アヴェ・マリア・インマクラータ!
愛する兄弟姉妹の皆様、
3月17日、18日には大阪で、
3月19日、20日には東京で、
さらに3月20日聖ヨゼフの祝日に大阪でもう一度、ミサ聖祭を捧げました。
大変幸福でした!
3月19日には42名の方々が、20日には12名の方々が、東京でミサ聖祭に与り、
3月20日には15名の方々が大阪でミサ聖祭に与りました。
【報告】
アヴェ・マリア・インマクラータ!
御ミサの報告をお送りいたします。
小野田神父様におかれましては、マニラと日本、大阪と東京を行ったり来たりと大変お疲れだったと思います。
全てを天主様へ犠牲としてお捧しておられるお姿に、私もならって参りたいと思います。
とは言えどうぞ少しはご自愛下さい。(ペトロが、イエズス様の御受難について、”そんなことがおこりませんように!”といって、”サタン退け”とイエズス様に叱られた件がありますので、ちょっと自粛ぎみです(/ω\)
3月17日(四旬節第二週の金曜のミサ)10名
教会が指定する今日の指定巡礼聖堂のローマの聖ヴィタリス聖堂です。
これまで毎日のミサ典書に書かれている指定巡礼聖堂の意味がよくわかりませんでしたが、その日の典礼と指定巡礼聖堂とは密接な関係がある事がわかってきました。
ローマの迫害時代に、聖ヴィタリスは殉教者たちの遺体を葬っていたため捕えられ、穴に落とされて石殺しにされてしまいました。
その聖ヴィタリス聖堂には十字架を担うイエズス様、穴に落とされたヴィタリスの絵があるそうです。
この日のミサは、十字架のイエズス様と、聖ヴィタリスと、兄弟たちの妬みによって井戸に落とされる旧約のヨゼフ、福音との四枚の絵を通して教会は、天主の御摂理として与えられる苦難が私たちの救霊に役立つという事を教えているそうです。
私たちが罪の赦しを受けて、救霊の恵みを頂けるのは、天主であるイエズス様の大きな御受難のおかげである事を私たちは忘れてしまって、感謝するかわりにイエズス様に反対し、悲しませ、殺そうとしたのではないでか?穴に突き落としたのではないか?とお説教の中で神父様に問いかけられた時には心がグッと苦しくなりました。
イエズス様の愛が大きければ大きいほど、御恵みを当たり前に感じるのではなく、出来る限りの感謝を行動であらわす必要があるのに、当たり前のように、沢山の御恵みを受け、感謝もそこそこに都合のいいお願い事ばかりしている自分を非情に感じました。
御恵みの後ろに、その御恵みが大きければ大きいほどイエズス様の大きな御苦しみがある事を肝に銘じました。
3月18日(四旬節第二週の土曜のミサ)14名
今日のお説教は最近の中で私が最も感動したお説教の一つでした。
今日の指定巡礼聖堂は、兄弟殉教者聖マルチェリノと聖ペトロの聖堂です。書簡も、聖福音も兄弟に関する話がでてきます。
書簡は、母レベッカの計らいにより、次男のヤコブが、兄になりすまして天の祝福を受ける有名な話です。何の権利もない未熟な次男のヤコブでしたが、母の勧めによって兄に変わって天からの祝福、つまり超自然的恩恵を受けることができました。これは天主の御摂理以外の何物でもなく、私を含めてカトリックの信仰を持つ人々は自身には何の価値も持たないけれども、特別の天主様からの選びによって天主の子となる権利を持ったという事は全くその通りだと思います。この度は話にでませんでしたが、レベッカがマリア様の前兆として書かれていることにも疑いをもちません。
聖福音の放蕩息子の話ではいたく感動してしまいました。
罪を犯して父を離れた放蕩息子を、待っているだけでなく飛んできて抱きしめて接吻して大歓迎して宴会まで開いた事に自分の改心と天主様の愛を重ねてしまったからです。
書簡での「選み」は、洗礼志願者に向けて、
聖福音の「憐み」は公式の罪人(痛悔者)に向けて、語られていると知って、典礼の深さと教会の配慮に関心しました。
自分と同様、日本の多くの放蕩息子が、天主様の憐れみを受けて、選びを受けることが出来るようにとミサを通してお祈りいたしました。
3月20日(聖ヨゼフの祝日)15名
今年も、聖ヨゼフ様の祝日の御ミサに与る事ができてとても幸せでした。
天主様の御摂理に感謝いたします。
お説教では昇階唱でいう聖ヨゼフ様に与えらた冠、栄光とは何かを黙想しました。
天主の御子の養父、天主の御母の浄配という特別の使命を与えられたヨゼフ様には、それにふさわしい恵みを与えられているし、聖ヨゼフ以上に多くの恵みを受けた人は御子と聖母を除いて他にはいません。全ての聖人に勝って多くの恵みを受けたことこれこそが聖ヨゼフの冠でした。
聖ヨゼフ様の生涯を振り返ると多くの苦しみがあり、その苦しみの後に栄光と喜びがあるのだとわかります。
現代、御聖体に対する危機を助けて頂きたいなら、エジプトのファラオが飢饉のときに「ヨゼフへ行け」といったように、イエズス様(御聖体)の生命を救われたヨゼフ様の所に行くのが得策だといえます。
ヨゼフ様はその生涯をイエズス様とマリア様への奉仕のために使われた方ですので、ヨゼフ様のお助けよって私たちもイエズス様とマリア様によくお仕え出来るようになりますようにお祈りします。
公教要理は福音史家シリーズパート4「福音史家ルカ」についてでした。
ルカについてわかっていること。
⑴生まれはアンティオキアらしい
⑵ユダヤ人ではない(割礼を受けていないので)
⑶イエズス様に直接合っていない
⑷医者であったらしい(書き出しが医学書ディオスコリデスとそっくり。医学専門用語を使用)
⑸パウロと仲が良かった
ルカ福音書の特長
●黙示録に出てくる四つの獣の「牛」はルカ福音書。(牛を捧げていたザカリアが巻頭に出てくるから)
●順序良く、正確な史実を書いている
●文体は洗練されており文学的で、細かい描写が多い
●洗練されたギリシャ語で書かれた
●主に異邦人のために書いた。その為、マテオの記録中の異邦人を非難している箇所は省いている
●パウロに大きな影響を受けている
【報告】
アヴェ・マリア・インマクラータ!
金曜日は御ミサ、そして十字架の道行きや終課をありがとうございました!!
5月のミッションなどは残念ですが、その分今年の四旬節にたくさん日本で御ミサが捧げられる事になってとても嬉しいです!
小野田神父様が仰って下さったので、マルコ様がユダヤの言葉や習慣を知らない人々のために福音を書いていると思える、説明が付いている部分を他にも探してみました(*´艸`*)
「イエズスはその人を群衆の中から連れ出し、その耳に指を入れ、またその舌に触れ、天を仰いで吐息をつき、『エファタ』と言われると、ーそれは開けよという意味であるー」
「そのとき一人の貧しいやもめが来て二レプタを投げ入れた。それはアサリオン貨の四分の一にあたる。」
「種なしパンの祭りの最初の日ーそれは過越の子羊をほふる日であるー」
これらもそれに当てはまりますでしょうか?
デオ・グラチアス!
