アヴェ・マリア・インマクラータ!
愛する兄弟姉妹の皆様、
2017年3月31日(金)に大阪で聖伝のミサを捧げました。その時のお説教をご紹介いたします。
天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)
2017年3月31日(金) 四旬節の平日のミサ
小野田神父説教
聖母の汚れなき御心教会にようこそ。
今日は2017年3月31日、四旬節の第4主日の後の金曜日のミサをしております。今日はこの御ミサで皆さんと一緒に十字架の道行きができて非常に嬉しく思います。
このミサが終わったら、もしも時間がある方はどうぞ一緒に終課のお祈りを唱えていきましょう。
明日は10時30分からやっぱりここでミサがあります、来れる方はいらして下さい。
また1週間の後の金曜日も初金曜日にミサがあります。金・土・日・月と続けてミサがあります、どうぞいらして下さい。
「ラザロ、外に出てきなさい。」
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。
愛する兄弟の皆さん、小さなお友達、今日はこの四旬節の中でとても美しいミサの一つを捧げています。
そこで今日、このミサで一体どんなお話があって、どんな事を教会は私たちに教えようとしているのか、という事を一緒に黙想する事を提案したいと思っています。
四旬節は、復活の徹夜祭に洗礼を受けようと準備している求道者の方々の為の特別の準備の時でもあり、また公の罪人といわれる、洗礼は受けたけれどもその後で罪を犯して、それで回心して、泥棒をしたりとか何か悪さをしたりしてしまって、罪を犯してしまったという人が痛悔をして、そして聖木曜日に告解をするのを許されて、初めて聖体拝領をまたもう一度する事ができる、その前に断食や色々な償いをするという特別の時期なのです。
そこで教会は、この2つの種類の方々の為にも特に今日話をしています。その一番のテーマは、「復活」という事です。そこで一体、どうやって教会は「復活」という事を私たちに教えようとしているか、という事を3つの点を見てみます。
1つは、指定巡礼教会というものが聖エウゼビオ教会というのに指定されているという事。
もう1つは書簡で、エリアが寡婦の子供を復活させた、よみがえらせたという事。
第3には福音書で、イエズス様がラザロを、一番の友人であった家族の亡くなったラザロを復活させたという事。
それらを見て、それででは一体これは2017年3月31日の今日、大阪にいる私たちに一体どんな意味があるのか、という事を黙想しましょう。
それで私たちはどんな決心を立てたら良いか、という事を考えましょう。
第1の点は、指定巡礼教会という事です。これは何かというと、教会はただ耳で聞かせるだけとか、目でとか、聖書を読んでお話をさせるというだけでは足りないと考えていました。そこで音楽や、或いはミサの時に香を焚いて、その香が上がるのを見せて、その清い、とても良い匂いの香りが天に上がるのを見て、お祈りのシンボルとしたり、或いはきれいな教会の建築をして、この目に見える形でイエズス様の御生涯、或いは五感を全てを通して、私たちにキリスト教の教えを、イエズス様の教えの真髄が一体何なのであるか、という事をありありと分かるようにしようとしていました。
指定巡礼教会とは、四旬節の間40日の間、毎日色んな教会に行列で行って、洗礼を受けようとする求道者、或いは聖木曜日に御聖体を拝領する事の為に準備をしている公の罪人、或いは信徒の方々、或いはローマの教皇様、或いは聖職者、司祭、助祭、色んな方々が一緒に行列をして、荘厳に指定巡礼教会まで行くのです。
聖エウゼビオ教会というのは、聖エウゼビオという8月14日の祝日の聖人、司祭ですけれども、異端者のコンスタンスローマ皇帝によって7ヶ月間小さな部屋の中に閉じ込められて、そして遂に殉教してしまった、その聖人の名誉の為に建てられた教会があるのです。
