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2017年3月31-4月3日の聖伝のミサの報告:聖ピオ十世会 SSPX JAPAN Latin Traditional Mass

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アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様

3月31日、4月1日の初土曜日の大阪でのミサ聖祭を、
4月2日の受難の主日の東京でのミサ聖祭を捧げることが出来て、天主に感謝します!特に、東京では5名の小さな赤ちゃん・幼児たちがいて大変うれしく思いました。

今回は、聖ヨハネの福音について講話をしました。聖ヨハネの福音の特徴をお話ししました。

今週の金曜日と土曜日とその翌日の枝の主日には大阪で、ミサ聖祭があります。
来週の枝の主日と聖月曜日とには、東京でミサ聖祭があります。
愛する兄弟姉妹の皆様のお越しをお待ちしております。

天主様の祝福が豊かにありますように!

トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)


【報告】
アヴェ・マリア・インマクラータ!

大阪でのミッションありがとうございました。
4月の初土曜日のミサの報告をお送りいたします。

3月31日(金)四旬節第四主日御の金曜日のミサには、12人が、
4月1日(初土)聖母の汚れなき御心のミサには16人が御ミサに与るお恵みを頂きました。デオグラチアス。

今日金曜日、指定巡礼聖堂に指定されている聖エウゼビオ聖堂に行く途中には異教の荒廃した墓があり、この墓の象徴は死んだ霊魂、罪の状態にある人、
聖週間に洗礼を受けたり、御聖体拝領を許される公の罪人たちに、罪から出て、復活の教会にはいることを体 をもって感じさせるための教会の配慮である事を知りました。

また、書簡では寡婦の子の復活と、ラザロの復活が読まれ、これらもまた求道者や罪びとに、そして2017年を生きている私たち信者たちにも、信仰によって生命に入る事を教えてます。四旬節の典礼、お説教を通して、私たちが生きている本当の理由と意味を改めて思い出させて頂いているようにおもいました。

初土曜日のミサのお説教では明日から始まる御受難の週の過ごし方を黙想出来ました。
明日から聖堂の十字架と御影に紫の布をかける習慣は、私たちを全くイエズス様の御受難そのものにだけ集中させるためである事が示すように、霊的に自分の周りに全て紫の布をかけて、イエズス様の御受難に焦点を合わせてご復活までを過ごすよう努力したいと思います。

公教要理では福音史家ヨハネについて勉強しました。
神父様が4人の福音史家について質問をして下さったおかげで、聖書を読む時間が持て、各福音書の細かいところにまで気がつくようになりました。
今回、ヨハネの福音書を読んでみて、この福音書は、読んでいるいうよりも、映像を見ているような、または匂いがしてきそうな感覚を持つ箇所があると思いました。


【報告】
アヴェ・マリア・インマクラータ!

4月1日の初土曜の御ミサに与るお恵を頂きました。
小野田神父様のお説教では、御受難の主日からかぶせる紫の布の意味についてのお話でした。
なんとなく知ってたつもりですが、やはり神父様から教えていただくお話は素晴らしいものでした。
十字架は、勝利の印であって、その十字架にも布をかぶせるという事は、十字架の大切さ尊さを考え直し、
イエズス様の御受難をよく黙想するための意味がありました。
これがしたい、あそこに行きたい、これが買いたい、面白いものが観たいなどのしょうもない自分の思いを捨て、
ご復活の主日までは特に御受難の苦しみを考え、イエズス様と一致しなければと思いました。
でも、どのようにしてそれを実行するのか、誘惑に負けないようにするには何が必要なのか、、、
それは完璧だったマリア様の精神をよく学び、常にマリア様とともに行動することだと、神父様がはっきり助言してくださいました。

本当にその通りだと思います。大げさだと思う方もいらっしゃるかもしれませんが、私は仕事をこなすことも、大変なことをお捧することもマリア様のお力なしではできないと思います。毎日、仕事から帰ってきてそう思います。
本当に感謝しかありません。。。だから、もっとマリア様の汚れなき御心をお慰めして、イエズス様の十字架の苦しみを少しでも癒してさしあげれるように、
毎日努めようと思いました。


【報告】
+Ave Maria! Immaculata!