【お返事】
すごい! 聖マルコらしい、ユダヤ言葉や習慣を説明して言い換えているところを良く見つけましたね!うれしく思います!
【報告】
アヴェ・マリア・インマクラータ!
昨日、一昨日と聖ヨゼフ様の大祝日の御ミサ、終課、朝ミサなど本当にありがとうございました!!
今年は聖ヨゼフ様の祝日の御ミサが東京であって、東京はすごい御恵みだなぁと思っていたのですが、小野田神父様がとても大きなボーナス御ミサを加えて下さり、仕事も聖ヨゼフ様の御取り次ぎでうまく都合をつける事ができ、大変な御恵みを頂くことができました!デオ・グラチアス!
小野田神父様は大阪→東京→大阪と大変ハードなスケジュールだったと思います。私たち日本信者の為にいつも本当にありがとうございます!m(_ _)m
この御恵みによって、日本に、これほどまで隠れた偉大な聖人である聖ヨゼフ様への讃美と感謝と崇敬がますます広まりますように!そしてその為に聖ヨゼフの小さき信心会がますます発展しますように!
去年は、この聖ヨゼフ様の祝日に大阪の聖母の汚れなき御心教会の建物を準備して下さいましたので、聖ヨゼフ様に感謝と、そして今年は更に日本に司祭の常駐の御恵みをお取次ぎをお願い致しました(*^_^*)エヘヘ
日本でますます聖ヨゼフ様の御名が尊まれますように!
聖ヨゼフ、我らの為に祈り給え!
イエズス様の御憐れみと、マリア様の御助けによって、私たちがイエズス様をもうこれ以上悲しませる事がないように、私たちがイエズス様の死を望む事がないように、罪の本当の恐ろしさを理解することができますように、そしてむしろイエズス様をお慰めする方に回る事ができますように。
デオ・グラチアス!
【報告】
+Ave Maria! Immaculata!
日本でのミッションをありがとうございました。特に3/20の聖ヨゼフ様の大祝日には、東京と大阪で御ミサをお捧げくださいました。
大阪へのリターンミッションは、どれほど神父様を疲れさせる犠牲となるにもかかわらず!
天主様に感謝!インマクラータに感謝!聖ヨゼフ様に感謝!
小野田神父様に感謝申し上げます!
所感をご報告申し上げます。
【所感】
四旬節第二週の土曜日は、書簡は創世記27章の「ヤコブとエザウ」について。聖福音はルカ15章の「放蕩息子のたとえ」でした。
小野田神父様は、今日の書簡と聖福音は「選み」と「憐れみ」についてであるとおっしゃいました。
ヤコブは母レベッカの言うとおりにしたので、父イザアクから祝福をもらいます。私はこの箇所が大好きです。
最初、この27章を読んだときには、レベッカの言うとおりにして、ヤコブがイザアクを騙すことになったのに、エザウが気の毒だし、いったいどんな意味があるのかわかりませんでしたが、その疑問は小野田神父様がこれまでのお説教で解決してくださいました。
父イザアクは天主聖父で、レベッカは聖母マリア様、前半のエザウはイエズス様、ヤコブは私たちを表している。世継ぎの権利を持たなかったヤコブ(私たち人間)は、レベッカの言うとおりに実行することで、世継ぎとなることができること。
レベッカは「2頭の山羊を持っておいで。私がお父さんのために、お好きな料理を作ってあげよう。」と言います。この2頭の山羊は私たちの霊魂と身体を表すこと。
マリア様に私たちの霊魂も身体もお捧げすると、聖父のお気に召すように美しく整えてくださるということ。
レベッカはエザウの一番良い服をもってきてヤコブに着せ、エザウの毛深さを模すために、毛皮をヤコブの首と手に巻いた。毛は徳を表しており、エザウ(聖子イエズス)は毛深く、つまり徳に満ちている。その毛=徳をまとうことで、イザアク(聖父)はエザウ(聖子イエズス)だと思ってくださるということ。
服の匂いを嗅いで、「ああ、これは私の愛する聖子の匂いだ」と罪人の私たちを抱擁してくださるのだと。
聖父は「声はヤコブ(=私たち罪人)だが、手はエザウ(聖子イエズス)だし、服の匂いもエザウ(聖子イエズス)だ」と言って、祝福を与えられるということ。
私たちは、イエズス様の徳をまとい、服を着て、マリア様に霊魂と身体を捧げて、聖父のお気に召すようにしていただくことで、聖父に救霊の祝福を、天国の世継ぎを与えられるということ。後半のエザウが遅れて、イザアクの前に行くところは、エザウは約束の民であったユダヤ人を表し、ヤコブは新約の救霊を約束された全ての人を表していることなどでした。
今回のお説教で、民族や長子権は救霊予定の理由にはならないこと。御摂理は異邦人をも罪人をも救うことを望まれている。「選み」はまさに御摂理であって、神秘であると理解できました。
これは↓、家族が黙想したことなのですが・・・
レベッカが「子よ、その呪いは私が引き受けよう」と言ったのは、マリア様が贖いの共贖者として苦しまれることの前表では無いか?と。
イエズス様が罪が無いにもかかわらず、罪そのもののごとくに罰せられたように見え、あたかも天主の呪いを受けたかに思えるほどだったからだと。(^_^;)
「放蕩息子」のたとえは、ルカによる福音の特徴である「天主の憐れみ」をまさに表しています。
聖福音をラテン語で朗読なさっている時に、日本語を読んでいて、涙が溢れ出ました(^_^;)
小野田神父様の聖書の公教要理で、四福音史家のそれぞれの特徴、違いなどを教えていただいたので、「ああ、今日のマテオの聖福音のこの箇所は、まさにマテオがユダヤ人に向けて書いたと良くわかる!」などと理解が広がり、また深くなりました!