そこでそこの所に行くまでに、古いローマの異教のお墓の廃墟地を行列が通らなければなりませんでした。そうする事によって教会は、「さぁ、今から洗礼を受ける人々、今から罪を痛悔する人々、私たちは罪を犯して、こんなに暗いお墓の死の陰でもう死の中にいたけれども、でもこの中を通ってこれから聖エウゼビオの教会に行く。異教の死のお墓から私たちは復活する教会の中に入るんだ」という事を教えようとしていました。
ちょうどその場所がそうだったのです。そこの教会に行く為には墓地の中を通らなければなりませんでした、その廃墟の中を。そこでそれを通して、「死から復活へ」という事をまざまざとその目に見せようとして考えられました。
第2の点は書簡です。これは旧約のエリアという預言者が、寡婦の子供を病気の子供を、もう死んだ子をよみがえらせるのです。考えても見て下さい、お父さんが亡くなって、貧しいたった1人のお母さんと男の子、2人だけ残されて、「さぁ、お母さんはこれからもう年を老いて、これから若いこの男の子がお母さんの面倒をみてくれるかもしれない。」この青年の男の子に期待していたにもかかわらず、病気で亡くなってしまった。年を取ってちょっと弱っているお母さんはもう身寄りがなくなってしまって、そしてエリアはこのお母さんの元に身を寄せていました。
そしてその子供が亡くなった時、お母さんがエリアに言うのです。
「このあなたと私に一体何の関係があるだろうか。もう私は、もうこの最愛の子供を失った。私の自分の希望を失った。もうこれで何もこの世に残されていない。私は一体これからどうしていったら良いのだろうか。お先真っ暗だ。」
エリアはその時、そのお母さんの心の悲しみをよく感じていました。
この寡婦の、この「子供を亡くしたお母さん」というのは実は、「罪人の為に泣いているカトリック教会」の象りなのです。
するとエリアは、そのお母さんの心をよく感じ取って、「是非この子が生き返るように」お祈りしようとします、「さぁ、その子を早く出して下さい。さぁ、ここに置いて下さい。この寝台に置いて。」そしてエリアはお祈りをするのです。
「主よ、あなたはこの寡婦からこの子も取ってしまうのですか。あぁ、どうぞお願いします。」
主にお願いするのです。「どうぞお願いします!」長いお祈りをして、さらにお祈りをして、お願いします。そして、それでも子供は何も動きもピクリともしません。ですからエリアは、「自分の命ができればこの子供に入りますように」手に手を合わせて、その上に乗って「あぁ、自分が温かくしてあげればいいか、」3回その上に乗って、「さぁ、どうかお願いします、お願いします、お願いします、どうか生き返らせて下さい、どうぞ、」もう涙ながらに一生懸命お祈りして、お祈りして、お祈りして、すると子供が目を覚まして、その夫人の元に与えられたのです。
第3は、新約のイエズス様が、自分の愛するお友達ラザロが亡くなったのをどうやってよみがえらせたかという事です。
エリアは一生懸命お祈りして、一生懸命もう何とかして、もう天主様にこう戦いを挑むように、こう「これでもか、これでもか、あぁお願いします」と言って、もうお祈りしたおしてその復活を得ました。
イエズス様はどう言うかというと、立ったまま、ただ一言、「ラザロ、出て来なさい。」
それを言っただけで、ラザロはその埋葬されたままの形でパッと起き上がって出て来るのです、そのまま、命令に従って。
イエズス様の力がどれほど強いか、イエズス・キリストが本当に命と死の主であるという事を見せようと、その違いを見せようとしています。
行列を作ったその求道者や公の罪人たちが教会に入って来ると、すぐに聞くのは聖歌で入祭誦で、「私の考えはいつも、その助け主であり贖い主であるあなたの事を考えています、黙想しています」と聞いて、そしていきなりこの2つの復活の話が出てくるのです。
これは何を意味しているかというと、「求道者、あなたたちももうすぐ霊的に復活しますよ。今、死の中を歩んでいるけれども、罪の中にまみれているけれども、もうすぐ復活の日が、あと2週間で復活するのですよ、イエズス様によって復活されますよ。イエズス様こそが私たちに本当の永遠の命を与える、生と命と死の主なのですよ」という事を私たちに聞かせようとするです、教えようとするのです。
