のその隣に座らせて、そして議会のスピーチの最後に、「私たちはこのキャリン・オーウェンズさんと同席してとても栄誉に思う」と言うのです。何故かというと、この「彼女の夫ライアンは私たちの国の為に戦った!彼は軍人として、ヒーローとして、英雄として生き、そして死んで行った。彼のその功績は永遠に私たちに刻まれている!」と言うと、皆が総立ちになって拍手をするのです。

その未亡人は、最初はそのような事を聞いて一体何が起こったのか分からないようにするのですけれども、皆が拍手をして止まらないのです。アメリカの議会の記録を作ったほどの拍手喝采があって、皆が総立ちになって、そしてもうその婦人はもう涙に顔をびしょびしょにさせて、そして天を見上げて何かをつぶやいているのです。

ところで、これよりも更に素晴らしい事が私たちの為に起こります。イエズス様が、天の大宴会でものすごい荘厳な儀式の中で、王の王として、私たちをその女王マリア様の隣に座らせて、全ての天使たちと全ての聖人たちを呼び集めて、「私は今日、この日本の聖なる殉教者教会に来たこの人々、」人々の名前を一人ひとり挙げて、「彼らに対して一言感謝したい。このカトリック教会の為に、私の聖なる教会の為に、私の花嫁である教会の為に、彼らはこのような祈りと犠牲を捧げてくれた。その彼らの捧げた、人知れずに陰で、しかし愛と心を込めて捧げられたこの多くの犠牲は、多くの霊魂たちを救った!ここにさぁ、これらがこの救われた霊魂たちだ!そして彼らのこの寛大な英雄的な犠牲と祈りのこの業は、特にこの今年の四旬節の業は永遠に決して忘れられる事はない!」と言うと、皆が総立ちになって拍手喝采をして、もう何分も何分もあって、「あぁ、私たちは一体どれほどの事をしたのか?イエズス様が助けて下さったから、したのですけれども…」と。

しかし、このような事が素晴らしい事が起こるという事を確信して下さい。イエズス様の教会は必ず勝利します。私たちはその復活の今、夜明けに立っています。そしてイエズス様は私たちをも招いて、「さぁ一緒に戦おう。私と共に勝利の冠を受け給え」と招いています。

ですから愛する兄弟の皆さん、イエズス様と共にマリア様と共に、この至聖救世主大聖堂に行って、そしてイエズス様の後に従って、40日間、祈りとそして犠牲を捧げ、多くの霊魂と私たちの聖化の為に、主の栄光の為に、良い四旬節を送る御恵みを乞い求めましょう。

“Ecce nunc dies salutis.”

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

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