日本でのミッション、心から感謝申し上げます。
私たち日本の信徒の司牧、救霊のためだけに多くの犠牲を払って日本にいらしてくださる神父様は、どれほどの激務のためか、お疲れがとれないと思います。
なにとぞ御無理なさいませんように。
所感をご報告申し上げます。

【所感】
四旬節も、もう御受難節となりました。

金曜日の御ミサの福音ではファリザイ人にイエズス様の殺害を決定づけた「ラザロの復活の奇蹟」が読まれました。
イエズス様は毅然として真理を話され、ファリザイ人らの殺意が、随所で感じられるようになりました。
全能の天主なる聖子であられながら、ご自分を人類の贖いのために犠牲として渡される御姿が、目の前に見えるようです。
「ラザロ、出てきなさい」とおっしゃられただけで、墓の中に葬られて腐敗していたはずのラザロは蘇りました。
さきに書簡で読まれたエリアの奇蹟は、天主に一生懸命祈って祈って、祈りたおして、そして3度子供に覆いかかって、やっと願いを聞き入れられました。
イエズス様の奇蹟とは大変対照的で、イエズス様が生と死を司る御者であることを表しているとお説教でお話くださいました。
また、イエズス様のご命令によって、墓の中から包帯を巻いたまま出て来たラザロは、私たちのかたどりでもあり、2017年の私たちに「罪の包帯を巻いたままでも、腐敗の臭いの充満している墓の中から、光の方へ出て来なさい。」と
イエズス様が命じられておられるのだとお聞きして、このラザロの奇蹟が今までよりも心に深く刻まれました。
イエズス様がお話になられた、「乞食のラザロと金持ち」のたとえで、地獄に行った金持ちは、天国に行った乞食のラザロを自分の兄弟たちに地獄に来ないように忠告してもらうために蘇えらせてほしいと天主に懇願します。でも乞食のラザロが蘇えったところで兄弟たちは信じない。
イエズス様がラザロを蘇えらせた奇蹟を見ても、ファリザイ人たちは信じようとせず、それどころかイエズス様を殺害しようと決めたことを、乞食のラザロのたとえで、あらかじめ布石されておられたと小野田神父様にお聞きしました。
ああ、そういうことだったのか!!と感心しました。全知なる天主のなせる業だと思いました。

初土曜日には、翌日から御受難節を良く過ごすことができるよう、なぜ十字架に諸聖人の御像に紫の布をかけるのかを説明くださいました。
紫の布はイエズス様のご受難、死に対して喪に服するためだと。諸聖人に布をかけるのは、イエズス様の御受難に集中させるためだが、十字架にさえも紫の布をかけるのは何故かと。

十字架は勝利、栄光のしるしであり、私たちが贖われたのは十字架によってのみであること。教会は十字架を非常に大切に崇敬し、金銀、宝石で飾った。
金銀、宝石は王のしるしであった。
その十字架=栄光のしるしを隠して、主の御受難のみに集中させるためだと。
十字架の神秘に深く入るために、主の御受難と一致するために自分に与えられる苦しみを甘受するためには、マリア様の汚れ無き御心に行くことが最善の方法だと。
なぜならマリア様こそ十字架の価値を知っておられ、イエズス様と十字架と完全に一致しておられたからだと。
十字架や御像に紫の布がかけられると、私もとても寂しく、悲しくなり、喪に服すというのが良くわかります。ああ、主の御受難がいよいよ始まる。と感じます。

あと2週間となった四旬節を、マリア様と共に、マリア様に手をつないでいただいて、イエズス様の十字架から片時も離れないように決心いたします。
自分の罪を痛悔し、自分の小さな犠牲を、マリア様の汚れ無き御心を通して、イエズス様の御苦しみにあわせてお捧げしたいと思います。
聖母の汚れ無き御心よ、我らのために祈りたまえ。
ファチマの聖母、ロザリオの聖母よ、我らのために祈りたまえ。


【報告】
アヴェ・マリア・インマクラータ!