イエズス様はただ単に、この求道者や公の罪人たちにのみ言うのではないのです。2017年の今私たちの、大阪にいる私たちにもその声を響かせようとしています。私たちにも、「ラザロや、出てきなさい。お墓から出てきなさい、光の中に出てきなさい」と呼びかけて命令しています。たとえ私たちが罪の包帯を巻いていたとしても、その声を聞くとパッと出て来て歩いて来る事を今起こらせようと、今ミサの中で私たちにイエズス様の声を聞かせています。
イエズス様はラザロが亡くなったと聞いた時に、そのラザロの所にはいませんでした。「ラザロが病気です、あなたの愛している者が病気ですよ」と聞かれた時に、イエズス様は敢えて、病気を治そうと行きませんでした。主の栄光が現れる為に、主の御旨は別の所にあった、という事を見せる為に。
イエズス様にとってベタニアに行くというのは非常に危険な事でした。何故かというとエルサレムの近くにあり、イエズス様の命を狙おうという人たちがたくさんいたからです。「邪魔者は、イエズス様は邪魔者だから亡くしてしまえ」と考える人がたくさんいました。イエズス様はその事もよく知っていました。でもそれを恐れていたから病気だと聞いて行かなかったのではありません。イエズス様はラザロに復活の奇跡を起こそうという事をちゃんと思っていたからです。
でもラザロが亡くなったという事を聞くとイエズス様は、「さぁ、エルサレムに行こう」と言います。弟子たちはそれが危険だという事を知っていました。使徒の聖トマスは言います、「私たちも行って、私たちも一緒に死のう」と。それほど危険な事だったのです。
そして行くと、まずマルタがやって来てイエズス様に言います、「あぁ、もしもあなたがここにいらしたら、私のお兄さんは死にませんでした。でも最後の日には復活する事を知っています」と言いました。イエズス様はマルタに言います、「私は復活であり、命である。私を信じる者は死んでも生きる。これを信じるか。」「はい、信じます。」
するとマルタは妹のマリアの所に行って、「あぁ、主が来ました」と言うと、今までずっと泣いて泣いて、もうお兄さんの事を泣いてずっと座っていたのに、イエズス様が来たと聞くと「あぁ!」と立ち上がって、急いで走ってイエズス様の所に行きます。周りにいたユダヤの人々は、「お墓の方に行くのだろう」と思っていたら、イエズス様の方に行くのです。
マリアも同じ事を言います、「あなたがここにいらしたら、イエズス様、あなたがここにいらしていたならば、私の兄は死にませんでした。」イエズス様はそのこの彼らを見て非常に感動します。「お墓の方に連れて行きなさい。」そしてその様子を見たイエズス様は彼らを愛するがあまり涙を流します。
イエズス様が涙を流したというのは福音書ではここだけです。「イエズス様は涙を流された。」
それを見てユダヤ人たちは、「あぁ、このイエズス様はどれほど彼の事を愛していたのだろうか。」それを感動して見たほどでした。
イエズス様はその墓の所に行くと、「墓の石を取れ」と命じます、「取りなさい。」するとマルタが、「主よ、ちょっと待って下さい。もう経って4日です、4日も経っているので、非常に臭くて臭くて臭くて、腐敗でたまりません。」するとイエズス様は、「お前は私の事を信じていると言ったではないか。もしも信じているなら主の栄光を見るだろう。」それを言うと、その通りイエズス様の通りにします。
イエズス様は墓が開けられて、おそらく強烈な臭いプンプンしているのを皆の前まで来たと思います、「ウッ!」
するとイエズス様は命令します、「ラザロ、外に出て来なさい。」すると、埋葬されたままの恰好で縛られたままで、ラザロが歩いて出て来ました。
