アヴェ・マリア・インマクラータ!
愛する兄弟姉妹の皆様、
聖週間に入りました。
4月の初金には大阪でミサ聖祭を捧げ、聖時間をしました。4月8日の土曜日にも大阪でのミサ聖祭が出来てうれしく思います。
今回は、4月6日の夜、マニラの修道院を発ち、夜行便の飛行機に乗って早朝5時頃に日本に到着しました。フィリピンの修道院を出るとき、マニラの聖歌隊の青年達がアレグリの「ミゼレレ」の練習をしていました。すると、大阪のミサ聖祭でも奉献の時にこの「ミゼレレ」が大変うまく歌われ、感動しました。
さらになんと!土曜日のミサでは、奉献の時にこの「ミゼレレ」が、聖体拝領の時には、Giovanni Pergolesi作曲の「スタバトマーテル」が大変素晴らしく歌われ、心は天に挙がったかのようでした。
Gregorio Allegri, Miserere with English subtitles ※日本語字幕付き (1/2)
Gregorio Allegri, Miserere with English subtitles ※日本語字幕付き (2/2)
4月9日の枝の主日には、60名の方々が参列されました。新しく来られた方々、久しぶりの方々もおられ、大変嬉しくなりました。
まず枝の祝別と行列を、恒例の通り行い、ミサ聖祭を執行しました。
午後には、十字架の上での主の7つの言葉を黙想し、十字架の道行きを行い、主日の晩課を捧げました。
同時に4月9日の夕方には大阪でレネー神父様が枝の祝日のミサを捧げて下さいました。神父様にはこころから感謝します。
復活祭には大阪の聖母の汚れなき御心聖堂で、夕方の6時からミサ聖祭がある予定です。愛する兄弟姉妹の皆様をご招待いたします。
天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)
【報告】
アヴェ・マリア・インマクラータ!
昨日は御ミサ、御聖体降福式、十字架の道行きなど色々ありがとうございました!!
初金と初土の週が違っても、信心を実践する事ができるように2週連続で日本で御ミサを捧げて下さって本当にありがとうございます!そしてマリア様の七つの御悲しみの記念でもある御受難の主日の後の金曜日の御ミサに与る事ができてとても御恵みでした!
紫の布の意味を詳しく説明して下さってありがとうございます。今更ながら、御像などに紫の布を被せるのは、イエズス様の御受難を思って喪に服すという意味で、十字架にも紫の布を被せるのは、十字架は勝利のしるし、栄光のしるしであるからだ、という事が分かりました。
マリア様の汚れなき御心の御助けによって、マリア様の御心に学んで、十字架の価値を、苦しみの価値の意味を深く理解することができますように!教会の精神の中に、聖週間の中に深く入って行くことができますように!
デオ・グラチアス!
【報告】
アヴェ・マリア・インマクラータ!
いよいよ聖週間に入りました。
昨日は大阪で初めての枝の祝別式がありました!レネー神父様は韓国でも枝の祝別式を行なって下さって、ただでさえお疲れにもかかわらず、大阪でもフルバージョンの枝の祝別式を行なって下さいました!m(_ _)m
御ミサの後のご講話では十字架の神秘をお話してくださいました。
今日の早朝の御ミサでも、少し御説教をお話下さって、「ある司教様は、『カトリック信者はこの聖週間に、隣人に施しをしたりお見舞いをしたり、隣人愛の業を行なうように』という内容のことのみを仰ったそうなのですが、確かにそれ自体はとても良いことなのですが、その司教様は私たちの主イエズス・キリストの事を黙想するという事を仰っておらず、まず一番に考えなければならない事が抜けてしまっている、本当の隣人愛は天主を愛するが故に隣人を愛する事であって、天主への愛を抜きにして隣人を愛する事は誤った隣人愛で、天主を愛することによって、本当の意味で真に隣人を愛する事ができるようになる」というような内容のことを仰って下さいました。
デオ・グラチアス!
【報告】
Dear Fr Onoda:
今日の東京でのミサの参列者数は下記の通りです。
ミサの参列者数
男: 24人(内、子供3人)
女: 36人(内、子供5人)
計: 60人(内、子供8人)
【報告】
大司祭の民というのは、イエズス様と共に居ることによって、私たちの日常の苦しみをいけにえとして捧げる事ができる、特に御ミサに与ることによって、御聖体拝領をする事によって、キリストの司祭職に参与できるのだ。何と素晴らしい事でしょうか、何と栄光ある司祭の民でしょうか、と仰って下さった部分が心に残りました。
ファチマのマリア様も、「祈りと犠牲を捧げて下さい」と、救霊の為に、世界の平和のために私たちを栄光ある大司祭の民として招いて下さっているのだなと思いました。
【報告】
アヴェ・マリア・インマクラータ!