金曜日・初土曜日と、御ミサ・十字架の道行き・終課・公教要理など色々ありがとうございました!!(o^▽^o)

お説教で、教会は今日の御ミサで洗礼志願者と公の罪人に「復活」という事を教えるために、墓地を通らなければたどり着けない聖エウゼビオ教会を指定巡礼聖堂に定めて、書簡と聖福音を比較させて、いかにイエズス様の力が偉大であるか、イエズス様こそが生と命と死の主である、イエズス様によればどんな罪人でも霊的に復活する、よみがえる、という事を教えようとしているのだという事を仰って下さって、ここまで私たちの為に色々考えて日々の御ミサを制定して下さっている教会の愛をまた感じました。

それを説明して下さって本当にありがとうございます。

マリア様の御助けによって、私たちの命であり、復活であるイエズス様が是非、私たちを霊的によみがえらせて下さいますように!

デオ・グラチアス!



【報告】【東京】
Dear Fr Onoda:

今日の東京でのミサの参列者数は下記の通りです。

ミサの参列者数
男: 20人(内、子供3人)
女: 31人(内、子供6人)
計: 51人(内、子供9人)


【報告】
アヴェ・マリア・インマクラータ!

トマス小野田神父様

今回は、四福音書の締めくくりとして、小野田神父様に使徒聖ヨハネ福音書の講義をしていただき、わかったこと、もっと知りたかったことを簡単ですが、まとめてみました。

(わかったこと)

いつもとても貴重な講話ありがとうございます!

今回、使徒聖ヨハネの福音書の特徴について、共観福音書との比較を通して、お教えいただきました。

聖ヨハネは12使徒の中で唯一殉教者とはならなかった使徒であり、エフェゾとパトモス島において、それぞれ聖ヨハネ福音書とヨハネの黙示録という2つの文献を著した人物であったとのことであり、その福音書の特徴としては、⑴ヘブライ的であることと⑵使徒ならではの記述が多いということでした。

まず、ヘブライ的という意味ですが、その具体的な記述例として、ユダヤ人の祭が、過越祭、幕屋祭、神殿奉献祭の3つあることや、ユダヤの社会では安息日よりも割礼を優先するなどの律法解釈、サマリヤ人とユダヤ人との緊張関係ほか、パレスチナの地理の詳しさ、さらには旧約聖書で語られていることが成就されたという記述が四福音書の中では、最も多いなどがあげられるということでした。これは聖ヨハネがユダヤ人であったことに起因するのであり、至極自然と思いました。

また、使徒ならではの記述が多いという点ですが、特に聖ヨハネは聖ペトロ、聖ヤコブとともにイエズス様のご変容やゲッセマネの園、ヤイロの娘の蘇りの奇跡などに直接立ち会うことを許された3名の使徒のひとりであり、さらには聖母マリア様をイエズス様から直接託されたことからもわかりますように12使徒の中でもイエズス様に特に愛され、信頼された使徒といわれていますが、ヨハネ福音書の中でも、全くそれをひけらかされることはなく、ヨハネの名前は洗者ヨハネのこととしてしか登場しないということでした。

それはあたかも聖母マリア様が敢えて福音書にはあまり登場されないということと同様に謙遜のなせる技であると思いました。
これらのことをお伺いして改めて聖ヨハネ福音書を再読いたしましたが、これまで以上に理解が深まるとともに記憶もさらに定着した感じがいたしました。

(もっと知りたかったこと)
福音書がなぜ4冊なのか、それが3共観福音書と1非共観福音書から成立する意味は三位一体と関係があるのかなとも思いましたが、実際のところは、どうなんでしょうか。
本質的な問いではありませんが。

小野田神父様の公教要理はいつも念を入れてご準備しておられ、お忙しい中、感謝以外の何ものでもありません。

改めて御礼申し上げます!

デオ・グラシアス!


【報告】
アヴェ・マリア・インマクラータ!