この話を私たちに教会が聞かせたのは、「実はイエズス様がこれほど私たちをこれほど愛しておられる。ラザロというのは私たちの事で、イエズス様は私たちを、どんなに死の危険が冒したとしても、私たちを救いに来る、よみがえらせに来る。そして私たちの為に涙を流して、どれほど愛しているかという事を見せる。そして私たち一人一人に愛の声をかけて、『何とかや、罪の中から出て来なさい。』『何とか、さぁ外に出て来なさい、光の中に出て来なさい。墓の中から出て来なさい。死の罪から死の中から出て来なさい。復活しなさい』と私たちに命じている、今、今日、命じている。私たちはすでにそれを聞いて、今聞いて、出るしかない。霊的に復活するしかない」という事を私たちに教えています。
今日御聖体拝領する時に、教会はまさにこの同じイエズス様の言葉を聖体拝領誦で聞かせてきます。たとえ四日経って、もう罪の中にドロリと浸かって、臭くて臭くてもうたまらない、もう人間の顔もしていないほどもう蛆だらけで、もうどうしようもないように思われたとしても、「もうこれで万事休す、こんな状態では生き返るはずはない」と思ったとしても、イエズス様によれば必ず復活します。霊的によみがえる事ができます。
そしてこの今年の復活祭に、イエズス様はその奇跡を私たちの霊魂にしたい、「ラザロや、出て来なさい」と呼びかけているという事を教えています。イエズス様は私たちの為に、今日涙を流しました。すでに私たちは単なるキリスト教徒ではなくて、キリストの命を生きる者として、イエズス様の命を生きる者として、「私たちにとって生きるとは、キリストなり」とパウロのように言わなければなりません。
イエズス様は言います、「私は復活であり、命である。私を信じる者は死んでも生きる。」
私たちの命であり、復活であるイエズス様が是非、私たちを霊的によみがえらせて下さいますように、今日お祈り致しましょう。御聖体拝領をよく致しましょう。
マリア様にお祈り致しましょう。マリア様が私たちの霊的な復活を助けて下さいますように。
「ラザロ、外に出て来なさい。」
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。
愛する兄弟姉妹の皆様、
2017年3月31日(金)に大阪で聖伝のミサを捧げました。その時のお説教をご紹介いたします。
天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)
2017年3月31日(金) 四旬節の平日のミサ
小野田神父説教
聖母の汚れなき御心教会にようこそ。
今日は2017年3月31日、四旬節の第4主日の後の金曜日のミサをしております。今日はこの御ミサで皆さんと一緒に十字架の道行きができて非常に嬉しく思います。
このミサが終わったら、もしも時間がある方はどうぞ一緒に終課のお祈りを唱えていきましょう。
明日は10時30分からやっぱりここでミサがあります、来れる方はいらして下さい。
また1週間の後の金曜日も初金曜日にミサがあります。金・土・日・月と続けてミサがあります、どうぞいらして下さい。
「ラザロ、外に出てきなさい。」
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。
愛する兄弟の皆さん、小さなお友達、今日はこの四旬節の中でとても美しいミサの一つを捧げています。
そこで今日、このミサで一体どんなお話があって、どんな事を教会は私たちに教えようとしているのか、という事を一緒に黙想する事を提案したいと思っています。
四旬節は、復活の徹夜祭に洗礼を受けようと準備している求道者の方々の為の特別の準備の時でもあり、また公の罪人といわれる、洗礼は受けたけれどもその後で罪を犯して、それで回心して、泥棒をしたりとか何か悪さをしたりしてしまって、罪を犯してしまったという人が痛悔をして、そして聖木曜日に告解をするのを許されて、初めて聖体拝領をまたもう一度する事ができる、その前に断食や色々な償いをするという特別の時期なのです。
そこで教会は、この2つの種類の方々の為にも特に今日話をしています。その一番のテーマは、「復活」という事です。そこで一体、どうやって教会は「復活」という事を私たちに教えようとしているか、という事を3つの点を見てみます。