トマス小野田神父様
本日は、枝の主日でしたので、その後行われる十字架の道行きの信心業に先んじて、十字架上のイエズス様が述べられた七つの御言葉について、教えをいただきました。
(わかったこと)
いつもとても貴重な講話ありがとうございます!
十字架上のイエズス様の御言葉は、御旨の成就する最終の御言葉であり、そのひとつひとつが重いメッセージを有しているということがよくわかりました。
具体的には、
1 聖父よ 彼らを許したまえ 彼らはそのなすところを知らざればなり(ルカ 23:34)
2 まことに汝にいう。今日汝は我とともに楽園にあるべし(ルカ 23:43)
3 女よ、みよ、これ汝の子なり。みよ、汝の母なり。(ヨハネ19:26)
4 天主よ、なぜ我を見捨てたもうや(エリ・エリ・ラマ・サバクタニ)(マテオ 27:46)
5 我、渇く(ヨハネ 19:28)
6 事、成就せり(ヨハネ 19:30)
7 聖父よ 我が霊魂を御手に委ね奉る(ルカ 23:40)
の7つの御言葉ですが、
異邦人の医者であったルカが、イエズス様の大祭司ら大罪人への赦し、回心した死刑囚(ディスマス)への憐憫と楽園への誘いという無限の愛徳のさまを記録しておりますが、そこにはルカが非ユダヤ人という立場であったがゆえのユダヤ人としてあり得る心証にこだわらない自由な意思が反映されていると感じました。
(ユダヤ人であれば、大祭司への近親憎悪があったり、俗に天国泥棒といわれるディスマスへの感情も微妙に違っていたのかもしれないという意味です。)
また、御心の使徒といわれるヨハネの記録した御言葉のなかで、イエズス様からマリア 様を母親として、また、マリア様にヨハネを子として、定められたにもかかわらず、福音書の中では、ヨハネ、マリア様の名前は一切記述していないところにヨハネの謙遜(そしてマリア様も!)が強く偲ばれる思いがいたしました。
さらにヨハネの記録した「我、渇く」という御言葉は、イエズス様のお辛さが肉体的なもの以上に精神的なものであったこと、そして「事、成就せり」という極限状況の中での宣言により、御旨が完全に成し遂げられたということを明確にされ、のちに御旨は実は成就はなされなかったなどという異端の種を完全に摘み取ったところに御旨があるのだと感じました。
そして、ユダヤ人であるマタイが記録した「エリ・エリ・ラマ・サバクタニ」というアラマイ語を用い た御言葉ですが、本日の講話で、実はその御言葉は、詩編22:1で語られている言葉であるということを教えていただきました。それはとりも直さず詩編の預言が成就されたということであり、そしてそれが、詩編に精通していたユダヤ人たるマテオが記録したというところにその必然のようなものを感じました。
(もっと知りたかったこと)
直接、関係はないかもしれませんが、楽園と天国の違いはなにか、イエズス様のご復活で天国の門が開かれたときに、楽園はそのまま、天国となるのか、それともやはり、楽園と天国は別物なのか、その場合、楽園から天国へ移るのはどういう場合か、どういうプロセスかということを知りたいと思いました。
小野田神父様の公教要理はいつも念を入れてご準備しておられ、お忙しい中、感謝以外の何ものでもありません。
改めて御礼申し上げます!
デオ・グラシアス!
【回答】
鋭い疑問を感謝します。楽園と天国とは、ここでは同じものです。
Et dixit illi Jesus: Amen dico tibi: Hodie mecum eris in paradiso.