この「たとえ」では、聖父は放蕩息子である私たち罪人が帰ってくるのを待っておられて、まだ遠くにいるのを見つけて、憐れみ、走っていってその首を抱いて接吻してくださる。
服はしばしば天国にふさわしい徳を表していて(煉獄の霊魂、地獄の霊魂はしばしば裸で描かれている)、指輪は世継ぎとしての相続を表し、靴は奴隷でないことの証し(罪の奴隷からの解放)を表していると、これまでのお説教で教えてくださいました。
「肥えた子牛を屠る」とは御聖体を表していると、今回のお説教でお話くださり、ああ!そうだったのか!と思いました。
放蕩息子は自分の行いを心から痛悔し、「雇い人のひとりにしてください」と言おう思って、謙遜にへりくだったから、聖父は走ってきて赦してくださったのだと思います。
イエズス様の十字架の右の善き盗賊も、自分の罪を心から痛悔し、イエズス様が天主として認め、「イエズス様が天国に入られる時に、自分のことを思い出してください」と
謙遜に願ったために、イエズス様は天国をお与えになりました。謙遜はどんなに重要なことかと思います。
自分を放蕩息子であると思い、放蕩息子のように、自分の罪を深く、心から痛悔し、謙遜にへりくだる御恵みをマリア様に御取り次ぎを願います。
童貞マリアの浄配なる聖ヨゼフの大祝日には、四旬節でありながら、カズラも祭壇も白、お花も飾られました。キリアーレも2番で、グロリアも歌い、クレドも歌いました。
この日の神父様のお説教で、さらに聖ヨゼフ様の御力のすごさを教えていただきました。
聖ヨゼフ様のこの地上での謙遜、天主の聖旨への完全なる従順、イエズス様とマリア様への愛は計り知れず、いま天上で聖ヨゼフ様に与えれらている栄光も計り知れないのだなあと思いました。
旧約のヨゼフは貞潔を守り、エジプトのファラオに仕え、新約のヨゼフは童貞マリアの証人となり、天主、王の王であるイエズス様に忠実に仕えた。
旧約のヨゼフは夢の神秘を解いたが、新約のヨゼフは天主の神秘に参与し、深く入り、その神秘を生きた。
旧約のヨゼフは穀物を蓄えたが、新約のヨゼフは生ける天のパンである幼きイエズス様を私たちのために守った。
旧約のエジプトの民はどこを探しても穀物を見つけることができなかったのに、ヨゼフの倉には穀物が豊かに蓄えられていた。
現代の私たちは、どこを探しても「御聖体」「マリア様への信心」を見つけることができないが、聖ヨゼフ様こそ、その宝庫に「御聖体に対する愛」を、「マリア様に対する愛」を持っておられる。だから "Ite ad Joseph" 「聖ヨゼフのところへ行け」なのだと。
ファチマの最後の御出現10/13の太陽の奇蹟の日に、ファチマのマリア様は幼きイエズス様をおだきになった聖ヨゼフをお連れくださいました。
ファチマ100周年の今年、シュテーリン神父様は「秋田でマリア様がお待ちです。」とメッセージをくださいました。
ファチマでもマリア様が、そして聖ヨゼフ様がお待ちだと思います。
ファチマのまことの使徒として生きるために、その聖寵をいただくために、ファチマ巡礼の御恵みを願います。
3/21(火)の四旬節第三週の火曜日の御ミサの書簡は列王記下4章でした。
「増え続ける一びんの油は、天主の憐れみ、赦しは無限であることの前表である」と、聖福音の後に、一言だけのお説教をしてくださいました。
読誦ミサに与る少ない信徒への慈父のお心、本当にもったいなく、ありがたく存じます。
日本、フィリピン、韓国・・・
休む間もなく、各国の小羊たちなる信徒たちに聖なる御ミサを与えるために、霊魂の救霊のためだけに、
ご自分の身体に鞭打って、多大なる犠牲とともにミッションをしてくださる小野田神父様を、どうぞお護りくださいますように。どうぞお助けくださいますように。
インマクラータ、聖ヨゼフ様に懇願いたします。
聖母の汚れ無き御心よ、我らのために祈りたまえ。
ファチマの聖母、ロザリオの聖母よ、我らのために祈りたまえ。
いとも尊き聖ヨゼフ、我らのために祈りたまえ。
【報告】
アヴェ・マリア・インマクラータ!
トマス小野田神父様
小野田神父様に福音史家聖ルカの講話をしていただき、わかったこと、もっと知りたかったことを簡単ですが、まとめてみました。
(わかったこと)
いつもとても貴重な講話ありがとうございます!
今回、聖マタイ、聖マルコに続いて、聖ルカの人となり、その福音書の特徴について、聖マタイ、聖マルコとの比較を通して、お教えいただきました。
私はこれまでマタイ福音書、マルコ福音書そしてルカ福音書は共観福音書ということで、この3福音書については共通する記述が多く、似たような表現があるというくらいの認識しかありませんでしたが、実はその3人の福音史家の出自、職業、執筆対象など3者3様であり、そのあたりを理解して読むとさらに深い読み方ができるということがわかりました。
聖マタイは12使徒のひとりでイエズス様にも実際に仕えられたユダヤ人の取税人ということであり、内容が旧約聖書で語られていることが成就されたという記述が他の福音書に比して多く、パレスティナのユダヤ人の宣教を想定した福音書といえるということでした。
また、聖マルコはイエズス様にはお会いになることのなかった異邦人というこどで、聖ペトロの御説教の影響が強くみられ、一方、その特徴として奇跡譚が最も多く、ローマでの布教を意識したものということでした。個人的な印象として最も読みやすいとの印象が昔からありましたが、私も異邦人のひとりであり、そういうものとして理解することができました。
そして、今回の聖ルカですが、アンティオキアに長く住んでいた非ユダヤ人のお医者さんということであり、ユダヤ人のことを「彼ら」とか「あなたたち」というように自らユダヤ人ではないということをほのめかす距離を置いた描写からもそれは見受けられるということでした。
また、福音史家の職業が聖書の御言葉に反映されているのも興味深いと思いました。
具体的には、救いは異邦人にも及ぶという教えを、聖ルカは「自分を愛する者を愛したからといって、あなたがたに何の良いところがあるでしょう。罪人たちでさえ、自分を愛する者を愛しています。」(ルカ6:32)と記述しておりますが、一方、おそらく同じ箇所を取税人の聖マタイの記述によると「自分を愛してくれる者を愛したからといって、何の報いが受けられるでしょう。取税人でも、同じことをしているではありませんか。」(マタイ5:46)とされ、あえて、自らの職業を聖マタイは引き合いに出しています。聖マタイは12使徒の弟子だったということですので、イエズス様が敢えて取税人という言葉をお使いになられた可能性は高いですが、聖ルカはそれでも罪人と言い換えているところに
同じ教えであっても自らの出自や職業が反映されているかもしれないということに興味を惹かれました。
一方、ユダヤ人たる聖マタイの選民思想が見え隠れする記述もマタイ10;5、同15:21~15:28にあり、出自というものは軽視できないと思いました。
同じような内容を敢えて出自や職業の違う福音史家に述べさせた天主様の配慮は私たちの想像をはるかに超えたものでありますが、その一端を垣間見た思いです。
これから福音書を拝読するのがさらに楽しみになりました。
(もっと知りたかったこと)
小野田神父様のお話はこのあと聖ヨハネと続きますので、どういう展開になるか、楽しみです。
小野田神父様の公教要理はいつも念を入れてご準備しておられ、お忙しい中、感謝以外の何もありません。
改めて御礼申し上げます!
デオ・グラシアス!
【報告】
アヴェ・マリア・インマクラータ!