小野田神父様

受難の主日のミサをありがとうございます。
「天主からのものは天主の言葉を聞く」という主題で 「十字架の価値」についてと「大祭司の民」とはどういうことを意味しているのかということをお話しいただいたと感じました。

この日は十字架の価値 苦しみの価値について たくさんお話しいただいたように思います。
昔の十字架はその価値を尊ぶ故に純金や銀やダイヤモンドやルビーなど貴重な宝石が組み込まれていて光り輝いていたとのことで 四旬節は勝利に向かっているのではあるが まだ苦難・苦悩を黙想しようとする受難の季節であり キリストの勝利の栄光を隠すために ミサも死者ミサのような式次第でもあり 喪に服す意味合いもあり 紫の布で十字架と御像・御絵を覆うようになったと教えていただきました。またこの日のミサは大祭司ということがテーマになっており、ペトロが十二使徒の中で大祭司の代理者であるから そのため指定巡礼教会はペトロ大聖堂になっているとお話しいただきました。 

この日、ミサで 「イエズス様は 大祭司として お告げの祝日の 3月25日に マリア様のご胎内という香部屋に入られた そして大祭司の服として人間の服をまとわれた とうとう時が来て 今から天の至聖所に入り 人間の生贄をささげるときがきた 」というお話に 超自然の光景を思い浮かべながら 神秘的な畏れ多い思いをいだきました。崇高な美と表現したくても そうするにはあまりにも私たちのための犠牲のお苦しみの大きさに打ちのめされそうになります。

「いまからいけにえに向かう 動物の血ではなくてご自分の血をもって生贄としてささげるために 天の至聖所に一人 入られる」。・・・わたしたちのためにイエズス様がマリアさまをとおして 救いのために来られたということ、  そして (十字架によって?)至聖所に入るということは死という残酷な苦しみ 死以上の生贄としての苦悩があるということに 気づかされます。このイエズス様の十字架という宝の陰にどれほどの「苦しみ」があるか、考えても及ばないほどのものに打ちのめされます。今は イエズス様の「苦しみ」を黙想するときだとわかります。(そしてマリアさまの「お苦しみ」を。)

大祭司として最高の司祭として贖いを完成させたイエズス様の十字架には、金銀宝石よりも大切で隠さねばならない程の価値があり、そのような十字架を聖堂に掲げていた古(いにしえ)のカトリック教会は 生贄の価値を知っていたということになります。(今は 十字架がよくわからないような形の教会建築も多く、生贄の価値・十字架の価値・苦しみの価値が 前ほど顧みられなくなっているのでしょうか。)そして、一信徒ではあるが大祭司として自分の日常の苦しみを生贄としてささげることができるということを教えていただきました。

そのうえで 三つの提案をいただきました。
 
一つは 十字架の価値をよく理解すること。十字架は宝の詰まった宝庫であることを理解して 十字架はわたしたちに天国の鍵を与える祝福の源 であることをよく理解できるように 恵みを求める決心すること。 大祭司としての位置には 王の道十字架の道が隠されているということです。

次には その十字架の価値はイエズスの大祭司としての地位にあり、わたしたちが”大祭司の民”であることを理解するには 「イエズスキリストとともに 日常の苦しみを生贄としてお捧げする」ことによってこれにより私たちのつまらない人生が永遠の宝となるのだということを知らなければならなく、これこそが わたしたちもキリストの司祭職に参与しているという意味であると教えていただきました。

人生におけるごく小さなマイナスの出来事でも永遠の価値を持つ宝となるということに ご聖体を拝領することによって参与できるという意味で、カトリック信者が栄光ある司祭の民であることを 理解するようにとのことでした。

”…大祭司の民だから…”というのを誤って解釈した結果行われるようになったのがノブスオルドのミサで、実際のミサにおける平信徒による参加(聖書朗読とか聖体奉仕者)は まったく「大祭司の民」ということと関係がないということを伺って、驚きました。

第三には 受難節にマリア様のこと 特にファチマのマリア様のことをよくを考えましょうと提案いただきました。ファチマのマリア様は 祈りと犠牲の大切さを 三人の牧童を通して お伝え下さり、たとえ今日のお説教のような難しい神学を知らなくても、天国への道を示してくださったのだなと あらためて思います。本当に大事なことは実践することだと。