楽園とは、人間の観点から喜びと平和と安楽の幸福のところ、という意味です。
天国とは、天主と共にいるところ、すなわち最高の善である天主を享受するこの地上を超越したところ、という意味です。
ところで、天国がどうして天国であるかというと、それは、私たちが真の天主と共にいることにあります。
それは楽園も同じことです。本当の楽園とは、最高の善であり全ての善の源である天主を所有すること、天主を享受することにあります。そこに完全な喜びと平和と幸福があります。
つまり天主の本質を至福直感で見ることに、人生の究極の目的があります。
イエズス・キリストは、この良き盗賊の罪を全て赦し、ご自分と永遠におられることを約束しました、そこで、イエズス・キリストはその日、リンボに行き旧約の太祖や義人らを訪問するのですが、その時リンボはイエズス・キリストの存在により「楽園」となったのです。
愛する兄弟姉妹の皆様、
聖週間に入りました。
4月の初金には大阪でミサ聖祭を捧げ、聖時間をしました。4月8日の土曜日にも大阪でのミサ聖祭が出来てうれしく思います。
今回は、4月6日の夜、マニラの修道院を発ち、夜行便の飛行機に乗って早朝5時頃に日本に到着しました。フィリピンの修道院を出るとき、マニラの聖歌隊の青年達がアレグリの「ミゼレレ」の練習をしていました。すると、大阪のミサ聖祭でも奉献の時にこの「ミゼレレ」が大変うまく歌われ、感動しました。
さらになんと!土曜日のミサでは、奉献の時にこの「ミゼレレ」が、聖体拝領の時には、Giovanni Pergolesi作曲の「スタバトマーテル」が大変素晴らしく歌われ、心は天に挙がったかのようでした。
Gregorio Allegri, Miserere with English subtitles ※日本語字幕付き (1/2)
Gregorio Allegri, Miserere with English subtitles ※日本語字幕付き (2/2)
4月9日の枝の主日には、60名の方々が参列されました。新しく来られた方々、久しぶりの方々もおられ、大変嬉しくなりました。
まず枝の祝別と行列を、恒例の通り行い、ミサ聖祭を執行しました。
午後には、十字架の上での主の7つの言葉を黙想し、十字架の道行きを行い、主日の晩課を捧げました。
同時に4月9日の夕方には大阪でレネー神父様が枝の祝日のミサを捧げて下さいました。神父様にはこころから感謝します。
復活祭には大阪の聖母の汚れなき御心聖堂で、夕方の6時からミサ聖祭がある予定です。愛する兄弟姉妹の皆様をご招待いたします。
天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)
【報告】
アヴェ・マリア・インマクラータ!
昨日は御ミサ、御聖体降福式、十字架の道行きなど色々ありがとうございました!!
初金と初土の週が違っても、信心を実践する事ができるように2週連続で日本で御ミサを捧げて下さって本当にありがとうございます!そしてマリア様の七つの御悲しみの記念でもある御受難の主日の後の金曜日の御ミサに与る事ができてとても御恵みでした!
紫の布の意味を詳しく説明して下さってありがとうございます。今更ながら、御像などに紫の布を被せるのは、イエズス様の御受難を思って喪に服すという意味で、十字架にも紫の布を被せるのは、十字架は勝利のしるし、栄光のしるしであるからだ、という事が分かりました。
マリア様の汚れなき御心の御助けによって、マリア様の御心に学んで、十字架の価値を、苦しみの価値の意味を深く理解することができますように!教会の精神の中に、聖週間の中に深く入って行くことができますように!
デオ・グラチアス!
【報告】
アヴェ・マリア・インマクラータ!
いよいよ聖週間に入りました。
昨日は大阪で初めての枝の祝別式がありました!レネー神父様は韓国でも枝の祝別式を行なって下さって、ただでさえお疲れにもかかわらず、大阪でもフルバージョンの枝の祝別式を行なって下さいました!m(_ _)m
御ミサの後のご講話では十字架の神秘をお話してくださいました。
今日の早朝の御ミサでも、少し御説教をお話下さって、「ある司教様は、『カトリック信者はこの聖週間に、隣人に施しをしたりお見舞いをしたり、隣人愛の業を行なうように』という内容のことのみを仰ったそうなのですが、確かにそれ自体はとても良いことなのですが、その司教様は私たちの主イエズス・キリストの事を黙想するという事を仰っておらず、まず一番に考えなければならない事が抜けてしまっている、本当の隣人愛は天主を愛するが故に隣人を愛する事であって、天主への愛を抜きにして隣人を愛する事は誤った隣人愛で、天主を愛することによって、本当の意味で真に隣人を愛する事ができるようになる」というような内容のことを仰って下さいました。
デオ・グラチアス!
【報告】
Dear Fr Onoda:
今日の東京でのミサの参列者数は下記の通りです。
ミサの参列者数
男: 24人(内、子供3人)
女: 36人(内、子供5人)
計: 60人(内、子供8人)
【報告】
大司祭の民というのは、イエズス様と共に居ることによって、私たちの日常の苦しみをいけにえとして捧げる事ができる、特に御ミサに与ることによって、御聖体拝領をする事によって、キリストの司祭職に参与できるのだ。何と素晴らしい事でしょうか、何と栄光ある司祭の民でしょうか、と仰って下さった部分が心に残りました。
ファチマのマリア様も、「祈りと犠牲を捧げて下さい」と、救霊の為に、世界の平和のために私たちを栄光ある大司祭の民として招いて下さっているのだなと思いました。
【報告】
アヴェ・マリア・インマクラータ!