小野田神父様
四旬節第3主日の御ミサをありがとうございました。
四旬節第3主日では 「より強いものがやってくるならば かれはその 武器をすべて取って 戦利品を配るだろう。」について、お話しいただきました。
四旬節第1主日では 悪魔から誘惑を受けてそれを追い払うお話しでしたが、今回は 舞い戻ってくる七倍もの数の悪魔に対して ”より強いものがやって来る それはわたしだ”ということで、「イエズスが悪魔に対して攻撃する話」でした。イエズス様は 悪魔よりも強い!ということが 心に刻まれました。
その日 朝、イエズス様は 霊魂の城の主はわたしであると仰せられたように感じました。どうしてそのことを特に思い出させてくださったのかわからなかったのですが、御ミサに与って納得しました。お説教を拝聴して、悪魔がやってきて 空いている隙間に入り込もうとするが、霊魂の城の主はわたしだから わたしは悪魔より強い最強のものであるから、それをいつも忘れるな 悪魔に侵入されるな ということかなと 結びつきました。悪魔から誘惑を受けても それを追い払ってくださるのは 悪魔より強いイエズス様なのだということに 気づかされました。この心の中へ、悲しみ 苦悩 妬み そねみ 疑い 憂うつ この世の煩い など諸々の感情や思考が群れを成して押し寄せようとするのを防ぐことのできるのは ただただ 霊魂の実権を握っておられるイエズス様だけだということを思います。しょっちゅう挫けてしまう私は、常にイエズス様は悪魔よりも強い!とイエズス様だけに目を向けたいと思います。聖書のイエズス様の御言葉の 力強さに打たれます。
御ミサの間 ”ずっと 私たちの目はつねにずっと主に向けられている あわれみを受けるまでずっと主の方に目を向けられている、これからは 光の子として歩め”、と歌われていました。
”すずめは住まいを見出し、山鳩は、その雛を入れる巣を見つける。万軍の主、わが神、我が主よ、私のためには御身の祭壇がある。主の家に住む者は幸せである”(聖体拝領誦) と、感謝をお捧げしました。
そして、神父様がお話しくださったように、フェレイラ神父さまのためにたくさんの祈りと犠牲が捧げられたことを思い出し ファチマのマリア様が「誰も彼らの罪の代わりに償う人がいないが祈りと犠牲を捧げるものがあれば彼らの多くの霊魂は天国に行く 地上には平和がきて カトリック教会には栄光が与えられる」と 仰られたことを思い出して、自分こそ罪人であることに変わりなくとも 自身の足りない分はどなたかの祈りや犠牲によって救われるに違いないとも思いながら、それでも 私も 必要としてる人たちのためにこの祈りと犠牲がお使いただけますようにと、この後も出来る限りのこと 努めたいと思います。
・・・・・・・・・・・・・・・・
公教要理は 今日の聖福音の箇所にもあった聖ルカ福音記者のお話しでした。
聖ルカは アンティオキアの医者であり、非ユダヤ教徒から回心した人、肉で主と会っていない、聖パウロとともにずっと行動をともしていた弟子であり、救いは異邦人にも及んでいることや天主の憐れみの大きさをよく伝えてくださっていることなどが、特徴として挙げられる ということがわかりました。以下 「わかったこと」を列挙してみます。(まとまりなくてすみません)
聖ルカ福音書は 聖マテオ福音書・聖マルコ福音書の後に書き、使徒行録を書き終わる前(62年よりも前)に書いたもの。
聖ルカの福音書の中にだけあるエンマウスへの道すがら主と出会う二人の弟子のうちクレオパという名前は出てくるが、もう一人の名前が出てきていないので、聖ルカがこのもう一人の弟子ではないか、という人もいる。(聖エピファノや大聖グレゴリアなど)。
キリスト教徒は 最初「ナザレト派」と呼ばれていた。この聖ルカのアンティオキアにて 初めてクリスチャンと呼ばれるようになる。
聖ルカはアンティオキアで洗礼を受けて トロアで聖パウロと出会い、フィリピに 6年間留まり、聖パウロとともにローマにも行き、聖パウロの殉教まで最後までずっと行動をともにしていたが、聖ルカ自身の最期に関しては情報が足りなくて分かっていない。聖ルカの最後の晩餐の描写は聖パウロの描写に似ていて 同じ単語175語が共通している。
聖ルカ福音書の書き出しは、当時の医学書の「ディオスコリデス Dioscorides」(De Materia Medica) の書き出しとそっくりである。「尊いテオフィロ様」という書き出しの真似ができるのは医者だろう。聖ルカ福音書と使徒行録はこの医学書を真似て書かれている。そして 病気についての描写が詳しく書かれている。医者ならではの関心があった。病気を知り 医者ゆえの病名の違いも書かれていて、人間の心理の描写もすごい(放蕩息子の話など)。ギリシャ語の使い方もうまくて、完璧で、確かに教養のある医者の書いたものらしい。
なお、「尊きテオフィロよ!」のテオフィロとは誰なのか?には二説あり、聖アンプロジオやオリゲネスなどにより テオフィロとは天主を愛するものという意味の言葉で文学的虚構とする一方で、現代の学者達のなかには実在の人物と捉える人もいる。
また聖パウロが強調したことは「救いというのは異邦人にも及ぶ」というのであったが、その聖パウロの弟子らしく聖ルカは異邦人が救われるということについてよく書いている。(御復活の後のイエズスの関心は「救いは異邦人にも及ぶ」ということ。これは ユダヤ人が救い主を受け入れなかった事実のゆえかなと。)
救いが異邦人にも及ぶものだということを強調していることを よく表していることの一つに、系図の挿入があり、聖ルカはイエズスから遡ってアダムまでを書いている。聖マタイはアブラハムの子からイエズスに至るまでの系図を順序立てて書くことにより、アブラハムの子孫のユダヤ人の血統のものが救い主イエズスによって救われるという旧約の予言が成就していることをあらわしている。聖ルカによっては アダムからでるすべてのものが救われる、つまりイエズス様は全人類の救い主だということがあらわされているともいえる。(この説明を伺って、これまで謎だった二つの聖福音書における系図の扱いが異なっていることの理由がよくわかりました。)
(聖マタイがユダヤ人のために福音書を書いたというのは「イエズス様ご自身が まず始めにユダヤ人を救うために来られた」という事実によるのだということ。聖マタイ福音書は、イエズス様の直接の弟子として イエズス様ご復活の後のごく初期に書かれた福音書として、その内容もユダヤ人を対象としたものである、という前回学んだことが、ここにきてようやく本当に納得できました。)
他にも 聖ルカが異邦人のために書いたということがよくわかることをたくさん説明していただきました。例えば マタイ10:5 「あなたたちは異邦人の所へ行ってはならない」を聖ルカは書いていない。マタイ15;24 でのカナンの女という異邦人の女を無視した描写も 聖ルカにない。
もう一つ聖パウロや聖ルカが強調していることは、主の憐れみの深さであること。天主様が私たちを赦したいと望まれていて、罪を赦すため無限の憐れみを持っているということがたくさん書かれている。一匹の羊を捜しに行き肩に乗せて戻ってくる話や 失くした一枚の金貨を徹底的に探す話や 放蕩息子の話など。
また、聖ルカは 聖マタイと同様に その著述の中で 自虐的表現(?)を使っている。聖マタイが 自分の職業である税吏ということを引き合いに出して天主の憐れみを強調するために用いたということを 前回教えていただきました(マタイ5:47)が、聖ルカも 「医者よ、まず自分自身を治せ」という表現を用いて書いている など。
尚 出席者からの「ユダヤ人はユダヤ教を何故布教しようとしなかったのか?」という質問に対して、ユダヤ教というのは救い主が来るという約束を実現させるということ、”来るべき救い主が来る” その方を待つというところにポイントがあった と教えていただきました。「当時ユダヤ教のみが真実の宗教であったが、救い主を待たねばならなかった」。
お話を伺い、共観福音書の書かれたそれぞれの背景や時間的経緯や相違について いろいろと見えてきたように思います。聖マタイ福音書は 直接イエズス様から三年半の間み教えを受けた聖マタイがユダヤ人のために旧約聖書からの引用を駆使して最初に書いたもの、聖マルコ福音書は 聖ペテロの弟子で通訳でもあった聖マルコが聖ペテロの代わりとして奇跡の話を数多く書いてローマの人達に向けて書いたもの、聖ルカ福音書は 聖パウロの弟子の聖ルカが医者としての教養を持って主の憐れみを強調して異邦人に向けて書いたもの、というふうに捉えてみました。次回も楽しみです。神父様 いつもありがとうございます。
デオ・グラチアス!