1つは、指定巡礼教会というものが聖エウゼビオ教会というのに指定されているという事。
もう1つは書簡で、エリアが寡婦の子供を復活させた、よみがえらせたという事。
第3には福音書で、イエズス様がラザロを、一番の友人であった家族の亡くなったラザロを復活させたという事。
それらを見て、それででは一体これは2017年3月31日の今日、大阪にいる私たちに一体どんな意味があるのか、という事を黙想しましょう。
それで私たちはどんな決心を立てたら良いか、という事を考えましょう。
第1の点は、指定巡礼教会という事です。これは何かというと、教会はただ耳で聞かせるだけとか、目でとか、聖書を読んでお話をさせるというだけでは足りないと考えていました。そこで音楽や、或いはミサの時に香を焚いて、その香が上がるのを見せて、その清い、とても良い匂いの香りが天に上がるのを見て、お祈りのシンボルとしたり、或いはきれいな教会の建築をして、この目に見える形でイエズス様の御生涯、或いは五感を全てを通して、私たちにキリスト教の教えを、イエズス様の教えの真髄が一体何なのであるか、という事をありありと分かるようにしようとしていました。
指定巡礼教会とは、四旬節の間40日の間、毎日色んな教会に行列で行って、洗礼を受けようとする求道者、或いは聖木曜日に御聖体を拝領する事の為に準備をしている公の罪人、或いは信徒の方々、或いはローマの教皇様、或いは聖職者、司祭、助祭、色んな方々が一緒に行列をして、荘厳に指定巡礼教会まで行くのです。
聖エウゼビオ教会というのは、聖エウゼビオという8月14日の祝日の聖人、司祭ですけれども、異端者のコンスタンスローマ皇帝によって7ヶ月間小さな部屋の中に閉じ込められて、そして遂に殉教してしまった、その聖人の名誉の為に建てられた教会があるのです。
そこでそこの所に行くまでに、古いローマの異教のお墓の廃墟地を行列が通らなければなりませんでした。そうする事によって教会は、「さぁ、今から洗礼を受ける人々、今から罪を痛悔する人々、私たちは罪を犯して、こんなに暗いお墓の死の陰でもう死の中にいたけれども、でもこの中を通ってこれから聖エウゼビオの教会に行く。異教の死のお墓から私たちは復活する教会の中に入るんだ」という事を教えようとしていました。
ちょうどその場所がそうだったのです。そこの教会に行く為には墓地の中を通らなければなりませんでした、その廃墟の中を。そこでそれを通して、「死から復活へ」という事をまざまざとその目に見せようとして考えられました。
第2の点は書簡です。これは旧約のエリアという預言者が、寡婦の子供を病気の子供を、もう死んだ子をよみがえらせるのです。考えても見て下さい、お父さんが亡くなって、貧しいたった1人のお母さんと男の子、2人だけ残されて、「さぁ、お母さんはこれからもう年を老いて、これから若いこの男の子がお母さんの面倒をみてくれるかもしれない。」この青年の男の子に期待していたにもかかわらず、病気で亡くなってしまった。年を取ってちょっと弱っているお母さんはもう身寄りがなくなってしまって、そしてエリアはこのお母さんの元に身を寄せていました。
そしてその子供が亡くなった時、お母さんがエリアに言うのです。
「このあなたと私に一体何の関係があるだろうか。もう私は、もうこの最愛の子供を失った。私の自分の希望を失った。もうこれで何もこの世に残されていない。私は一体これからどうしていったら良いのだろうか。お先真っ暗だ。」
エリアはその時、そのお母さんの心の悲しみをよく感じていました。
この寡婦の、この「子供を亡くしたお母さん」というのは実は、「罪人の為に泣いているカトリック教会」の象りなのです。
するとエリアは、そのお母さんの心をよく感じ取って、「是非この子が生き返るように」お祈りしようとします、「さぁ、その子を早く出して下さい。さぁ、ここに置いて下さい。この寝台に置いて。」そしてエリアはお祈りをするのです。