ところでずっと昔 ある挫折の中にいた私に 母が母なりに生きて感じている人生での苦しみのようなことについて何か話してくれたことがありました。その時の私は信仰をいただいていなくて、でも、母から何か大事なものが伝わってきたことは感じました。いま 感謝をもってこうしてお説教で聞いた苦しみの価値について母に伝えられたらと思うのですが、キリスト教を受け入れず信仰を持たない母にはこのようなことを話したくても話せないことがよくわかります。苦しみの多い人生の母に 苦しみに宝石のような価値があるということを伝えることができなくて 残念に思います。「天主からのものは天主の言葉を聞く」という主題になっているのは、苦しみの価値を受け入れるかどうかが カトリック信仰と深く関係しているからかなと思いました。

いつも様々な小さな失敗・悲しみ・悩み・不安があり、のみならず自分自身が他の人に対して苦痛を与えるという現実の苦しみもいつもあります。 《その自分が人様にうっかり悪いことをして苦痛を与えたことを知り苦しむというのは 「苦しみ」として捧げることのできる苦しみなのか いつもよく分からなくなります。》  みじめな苦しみでも イエズス・キリストとともにお捧げし ご聖体拝領によって生贄として価値あるものに変えていただくことができる・永遠の宝になるということを よく分かることができますように 恵みを願い求めたいと思います。

ようやく見いだした苦しみの意味というのは人に簡単に伝えることができないものだけでなく、自分にもそれを生きるように簡単に分からせることができないものだとますます感じます。自分がイエズス様の苦悩を良く黙想することでしか、苦しみの価値を知ることができないのではないかと思い すこしでもイエズス様とマリア様のお苦しみを黙想しようと思います。神父様いつもありがとうございます。

デオ・グラチアス!


【報告】
アヴェ・マリア・インマクラータ!

小野田神父様

今回の公教要理は聖ヨハネ福音書についてお話しいただきました。ありがとうございました。ご報告いたします。分かったことは次のようなことです。

◎はじめに・・
●聖ヨハネ福音書を書いたとされる使徒聖ヨハネは 他のすべての弟子の中で特別に愛された弟子として知られ 最後の晩餐で胸に寄りかかりイエズス様の御心の鼓動を聞いたことから「御心の使徒」とも呼ばれることもある。
●職業は漁師、家族は兄が十二使徒のひとりの大ヤコブ(書簡ヤコボの手紙を書いたヤコボとは別の人で、こちらはイエズス様の親戚の兄弟。大ヤコブは、よりイエズス様から愛されていたので、大ヤコブといわれる)、母の名はサロメ、父の名はゼベデオ、生家は雇人がいるようなお金持ちの家で 神殿に魚を卸していたのでコネもあり、大祭司のこともよく知っていた。 
●漁師の仲間に アンドレアとペトロ(シモン)がいた。住居はガリレア湖(テベリア湖)の近くのベトサイダ というところだった。イエズスと最初にあった弟子が アンドレアとヨハネだった。二人は洗礼者聖ヨハネの弟子だったからで イエズスが洗礼者聖ヨハネから洗礼を受けたとき、この方こそ聖霊で洗礼を授ける方だと聞いたその翌日 ヨハネとアンドレアはイエズスの後をついていく。イエズス様は カファルナムに住居を移し、ヨハネ達もそれについていく。
●聖ヨハネ福音書のいちばんの特徴は 共観福音書には書いていないことをヨハネは書いていることだが、イエズスがヨハネを特に選んでしたこととは何か、ヨハネの人生はどういうものだったか、ヨハネにしか書けないものは何だったか、聖ヨハネ福音書の特徴は何か、などについて 詳しくお話しいただきました。(次に順次列挙いたします。)

◎イエズスがヨハネを選んでしたことは何か・・  
1 ●御変容 (ヨハネと大ヤコブとペトロ)  この三人の使徒だけに御変容を見せた
  (マテオ17:1) (マルコ9:2)(ルカ9:28)

2 ●ゲッセマニの園 (ヨハネとペトロと大ヤコブ)  この三人だけに一緒に祈ってほしいといった
  (マテオ26:37)(マルコ14:33)
 