愛する兄弟姉妹の皆様、
3月17日、18日には大阪で、
3月19日、20日には東京で、
さらに3月20日聖ヨゼフの祝日に大阪でもう一度、ミサ聖祭を捧げました。
大変幸福でした!
3月19日には42名の方々が、20日には12名の方々が、東京でミサ聖祭に与り、
3月20日には15名の方々が大阪でミサ聖祭に与りました。
【報告】
アヴェ・マリア・インマクラータ!
御ミサの報告をお送りいたします。
小野田神父様におかれましては、マニラと日本、大阪と東京を行ったり来たりと大変お疲れだったと思います。
全てを天主様へ犠牲としてお捧しておられるお姿に、私もならって参りたいと思います。
とは言えどうぞ少しはご自愛下さい。(ペトロが、イエズス様の御受難について、”そんなことがおこりませんように!”といって、”サタン退け”とイエズス様に叱られた件がありますので、ちょっと自粛ぎみです(/ω\)
3月17日(四旬節第二週の金曜のミサ)10名
教会が指定する今日の指定巡礼聖堂のローマの聖ヴィタリス聖堂です。
これまで毎日のミサ典書に書かれている指定巡礼聖堂の意味がよくわかりませんでしたが、その日の典礼と指定巡礼聖堂とは密接な関係がある事がわかってきました。
ローマの迫害時代に、聖ヴィタリスは殉教者たちの遺体を葬っていたため捕えられ、穴に落とされて石殺しにされてしまいました。
その聖ヴィタリス聖堂には十字架を担うイエズス様、穴に落とされたヴィタリスの絵があるそうです。
この日のミサは、十字架のイエズス様と、聖ヴィタリスと、兄弟たちの妬みによって井戸に落とされる旧約のヨゼフ、福音との四枚の絵を通して教会は、天主の御摂理として与えられる苦難が私たちの救霊に役立つという事を教えているそうです。
私たちが罪の赦しを受けて、救霊の恵みを頂けるのは、天主であるイエズス様の大きな御受難のおかげである事を私たちは忘れてしまって、感謝するかわりにイエズス様に反対し、悲しませ、殺そうとしたのではないでか?穴に突き落としたのではないか?とお説教の中で神父様に問いかけられた時には心がグッと苦しくなりました。
イエズス様の愛が大きければ大きいほど、御恵みを当たり前に感じるのではなく、出来る限りの感謝を行動であらわす必要があるのに、当たり前のように、沢山の御恵みを受け、感謝もそこそこに都合のいいお願い事ばかりしている自分を非情に感じました。
御恵みの後ろに、その御恵みが大きければ大きいほどイエズス様の大きな御苦しみがある事を肝に銘じました。
3月18日(四旬節第二週の土曜のミサ)14名
今日のお説教は最近の中で私が最も感動したお説教の一つでした。
今日の指定巡礼聖堂は、兄弟殉教者聖マルチェリノと聖ペトロの聖堂です。書簡も、聖福音も兄弟に関する話がでてきます。
書簡は、母レベッカの計らいにより、次男のヤコブが、兄になりすまして天の祝福を受ける有名な話です。何の権利もない未熟な次男のヤコブでしたが、母の勧めによって兄に変わって天からの祝福、つまり超自然的恩恵を受けることができました。これは天主の御摂理以外の何物でもなく、私を含めてカトリックの信仰を持つ人々は自身には何の価値も持たないけれども、特別の天主様からの選びによって天主の子となる権利を持ったという事は全くその通りだと思います。この度は話にでませんでしたが、レベッカがマリア様の前兆として書かれていることにも疑いをもちません。
聖福音の放蕩息子の話ではいたく感動してしまいました。
罪を犯して父を離れた放蕩息子を、待っているだけでなく飛んできて抱きしめて接吻して大歓迎して宴会まで開いた事に自分の改心と天主様の愛を重ねてしまったからです。
書簡での「選み」は、洗礼志願者に向けて、
聖福音の「憐み」は公式の罪人(痛悔者)に向けて、語られていると知って、典礼の深さと教会の配慮に関心しました。
自分と同様、日本の多くの放蕩息子が、天主様の憐れみを受けて、選びを受けることが出来るようにとミサを通してお祈りいたしました。
3月20日(聖ヨゼフの祝日)15名
今年も、聖ヨゼフ様の祝日の御ミサに与る事ができてとても幸せでした。
天主様の御摂理に感謝いたします。
お説教では昇階唱でいう聖ヨゼフ様に与えらた冠、栄光とは何かを黙想しました。
天主の御子の養父、天主の御母の浄配という特別の使命を与えられたヨゼフ様には、それにふさわしい恵みを与えられているし、聖ヨゼフ以上に多くの恵みを受けた人は御子と聖母を除いて他にはいません。全ての聖人に勝って多くの恵みを受けたことこれこそが聖ヨゼフの冠でした。
聖ヨゼフ様の生涯を振り返ると多くの苦しみがあり、その苦しみの後に栄光と喜びがあるのだとわかります。
現代、御聖体に対する危機を助けて頂きたいなら、エジプトのファラオが飢饉のときに「ヨゼフへ行け」といったように、イエズス様(御聖体)の生命を救われたヨゼフ様の所に行くのが得策だといえます。
ヨゼフ様はその生涯をイエズス様とマリア様への奉仕のために使われた方ですので、ヨゼフ様のお助けよって私たちもイエズス様とマリア様によくお仕え出来るようになりますようにお祈りします。
公教要理は福音史家シリーズパート4「福音史家ルカ」についてでした。
ルカについてわかっていること。
⑴生まれはアンティオキアらしい
⑵ユダヤ人ではない(割礼を受けていないので)
⑶イエズス様に直接合っていない
⑷医者であったらしい(書き出しが医学書ディオスコリデスとそっくり。医学専門用語を使用)
⑸パウロと仲が良かった
ルカ福音書の特長
●黙示録に出てくる四つの獣の「牛」はルカ福音書。(牛を捧げていたザカリアが巻頭に出てくるから)
●順序良く、正確な史実を書いている
●文体は洗練されており文学的で、細かい描写が多い
●洗練されたギリシャ語で書かれた
●主に異邦人のために書いた。その為、マテオの記録中の異邦人を非難している箇所は省いている
●パウロに大きな影響を受けている
【報告】
アヴェ・マリア・インマクラータ!
金曜日は御ミサ、そして十字架の道行きや終課をありがとうございました!!
5月のミッションなどは残念ですが、その分今年の四旬節にたくさん日本で御ミサが捧げられる事になってとても嬉しいです!
小野田神父様が仰って下さったので、マルコ様がユダヤの言葉や習慣を知らない人々のために福音を書いていると思える、説明が付いている部分を他にも探してみました(*´艸`*)
「イエズスはその人を群衆の中から連れ出し、その耳に指を入れ、またその舌に触れ、天を仰いで吐息をつき、『エファタ』と言われると、ーそれは開けよという意味であるー」
「そのとき一人の貧しいやもめが来て二レプタを投げ入れた。それはアサリオン貨の四分の一にあたる。」
「種なしパンの祭りの最初の日ーそれは過越の子羊をほふる日であるー」
これらもそれに当てはまりますでしょうか?
デオ・グラチアス!