「主よ、あなたはこの寡婦からこの子も取ってしまうのですか。あぁ、どうぞお願いします。」
主にお願いするのです。「どうぞお願いします!」長いお祈りをして、さらにお祈りをして、お願いします。そして、それでも子供は何も動きもピクリともしません。ですからエリアは、「自分の命ができればこの子供に入りますように」手に手を合わせて、その上に乗って「あぁ、自分が温かくしてあげればいいか、」3回その上に乗って、「さぁ、どうかお願いします、お願いします、お願いします、どうか生き返らせて下さい、どうぞ、」もう涙ながらに一生懸命お祈りして、お祈りして、お祈りして、すると子供が目を覚まして、その夫人の元に与えられたのです。
第3は、新約のイエズス様が、自分の愛するお友達ラザロが亡くなったのをどうやってよみがえらせたかという事です。
エリアは一生懸命お祈りして、一生懸命もう何とかして、もう天主様にこう戦いを挑むように、こう「これでもか、これでもか、あぁお願いします」と言って、もうお祈りしたおしてその復活を得ました。
イエズス様はどう言うかというと、立ったまま、ただ一言、「ラザロ、出て来なさい。」
それを言っただけで、ラザロはその埋葬されたままの形でパッと起き上がって出て来るのです、そのまま、命令に従って。
イエズス様の力がどれほど強いか、イエズス・キリストが本当に命と死の主であるという事を見せようと、その違いを見せようとしています。
行列を作ったその求道者や公の罪人たちが教会に入って来ると、すぐに聞くのは聖歌で入祭誦で、「私の考えはいつも、その助け主であり贖い主であるあなたの事を考えています、黙想しています」と聞いて、そしていきなりこの2つの復活の話が出てくるのです。
これは何を意味しているかというと、「求道者、あなたたちももうすぐ霊的に復活しますよ。今、死の中を歩んでいるけれども、罪の中にまみれているけれども、もうすぐ復活の日が、あと2週間で復活するのですよ、イエズス様によって復活されますよ。イエズス様こそが私たちに本当の永遠の命を与える、生と命と死の主なのですよ」という事を私たちに聞かせようとするです、教えようとするのです。
イエズス様はただ単に、この求道者や公の罪人たちにのみ言うのではないのです。2017年の今私たちの、大阪にいる私たちにもその声を響かせようとしています。私たちにも、「ラザロや、出てきなさい。お墓から出てきなさい、光の中に出てきなさい」と呼びかけて命令しています。たとえ私たちが罪の包帯を巻いていたとしても、その声を聞くとパッと出て来て歩いて来る事を今起こらせようと、今ミサの中で私たちにイエズス様の声を聞かせています。
イエズス様はラザロが亡くなったと聞いた時に、そのラザロの所にはいませんでした。「ラザロが病気です、あなたの愛している者が病気ですよ」と聞かれた時に、イエズス様は敢えて、病気を治そうと行きませんでした。主の栄光が現れる為に、主の御旨は別の所にあった、という事を見せる為に。
イエズス様にとってベタニアに行くというのは非常に危険な事でした。何故かというとエルサレムの近くにあり、イエズス様の命を狙おうという人たちがたくさんいたからです。「邪魔者は、イエズス様は邪魔者だから亡くしてしまえ」と考える人がたくさんいました。イエズス様はその事もよく知っていました。でもそれを恐れていたから病気だと聞いて行かなかったのではありません。イエズス様はラザロに復活の奇跡を起こそうという事をちゃんと思っていたからです。
でもラザロが亡くなったという事を聞くとイエズス様は、「さぁ、エルサレムに行こう」と言います。弟子たちはそれが危険だという事を知っていました。使徒の聖トマスは言います、「私たちも行って、私たちも一緒に死のう」と。それほど危険な事だったのです。
そして行くと、まずマルタがやって来てイエズス様に言います、「あぁ、もしもあなたがここにいらしたら、私のお兄さんは死にませんでした。でも最後の日には復活する事を知っています」と言いました。イエズス様はマルタに言います、「私は復活であり、命である。私を信じる者は死んでも生きる。これを信じるか。」「はい、信じます。」