3 ●ヤイロの娘の甦り (ヨハネとペトロと大ヤコブ) この三人だけに奇跡を見せた
  (マテオ9:18) (マルコ5:21) (ルカ8:40)

4 ●過ぎ越しの準備(ヨハネとペトロだけ) この二人が用意を頼まれた
   (マテオ26:17) (マルコ14:12) (ルカ22:7)

6 ●お母様の聖マリアを委ねる(ヨハネだけ) イエズス様の最も大切なものを委ねられた

◎ヨハネの人生について・・ 
聖伝によると、ヨハネはエルサレムの神殿が粉々になった後にエフェソに行った。西暦70年の後に ローマ皇帝ドミチリアノが ヨハネをエフェソから呼び出して ローマに来るように言った。燃えたぎる油の窯の中に投げ込まれるが 何の傷も受けずに ひょろっと出てくる。それで エーゲ海のパトモス島に追放される。ここでヨハネは黙示録を書く。しかし ローマ皇帝ドミチリアノが没するとエフェソに戻る。そこで亡くなる。(ヨハネだけは殉教していない)。墓もエフェソの「アヤスルク」(神学者という意味)というところで 考古学的に発見されて残っている。ローマ皇帝トラヤヌスの時代に亡くなる。 

◎ヨハネにしか書けないもの・・・
ヨハネにしか書けないものがあり、そのために ヨハネは特別に選ばれたといえるが、ヨハネが選ばれて立ち会った「主の御変容」・「ゲッセマニの園での祈り」・「ヤイロの娘の甦り」・「過ぎ越しの準備」については書いていない。それは ヨハネが自分の名誉になるようなことは一切書かなかったからで、自分の名前を出すことなく 自分以外の人達のことを書いている。洗礼者ヨハネのことをヨハネといって 自分のことは 「主から愛されたもの」としか書いていない。(婉曲的表現)。ヨハネ自身は、自分のことを差し置き 他の十一人の弟子の行状をくわしく書いている。それに比べて共観福音書には ヨハネ・ペトロ・ヤコブが選ばれてああだった、こうだったと この三人のことが詳しく書かれている。パトモス島に追放される前に エフェソで書いたと思われる。エルサレムが崩壊した後に書き残した。(過去形で書いてある)

ヨハネは 一人だけ ペトロの最期・ラザロの最期・カナの婚姻の奇跡・生まれつき目の見えない人の奇跡 などを書いている。

◎ヨハネ福音書の特徴は何か・・・  
1 ●神学的な話
  (ヨハネはまず書き出しが違う)既にキリスト教を知っている人を対象に話している。 
  他の共観福音書は 一般の人たちを対象にイエズスのこういう話をしたかという話を記録しているが、ヨハネ福音書の中には パリサイ人とユダヤの人とどういう神学的論争があったのかとか旧約聖書の論争などということを記録している。 

2 ●この第四福音書が確かにヨハネが書いた(という第一の)理由として イエズス様が旧約聖書の解釈・神学的議論などをする様子を ヘブライ語を知らなければできないような言い回し・表現を用いて書いていることがあげられる。ユダヤの習慣をよく知っていた。

   a 「祭り」の区別・・・祭りにも三種類があり、それらの三つをちゃんと区別している。過越し祭・幕屋祭・神殿奉献祭。
   b サマリア人との対立・・・ユダヤ人がサマリア人と対立していたのもよく知っていてサマリアの女との問答を書いている。 
   c  安息日のこと・・・安息日でも割礼をすることができることをよく知っている
   d  ユダヤ人でなければわからないこと・・・異教徒の家に入ると律法的に穢れを受ける  ため過越し祭の前は異教徒の家に入れないことなど 律法のことを詳しくよく知っていた 

3 ●宿題「これは聖書の預言が成就するためであった」という表現がヨハネ福音書の中に何回あるか?