【お返事】
すごい! 聖マルコらしい、ユダヤ言葉や習慣を説明して言い換えているところを良く見つけましたね!うれしく思います!
【報告】
アヴェ・マリア・インマクラータ!
昨日、一昨日と聖ヨゼフ様の大祝日の御ミサ、終課、朝ミサなど本当にありがとうございました!!
今年は聖ヨゼフ様の祝日の御ミサが東京であって、東京はすごい御恵みだなぁと思っていたのですが、小野田神父様がとても大きなボーナス御ミサを加えて下さり、仕事も聖ヨゼフ様の御取り次ぎでうまく都合をつける事ができ、大変な御恵みを頂くことができました!デオ・グラチアス!
小野田神父様は大阪→東京→大阪と大変ハードなスケジュールだったと思います。私たち日本信者の為にいつも本当にありがとうございます!m(_ _)m
この御恵みによって、日本に、これほどまで隠れた偉大な聖人である聖ヨゼフ様への讃美と感謝と崇敬がますます広まりますように!そしてその為に聖ヨゼフの小さき信心会がますます発展しますように!
去年は、この聖ヨゼフ様の祝日に大阪の聖母の汚れなき御心教会の建物を準備して下さいましたので、聖ヨゼフ様に感謝と、そして今年は更に日本に司祭の常駐の御恵みをお取次ぎをお願い致しました(*^_^*)エヘヘ
日本でますます聖ヨゼフ様の御名が尊まれますように!
聖ヨゼフ、我らの為に祈り給え!
イエズス様の御憐れみと、マリア様の御助けによって、私たちがイエズス様をもうこれ以上悲しませる事がないように、私たちがイエズス様の死を望む事がないように、罪の本当の恐ろしさを理解することができますように、そしてむしろイエズス様をお慰めする方に回る事ができますように。
デオ・グラチアス!
【報告】
+Ave Maria! Immaculata!
日本でのミッションをありがとうございました。特に3/20の聖ヨゼフ様の大祝日には、東京と大阪で御ミサをお捧げくださいました。
大阪へのリターンミッションは、どれほど神父様を疲れさせる犠牲となるにもかかわらず!
天主様に感謝!インマクラータに感謝!聖ヨゼフ様に感謝!
小野田神父様に感謝申し上げます!
所感をご報告申し上げます。
【所感】
四旬節第二週の土曜日は、書簡は創世記27章の「ヤコブとエザウ」について。聖福音はルカ15章の「放蕩息子のたとえ」でした。
小野田神父様は、今日の書簡と聖福音は「選み」と「憐れみ」についてであるとおっしゃいました。
ヤコブは母レベッカの言うとおりにしたので、父イザアクから祝福をもらいます。私はこの箇所が大好きです。
最初、この27章を読んだときには、レベッカの言うとおりにして、ヤコブがイザアクを騙すことになったのに、エザウが気の毒だし、いったいどんな意味があるのかわかりませんでしたが、その疑問は小野田神父様がこれまでのお説教で解決してくださいました。
父イザアクは天主聖父で、レベッカは聖母マリア様、前半のエザウはイエズス様、ヤコブは私たちを表している。世継ぎの権利を持たなかったヤコブ(私たち人間)は、レベッカの言うとおりに実行することで、世継ぎとなることができること。
レベッカは「2頭の山羊を持っておいで。私がお父さんのために、お好きな料理を作ってあげよう。」と言います。この2頭の山羊は私たちの霊魂と身体を表すこと。
マリア様に私たちの霊魂も身体もお捧げすると、聖父のお気に召すように美しく整えてくださるということ。
レベッカはエザウの一番良い服をもってきてヤコブに着せ、エザウの毛深さを模すために、毛皮をヤコブの首と手に巻いた。毛は徳を表しており、エザウ(聖子イエズス)は毛深く、つまり徳に満ちている。その毛=徳をまとうことで、イザアク(聖父)はエザウ(聖子イエズス)だと思ってくださるということ。
服の匂いを嗅いで、「ああ、これは私の愛する聖子の匂いだ」と罪人の私たちを抱擁してくださるのだと。
聖父は「声はヤコブ(=私たち罪人)だが、手はエザウ(聖子イエズス)だし、服の匂いもエザウ(聖子イエズス)だ」と言って、祝福を与えられるということ。
私たちは、イエズス様の徳をまとい、服を着て、マリア様に霊魂と身体を捧げて、聖父のお気に召すようにしていただくことで、聖父に救霊の祝福を、天国の世継ぎを与えられるということ。後半のエザウが遅れて、イザアクの前に行くところは、エザウは約束の民であったユダヤ人を表し、ヤコブは新約の救霊を約束された全ての人を表していることなどでした。
今回のお説教で、民族や長子権は救霊予定の理由にはならないこと。御摂理は異邦人をも罪人をも救うことを望まれている。「選み」はまさに御摂理であって、神秘であると理解できました。
これは↓、家族が黙想したことなのですが・・・
レベッカが「子よ、その呪いは私が引き受けよう」と言ったのは、マリア様が贖いの共贖者として苦しまれることの前表では無いか?と。
イエズス様が罪が無いにもかかわらず、罪そのもののごとくに罰せられたように見え、あたかも天主の呪いを受けたかに思えるほどだったからだと。(^_^;)
「放蕩息子」のたとえは、ルカによる福音の特徴である「天主の憐れみ」をまさに表しています。
聖福音をラテン語で朗読なさっている時に、日本語を読んでいて、涙が溢れ出ました(^_^;)
小野田神父様の聖書の公教要理で、四福音史家のそれぞれの特徴、違いなどを教えていただいたので、「ああ、今日のマテオの聖福音のこの箇所は、まさにマテオがユダヤ人に向けて書いたと良くわかる!」などと理解が広がり、また深くなりました!