するとマルタは妹のマリアの所に行って、「あぁ、主が来ました」と言うと、今までずっと泣いて泣いて、もうお兄さんの事を泣いてずっと座っていたのに、イエズス様が来たと聞くと「あぁ!」と立ち上がって、急いで走ってイエズス様の所に行きます。周りにいたユダヤの人々は、「お墓の方に行くのだろう」と思っていたら、イエズス様の方に行くのです。
マリアも同じ事を言います、「あなたがここにいらしたら、イエズス様、あなたがここにいらしていたならば、私の兄は死にませんでした。」イエズス様はそのこの彼らを見て非常に感動します。「お墓の方に連れて行きなさい。」そしてその様子を見たイエズス様は彼らを愛するがあまり涙を流します。
イエズス様が涙を流したというのは福音書ではここだけです。「イエズス様は涙を流された。」
それを見てユダヤ人たちは、「あぁ、このイエズス様はどれほど彼の事を愛していたのだろうか。」それを感動して見たほどでした。
イエズス様はその墓の所に行くと、「墓の石を取れ」と命じます、「取りなさい。」するとマルタが、「主よ、ちょっと待って下さい。もう経って4日です、4日も経っているので、非常に臭くて臭くて臭くて、腐敗でたまりません。」するとイエズス様は、「お前は私の事を信じていると言ったではないか。もしも信じているなら主の栄光を見るだろう。」それを言うと、その通りイエズス様の通りにします。
イエズス様は墓が開けられて、おそらく強烈な臭いプンプンしているのを皆の前まで来たと思います、「ウッ!」
するとイエズス様は命令します、「ラザロ、外に出て来なさい。」すると、埋葬されたままの恰好で縛られたままで、ラザロが歩いて出て来ました。
この話を私たちに教会が聞かせたのは、「実はイエズス様がこれほど私たちをこれほど愛しておられる。ラザロというのは私たちの事で、イエズス様は私たちを、どんなに死の危険が冒したとしても、私たちを救いに来る、よみがえらせに来る。そして私たちの為に涙を流して、どれほど愛しているかという事を見せる。そして私たち一人一人に愛の声をかけて、『何とかや、罪の中から出て来なさい。』『何とか、さぁ外に出て来なさい、光の中に出て来なさい。墓の中から出て来なさい。死の罪から死の中から出て来なさい。復活しなさい』と私たちに命じている、今、今日、命じている。私たちはすでにそれを聞いて、今聞いて、出るしかない。霊的に復活するしかない」という事を私たちに教えています。
今日御聖体拝領する時に、教会はまさにこの同じイエズス様の言葉を聖体拝領誦で聞かせてきます。たとえ四日経って、もう罪の中にドロリと浸かって、臭くて臭くてもうたまらない、もう人間の顔もしていないほどもう蛆だらけで、もうどうしようもないように思われたとしても、「もうこれで万事休す、こんな状態では生き返るはずはない」と思ったとしても、イエズス様によれば必ず復活します。霊的によみがえる事ができます。
そしてこの今年の復活祭に、イエズス様はその奇跡を私たちの霊魂にしたい、「ラザロや、出て来なさい」と呼びかけているという事を教えています。イエズス様は私たちの為に、今日涙を流しました。すでに私たちは単なるキリスト教徒ではなくて、キリストの命を生きる者として、イエズス様の命を生きる者として、「私たちにとって生きるとは、キリストなり」とパウロのように言わなければなりません。
イエズス様は言います、「私は復活であり、命である。私を信じる者は死んでも生きる。」
私たちの命であり、復活であるイエズス様が是非、私たちを霊的によみがえらせて下さいますように、今日お祈り致しましょう。御聖体拝領をよく致しましょう。
マリア様にお祈り致しましょう。マリア様が私たちの霊的な復活を助けて下さいますように。
「ラザロ、外に出て来なさい。」
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。