4 ●パレスチナの聖書の地理に精通 
   例えば ベトザという池があり そこには5つの回廊があり 天使が降りて来ると水が動き そこに入ると 病気が治った」という部分について この廊がどういう形で池を取り囲んでいたとかなど よくわかっていなかったが 最近考古学的にこの池が発見された。そうすると 確かに池の真ん中にも一本の廊が通っていて、四本の縁と真ん中の一本とを合わせて 5つの廊があることになるので、正しい表現だと確認された。他にも べタニアとエルサレムの位置は どうだったかなど を含め19か所、パレスチナの当時の使徒でなければ知らないことを 詳しく書いてある。
  
5 ●使徒ヨハネでなければ分からないようなことをよく知っていた
  ・ 初めてイエズスに出会った時刻のことが記されている
  ・ 石甕が6つあったこと  (カナの婚宴で) 
  ・ 御受難中にイエズス様のされた唯一の奇跡のこと
   (ゲッセマニの園でペトロが大祭司の僕マルコスの耳を切ったのを癒した) 
  ・ ニコデモについての諸々のこと 
  ・ (他の福音書が書いていない)イエズスの話・祈り・聖体制定の予定の話
  ・ ヨハネ自身が 御心に自分の頭をつけて「裏切るものは誰ですか」と聞いたこと 
  ・ 御受難の模様を マリア様を委ねられたことを含めて 最後まで詳細に記述している
  ・ その他多数・・

6 ●ヨハネ福音書が 共観福音書と特に違う部分は 共観福音書はだいたい同じストーリーであり 洗礼を受ける→ガリレア宣教している→エルサレムに行く→受難→と このように一目瞭然に同じ流れ同じ順序で書かれていて共に観るという意味で 共観福音書と呼ばれている。ヨハネ福音書の場合は エルサレム周辺のユディア時代の宣教を主に書いている。そして 共観福音書には書かれていない奇跡を書いている。( カナで水を葡萄酒に変える・ラザロの復活・生まれつきめくらの盲人最初から目が無いような人が見えるようになる) そして使徒ヨハネでなければわからないことを書き留めた。

◎コロザインのこと・・
コロザインでは世界でまたとない奇跡がなされたが 四つの福音書のどれにも書かれていない。ポンペイやソドムやゴモラのようにあまりにもひどく腐敗し穢れに満ちていて可哀そうで書けなかったのではないか。この町でよほどものすごい目を見張るような奇跡を何回もやったにもかかわらず コロザインの人は信じようとしなかったと嘆いている、このように福音書の中で書ききれなかった奇跡をイエズスは何回も行われた。 

◎最後に・・
マリア様と余生を過ごされたヨハネは マリア様からのお話やマリアさまの黙想の話を聴いたりしたと思われるが、特別の光りをいただき、目撃証人として選ばれた者といえる。イエズス様から特別に愛された使命をもって、その仕事の内容を後世につたえなければならなかったと思われる。イエズス様こそ真の天主であり、みことばである、ということを伝える使命があったゆえに、
十二使徒の中で特別に若く、殉教をしないで長生きをして、漁師の子供でありながら聖書を書くような教養も得たと思われる。
ファチマでも 三人のうちの二人は幼くして亡くなっているが、ルチアだけは特別の記録を残している。これも 同じように 伝えなければならない仕事があったからで、そのためにマリア様から読み書きを習うように言われ、長生きをしたのだろう。

◎感想です・・
とても有意義なお話を伺うことができました。これまで漠然としていたけれど 読み進むための地図をいただいたようで、これからヨハネ福音書を読むときの指針となるように思います。ヨハネの生涯についても初めて知ることが多く とても面白かったです。
ヨハネ福音書は 特別な福音書だと思っていました。この日の主日の聖福音にも「まことにまことにあなたたちにいう、わたしのことばを守る者は死を味わわない アブラハムがいる前からわたしはいる 」というヨハネ福音書の御言葉がありました。今回のお話をもとにして 頭の中の引き出しに聖ヨハネ福音書が整理されて収まるように、ヨハネ福音書を読めればと思います。ヨハネ福音書に残されているイエズス様の言葉をよく読んで イエズス様のみことばをよく守れますように恵みを願います。神父様 ありがとうございました。

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