この「たとえ」では、聖父は放蕩息子である私たち罪人が帰ってくるのを待っておられて、まだ遠くにいるのを見つけて、憐れみ、走っていってその首を抱いて接吻してくださる。
服はしばしば天国にふさわしい徳を表していて(煉獄の霊魂、地獄の霊魂はしばしば裸で描かれている)、指輪は世継ぎとしての相続を表し、靴は奴隷でないことの証し(罪の奴隷からの解放)を表していると、これまでのお説教で教えてくださいました。
「肥えた子牛を屠る」とは御聖体を表していると、今回のお説教でお話くださり、ああ!そうだったのか!と思いました。
放蕩息子は自分の行いを心から痛悔し、「雇い人のひとりにしてください」と言おう思って、謙遜にへりくだったから、聖父は走ってきて赦してくださったのだと思います。
イエズス様の十字架の右の善き盗賊も、自分の罪を心から痛悔し、イエズス様が天主として認め、「イエズス様が天国に入られる時に、自分のことを思い出してください」と
謙遜に願ったために、イエズス様は天国をお与えになりました。謙遜はどんなに重要なことかと思います。
自分を放蕩息子であると思い、放蕩息子のように、自分の罪を深く、心から痛悔し、謙遜にへりくだる御恵みをマリア様に御取り次ぎを願います。
童貞マリアの浄配なる聖ヨゼフの大祝日には、四旬節でありながら、カズラも祭壇も白、お花も飾られました。キリアーレも2番で、グロリアも歌い、クレドも歌いました。
この日の神父様のお説教で、さらに聖ヨゼフ様の御力のすごさを教えていただきました。
聖ヨゼフ様のこの地上での謙遜、天主の聖旨への完全なる従順、イエズス様とマリア様への愛は計り知れず、いま天上で聖ヨゼフ様に与えれらている栄光も計り知れないのだなあと思いました。
旧約のヨゼフは貞潔を守り、エジプトのファラオに仕え、新約のヨゼフは童貞マリアの証人となり、天主、王の王であるイエズス様に忠実に仕えた。
旧約のヨゼフは夢の神秘を解いたが、新約のヨゼフは天主の神秘に参与し、深く入り、その神秘を生きた。
旧約のヨゼフは穀物を蓄えたが、新約のヨゼフは生ける天のパンである幼きイエズス様を私たちのために守った。
旧約のエジプトの民はどこを探しても穀物を見つけることができなかったのに、ヨゼフの倉には穀物が豊かに蓄えられていた。
現代の私たちは、どこを探しても「御聖体」「マリア様への信心」を見つけることができないが、聖ヨゼフ様こそ、その宝庫に「御聖体に対する愛」を、「マリア様に対する愛」を持っておられる。だから "Ite ad Joseph" 「聖ヨゼフのところへ行け」なのだと。
ファチマの最後の御出現10/13の太陽の奇蹟の日に、ファチマのマリア様は幼きイエズス様をおだきになった聖ヨゼフをお連れくださいました。
ファチマ100周年の今年、シュテーリン神父様は「秋田でマリア様がお待ちです。」とメッセージをくださいました。
ファチマでもマリア様が、そして聖ヨゼフ様がお待ちだと思います。
ファチマのまことの使徒として生きるために、その聖寵をいただくために、ファチマ巡礼の御恵みを願います。
3/21(火)の四旬節第三週の火曜日の御ミサの書簡は列王記下4章でした。
「増え続ける一びんの油は、天主の憐れみ、赦しは無限であることの前表である」と、聖福音の後に、一言だけのお説教をしてくださいました。
読誦ミサに与る少ない信徒への慈父のお心、本当にもったいなく、ありがたく存じます。
日本、フィリピン、韓国・・・
休む間もなく、各国の小羊たちなる信徒たちに聖なる御ミサを与えるために、霊魂の救霊のためだけに、
ご自分の身体に鞭打って、多大なる犠牲とともにミッションをしてくださる小野田神父様を、どうぞお護りくださいますように。どうぞお助けくださいますように。
インマクラータ、聖ヨゼフ様に懇願いたします。
聖母の汚れ無き御心よ、我らのために祈りたまえ。
ファチマの聖母、ロザリオの聖母よ、我らのために祈りたまえ。
いとも尊き聖ヨゼフ、我らのために祈りたまえ。
【報告】
アヴェ・マリア・インマクラータ!
トマス小野田神父様
小野田神父様に福音史家聖ルカの講話をしていただき、わかったこと、もっと知りたかったことを簡単ですが、まとめてみました。
(わかったこと)
いつもとても貴重な講話ありがとうございます!
今回、聖マタイ、聖マルコに続いて、聖ルカの人となり、その福音書の特徴について、聖マタイ、聖マルコとの比較を通して、お教えいただきました。
私はこれまでマタイ福音書、マルコ福音書そしてルカ福音書は共観福音書ということで、この3福音書については共通する記述が多く、似たような表現があるというくらいの認識しかありませんでしたが、実はその3人の福音史家の出自、職業、執筆対象など3者3様であり、そのあたりを理解して読むとさらに深い読み方ができるということがわかりました。
聖マタイは12使徒のひとりでイエズス様にも実際に仕えられたユダヤ人の取税人ということであり、内容が旧約聖書で語られていることが成就されたという記述が他の福音書に比して多く、パレスティナのユダヤ人の宣教を想定した福音書といえるということでした。
また、聖マルコはイエズス様にはお会いになることのなかった異邦人というこどで、聖ペトロの御説教の影響が強くみられ、一方、その特徴として奇跡譚が最も多く、ローマでの布教を意識したものということでした。個人的な印象として最も読みやすいとの印象が昔からありましたが、私も異邦人のひとりであり、そういうものとして理解することができました。
そして、今回の聖ルカですが、アンティオキアに長く住んでいた非ユダヤ人のお医者さんということであり、ユダヤ人のことを「彼ら」とか「あなたたち」というように自らユダヤ人ではないということをほのめかす距離を置いた描写からもそれは見受けられるということでした。
また、福音史家の職業が聖書の御言葉に反映されているのも興味深いと思いました。
具体的には、救いは異邦人にも及ぶという教えを、聖ルカは「自分を愛する者を愛したからといって、あなたがたに何の良いところがあるでしょう。罪人たちでさえ、自分を愛する者を愛しています。」(ルカ6:32)と記述しておりますが、一方、おそらく同じ箇所を取税人の聖マタイの記述によると「自分を愛してくれる者を愛したからといって、何の報いが受けられるでしょう。取税人でも、同じことをしているではありませんか。」(マタイ5:46)とされ、あえて、自らの職業を聖マタイは引き合いに出しています。聖マタイは12使徒の弟子だったということですので、イエズス様が敢えて取税人という言葉をお使いになられた可能性は高いですが、聖ルカはそれでも罪人と言い換えているところに
同じ教えであっても自らの出自や職業が反映されているかもしれないということに興味を惹かれました。
一方、ユダヤ人たる聖マタイの選民思想が見え隠れする記述もマタイ10;5、同15:21~15:28にあり、出自というものは軽視できないと思いました。
同じような内容を敢えて出自や職業の違う福音史家に述べさせた天主様の配慮は私たちの想像をはるかに超えたものでありますが、その一端を垣間見た思いです。
これから福音書を拝読するのがさらに楽しみになりました。
(もっと知りたかったこと)
小野田神父様のお話はこのあと聖ヨハネと続きますので、どういう展開になるか、楽しみです。
小野田神父様の公教要理はいつも念を入れてご準備しておられ、お忙しい中、感謝以外の何もありません。
改めて御礼申し上げます!
デオ・グラシアス!
【報告】
アヴェ・マリア・インマクラータ!