トマス小野田神父様
本日は、枝の主日でしたので、その後行われる十字架の道行きの信心業に先んじて、十字架上のイエズス様が述べられた七つの御言葉について、教えをいただきました。
(わかったこと)
いつもとても貴重な講話ありがとうございます!
十字架上のイエズス様の御言葉は、御旨の成就する最終の御言葉であり、そのひとつひとつが重いメッセージを有しているということがよくわかりました。
具体的には、
1 聖父よ 彼らを許したまえ 彼らはそのなすところを知らざればなり(ルカ 23:34)
2 まことに汝にいう。今日汝は我とともに楽園にあるべし(ルカ 23:43)
3 女よ、みよ、これ汝の子なり。みよ、汝の母なり。(ヨハネ19:26)
4 天主よ、なぜ我を見捨てたもうや(エリ・エリ・ラマ・サバクタニ)(マテオ 27:46)
5 我、渇く(ヨハネ 19:28)
6 事、成就せり(ヨハネ 19:30)
7 聖父よ 我が霊魂を御手に委ね奉る(ルカ 23:40)
の7つの御言葉ですが、
異邦人の医者であったルカが、イエズス様の大祭司ら大罪人への赦し、回心した死刑囚(ディスマス)への憐憫と楽園への誘いという無限の愛徳のさまを記録しておりますが、そこにはルカが非ユダヤ人という立場であったがゆえのユダヤ人としてあり得る心証にこだわらない自由な意思が反映されていると感じました。
(ユダヤ人であれば、大祭司への近親憎悪があったり、俗に天国泥棒といわれるディスマスへの感情も微妙に違っていたのかもしれないという意味です。)
また、御心の使徒といわれるヨハネの記録した御言葉のなかで、イエズス様からマリア 様を母親として、また、マリア様にヨハネを子として、定められたにもかかわらず、福音書の中では、ヨハネ、マリア様の名前は一切記述していないところにヨハネの謙遜(そしてマリア様も!)が強く偲ばれる思いがいたしました。
さらにヨハネの記録した「我、渇く」という御言葉は、イエズス様のお辛さが肉体的なもの以上に精神的なものであったこと、そして「事、成就せり」という極限状況の中での宣言により、御旨が完全に成し遂げられたということを明確にされ、のちに御旨は実は成就はなされなかったなどという異端の種を完全に摘み取ったところに御旨があるのだと感じました。
そして、ユダヤ人であるマタイが記録した「エリ・エリ・ラマ・サバクタニ」というアラマイ語を用い た御言葉ですが、本日の講話で、実はその御言葉は、詩編22:1で語られている言葉であるということを教えていただきました。それはとりも直さず詩編の預言が成就されたということであり、そしてそれが、詩編に精通していたユダヤ人たるマテオが記録したというところにその必然のようなものを感じました。
(もっと知りたかったこと)
直接、関係はないかもしれませんが、楽園と天国の違いはなにか、イエズス様のご復活で天国の門が開かれたときに、楽園はそのまま、天国となるのか、それともやはり、楽園と天国は別物なのか、その場合、楽園から天国へ移るのはどういう場合か、どういうプロセスかということを知りたいと思いました。
小野田神父様の公教要理はいつも念を入れてご準備しておられ、お忙しい中、感謝以外の何ものでもありません。
改めて御礼申し上げます!
デオ・グラシアス!
【回答】
鋭い疑問を感謝します。楽園と天国とは、ここでは同じものです。
Et dixit illi Jesus: Amen dico tibi: Hodie mecum eris in paradiso.
楽園とは、人間の観点から喜びと平和と安楽の幸福のところ、という意味です。
天国とは、天主と共にいるところ、すなわち最高の善である天主を享受するこの地上を超越したところ、という意味です。
ところで、天国がどうして天国であるかというと、それは、私たちが真の天主と共にいることにあります。
それは楽園も同じことです。本当の楽園とは、最高の善であり全ての善の源である天主を所有すること、天主を享受することにあります。そこに完全な喜びと平和と幸福があります。
つまり天主の本質を至福直感で見ることに、人生の究極の目的があります。
イエズス・キリストは、この良き盗賊の罪を全て赦し、ご自分と永遠におられることを約束しました、そこで、イエズス・キリストはその日、リンボに行き旧約の太祖や義人らを訪問するのですが、その時リンボはイエズス・キリストの存在により「楽園」となったのです。