小野田神父様
四旬節第3主日の御ミサをありがとうございました。
四旬節第3主日では 「より強いものがやってくるならば かれはその 武器をすべて取って 戦利品を配るだろう。」について、お話しいただきました。
四旬節第1主日では 悪魔から誘惑を受けてそれを追い払うお話しでしたが、今回は 舞い戻ってくる七倍もの数の悪魔に対して ”より強いものがやって来る それはわたしだ”ということで、「イエズスが悪魔に対して攻撃する話」でした。イエズス様は 悪魔よりも強い!ということが 心に刻まれました。
その日 朝、イエズス様は 霊魂の城の主はわたしであると仰せられたように感じました。どうしてそのことを特に思い出させてくださったのかわからなかったのですが、御ミサに与って納得しました。お説教を拝聴して、悪魔がやってきて 空いている隙間に入り込もうとするが、霊魂の城の主はわたしだから わたしは悪魔より強い最強のものであるから、それをいつも忘れるな 悪魔に侵入されるな ということかなと 結びつきました。悪魔から誘惑を受けても それを追い払ってくださるのは 悪魔より強いイエズス様なのだということに 気づかされました。この心の中へ、悲しみ 苦悩 妬み そねみ 疑い 憂うつ この世の煩い など諸々の感情や思考が群れを成して押し寄せようとするのを防ぐことのできるのは ただただ 霊魂の実権を握っておられるイエズス様だけだということを思います。しょっちゅう挫けてしまう私は、常にイエズス様は悪魔よりも強い!とイエズス様だけに目を向けたいと思います。聖書のイエズス様の御言葉の 力強さに打たれます。
御ミサの間 ”ずっと 私たちの目はつねにずっと主に向けられている あわれみを受けるまでずっと主の方に目を向けられている、これからは 光の子として歩め”、と歌われていました。
”すずめは住まいを見出し、山鳩は、その雛を入れる巣を見つける。万軍の主、わが神、我が主よ、私のためには御身の祭壇がある。主の家に住む者は幸せである”(聖体拝領誦) と、感謝をお捧げしました。
そして、神父様がお話しくださったように、フェレイラ神父さまのためにたくさんの祈りと犠牲が捧げられたことを思い出し ファチマのマリア様が「誰も彼らの罪の代わりに償う人がいないが祈りと犠牲を捧げるものがあれば彼らの多くの霊魂は天国に行く 地上には平和がきて カトリック教会には栄光が与えられる」と 仰られたことを思い出して、自分こそ罪人であることに変わりなくとも 自身の足りない分はどなたかの祈りや犠牲によって救われるに違いないとも思いながら、それでも 私も 必要としてる人たちのためにこの祈りと犠牲がお使いただけますようにと、この後も出来る限りのこと 努めたいと思います。
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公教要理は 今日の聖福音の箇所にもあった聖ルカ福音記者のお話しでした。
聖ルカは アンティオキアの医者であり、非ユダヤ教徒から回心した人、肉で主と会っていない、聖パウロとともにずっと行動をともしていた弟子であり、救いは異邦人にも及んでいることや天主の憐れみの大きさをよく伝えてくださっていることなどが、特徴として挙げられる ということがわかりました。以下 「わかったこと」を列挙してみます。(まとまりなくてすみません)
聖ルカ福音書は 聖マテオ福音書・聖マルコ福音書の後に書き、使徒行録を書き終わる前(62年よりも前)に書いたもの。
聖ルカの福音書の中にだけあるエンマウスへの道すがら主と出会う二人の弟子のうちクレオパという名前は出てくるが、もう一人の名前が出てきていないので、聖ルカがこのもう一人の弟子ではないか、という人もいる。(聖エピファノや大聖グレゴリアなど)。
キリスト教徒は 最初「ナザレト派」と呼ばれていた。この聖ルカのアンティオキアにて 初めてクリスチャンと呼ばれるようになる。
聖ルカはアンティオキアで洗礼を受けて トロアで聖パウロと出会い、フィリピに 6年間留まり、聖パウロとともにローマにも行き、聖パウロの殉教まで最後までずっと行動をともにしていたが、聖ルカ自身の最期に関しては情報が足りなくて分かっていない。聖ルカの最後の晩餐の描写は聖パウロの描写に似ていて 同じ単語175語が共通している。
聖ルカ福音書の書き出しは、当時の医学書の「ディオスコリデス Dioscorides」(De Materia Medica) の書き出しとそっくりである。「尊いテオフィロ様」という書き出しの真似ができるのは医者だろう。聖ルカ福音書と使徒行録はこの医学書を真似て書かれている。そして 病気についての描写が詳しく書かれている。医者ならではの関心があった。病気を知り 医者ゆえの病名の違いも書かれていて、人間の心理の描写もすごい(放蕩息子の話など)。ギリシャ語の使い方もうまくて、完璧で、確かに教養のある医者の書いたものらしい。
なお、「尊きテオフィロよ!」のテオフィロとは誰なのか?には二説あり、聖アンプロジオやオリゲネスなどにより テオフィロとは天主を愛するものという意味の言葉で文学的虚構とする一方で、現代の学者達のなかには実在の人物と捉える人もいる。
また聖パウロが強調したことは「救いというのは異邦人にも及ぶ」というのであったが、その聖パウロの弟子らしく聖ルカは異邦人が救われるということについてよく書いている。(御復活の後のイエズスの関心は「救いは異邦人にも及ぶ」ということ。これは ユダヤ人が救い主を受け入れなかった事実のゆえかなと。)
救いが異邦人にも及ぶものだということを強調していることを よく表していることの一つに、系図の挿入があり、聖ルカはイエズスから遡ってアダムまでを書いている。聖マタイはアブラハムの子からイエズスに至るまでの系図を順序立てて書くことにより、アブラハムの子孫のユダヤ人の血統のものが救い主イエズスによって救われるという旧約の予言が成就していることをあらわしている。聖ルカによっては アダムからでるすべてのものが救われる、つまりイエズス様は全人類の救い主だということがあらわされているともいえる。(この説明を伺って、これまで謎だった二つの聖福音書における系図の扱いが異なっていることの理由がよくわかりました。)
(聖マタイがユダヤ人のために福音書を書いたというのは「イエズス様ご自身が まず始めにユダヤ人を救うために来られた」という事実によるのだということ。聖マタイ福音書は、イエズス様の直接の弟子として イエズス様ご復活の後のごく初期に書かれた福音書として、その内容もユダヤ人を対象としたものである、という前回学んだことが、ここにきてようやく本当に納得できました。)
他にも 聖ルカが異邦人のために書いたということがよくわかることをたくさん説明していただきました。例えば マタイ10:5 「あなたたちは異邦人の所へ行ってはならない」を聖ルカは書いていない。マタイ15;24 でのカナンの女という異邦人の女を無視した描写も 聖ルカにない。
もう一つ聖パウロや聖ルカが強調していることは、主の憐れみの深さであること。天主様が私たちを赦したいと望まれていて、罪を赦すため無限の憐れみを持っているということがたくさん書かれている。一匹の羊を捜しに行き肩に乗せて戻ってくる話や 失くした一枚の金貨を徹底的に探す話や 放蕩息子の話など。
また、聖ルカは 聖マタイと同様に その著述の中で 自虐的表現(?)を使っている。聖マタイが 自分の職業である税吏ということを引き合いに出して天主の憐れみを強調するために用いたということを 前回教えていただきました(マタイ5:47)が、聖ルカも 「医者よ、まず自分自身を治せ」という表現を用いて書いている など。
尚 出席者からの「ユダヤ人はユダヤ教を何故布教しようとしなかったのか?」という質問に対して、ユダヤ教というのは救い主が来るという約束を実現させるということ、”来るべき救い主が来る” その方を待つというところにポイントがあった と教えていただきました。「当時ユダヤ教のみが真実の宗教であったが、救い主を待たねばならなかった」。
お話を伺い、共観福音書の書かれたそれぞれの背景や時間的経緯や相違について いろいろと見えてきたように思います。聖マタイ福音書は 直接イエズス様から三年半の間み教えを受けた聖マタイがユダヤ人のために旧約聖書からの引用を駆使して最初に書いたもの、聖マルコ福音書は 聖ペテロの弟子で通訳でもあった聖マルコが聖ペテロの代わりとして奇跡の話を数多く書いてローマの人達に向けて書いたもの、聖ルカ福音書は 聖パウロの弟子の聖ルカが医者としての教養を持って主の憐れみを強調して異邦人に向けて書いたもの、というふうに捉えてみました。次回も楽しみです。神父様 いつもありがとうございます。
デオ・グラチアス!